あれは小学四年生のときのこと。

今から思えば、私は昔から不器用だった。

「小鳥ちゃん、鈴木くんと図書の受付をやってくれる?」

図書係はひとクラスから三人選ばれる。

活動としては週替わりで
昼休みと放課後に図書室の受付をする
くらいなのだけれど、

受付の人員はふたりなので
結果としてひとりあぶれる。

だから、あまった人間は
ほかのクラスの図書係の子と組まなければならない。

話しかけてきた彼女はそれが嫌だから
先手を打つように、私に

「ほかのクラスの子と組んでひとりになってほしい」
と、ひどいお願いをしてくる。

こういうとき、
「嫌だ」とか「私も同じクラスの子と組みたい」という
否定的な意見が頭に浮かんできてもすぐに消し去る。

私の中で誰かの意見や考えを拒むという行為は、
絶対にしてはならないことだった。

そう思うようになったのは、
いつからだっただろう。

共働きの両親は私が小さい頃から
家を空けることが多かった。

弟ができるまで、
私の話し相手はいつもクマのぬいぐるみ。

当然、話しかけても返答はなくて、
それが寂しくて仕方がなかった。

お父さんやお母さんに学校のことを話そうとしても
『今忙しいから』と口癖のように
つき放されてしまうので、

だんだん自分の話は面白くないのかもしれない、

どうせ聞いてもらえない、

それは私がつまらない人間だから、

私という存在に興味をもてないからなのだと
内気になっていった。

その弊害なのか、
私は思ったことを人に伝えることが苦手だ。

相手に好かれる方法ばかり探していたから、
自分から友達を作るなんておこがましくて論外だった。

だから本当はやりたくないことでも「いいよ」と
うけおって、友達になってくれた人から
嫌われないようにふるまうのが癖になっていた。

今回も、同じ図書係になった友人たちから、

「私たちふたりで受付をやりたいから
別のクラスの男の子と組んでほしい」なんて、

そんな理不尽なことを言われても
作り笑いを浮かべてうなずいてしまった。

普通はこういうとき、どうするんだろう。

やっぱり断るのかな。

だとしたら、普通のことができない私は、
ほかの人と比べて努力しなければ
誰にも好かれない欠陥品なんだろう。

そして、しぶしぶ組んだ鈴木くんという男の子は、
背が高くニコリともしない無愛想な子だった。

一緒に受付をしていてもひと言も会話はなく、
係の週が回ってくると昼休みと放課後の時間は
憂鬱で仕方なかった。

「係のとき、鈴木くんとどんな話をしてるの?」

ある日の昼休み、
図書係の三人で廊下で話していたら、こう聞かれた。

図書室の受付の仕事は先週で二回目を迎えたのだけれど、
鈴木くんとの仲は相変わらず進展がなかった。

カウンター席にふたりで座っていても、
会話がないから暗いムードが漂っている。

「えっと……鈴木くん怖くて、なにも話せてないんだ」

素直に思っていることを打ち明けた。

べつに彼のことが嫌いというわけではなく、
私は鈴木くんに限らず人が怖い。

会話がないからなにを考えてるのかわからないし、
私から変なことを言って嫌われたらどうしようって
思ったら言葉が出なくなる。

「嫌なことをされたの? 
だったら、あたしたちが言ってあげるよ」

もしかしたら、私をひとりにしたことに
うしろめたい気持ちがあったのかもしれない。

私の言葉に過剰に反応し、勝手に想像を巡らせて、
女の子たちは鈴木くんのクラスへ駆けていく。

「えっ、そういうことじゃないの! だから待って!」

呼び止めたくてその背を追いかけるけれど、
すでにふたりは鈴木くんにつめ寄っているところだった。

「ちょっと、小鳥ちゃんをいじめないでよ」

「そうだよ、うちらの友達なんだから」

ふたりの勘違いに巻き込まれた鈴木くんは、
いぶかしむような表情でふたりを見下ろしていた。

「べつに、俺はなんもしてないけど」

「嘘だよ、小鳥ちゃんがいじめられたって
言ってたんだから!」

「ふざけんなよ、それこそ嘘だろ」

大きくなっていく言い合いの声と
集まってくる野次馬に足がすくんだけど、

混乱を招いた原因は口下手な自分にあるので
見て見ぬふりはできない。

「――あの、違うの!」

思いきって叫ぶと、
教室の入り口に立っている鈴木くんたちが
私を振り返った。

怖かったけど、みんなに近づいて深呼吸をした私は
しどろもどろになりながら事情を説明する。

