「こうしよう」
そんな私の考えとは裏腹に、しばらく考えた様子のセイジはとんでもない提案をしてきた。
「このクレオメ、エリカが完成させて?」
「……………えぇっ!?!?!?」
描き途中のクレオメの続きを私が描けと、セイジはキラキラとした目で言う。
セイジの世界を想像して描くのさえ、セイジの世界を壊すに値すると思った。だから怖かった。
それが描き途中の絵に私が加筆する?????
物理的にセイジの世界を壊すってことでは!?!?!?
「いやっ、無理無理無理!」
「なんで」
「なんでって!私なんかが描いたらそんなの台無しになるに決まって———」
「———ならない!」
私が言い終わる前に、いつもより大きなセイジの声が被った。
その顔は至って真剣で、お世辞を言っているわけでもなければ、気休めを言っているわけでもないように見えた。
「ならない。大丈夫」
「でも……」
「俺は、エリカが完成させるクレオメが見たい」
まっすぐな目が私を貫く。
私が何もいえなくなったのを見て、やがてその目は少しイタズラっぽく細められた。
「それに、俺、もうこれ以上描きたくなくなっちゃったから。
エリカが描かなきゃ、このクレオメは一生未完成なままだよ」
「えぇ!?」
「あーあ、クレオメ、可哀想だな。
完成しないとどこにも飾れないしな」
ピンクと黄色が巧妙に使われた、でもまだ大まかに色を置いただけで描き込まれてはいない描き始めのクレオメ。
陽の光に照らされた白いクレオメが、ゆらゆらと“完成させてよ”と囁いているように見えた。
「〜〜〜、わ、かった……」
「やった!」
観念してそう答えると、セイジはウキウキと描きかけのキャンバスを私のイーゼルに移し始めた。
やるのか……?
本当にやるのか、私は……!?!?
想像してもいなかった展開に、頭を抱えそうになる。
でも、セイジは一回やると言ったら曲げない人だ。
特に絵に関しては、テコでも動かせない。
覚悟を……決めるしかない。
「……セイジのクレオメは、何色なの?」
「うんとね、ここにあと、赤を足そうと思ってたかな」
「ピンクと、黄色と、赤……」
大体アタリが取られているピンクと黄色はどうにかなるかもしれない。
鍵は赤がどう入ってくるか……。
いや、セイジのことだ。描きかけの段階で置いてあった色が、後になってそれを元に大変身していることも少なくない。
こんなに画面上全体に置いてあるピンクと黄色が、実は最終的にはあんまり目立たないなんてことも……。
今は薄く置いてあるだけだから、ここからどのくらい濃くしていくつもりだったのかとか、そういう選択肢も無数にある。
やばい……考えれば考えるほどわからない。
「ふは、そんな力まないで」
「だって〜……!」
頭の中がぐるぐると混乱し始めた私に、セイジの笑い声が届く。
「いいよ、失敗したって。
俺だって、初めてエリカのマーガレットを描いた時は、きっと失敗するって思ってたんだから」
「えっ!?失敗すると思ってたの!?」
「そうだよ。上手くいくかわからないって言わなかったっけ?」
「そうだっけ……」
「だから、エリカにそのものだって言われた時は、嬉しかったけど、それ以上にびっくりしたんだ。
俺が見てたのは、本当にエリカのマーガレットだったんだって。
世界の共有なんて、夢のまた夢だと思ってたから」
セイジが満足げにふんわりと笑う。
いつもたくさんの世界を次々に生み出していくセイジは、“描けないかも”なんて不安とは縁のないものに見えていた。
でも、違う。セイジだって人間だ。
やったことのないこと、描いたことのないもの、そんなのが最初から完璧に上手くいくなんて思っていない。
それでもセイジは、新しいことに挑戦するし、迷っても道を探している。
私のマーガレットを描いていた時、確かにセイジの筆の進みがいつもより何倍も遅かったことが、今になって思い返された。
「きっとできるとか、そういうことは言えないけど。
俺はもともと、自分の世界を見れる人だって俺以外いないのかもしれないって思ってたんだ。
それが見れるエリカなら、もしかしたらって、思うんだ」
そういえば、そんなことを言っていた気がする。
他の人にも世界の見方を教えたことがあるけれど、本当に見えたのは私が初めてだって。
……それなら、もしかしたらできるのかもしれない。
それに、できなくったってセイジは責めたりしない。
「……わかった。やってみる!」
「うん。楽しみにしてる」
そう言って、セイジはクロッキー帳を広げ始める。
前に見られてると描きづらいと言った時から、セイジは必要以上に私の描きかけの絵は見ないようにしてくれているのだ。
よし……がんばろう。
覚悟を決めて気合いを入れ直した私は、頬をパチンと両手で叩いて思考をリセットし、キャンバスに向き合うのだった。
「綾瀬、最近絶好調だなあ」
ガヤガヤと賑わう美術室でそう呟いたのは、やけに機嫌が良さそうな美術部顧問の先生だった。
その視線の先には、たった今完成した私のアネモネの絵がある。
ちょうど肌寒くなってきたこの季節は、ここら辺で1番大きい絵画コンクールの開催時期だ。
我が緑原高校美術部も例に漏れず、多くの人がコンクールに向けた作品作りに勤しんでいた。
「特に花の絵は見違えるほど生き生きしていていい。
このアネモネも、実物じゃなくて写真を参考に描いたんだろう?
