プロローグ
鳳水音は、小さな湖を見つめていた。
そして、水辺に立ったままで、左手を丸め右手でそれを包むように手を合わせて、祈る。
何を願うのか。
それは水音にはよくわかっていなかった。
昔、母親がそれをやっていたのを覚えていたから。そして、母は「ここには違う世界があるの。その世界が幸せになりますように、と願っているのよ。」と、水音に教えてくれた。
幼い頃も、そして今になっても、その意味はわからない。
けれども、水音は仕事の前にここに立ち寄り、祈りを捧げる。
どこの誰に届くかわからない。湖の底にある、世界の人々に。
1話「水の中の出会い」
もう少しで日付が変わるという真夜中。
鳳水音(おおとりみずね)は、とぼとぼと疲れた体を引きずるように歩いていた。
ヒールのカツカツという音が夜道に響いていた。疲れきった頭で考えていることは、今日の酷い出来事だった。
水音は28歳になるが、最近まで人を本気で好きなった事はなかった。人並みの容姿だったが、肌と髪だけは綺麗だったからか、男性から告白されることは何回かあった。けれども、心からの惹かれる人が現れなかった。
そんな水音が最近、好きな人が出来た。同じ会社で、水音の部署に移動なった年上の先輩だった。人懐っこくて明るい性格で、その先輩がいるだけで部屋が明るくなるような、所謂ムードメーカー的存在だった。
普段大人しく、自分から会話をしようともしない水音に対しても、優しく話をかけてくれており、水音が恋をするのは早かった。
そんな出会いから半年が経とうとしていた、今日という日。年上の先輩の結婚が決まったと教えられた。先輩は、他のスタッフに囲まれて、とても幸せそうにしていた。
水音は、それを遠くから泣きそうになりながら見つめていた。やっと、好きになった人が見つかったというのに。自分は何も出来ずに、初恋が終わってしまったのだ。
そんな情けない自分が嫌いで、悔しくて、昼休みにこっそりと泣いていた。
「何やってんだ!こんなミスありえないぞ!」
「す、すみません!」
午後になり、水音はミスを連発し、上司に怒られてしまった。あまり、ミスをすることがなく、他人に本気で怒られたり注意をされる事が少ない水音は、更に気が沈んでしまい、仕事に集中出来なくなっていた。
そんな事があり、水音はこんな時間まで仕事をしていた。
お昼から何も食べておらず、お腹が空いてもいたが、何よりベットに飛び込んで体を休めたかった。
「はぁー………何やってるのかな、私。」
水音は、大きくため息をついた。すると、吐いた息が白くなった。もう11月に入り、朝晩はすっかり寒くなっていた。息が白くなるのを見て「もう冬か……。」と思いながら、星が出ている夜空を眺めていた。
すると、水音の視界にフラフラと飛ぶ何かが飛び込んで来た。
水音は、暗い空をじっと見つめると、白い小鳥だとわかった。こんな夜中に飛んでいるのはおかしな事だし、何よりフラフラと蛇行し、時々ガクンと落ちそうになっていた。
「あの鳥さん、大丈夫かな……。」
水音は心配になって、夜空を見上げながら白い小鳥を追いかけた。
はっはっと、白い息を吐き、ヒールをカツカツと鳴らす。水音がジャケットを脱ぎたくなるぐらいに暑さを感じた頃、気がつくといつもの湖に到着していた。
幼い頃から、毎朝ここに訪れて湖にお祈りをしていた。それは、母親がやっていた事の真似だったが、母にいつも「あなたも祈ってね。」と言われていたので、理由はわからないまま誰の幸せを願っていた。
左手を丸め、右手で包む、そして、目を瞑って祈るのだ。
それを今でも毎日の日課としていた。
いつもは、緑色の木々や紅葉の赤や黄色に囲まれ、碧色の水が綺麗な湖だったが、夜になると雰囲気が違っていた。
「ちょっと怖いけど、月明かりが綺麗………。」
真っ黒な木々と、月明かりが当たり、光輝く湖を見て、水音はそんな事を思っていた。
だが、その水面に写っていた綺麗な月が、ポチャンッという音と共に崩れた。
「小鳥ちゃんっ!?」
暗闇に目を、凝らすと小鳥が湖に落ちて、バタバタともがいているのがわかった。
「嘘っ!?どうしよう……。」