「雰囲気が怖くて……その、話せなかっただけ。
イジメとかじゃないの……っ」

「なにそれ、小鳥ちゃん嘘ついたの?」

説明を終えた私にかけられたのは、
図書係の友達の冷たいひと言だった。

「嘘もなにも……私は鈴木くんとうまく話せないだけで、
嫌なことをされたなんて言ってないよ!」

私にしてはめずらしく、つい語気を強めてしまった。

普段めったに意見しない私が
はっきり主張したからだろう。

自分たちの先走った行動に気づいたらしい
友人のふたりは、ばつが悪そうな顔をする。

彼女たちにも、
勘違いさせるような私のもの言いのせいで
傷つけることになってしまった鈴木くんにも、
ちゃんとわかってもらおうと思いを伝える。

「ふたりは、私の話を最後まで聞かずに行っちゃったから……」

「うちらのせいみたいに言わないでよ」

私の言葉をさえぎった女の子の顔から、
表情が消えていくのがわかる。

説明は逆効果だったのかもしれない、
そう気づいたときにはすでに引き返せないところまで
関係にヒビが入っていた。

「あたしたちは小鳥ちゃんのために怒ってあげたのに、
小鳥ちゃんはあたしたちをかばってくれないんだ」

友人から、友人だったはずの彼女から向けられるのは、
子どもにもわかる確かな敵意。

鋭い眼光とトゲのある声から、
本能的に恐怖を感じる。

――怖い、怒らないで、嫌わないで。

そんな不安が胸の中にひたひたとにじんでいき、
やがて私の心を絶望で満たしていく。  

「そうじゃないのっ」

――ひとりになりたくない。

ふるふると首を横に振り、
必死に誤解だと訴えようとしたら
喉が締まって苦しくなる。

「おまえ、俺を巻き込むなよ。
嫌なら係に行かねえから」

私を迷惑そうな表情でにらんだ鈴木くんは、
そう言って教室に戻ってしまう。

「ごめん、でも違っ……」

さっきから私は「そうじゃない」「違う」って
そればかりで、どんな弁解も彼らの心には
なにひとつ届かない。

「小鳥ちゃんって冷たいよね」

「友達だと思ってたのに」

つき刺さるような言葉のナイフを投げるだけ投げて、
私から離れていくふたりの友人の背に手を伸ばした。

「そうじゃない、違うの……」

廊下のまん中で立ちつくし、
私はほかの生徒たちの好奇の視線を浴びながら
つぶやくだけだった。

それしかできなかった。

これ以上どうすれば彼女たちの信頼を取り戻せるのか、
私にはわからなかったから。

この日から、鈴木くんは宣言どおり係に来なくなった。

友達のふたりは

「小鳥ちゃんが鈴木くんにいじめられたって言ったんだよ」

「私たちだってだまされたんだ」

と嘘を吹聴して、みんなの同情を買うと、
クラスで同調する仲間を増やしていった。

私は鈴木くんと仲のいい男子からも無視されるようになり、

クラスで疎外されるだけでなく、
学校でも完全にひとりになってしまった

そんなつもりはなかったのに、
鈴木くんを傷つけてしまった。

私の伝え方にも非があったと思うけれど、
信じていた友達は勝手に誤解して鈴木くんに
つめ寄ったくせに、私だけを悪者にした。

しかもそれだけでは飽きたらず、
私の悪いウワサを流して仲間を増やすために利用し、
簡単に裏切った。

これも私のひと言が招いたこと、
思いを口にするってなんて恐ろしいんだろう。

決して心が通いあっていたとは思えないけれど、
それまで一緒に行動する人がいた私は
物理的には孤独ではなかった。

表面上では人とぶつかることもなく、
平和だった私の「学校」というの名の世界。

それが言葉のすれ違いだけで、
瞬く間に戦場へと変わってしまった。

傷つきたくない、傷つけたくない、嫌われたくない。

だから話すのが怖い、人と関わるのが……怖いんだ。

桜が散り、季節は移りかわって
木々の新芽が顔を出す五月。

私、羽原小鳥(うはら ことり)は高校二年生になり、
クラス替えから早くも一ヵ月が経っていた。

しかし、子どもの頃から人付き合いが苦手で、
人と仲良くなりたいのに素っ気ない態度をとってしまう
私には友達がいない。

理由は単純かつ明快だ。

私は挨拶をすることにすら緊張してしまい、
なかなか言葉が出てこない。

人から話しかけられても目を合わせるのが怖くて
うつむいたままでいたら、

クラスメイトから「近寄りがたい子」と
距離を置かれるようになってしまった。


つまり、典型的なコミュニケーション障害――
