「全部が今までどおりってわけにはいかねーよ」


私の話を黙って聞いていた先生が、静かにタバコの煙を夜空に吐いた。



「実はうちも母子家庭で母さんは2回も失敗してる」


「……そう、だったんですか?」


「うん。今は3回目の結婚で幸せにやってるよ。でもそれは3回目に出逢った人がいい人だったって理由だけじゃなくて、1回目と2回目の失敗で学んだから掴めたものだと俺は勝手に思ってる」


先生は、以前私に言ってくれた。


失敗しないこともすごい怖いことだと。


それで失敗して立ち止まったら、それは本当に失敗したという結果だけで終わる。

大切なのは、失敗しても立ち上がり続けることだって。


もしかしたら、先生はお母さんの姿からそれを学んだのかもしれない。



「いつかもう少し時間が経ったら、迷った過去のことを笑って話せる日がくるよ。お前の両親も、的井自身も」


先生の言葉に、私はぎゅっと唇を噛む。



人生は私が思っているよりも、ずっとずっと長いのだろう。


私の思い描いていた家族の形は壊れてしまった。でも、散らばった欠片をいつまでも拾っていたって仕方がない。


手からすり抜けていったものではなく、今度はすり抜けないものを自分自身で掴みにいく。


先生は引っ込み思案だった私に、たくさんの勇気をくれた。






「私、先生のこと七色の混ぜご飯みたいだって思ってた時があったんです」


「は?」


「だって先生はいつも色鮮やかなパーカーを着て、靴だって映える色ばかりのスニーカーでしょ?だから、色がない私なんて梅おにぎりと一緒だって、ひとりで虚しくなってたんです」



あの非常階段で、先生は私のことを見つけてくれた。

あの日がなかったら、先生が声をかけてくれなかったら、今の自分はどこにもいない。



「私は個性もないし選ぶ服はモノトーンばかりだし、目立つことなんてほとんどないんですけど……。今は気持ちの面ではカラフルな先生に近づけた気がしてるんです」



先生はいつだって遠かった。

手なんて届くはずもない別の世界で生きてる人だと思ってた。


先生の背中を追いかけて、追い越すことなんてこの先もきっとないだろうけど。


でも、肩ぐらいは並べられるようになれたんじゃないかと、思ってる。




「……俺さ、お前のこといつもすごいなって思ってた」


海風がふわりと、先生の髪の毛を揺らした。






「すごい、ですか?」


「正直、教師っていうだけで生徒には偉そうにできちゃうし、ああだこうだって持論も押し付けることができる。だから俺が言ったことがすべて正しかったわけじゃなかったと思う」


「………」


「でもお前は、不満そうにしながらも俺が言ったことを一生懸命やってた。不器用な時もあった。焦れったい時もあった。だけどお前のほうこそ俺とよく向き合ってくれたと思ってる」



月明かりに照された先生が、まっすぐに私のことを見ていた。そして……。



「教師らしくない俺の言葉を懸命に聞いて、どんどん背筋が伸びていく的井を見て、俺は心底この職業を選んでよかったと思えたんだよ」


先生があまりに優しく笑うから、自然と涙が溢れてきた。




「的井。間違ってもいいんだ。正しくなくても。それでもお前はきっと自分なりに道を選んで進んでく。それができるヤツだと俺は思ってるから」


先生は指先で私の涙を拭いてくれた。
    


海は繋がっている。

空も繋がっている。

先生とも、繋がっている。
  

もう、怖がる必要なんてない。




「先生。私、北海道に行きます」


どうなるかなんて分からない。

でも、先が分かりきってることもつまらない。


それも、先生が教えてくれたことだから。








決心してからのスピードは目まぐるしかった。


まずは自分の学力と見合っている高校を選び、転校に必要な書類をあちらの学校に問い合わせた。

ちょうど4月からの三年生で欠員が1名だけいたので転校希望の旨を伝えると、すぐに今月末に行われる転入学試験を受けることになった。



そして私はお母さんと羽田経由で女満別(めまんべつ)空港に降り立ち、希望する学校で試験を受けた。


定員は一名。試験を受けにきたのは私を入れてもうひとりいた。


緊張しながら、とりあえず多目的教室の広い空間で試験が開始された。


一時間目は国語。二時間目は英語。三時間目は数学。最後は面接という流れだった。


試験は今までの勉強の基礎的なものだったので難しいわけではなかった。


けれど、ほとんど試験勉強する時間がなくて元々苦手意識がある英語は自信がないけど、郁巳先生の科目である数学だけは完璧にできた。




学力試験が終わったあとは面接試験になり、聞かれた内容は主にこれからの学校生活についてのことだった。


入学したらどんなことがしたいのか。

これから挑戦したいことはあるのか。

将来の進路はどのように考えているのか。


私は質問されたことを、ひとつひとつありのままに答えた。


だけど、後ろめたいことは決して言わない。

いい印象を持たれたいわけではなく、自分がこの先どうなりたいのか。


前向きに、ポジティブに。元々運が強いほうじゃないから良いことを引き寄せてほしいという意味も込めて。

これは和谷先輩から学んだこと。



そして、すべての試験が修了して、合否はその日に分かる仕組みになっていた。


結果連絡は電話でくることになっていて、私のスマホが鳴ったのは空の色が変わりはじめていた夕方だった。



試験結果は……合格。


ずっと気が張っていたせいか、大喜びというよりは安心して力が抜けてしまった。

 







