「あれ……私、なんでここに来たんだろう。」
気がつくと、翠は色のマンションの前に立っていた。きっと、彼の事を考えていたので、無意識にこちらに歩いてきてしまったのだろう。
色の部屋は上の方であったし、場所まではわからないので、外から見てもどこが彼の部屋なのか全くわからなかった。
それに、ここには色はいないとわかっている。
だけれど、マンションを見上げる翠の目には、涙が溜まっていた。
「最後に一目でいいから冷泉様に会いたかったな。………冷泉様、私、きっと冷泉様のこと忘れられません。だから、しつこいけれど、想うことだけは許してくださいね。」
静かな夜道で、独り言のように聞いてくれる相手もいない言葉を紡ぐ。
誰にも届かない。彼には聞こえない。
それでも、翠は想いを伝えたかった。
しばらく、マンションを眺めて、ここにはもう来ない、と心に決めてから、マンションを後にした。
涙は瞳に溜まっている。
暗い道がボヤけてますます歩きにくいが、ゆっくりと帰り道を進んだ。
すると、1台の車が翠の脇を通りすぎた。
その時に、優しく吹いた風を感じた瞬間、翠は思わず足を止めた。
微かに、白檀の香りがしたのだ。
その香りがとても懐かしく、そして愛しくて。
翠は夜道に佇んでいた。
『こんばんは。そこにいるのは、愛しい人ですか?』
後ろから、とても綺麗なギリシャ語と、そして聞きたくてしかたがなかった声が耳に届いた。
振り向かなくてもわかる。ずっとずっと会いたかった彼だと。
けれども、翠はそれでも体が動かずに固まってしまう。カランカランと、下駄の音が夜道に響く。
その音がドンドン大きくなって、翠の傍まで来ると、翠は涙を溢しながら彼の方を振り向いた。
それと同時に、彼の腕が翠の体を優しく包んだ。
「ずっと探してた。やっと見つけた。」
彼は、翠の耳元でそう呟くと、今度は強く翠を抱き締めた。
むせるように香る、彼の香りと熱いぐらいの体温を肌に感じながら、翠は涙を堪えずに泣いた。
「………冷泉様っ………。会いたかったです。」
嗚咽混じりの言葉で、やっとその言葉を彼に伝えると、彼は「ごめん。」と優しく言ってくれる。
彼との契約の最終日。
翠は久しぶりに彼の温かさを感じ、何度も彼の名前を呼んだ。