"コミュ障"というやつである。

友達に挨拶をするのはもちろんのこと、
他愛もない雑談なども心底苦痛だった。

今日も重い足取りで教室にやってくると、

誰とも目が合わないように視線を床に落として、

窓際のいちばんうしろにある自分の席に向かう。

「昨日さ、モデルのユウマくんがテレビに出てたの見た? 
バラエティーとか出るんだね」

「見た見た、新鮮で驚いちゃった。今度映画に出るから、
その番宣じゃない?」

楽しそうな声が聞こえてきて顔を上げると、
最悪なことに私の席に同じクラスの女子が座っていた。

前の席の子となにやら盛りあがっている様子で、
私のことなど眼中にない。

しかもふたりの周りにはほかにも女子が集まっているため、
その中に入っていくというのはかなり勇気がいる。

はぁ……朝からついてない、最悪。

彼女たちはいわゆるイケてるグループと言われ、
クラスでは上位の立場にいる。

スカートも短かすぎて太ももがあらわに見えているし、
シャツは第三ボタンまで開けていて胸もともきわどい。

あれがおしゃれなのだろうが、
それに比べると私は地味だ。

白いニットベストの下に身に着けているシャツは
第一ボタンまできっちり留め、

水色の斜線が入った紺色のリボンは
だらしなくたらすことなく襟もとでしっかり結んでいる。

リボンと同色のスカートも校則を守って膝下丈だ。

髪もそう、胸もとまであるウェーブがかった私の髪は
無造作に下ろしっぱなし。

凝った編み込みなど、
マメに髪形を変える女子力はない。

唯一目立つところといえば、私の髪だ。

人工的な金や茶色とは違って、生まれつき色素が薄いために
アッシュベージュのような色をしているのだが、
ほかの同級生の髪色と比べたら明るい。

まあ、私のことはいいとして……。

目を引くのは彼女たちの服装だけではない。

くっきり引かれたアイラインと
鮮やかな発色のティントリップといった濃い化粧。

見た目だけでも強烈だから、
声をかけづらいったらない。

重たい気分のまま、
私は自分の席の横に立つ。

話に夢中になっている女の子たちは、
私の存在には気づいていない。

ああ、話しかけるの嫌だな。

だからといって
このままつっ立ってるのも恥ずかしいし、仕方ない。

困った挙句、
思いきって私は自分の席の机にドンッと
スクールバッグを置く。

すると、その場にいた女子がいっせいに私を見た。

うっ、感じ悪かったよね、と我ながら感じる。

わかってるけど、
素直に『座ってもいい?』と聞けない、
私のような人間もいるのだ。

そんな自分自身が嫌になるし、
できることなら変わりたいと思うけれど、

簡単にはいかないこともあるって、
最近はなかばあきらめている。

だって何度も自分から声をかけよう、
笑おうとしたのにできなかったから。

なにこいつ、と言いたげな視線を浴びながら
私の席に座る女の子に向きなおった。

もう一度勇気をふり絞って声をかけようと思ったが、
喉が締めつけられるようで声が出ない。

黙りこくっていると、女子たちが不愉快そうな顔をして
離れていく。

そのうちのひとりが足を止めて振り返った。

彼女はピンクベージュの髪を
ポニーテールにしている菅谷奈知(すがや なち)さんだ。

かわいくて、男子からモテるのだと聞いたことがある。

「あ、ごめ……」

菅谷さんはなにか言いたげな顔をして、
それでも言葉を飲み込むように口を閉じた。

結局なにも言わずに同じグループの女子のところへ
行ってしまう菅谷さんを見送りながら、

どうして素っ気ない態度をとってしまったんだろうと
頭を抱えたくなった。

「はあ……っ」

ため息をついて席に座り、
スクールバッグからスマートフォンを取りだす。

つなぎっぱなしのイヤフォンを耳につけ、

画面を操作して『つながるコパン』という
アプリを開いた。

ポップなBGMが流れ、
画面に街のような世界で動きまわる
動物のアバターが現れる。

このアプリは動物の姿をしたアバターを通して、
会話ができるチャット型ゲームだ。

いつもひとりぼっちでいる
私の心のよりどころでもある。

私は『ヒヨコさん』という
ユーザーネームで参加しており、

中学一年生のときから交流がある
『パンダさん』と名乗るユーザーと仲がいい。

アプリ内での私の姿は、
その名のとおり首からカメラを下げて
頭にリボンをつけ、ワンピースを着たヒヨコ。

