いつもの奥部屋の前に立ってどれぐらいの時間悩んでいただろうか。
手を伸ばしてドアをノックし、「冷泉様、失礼します。」と、震えてしまった声でそう言い、恐る恐るドアを開けた。
「遅れてしまって………あれ?」
ドアを開けて部屋を見ると、いつものように色は先に来て座っていた。だが、いつもと様子が違っていた。遅れてきた翠に対して何も言葉はなかったし、それに机に顔をつけていた。
「冷泉様?」
近づきながら、彼の名前を呼ぶが何の反応もなかった。静かに顔を覗き込むと、色は静かな寝息を立てて寝ていた。起きてる時には想像が出来ないぐらいの、幼い顔に翠はドキリとした。初めて見る彼の寝顔はとても幼く、そして、疲れて見えた。
テーブルには、ギリシャ語の本と翠が上げた緑色のノートとウサギのペンが置いてあった。
普段は開かない、終わりのページの方から使っているようで、そこには沢山の単語が書いてあった。
翠はそれを見つけると、ハッとし、その後涙が止まらなかった。
「冷泉………さま…………。」
色は、忙しい仕事を夜中まで働く事でまわしてきた彼は、それだけではなくギリシャ語の勉強もしていたのだ。ギリシャ語の上達が早かったのも、翠との勉強だけではなく、他の時間も考えてくれていたからだった。彼は本気で覚えようとしてくれていたのだ。
嗚咽が出そうになるのを我慢しながら、熟睡している色の顔を見つめた。
(私、冷泉様の事、何も見てなかった。自分の事だけ考えてい、無理をさせていた。こんなの家庭教師をやる資格なんてないよ……。)
他の人に言われるまで気づかなかったのだ。これで3ヶ月続けていたら、どうなっただろうか?
彼も大人だから体調管理はしていそうだが、それでも無理してしまうのは、今回の事でよくわかった。
大好きな色を見つめた。
自分には彼に会う資格がないのだ。会えなくなるのは辛いけれど、どうせあと一ヶ月半後には、この関係もなくなってしまう。少し早まったと思えばいい。
そう自分で自分を納得させていく。
こうやって、独り占めすることも近くに居られることも、もうないかもしれない。
そう考えると切なくなってくる。
翠は、ゆっくりと色に近づき、艶のある綺麗な髪にゆっくりとキスをした。
「冷静様、大好きです。…………そして、ごめんなさい。」
消えてしまいそうな声で、そう伝え、彼の白檀の香りから逃げるように体を離した。
その香りに包まれるだけで、また涙が出てしまうからだ。
翠が出ていった後は、また微かに寝息だけが聞こえる、静かな部屋へと戻ったのだった。