「……騒がしくてごめん。
俺がいない間、大丈夫だった?」


「えと……泥棒と思われかけてたから、帰ってきてくれて助かったかも」


「うわ、ごめん……。
あの通り、結構思い込みが激しいタイプだからさ。
もし何か変なこと言われたら、遠慮なく言い返すか、俺に言ってね。ちゃんと否定しとかないとそのまま突き進んで拗れていくから」


「あはは……そんな感じする」



苦笑しつつそう返してから、はたと気づく。





……それじゃあ、“彼女”を否定しなかったのは、どうしてなんだろう。






亜希奈さんを誤解しやすいというセイジ。


言い返さないと拗れていくというセイジ。


それなのに、否定しなかったセイジ。



ラフに遊びにきている感じを見るに頻繁に会っていそうだし、もしかしたら後で否定しておけばいいかと思ったのかもしれない。


もしくは、セイジにとっては“彼女”なんて言葉はそれほど重要なものじゃなくて、否定するほど興味がないのかも。



可能性は色々と思いつく。


だけど、もし。


セイジも、私と同じだったら、なんて。


そう考えてしまうのは、都合が良すぎるだろうか。






「クレオメ、完成した?」



そんな淡い期待をさせた張本人に声をかけられ、ドキンと心臓が跳ねる。



「うん、さっきね」


上擦りそうになる声を抑えて、どうにか平静を装った。



「見てもいい?」


「もちろん」



私の声を聞くや否や、セイジはクレオメを覗き込む。


セイジが描いていた時は淡いピンクと黄色だけが置かれていたクレオメは、私の手によって暗めの赤が足され、ピンクと黄色もたくさん描き足したことで濃淡が深くなり、随分と雰囲気が変わっていた。



「どう、かな」



クレオメを真剣に見ている後ろから、少しだけ緊張して声をかける。



「うん……うん。すごいね、面白い」



セイジは振り向くことなく、小さくそう答えた。



「セイジのクレオメになれた?」


「それは、えぇと……ごめん、俺のとは違うけど」


「はぁ〜!やっぱりかぁ」


「でも!」



息を吐きながら私が大きく空を仰ぐと、セイジはぐいっと身を乗り出してこちらを振り返った。


その目はまた、クリスマスプレゼントを開ける子供のように、キラキラと曇りなく輝いている。



「でも、なんだろう、なんて言えばいいのかな。
確実に俺の世界も見えて……エリカの世界も混ざってて、新しい世界が生まれてるんだ。
1人じゃ見えない世界。俺、この感覚、好きだ」



正直、わかってた。


描きながら、きっとこれはセイジの世界とは違うのだろうと。


やっぱりセイジが私の世界を表現できるのは奇跡に近くて、それはセイジの才能が引き起こしていることで、そして私にはその才能はない。


私にセイジの世界が見えることはないのだ。



ただ、セイジが言ったように、この描き方で新しい世界が見えたのは、私も同じだった。






「ふふ、私もね、これはこれでいいって思ったの。
セイジの世界は私には描けないけど、それでいいって」



セイジの目を見て、嘘偽りなくそう言う。



いつかセイジのマーガレットを真似した時の、必死に違う世界を追い求める私はもういない。


私には私の世界がある。


私はもう感情の落とし所を見つけたから、上手くなくても、才能がなくても、その世界を楽しく表現できればそれでいいと思った。


人と人が違うのは当たり前だから、私は私にできることをすれば良い。



そして、このクレオメは、それ以上に。



「だってね、この世界はきっと、セイジと私にしか生み出せないって思うから。
2人だけの、特別な世界なんだよ」



だから、この絵はこれで完成だし、描きあげた時はとても満足した。


セイジもそう思ってくれるかはちょっとだけ怖かったけれど、セイジがクレオメに向けていた熱い目線が、その第一声の言い表せない感動をはらんだ声が、みるみるうちにその不安を吹き飛ばしていった。


