「エリカ」
十分近くまで歩みを進めると、セイジはいつものように、いや、いつもよりは小さく、私にだけ聞こえるくらいの声量でそう言って、手を差し出した。
「えぇ?ここでやるの?」
「大丈夫。きっとバレないよ」
そう、イタズラっぽく言って笑う。
その姿に思わず笑みが溢れて、誤魔化すようにセイジの絵の具が並べられた机に視線を移した。
スーッと絵の具をなぞっていき、1番最初に目についた色、深い青を選んで手に取る。
「はい」
「うん」
それを短いやりとりでサッと手渡すと、それ以上はお互い何も言わず、私は振り返って自分の席に戻った。
ほら、大丈夫。いつも通りだ。
存外自分が普通に振る舞えたことに安堵しつつ、見本のフルーツが置かれている机を見る。
赤いりんごと、黄緑のマスカット、黄色いバナナが入ったバスケット。
でも、セイジの世界でだったら、そこに深い青が入っていてもきっとおかしくない。
この描き方が生み出すのは一体誰の世界なのか、それはわからないけれど、素敵な世界であることに変わりはなくて、ごちゃごちゃと考える必要もなく、出来上がるのがただ楽しみだった。
……よし、私もがんばろ。
頭の中で気合いを入れ直し、今度こそ道具を広げた私は、フルーツの課題に真剣に向き合い始めたのだった。