相手はヘッドフォンとパーカー、
ズボンを身に着けたパンダの姿をしている。

パンダさんとはアプリ内での会話が
誰にも見られないようにする個別チャットで、

学校のグチや自分の趣味について話している。

私は誕生日に一眼レフカメラを買ってもらったほど、
写真を撮るのが好きだ。

中学一年生のとき、
無理を言って家族の写真を
スマートフォンで撮影したことがあった。

というのも、両親が忙しすぎて
旅行はおろか出かけることもほとんどなく、
記念写真のひとつも家にはなかったから。

それが寂しくて、
一枚くらい残しておきたかったのだ。

テーブルにスマートフォンを固定し、
セルフタイマーで撮った両親と私と弟の樹の写真。

ソファーに座って寄り添う両親は
撮るときは面倒そうではあるものの微笑んでいて、
樹ははにかんでいるけどうれしそうだった。

私も久々に家族団らんというものを味わった気がした。

思いきってそのときの写真を見せたら、

いつもは忙しいからと私に興味をもってくれない両親が
『すごいね』と初めてほめてくれた。

それが今も忘れられないくらいうれしくて、
私は写真にはまっていったのだ。

しかし、その一年後。

両親は忙しさに追われ、
生活がすれ違ってしまったことがきっかけで
離婚してしまった。

私と樹は母についていったので、
お父さんとは離れ離れだ。

けれど、私たちが家族だった証は写真に残っている。

寂しくなって見返すと、
あの日のことを昨日のことのように思い出せるから、
やっぱり写真はすごい。

何度も写真に救われた私は、
夕方から夜に移りかわる黄昏時の空など、
幻想的な光景を見つけては写真に撮り、

いつも【きれいだな】【また撮ったら送ってくれ】と
興味をもってくれるパンダさんに送りつけている。

対するパンダさんは作曲が好きだ。

動画投稿サイトにアップした自分の楽曲のURLを
貼りつけてきては感想を求めてくる。

誰もが本当の私を知らない、
この小さな教室という世界。

ここに自分の居場所なんてなくて、
海の中にいるみたいに息もできず、
毎日溺れるような苦しさを感じていた。

そんな私にとってパンダさんは、
自分の好きなものや辛いことを隠さずにさらけ出せる
唯一の存在だった。

……どこらへんだったかな。

チャットの会話履歴を指でスクロールして、
そこに残っている『雨音』と書かれた
タイトルの楽曲のURLをタッチする。

リンクする動画投稿サイトを開けば、
パンダさんのアップした動画の再生回数が
九万回と表示されていることに心が弾んだ。

人気あるじゃん、パンダさんすごいなあ。

さっそく私も再生してパンダさんの楽曲を聴きながら、
ぼんやりと窓の外を眺める。

最初は降りはじめの雨のようにポロンッ、ポロンッと
ピアノの旋律が流れる。

それから雨足が強くなるように
勢いのあるギターの音が合わさり、
ベースがバックを固める。

まるで降りだした雨に走りだしたい衝動を
駆りたてられるような清々しい曲調になる。


パンダさんの音楽に耳をかたむけている間は
居場所のない世界から切り離されて、
自分が自由になったような感覚になれた。

まぶたを閉じて『雨音』の曲に聴きいっていると、
私の机に誰かがぶつかってきた。

弾かれるように目を開けると、
そこには金髪の男子が立っている。

ふんわりとまん中分けされた
前髪の下にある目は切れ長で、

スッと通った鼻筋や薄く形のいい唇からわかるように
整のった面立ちをしている。


袖をまくりあげたシャツに
腰まで下げられたグレーのズボン、

ゆるく締められた女子のリボンと同じ柄のネクタイに、
百八十センチ近い長身。

着崩した制服スタイルと不機嫌な表情が合わさって、

とてつもない威圧感をはなつ彼は、
クラスの中心的存在の大黒虎白(おおぐろ こはく)くんだ。

「あ、いたんだ。おまえ」

私の席の前に仁王立ちして、
人を見くだすような尊大な態度の大黒くんは
バカにしたような言葉を浴びせてくる。

こうやって私につっかかってくるのは、
なにもこれが初めてではない。

今までも目が合っただけで、すれ違っただけで、
大黒くんは『またひとりかよ』『寂しいやつ』
『澄ました顔が気に食わねえ』などと暴言を吐いてきた。

そんな態度の彼が苦手な私は、
その声が聞こえなくなるまで音楽の音量を上げると
無視をした。

予想はしていたが、
私の態度が気に入らなかったのだろう。

