「今日はありがとう。大槻先生のことも」

改まった口調で貴時は言う。

「別に。彼氏もいなくて暇なだけだから」

本当は職場の先輩が出産し、お祝いを渡しに行こうと誘われたのに『どうしても大事な用事がある』と断ってここに来た。
以前なら「トッキーのためなら何をおいても駆けつけるよ」と言えたのに、口をついたのはそんな可愛いげのない言葉だった。

「今日いらしてる先生方は本当にすごい方ばかりだから、見るだけで価値あると思うよ」

「申し訳ないけど、私が見たってどうせわからないし、ぼんやりトッキーを応援してる」

貴時は笑ってうなずく。

「非公式戦だから棋譜も残らないし、すっごく格好いい飛車切り見せてもどうせひーちゃんにはわからないから、気楽にやるよ」

大槻の言ったことと違うので、緋咲は首をかしげて貴時を見つめる。
貴時はもう何も言わず、少し目を伏せて、ひと口、ふた口とコーヒーを飲んだ。
そしてそのまま動きを止める。
伏せられた睫毛が動くことはなく、緋咲も声を掛けられないまま、時間だけが過ぎていった。

「じゃあ、もう行くね」

それもほんの数分程度。
貴時は伝票を持って立ち上がった。

「あ、ちょっと待って!」

お金を払おうと呼び止めたのに、振り返った貴時の表情を見て言い出せなくなった。
今は何も声を掛けてはいけない。

「行ってきます」

会計を済ませて、貴時はラウンジを出ていく。
その青竹のように真っ直ぐな背中を、息を詰めて見送った。

真剣勝負だというのは、本当らしい。