「えー的井さん、引っ越すの?」


冬休みを経ての三学期。転入先も無事に決定して、私のことは郁巳先生からクラスメイトたちに伝えられた。


みんなはとても驚いていて、中には寂しがってくれてる人もいた。いてもいなくても分からないような存在だったあの頃からは考えられないことだ。



「……六花と学校に通えるのもあと少しなんだね」


隣で菜穂がぽつりと言う。



「大丈夫だよ。向こうにいったらバイトするつもりだし、お金貯めて菜穂に会いにくるから」


「うん。私も。絶対に北海道に遊びにいくからね」



遠く感じるけれど、そうでもない。

あの海で、あのフェリーを見せてくれた先生のおかげで、私はずいぶんと強くなれた気がする。



網走の学校に合格してから、身の回りの荷物は徐々におばあちゃん家へと送り、お母さんは私とふたりで住めるアパートを探しはじめた。


おじいちゃんたちは一緒に住めばいいと言っていたけれど、お母さんは頑(かたく)なに甘えたくはないと、実家で暮らすことを断った。

私も、そのほうがいいと思ってる。






転入学試験を受ける前。私はお母さんと長い時間話し合った。

私がお母さんに付いていくことを伝えた時。お母さんは泣いていた。



『今まで迷惑ばかりかけてごめん』
『これからはしっかりするから』
『六花の母親として、ちゃんとするから』


お母さんは何度も繰り返しそう言ってくれた。



お母さんに対して不信感を抱いたこともあったし、期待なんてしないと諦めていた時期もあった。


でも、私はまだひとりでは生きていけない。

お母さんが必要だし、私もお母さんにとって必要な存在でありたいと今は思ってる。



「的井さん」


廊下を歩いていると、階段近くで和谷先輩と鉢合わせた。もちろん先輩も私が引っ越すことを知っている。

先輩も私にとってとても大切な人だから、決意をしてから自分の口で先輩には伝えた。



「引っ越しの準備はどう?」


「まだ全然片付いてないです。先輩はもうすぐ大学受験ですよね」


「うん。来月の中旬」



三年生はすでに全科目の授業は終わっていて、今は受験のための追い込み作業中。


2月になればほとんどの三年生が学校には登校して来なくなり、推薦で決まった生徒や就職が内定した生徒は自宅待機になる。






「先輩も卒業式までは学校に来ないんですか?」


私と同じように春になれば先輩もこの学校にはいない。



「俺は来るよ。自主的に学校で勉強してもいいことになってるし、委員会の引き継ぎもあるしさ」


「そうなんですね」


「あと、的井さんの顔も見たいし」


不意討ちでドキッとすることを言うのは相変わらず。




「引っ越しはいつ?」


「3月24日です」


「え、じゃあ、修了式の次の日?」


「はい。新しい学校では4月9日に始業式なので、色々と間に合わせるために早めに行きます」


当日は必要な手荷物だけを持ってバスで空港まで行く予定だ。



「じゃあ、春からはお互い新しい土地での生活になるんだね」


先輩も大学に進学が決まったらこの街を離れるそうだ。みんなそれぞれの未来へと進んでいく。


それが嬉しいというよりもまだ寂しく思ってしまうけれど、次に会えた時には成長した私を見せたい。


それが今の目標でもある。






……ガチャ。


先輩と別れたあと、私はある場所の扉を開けた。

それは興味はあったけれど、なかなか機会がなくて来れていなかった学校の屋上だった。



北風が頬を通りすぎていく中で、私はひんやりと冷たい手すりを握る。


3階建ての校舎の高さはおよそ地上から12メートル。高い場所から見る街の風景はとても綺麗で、私はポケットからスマホを取り出す。


パシャ、パシャと何回か写真を撮ってみたけれど、ぼやけていてうまく撮れない。



「下手くそ」

そんな声が背後から聞こえて、私は振り向く。



「え、せ、先生?」

「スマホ貸して」

「は、はい」


言われるがままスマホを先生に渡すと、私の代わりに街の写真を撮ってくれた。



「どう?」


先生が返してくれたスマホには、私と同じ場所で撮ったとは思えないほど綺麗な街の風景が映っていた。



「ありがとうございます。でもどうしてここに?」

「階段のぼっていくとこが見えたから」


そう言って、先生はいつものようにタバコを口に付ける。 



「学校で吸わないんじゃなかったんですか?」


「俺、学校の屋上ってもはや外だと思ってるから」


先生はニヤリと笑って、タバコに火をつけた。