大黒くんは舌打ちをする素振りを見せて
仲間のもとへ戻っていく。

それを見送ることなく窓の外へ視線を移した私は
"嫌な人"と心の中でつぶやき、
絶対に彼には関わらないと心に決めた。


放課後、
帰宅部の私はホームルームが終わって
すぐに教室を出た。

するとお昼くらいから雲行きは怪しかったけれど、

なんとか持ちこたえていたはずの空から
ザーザーと滝のような雨が降っていた。

「最悪……やっぱりついてない」

帰るときになって降りだすなんて、
タイミングが悪すぎる。

どうしたものかと、
昇降口で途方に暮れていたときだった。

「おい邪魔なんだよ」

背後から声が聞こえてビクリとしながら振り向けば、
ぶすっとした顔で黒い傘を私にさしだしている
大黒くんが立っていた。

表情とやってることがマッチしてないんだけど……。

下手なことを言えば、
また『生意気』だの『ノロマ』のと
けなされるに違いない。

文句のひとつも口にできないまま、
彼はなにをしたいんだろうと
頭を悩ませていたら――。

「早くしろよ」

大黒くんがつっけんどんに傘を押しつけてきた。

その顔は怒っているのか、ほんの少し赤い。

「え、これ……」

「明日、傘立てに戻しとけよ」

それだけ言って、信じられないことに
ダッシュで雨の中につっこんでいく大黒くん。

それを止めるのすら忘れて、私は唖然としていた。

私があまりにも不憫で目ざわりだったから、
気まぐれで貸してくれたのかな。

なんにせよ、自分が濡れてでも
私に傘を貸してくれたことに感謝しないと。


バッと傘を広げて雨空の下へ足を踏みだすと、

なぜだか今日という日が
それほど最悪ではなかったのかもしれないと思う。


きっと紆余曲折あったけど、
学校で誰かに優しくされたのは
これが初めてだったからかもしれない。

「パンダさん、今日は少しだけいい日だったよ」

傘にぽつぽつと跳ね返る雨の音を聞いていたら、
心の憂鬱も流れていくようだった。

ありがとう、大黒くん。

きみは迷惑かもしれないけど、うれしかったです。

そう心の中でお礼を伝えて、
私はいつもより軽い足取りで家を目指した。



学校から帰ってくると、すぐ部屋に直行する。

スクールバッグを床に投げすてて、
制服も脱がずにベッドにうつ伏せになると、
『つながるコパン』のアプリを起動した。

「ただいま、帰りました……っと」

文字を打ち込むと、
スマートフォンを両手で握って胸に引き寄せる。

それからベッドの上でコロコロと左右に転がった。

パンダさんの返事を待つ間も楽しくて仕方ない。

生きているなかでこんなふうに心が浮きたつのは、

カメラを構えているときか、
パンダさんのことを考えているときだけだ。


そんなことを考えている間に、
ピコンッと返信があったことを知らせる音が鳴る。

この軽やかな旋律は、
私に幸せを運んでくれるから好きだ。

「どれどれ」

体を起こして部屋の壁に背をあずけるように
ベッドの上に座ると、ウキウキしながら
スマートフォンの画面をのぞきこむ。

【おかえり、今日の学校はどうだったんだ?】

この口調からわかるように、
パンダさんはおそらく男の子だ。

私が毎日学校でのグチをこぼすので、
こうして先に聞いてくれる。

きっと心配してくれているのだろう。

その心遣いが胸に染みて、
辛かった一日が瞬く間に素敵な日に早変わりする。

パンダさんとの出会いは、
私が中学一年生のときだ。

クラスで『つながるコパン』というアプリが
流行りはじめ、気になった私はダウンロードして
試しにやってみることにした。

いざ遊んでみると、学校ではひとりぼっちな私にも
話しかけてくれる人がたくさんいた。

みじめな私の本当の姿を知らない人たちとつながるのは、
現実で友達を作るより気が楽だった。

ほら、あわれむような視線を向けられないから。

それに文字だけなら、
いくらでも自分の気持ちを伝えられる。

相手の顔色を気にすることなく人と関わることができて、
孤独も埋められる。

そんなアプリの魅力にはまって、
時間さえあればずっと、
アバターだけが存在するこの世界にいた。

ある日、
いつものようにアプリにログインしたとき、

アバターはまず広場のような場所に出るのだが、
そこでパンダさんに出会った。

たまたま同じタイミングでログインしたことがきっかけで、
パンダさんに声をかけてもらったのだ。