水音は、心配そうに見つめ、どうやって助けようかと考えてしまう。長い棒を見つけても、届かない距離であるし、小鳥が掴まってくれるかもわからない。他に方法は追い付かない。
「やるしかないっ!」
水音は、靴を脱ぎ上着のジャケットを脱いだ。
そして、ゆっくりと湖の中に入ったのだ。
「冷たっっ!」
11月の冬の気温だ。それに、湖の水も凍るように冷たかった。けれど、少し先にいる小鳥もこの冷たい中で苦しんでいる。そう思うと、水音は一気に足を進めた。
この湖はそんなに深くないと聞いていたので、一気小鳥の方へと歩いていく。
服が水分を吸って重くなり、水温は肌を刺すように冷たかった。それでも、必死になっているせいか顔だけは熱かった。
「待っててね、小鳥ちゃん。あと少しだから。」
あと数歩歩けば、小鳥に手が届く。
気がつけば、胸の辺りまでの水位になっていた。
動きにくいが、水音は腕を上げて小鳥に向けて手を伸ばした。
バタバタとしているが、もう大丈夫。と、小鳥を手で掬い上げた、その瞬間。
最後の一歩が水中を切った。地面がなかったのだ。
「嘘っ……………。」
そう思った瞬間に、水音は全身が湖の中に浸かってしまう。
必死に水面に顔を出そうともがくが、何故かどんどん底へと吸い込まれていく。水の流れがおかしい。そんな事を思いながらも、息が出来ない苦しさと、全身の寒さでパニックになりそうだった。
そんなとき、手の中からほんのり温かさを感じた。湖の中は真っ暗で何も見えなかったが、両手包んだ中には小鳥がいることを思い出した。すると、不思議と冷静になれた。
水音は、ギュッと小鳥を胸に抱き締めて、少しでも呼吸が出来るようにと手で優しく包み続けた。
(苦しい………もうダメだ。)
あまりの苦しさに涙が出た。それを暖かいなと感じた時、水音は意識を無くした。
寒い………凍えそうだ。
このまま、死んでしまうのだろうか。
動けない体を何かに身を任せて横たえながら、感じていた。
すると、遠くからこちらに向かってくる足音と、ジャラジャラという金属同士がぶつかる音が微かに聞こえた。
そんな音を感じながら、自分は生きているのか。それとも、死んだ後の世界なのかわからなかった。
「………おい、生きてるのか。死んでないよな………。」
乱暴に言い捨てる男の声が聞こえた。低めの声で、言葉は雑だが、暖かみのある声だった。
自分でも、生きてきるのかわからないのだ。答えられるはずがない。それに、もう体は疲れきっていた。口を動かすのも億劫になっていた。
「死なれたら困るんだよな……ったく、面倒だなっ。」
そんな言葉が聞こえた。
次に感じたのは、唇に何かが当たり温かい感触。そして、顎に指を当てられ口が開かされた瞬間、ぬるりとした物が口の中に入ってきた。
「………っっ………んんーーー!」
口の中で動く感覚に、ドキリとして水音は目を開いた。すると、自分が知らない人にキスをされていた。
水音は気だるい全身だったが、残りの力を全て込めてその男の体を手で思いっきり押した。
「ん?………なんだよ、起きたのか。」
その男は、すぐに避けて水音から離れた。
水音はゆっくりと体を起こして、その男を睨み付けるように見つめた。
その男は月明かりで光る銀色の髪に、褐色の肌、そして瞳は夜空のように真っ黒だった。上下の服も真っ黒で、フードもついているようだったが、今はそれを外していた。首や、耳、指や、腕などには、ジャラジャラと沢山のシルバーアクセサリーをしている。彼が少しでも動く度に、そこから小さな音が鳴っていた。
「……あなた、誰?それに、何であなたに、あんな事をされなきゃ………!」
「………なんだ?お前がここで倒れてたから助けてやったんだろ。人工呼吸ってやつ?」
「人工呼吸は、舌を入れないで空気を入れるの!」
そう言うと、その男は中性的な顔を歪ませて笑った。月明かりに照らされた彼は、人ではない何者かのように美しく儚い印象をあたえた。
長身に細身の男をよくよく見ると、手に何かを持っていた。