本当は『セイジのクレオメになれた?』なんて意地悪なことを聞かなくても、セイジの答えはわかっていた。





セイジは私の言葉を聞いて口を開け、一度閉じて、また開けてから、


「うん」


と、温室にあるどの花よりも綺麗に笑った。






「好きです」



今日一日の授業を終え、掃除の時間も終わりがけで、ちらほらと部活に向かう人や帰路につく人も見かける、そんな時間帯。


ちょうどゴミ捨て当番の日だった私は、教室の掃除が終わり、ゴミをまとめた袋を片手に中庭に差し掛かった頃、進行方向から聞こえてきたその声に足を止めることになった。


中庭には2人の人影。


ただならぬ雰囲気に、私の頭には“邪魔をしてはいけない”という警報が鳴り響き、咄嗟に物陰に身を隠した。



「一年生の春、初めて見た時から、ずっとかっこいいなと思ってて」



緊張を含んで少し震えた女の子の声が、言葉を紡ぐ。



……って、だめだめ、これじゃあ盗み聞きだよ。


ちょっと遠回りになるけど、中庭を通らないルートでゴミ捨て場に行こう。


気になる気持ちよりも聞き耳を立てる罪悪感が勝ち、そっとその場を立ち去ろうとした、その時。



「美術室でこのストラップを落として困ってた時、セイジくんがどこからか見つけてきてくれたのが、本当に嬉しかった」



“セイジくん”。


その名前が聞こえてきて、つい振り返ってしまった。



さっきはチラッとしか見ていなかった男女の姿を、はっきりと認識する。



中庭にいたのは、こないだ美術部で友達に『告白しちゃえ』と背中を押されていたあの女の子と、向かい合うようにして立っているセイジだった。






どくん、どくんと心臓が脈打つ。


立ち聞きなんてよくない、早く立ち去らなければ、と頭ではわかっているのに、足に根っこでも生えてしまったのかと思うくらいに私の体は動かなかった。



「それからずっと、気が付いたらセイジくんを目で追うようになってて。
今年、同じクラスだって知った時は、嬉しくて飛び上がりそうだった」



セイジは、何も言わない。


ただ真剣に、誠実に、彼女の気持ちを受け止めている。



「私、もっとセイジくんのことが知りたい。
セイジくんと一緒にいたい。
そばにいて、見ていたい。

だから……私と付き合ってくれませんか」



言い切った彼女は、右手をセイジに差し出した。


その他は微かに震えていて、彼女の勇気がこちらにまで伝わってくるようだった。


真っ直ぐ見ていられなくなって、視線を下に逸らす。


ただ、そこから立ち去ることはできなかった。






……もしOKしてしまったらどうしよう。


それはあの日曜日の終わりを意味する。


あの子だって、美術部だ。


もしかしたら、見方さえ教えればあの子も自分の世界を見ることができて、そしてそれを私なんかよりもっと上手に表現できるかもしれない。


そうしたら、今の私のポジションは簡単にあの子のものになるのだろう。



あの子はきっと、私みたいに穿った考え方で他人に嫉妬したり、勝手に決めつけて線を引いたりもしない。


私みたいな臆病者とは違って、彼女は勇気を出す術を知っている。


その勇気がセイジに届くことだって、もしかしたら。



そう思うと、影に隠れているだけなのに手が震えた。


ぎゅうっと胸が苦しくなって、泣きそうになる。






「……ごめん」



一呼吸置いたセイジが出した答えは、私の耳にも届いた。



「俺は、絵が好きだから。
誰かと付き合うとか、考えられない」



真っ直ぐなセイジの言葉が、空気を揺らす。






……ああ、よかった。


そう思うのと同時に、心を深く抉られたような、そんな気持ちになった。



いたたまれなくなって、女の子がその言葉に反応するよりも先に、そっとその場から走り去る。







最悪だ。最低だ。


人の告白が失敗したのを見て、真っ先に出てきたのが『ああ、よかった』?


確実に私の中を占めている喜びと安堵の気持ちが、やたらと不快感を煽る。



そして、それよりも。


『誰かと付き合うとか、考えられない』


その言葉が、深く胸に突き刺さった。


まるで私が言われているような心地さえして、視界が歪む。


それは実質、私にも望みがないと突きつけられたに等しかった。



私は臆病者だ。


今の関係を壊してしまう勇気なんて、告白する勇気なんて、元からない。


だけど、それでも、もしかしたら、なんて希望を持つのが楽しかった。


もうそれすらも許されない。


勇気を出したあの子と共に、私も失恋してしまったのだ。








袋の中のゴミが、カランと空虚な音を立てた。





✳︎ ✳︎ ✳︎



「ちょっとエリカ!随分遅かったじゃん!
何かあったんじゃないかって心配したんだからね!?」



あれからしばらくして。



ゴミ捨てが終わってもなかなか美術部に行く気になれなかった私は、人がまばらになった校舎をあてもなくフラフラと歩き回り、小一時間ほどが経ってからようやく鞄を回収して美術室に入った。