話してみると、音楽という好きなものに対する
パンダさんの情熱に私もやる気をもらえた。

私がどんな人間なのか詮索してこないから、
一緒にいて楽だった。

友人なんてずっとできないと思っていたのに、
気づいたらパンダさんとは
かれこれ四年の付き合いになっている。


「うーん、パンダさんになんて返事をしよう」

悩んだ末に彼に促されるような形で、
私は学校で大黒くんとひと悶着あったことを報告する。

【クラスに苦手な男の子がいるんだ。
わざわざ人の傷つくようなことを言わなくてもいいのに、
私が無視してもつっかかってくるの】


文字を打ちながら、あのときのことを思い出して
胸がモヤモヤとしはじめる。

それでいて、帰りには私に傘を貸してくれた。

……うーん、大黒くんがよくわからないな。

そもそも大黒くんは、
私のどこが気に食わないんだろう。

やっぱり、感じ悪くしちゃうところかな。

悪気はない。

ただ、いざ話そうとすると緊張して、
いつもの自分が出せなくなってしまう。

そんな自分が他人の目に
どう映っているのかを考えたら怖気づいて、

いつか誰かが話しかけてくれるよって
受け身になって自分を甘やかした結果がこれだ。


入学式、クラス替え。

グループができる前に
友達を作るチャンスならいくらでもあったけど、

周りの同級生はどんどん仲良くなっていくのに
私だけがいつもあぶれていた。

ひとりぼっちの時間が長くても、
孤独に慣れることなんてない。

毎日毎日、みじめで寂しくて恥ずかしかった。

それを隠すように、友達付き合いなんて
興味ないような平気なフリをしていたら、

クラスメイトには無口で無表情だと
近寄りがたい印象を与えてしまう始末。


ここまでコミュニケーションをこじらせてしまうと、
「今さらそんなつもりはなかったんだ」
なんて弁解もできない。

もう高校生活を謳歌するのは無理だろうから、
卒業までは心を無にして通うしかないんだろうなあ……。

とりとめもなくそんなことを考えていたら、
またメッセージの通知音が鳴る。

【誰かにきつくあたってしまうのは、
自分に自信がないからだと思う。

ヒヨコさんを前にすると、
自分の弱さを見透かされてしまいそうだから、
その彼は怖がってるんじゃないか?】  

「……どういう意味?」

パンダさんの言葉を理解できなくて
【彼は弱さとはかけ離れた人だよ】と打つ。

だって、彼はクラスのイケてるグループの一員だ。

教室ではいつもクラスメイトの中心にいて、

ときにはリーダシップを発揮して
体育祭や文化祭などの行事の進行を
率先して行ったりしている。

私に対する態度は冷たいけど、
ほかのクラスメイトからは頼りにされているようだった。

そんな彼が弱い人間だなんて、到底思えない。

頭をひねっていると、
すぐにパンダさんからレスがある。

【傲慢な態度をとってる人が必ずしも強いとは限らない。
弱いからこそ意地を張るし、悪い人ぶる。
自分を大きく強く見せようとするんだよ】

その心理は自分にも思い当たる節がある。

ひとりでいることをみじめだと思われたくないから、
私は傷ついてなんかいないよって涼しげな顔を装う。

自分の心を守るために、必要な強がりだ。

そんな感覚と同じなのかもしれないと思った私は、
【わかるかも、その気持ち】と返す。

いつもパンダさんの言葉はストンと胸に落ちてくる。

勝手な解釈だけれど、私のように
ありのままの自分を見せられない人は
ほかにもたくさんいる。

べつにおかしなことじゃないよ。

そう言ってくれているように思えて、
胸にわだかまっていたいらだちが
消化されていくのを感じていた。

作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:211

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作品のキーワード

この作家の他の作品

記憶の中で生きる君へ、この空に誓う
涙鳴/著

総文字数/102,646

恋愛(ピュア)279ページ

表紙を見る
紅葉色の恋に射抜かれて(野いちごジュニア文庫版)
涙鳴/著

総文字数/20,987

恋愛(ピュア)28ページ

    表紙を見る
      表紙を見る

      この作品を見ている人にオススメ

      読み込み中…

      この作品をシェア