目を凝らすと、先端にドロリとした液体がついた、短剣だった。刃がこぼれており大分使い込んでいるもののようで、持ち手もボロボロだった。だが、そんな事よりも目がいくのは、その短剣からポツポツと流れ落ちる、血だった。
「無色の君。おまえを待っていた。」
その男は、水音の事を真剣な面持ちで見つめ、そう言った。
キスをされたり、血の着いた短剣を持った男が怖いはずだった。
それなのに、彼の視線も、声も全てが水音の心の中に深く響き、恐怖感よりも何故か「この人を知りたい。」そんな風に感じてしまっていた。
吸い込まれそうな真っ黒な瞳を、水音はずっと見つめ続けていた。
2話「残酷な現実」
「………あなたは、私を知っているの?無色の君って、なんの事?」
水音は、彼の言葉の意味をゆっくりと考えた後、彼に問い掛けた。
すると、目の前の男は無表情のまま近づき、水音と目線を合わせるように、しゃがみこんだ。
「それを知らないって事が、俺がおまえを必要としているって証拠だ。刻印なしの無色を知らない奴なんて、この国にはいない。」
「………この国って何を。」
「それとも、おまえはこの国で記憶喪失にでもなった奴か?だったら、刻印見せてみろ。白蓮ではないだろうから、緑草か、黒だろ?」
「白蓮……、草?………黒?なんの事なの?ふざけないで。」
水音は、彼が話している言葉がほとんど理解できなかった。彼の言う通りここは、水音がいた世界ではないのだろうか。
銀髪の男の質問に答えられず戸惑っていると、男は苛立った表情を見せて、チッと舌打ちをした。
「ったく、面倒くさいな。これだよ、体にどこかにこの刻印があるんだろ?」
男はもともと胸元が空いていた服を、更に下に引いた。ちらりと見えていた褐色の肌が、月明かりの下で晒される。
そこには、黒色で何かの印のような物がくっくりと刻まれていた。刺のある蔦が丸い物に巻き付いてるような刻印だった。
「これが底辺の人間がつける黒の刻印だ。働いても見返りはなく、質素なんて良いもんじゃない、死と隣り合わせの生活をしてる奴らの印だ。」
男は、自分を卑下する口調でそんな事を言った。
水音は全てがわかったわけではないが、この黒の刻印がある人々は、酷い生活をしているのだけは理解出来た。
「ねぇ、でも、あなたは着ている物も身に付けている物も貧相に見えないわ。あなたは黒の刻印なのに、どうしてなの?」
「それ、知りたいか?」
ニヤリと影を含んだ笑みを見せながら質問を質問で返されてしまう。彼の言葉を聞いてしまうと、悪い事が起こりそうで、水音は体をビクッとさせて震えた。
「………やめておきます。」
「それがいい。で、おまえ本当に刻印ないのか?」
「え………。」
銀髪の男は、濡れて張り付いた水音の服を引っ張り、開いた胸元を覗き込んだ。
突然の行動に、水音は固まってしまう。
自分は今会ったばかりの男にキスをされ、そして、下着や普段他人には見せない肌を見られている。
それを理解した瞬間。水音は一気に顔が赤くなり、そして気づくと叫び声のような大きな声を出していた。
「なっ何やってるのーーー!!」
「おま、バカかっ!!」
「っっ………んー。」
水音が大きな声を出してしまうと、男は焦って水音の口を手で覆った。
男らしい大きな手は、とても温かく冷えた体がそこから熱を与えてくれていた。危険な男だとわかっているのに、何故か安心してしまうのは、自分が弱っているからなのだろう、と水音は考えるようにした。
銀髪の男は、身を低くして辺りをキョロキョロと見て、何か警戒しているようだった。
しばらくすると、ガチャガチャと重たい金属がぶつかる音が複数聞こえてきた。こちらに向かっているのか、数も音量も大きくなってきた。
「今の女の叫び声は、こっちからだぞ!」
「無色の刻印が来たのかもしれない。探せ!」
そんな声が夜の森から聞こえてきた。
「ちっ………やっぱりまだここら辺に居やがったか。めんどくさいな………。」
「なに……何が来てるの?」
「お偉いさん方だよ。おまえを見つけて監禁するつもりなんだろ。」
「監禁っ!?」
コソコソと小声で話す彼に合わせてしゃべっていたが、物騒な言葉を聞き思わず、声を荒げてしまう。すると、また男が乱暴に水音の口を塞いだ。