なのに、まるで実物がそこにあると錯覚するくらいだ」
「あはは、ありがとうございます」
ちょっと大袈裟な気もするけれど。
毎週毎週特等席でセイジの絵を見ている私は、目が肥えてしまったのか、やっぱり自分の絵が実物と錯覚できるほどだとはどうしても思えなかった。
ただ、前までは美術部の時間以外では家でスケッチブックに軽く描く程度しか練習できなかったのが、ここ数ヶ月はセイジのアトリエのおかげで毎週集中できるかつ本格的な道具を使った練習ができている。
それで画力が少なからずと上がっているのは、自分でも感じていた。
うまく描こうと無駄に力んでいた力が抜けたのも、きっと関係している。
「先生もそう思います〜!?
エリカってば、ここ最近メキメキ上達しちゃって!」
どこからか、にょきっと効果音がなりそうな雰囲気で高ちゃんが口を挟む。
「前までは結構、なんていうか……お手本の色を忠実に写してる感じだったんですけど、最近は色の幅が増えたっていうか〜!」
「おーっ、良いところに目をつけるじゃないか湯澤!
先生も良い色の使い方をするなと感心してたところなんだ」
「ですよね!?ほら、写真では白ベースで中央に紫色しか見えないアネモネなのに、あえて赤色が入ってたりとか!」
「陰になっているところを濃い紫で表現するんじゃなく、あえて赤で表現してるんだよなあ。
それが嫌な目立ち方をせず白いアネモネによく馴染んでいる」
「そうそうそうそう、全体で見た時はちゃんと間違いなく白いアネモネになる程度に色で遊んでる感があるのがおもしろいんですよ!」
「実物に忠実な描き方も実に良いが、綾瀬には今の方が合ってる気がするな」
「格段に魅力増しましたよね」
「あの……先生……高ちゃん……もうそのくらいで……」
興奮気味に言葉を重ねる2人に、だんだん恥ずかしくなってくる。
褒められるのはもちろん嬉しい。
でも、そこまで褒めちぎられると、くすぐったくてたまらなくなる。
以前の私は、確かにお手本に忠実な絵を描くことが多かった。
だって、何色を混ぜれば綺麗になるのかなんてわかんなかったから。
こないだニゲラを描こうとした時だって、青には紫が馴染みやすいよね、なんて安直な考えで、背伸びして紫を入れて失敗したくらいで。
それが、近頃はなんだか、この色をここに入れたら面白そうだな、なんて思うようになっていた。
私の世界を描いている時ほど大きな変化はないけれど、確実に現実とは違う色使いの画風。
それが妙にしっくりきた。
もしかしたら、今ニゲラを描いたら、それこそ納得のいくものが描けるのかもしれない。
でも、あの廊下に並ぶ作品たちがある今となっては、もう十分にあのニゲラ以上の感動を味わえる絵が存在している。
今更またニゲラを描こうなんて気は起こらなかった。
……どれもこれも、間違いなくセイジの影響だ。
そこに思い当たると、急になんだかにやけてしまいそうになる。
私にとって、セイジはもうこれでもかってくらい大きな存在だ。
セイジが自分に与えた影響を目の当たりにすると、嬉しいような、恥ずかしいような、よくわからない気持ちになる。
その変化が、セイジとの繋がりを証明してくれているような気がして、心地がいい。
そしてあわよくば……私も彼に何か影響を与えているならいいなと、少し欲張りな考えが湧いて出た。
「どうなのよエリカ!」
「えっ?」
高ちゃんの声で我に返ると、いつのまにか私のアネモネを見ていたはずの先生と高ちゃんの視線は私に移されていた。
全っ然聞いてなかった。
何が「どう」なんだろう。
「えっと……ごめん、何が?」
「も〜〜〜、コンクールだよコンクール!」
