色が連れてきたのは、いつもの料亭だった。仲居さんが顔を出したが、「今日は何もいらない。人払いしとけ。」と、顔を見ずにそう言い捨てた。そして、翠の腕を乱暴に掴むと、強い力で引っ張り、そのまま足早に廊下を歩いた。それに、翠は必死について行った。
 奥部屋に着くと、掴んでいた手は離された。
 そして、いつもの場所に座るように、目で指示をされる。それを翠は素直に従いいつもの場所に座った。色も同じように隣に座る。だか、テーブル向きではなく体は翠の方を向いていた。


 「で、何で急に休み始めた?」
 

 前置きもなしに、色は唐突に厳しい口調で言った。好きな人の鋭い目線に、挫けそうになりながらも、その目を見つめ返した。


 「忙しくなって、体調を崩しました。すみません。」
 「…………それで、これからはちゃんと続けられるのか?」
 「それは……。」
 

 その問い掛けに、翠はたじろいだ。「辞めさせてください。」と言わなければいけない。そのつもりで、ここに来たのに、色を目の前にして翠は気持ちが揺らいでしまった。
 冷泉様とこれからも会っていたい。好きでいたい。
 そう望む気持ちが強くなってしまっていた。
  

 「辞めたいのか?」
 「…………。」
 

 黙り込んでしまった翠を色が見つめる。
 ため息が頭の上から聞こえた。呆れられたのかとも思ったが、そうではなかった。翠の頭に優しい感触が伝わってきたのだ。
 色に撫でられている、とわかった時には翠の目にはうるうると涙が溜まっていた。必死に泣くのを堪えながら、先程とは違って優しい顔の彼の瞳を見つめ返した。


 「何か理由があるんだろ?」
 「ごめんなさい………。」
 「………どうせ神崎が余計な事を言ったんだろ。」
 「どうしてそれを?」
 「やっぱり、そうなんだな。」
 
 色に鎌をかけられたのがわかり、しまったという顔をしてしまうが、すでに遅かった。色に「話せ。」と促され、迷いながらも、神崎との話をゆっくりと話始めた。

 「私が冷泉様の体調にも気付かず、配慮もしなかったのが悪いんです。本当にすみませんでした。」
 「神崎(あいつ)が大袈裟すぎるんだ。現に俺は、体調なんか崩してないだろ。」
 「でも、お疲れのご様子でしたし………。」 
 「あれは、取引先と遅くまで食事をしてたからだ。」
 「でも………!!」

 色は、翠が悪いわけではないと気を使ってくれているようだった。
 だが、翠はどうしても自分の浅はかな了見が許せなかった。しかも、好きで大切な存在の人への事だ。このままでは、色が疲れが溜まり体を壊してしまうのは目に見えていた。
 だから、家庭教師を止めるのが一番早い方法だった。
 彼は多少ならばギリシャ語で会話出来るようになっている。取引の始めの会話ぐらいは、可能だと思っていた。
 翠は、迷いながらも気持ちは決まりつつあったのだ。
 色の言葉を聞くまでは。

 「俺は何があってもおまえを途中で辞めさせるつもりはない。」
 

 その宣言するような言葉を聞いてしまったら、翠は心が揺らいでしまう。
 それでも、あの疲れて眠る彼の顔や、神崎の呆れた表情が、頭の中をよぎった。