だって、美術室には絶対にセイジがいる。


少しだけでも、気持ちを整理する時間が欲しかった。



「ごめんごめん。急に学校探索したくなっちゃって」


「はあ?2年にもなって?」


「それがさ高ちゃん。旧理科室の扉にめちゃめちゃ綺麗なハート見つけちゃった」


「何見つけてんのよ……」



誰かの落書きか、それとも何かの跡か、絶妙なハート模様が浮かび上がっている扉の写真をスマホで見せると、高ちゃんは呆れたようにため息をついた。



……大丈夫。いつもの私だ。


校内をぶらぶらしているうちに、気持ちはだいぶ落ち着いた。



そうだ。私は告白する気なんて元からなかった。


つまり、私とセイジがこれ以上発展する可能性は元々ない。


そう考えると、セイジが誰とも付き合う気がないというのは、むしろ朗報かもしれないと思った。


誰もセイジの特別にはなれないのなら、私の立場が脅かされることもきっとない。


私はこの先、友達として、共同制作者として、そばにいることができるのだ。


それだけで、十分じゃないか。


そう思ったら、とても楽になった。





「今日の課題、フルーツのスケッチだってさ」


「了解、ありがと」



高ちゃんはみんなの視線の中心にある様々なフルーツが入ったバスケットを指差すと、ウィンクを一つ残して席に戻っていった。



美術室中を見渡してみたけれど、先ほど告白をしていたあの女の子の姿は見えない。


そりゃあそうだよね。


あの後2人がどんなやり取りをしたのかは知らないけれど、どれほど優しい言い回しをされたとしても、振られたその日に同じ教室で活動するなんて私なら絶対無理だもん。



対してセイジは、やっぱりいつものようにそこにいて、真剣に課題に取り組んでいるようだった。


こっちも予想通り。


告白は振る方も辛いと聞いたことがあるけれど、それでもセイジが絵から離れる姿は全く想像ができなかった。



想像通りの姿に半ば安心しながらその姿を眺めていると、おもむろにセイジが顔を上げ、バチリと目があう。


学校で目が合うことなんてほとんどないから、単純な私の心臓はドキッと音を立てた。


すると、セイジは少し笑って、ちょいちょいと控えめに手招きをしてくる。




えぇ?何々?


温室だったら声に出したであろうその言葉を、グッと飲み込む。


小さな仕草だったけれど、その仕草一つで私はもう周りの音なんて聞こえなくなっていて、まるで美術室には私とセイジしかいないんじゃないかと錯覚を覚えるほどだった。


イーゼルの周りに広げようとしていた道具を一旦横に置いて、誘われるようにセイジの方に歩いていく。






「エリカ」



十分近くまで歩みを進めると、セイジはいつものように、いや、いつもよりは小さく、私にだけ聞こえるくらいの声量でそう言って、手を差し出した。



「えぇ?ここでやるの?」


「大丈夫。きっとバレないよ」



そう、イタズラっぽく言って笑う。


その姿に思わず笑みが溢れて、誤魔化すようにセイジの絵の具が並べられた机に視線を移した。


スーッと絵の具をなぞっていき、1番最初に目についた色、深い青を選んで手に取る。



「はい」


「うん」



それを短いやりとりでサッと手渡すと、それ以上はお互い何も言わず、私は振り返って自分の席に戻った。



ほら、大丈夫。いつも通りだ。


存外自分が普通に振る舞えたことに安堵しつつ、見本のフルーツが置かれている机を見る。




赤いりんごと、黄緑のマスカット、黄色いバナナが入ったバスケット。


でも、セイジの世界でだったら、そこに深い青が入っていてもきっとおかしくない。


この描き方が生み出すのは一体誰の世界なのか、それはわからないけれど、素敵な世界であることに変わりはなくて、ごちゃごちゃと考える必要もなく、出来上がるのがただ楽しみだった。




……よし、私もがんばろ。


頭の中で気合いを入れ直し、今度こそ道具を広げた私は、フルーツの課題に真剣に向き合い始めたのだった。