「綾瀬は去年出さなかっただろう。
今年こそはどうだ、このアネモネを出してみないか」
……そうだ。
私は去年のこの時期、コンクール用に絵を描いてはいたものの、結局参加は辞退してしまった。
特に何か深い理由があったわけではない。
ただ、中学で参加したコンクールではことごとく惨敗してきたから、どうせ私なんかに入賞は無理だという気持ちがどうしても拭えなかった。
その時は深く考えていなかったけど、もしかしたら天才・成宮セイジとの差を痛感するのが怖かったのかもしれない。
セイジだけじゃない。
入賞を逃すことで、同じ高校生の参加者と比べて、自分が劣っていることをまた目の当たりにするのが怖かった。
頑張っているつもりで、実は中学から何も成長していないのではないかと。
今思えば、こんな中途半端な時期にあのニゲラに3回目の挑戦をしていたのも、その焦りが動機だったんじゃないかという気がしてきた。
上手く描けたら、きっと自分の成長を認められる。そんな期待がどこかにあったんだと思う。
でも、今は違う。
そんな期待に頼らなくても、自分を納得させる描き方を見つけた。
今なら、いけるかもしれない。
今なら、もし入賞を逃したとしても、それでいて他の誰かが入賞しているところを見たとしても、素直に祝えるかもしれない。
「……そうですね。
今回は出してみようと思います」
「そうか、そうか!よく言った!
今年の2年は全員参加だ、こりゃあ楽しみだなあ」
「やーん、強力なライバル出現ってワケね!
あたしももうすぐ完成するんだから!待ってなよ〜!?」
「あはは。ラストスパートがんばって〜」
それぞれ思い思いの言葉を残して、先生は巡回に、高ちゃんは自分の作品に戻っていく。
自分のことのように喜んでくれている様子の2人を見送り、1人席に着いた。
ぐるりと美術室を見回す。
難しい顔をして絵に向き合う人。
楽しそうに談笑しながら描いている人。
写真を見ながら描いている人。
実物を持ってきて描いている人。
色んな人がいて、色んなモチーフがある。
ここにいるみんなが、ライバルになり得る。
ずっと憂鬱だったその事実が、今はちょっと、やる気に繋がる気がした。
「でもさ〜、結局やっぱ今年も成宮が金賞なんじゃねーの?」
ふと、ちょうど私の斜め後方あたりに席を陣取っている部員から、そんな声が聞こえた。
「まああれはレベチだしなあ。
去年だって圧倒的だったじゃん」
「そりゃあんなの描けるやつがホイホイいたらたまんねぇよ。
中学でも総ナメだったんだろどうせ」
「それならとっくに毎回同じやつが金賞取ってるって話題になって知ってそうなもんだけどな。
そんな話あったっけ?」
「いやあ……覚えてねぇな。
自分と友達が入賞してるかくらいしか見ねぇし。
あ、けど、あの独特な色使いした絵は確かに見なかったかも」
「だよな?一回見たら忘れないと思うんだけどなあ」
確かに……。
言われてみれば、それこそ私も中学の頃は何度かコンクールに応募していたけれど、セイジの絵は覚えている限り見たことがない。
毎回金賞が同じ人だったら、それを覚えている人が1人もいないというのもおかしな話だ。
なんだろう、中学の頃はコンクールには応募してなかったのかな?
あれだけの才能があって応募してないなんてことはなさそうだけど……ちょっと気になるなあ。
聞いたら教えてくれるんだろうか。
ただ、“人に触られるのが苦手”、“描けないもの”、“絵を描いていなかった時期”、今までに出てきた、きっと過去に何かがあったとわかるそれらのワードが、私を臆病にする。
……踏み込んだら、拒絶されそうで。
私には、聞けない。