生島を送り届けた後まで、一言も発しなかった三咲は、家に着くなり、「もう辞める」などと言い出すかなと予測していたが、出て来た一言は全くの別物だった。

「牧田さんが……」

 突然の名前に、

「え?」としか言いようもない。

 俺は靴を脱ぐ音にも気遣い、じっと次の言葉を待った。

「牧田さんが、首を舐めてきた」

「………」

 なんとも返しがたいセリフだった。偶然による三咲の勘違いのような気が多いにしたが、三咲からすれば大きなことに違いない。それに、仮に故意に舐められたんだとしても、それこそそんなことくらいで大げさに感じていたら、何もできなくなる。

 嵯峨は考え抜いて、

「どんな状況で?」

 言いながら、靴を脱いで、立ち尽くす三咲の隣に立った。

「まあ、座ろう。聞くから」

 もうシャワーを浴びたい気持ちでいっぱいだったが、ネクタイを取り、ワイシャツを脱いで、ベルトも取って我慢する。

「覆いかぶさられたら、どう逃げるか、という課題でした。もう全然動かなかったです。どんどん近づいて、怖かった」

「………でも、最終的にどう逃げるかは教わったろ?」

「でも、でも……あんまりできなくて……。いつも、一生懸命してるんですけど。手首を押しつけられたら全然……脚も動かないし」

「まあ、相手は教えるくらいのプロだからな、そこから逃げられたら大したもんだとは思う。むしろ最初は逃げられなくても大丈夫なもんだ」

「かもしれませんけど……。なんか今日は…分かんない。近いからかもしれないけど、すっごい近寄ってきた気がして…。最初、唇が首に触れたから、びっくりして一生懸命抵抗したんですけど。ぺろって」

 魔が差したんだろうなと直感する。

「その後なんか言ってたか?」

「別に…それにはお互い触れずに…」

「じゃあ、偶然何か喋ろうとして、舌先が触れたんだろう。それで三咲が何も言わないから気にしてないと思ったんだろう。牧田さんは気にしてないと思うぞ。それに、ハニートラップの練習の場合はそれどころじゃない。本番を練習するんだから。今回その練習は排除されているが、それに比べたらどうってことない」

 と、言っても納得しないかもしれないが、そう言うしかない。

「例えば……。明日は、実践だって、空いた宿舎のベッドでそれをやるんです。道場は畳だから床が硬くて実際とは違うって」

 その先か……。

「牧田さんで練習すればいいとは思わない、が。それくらいなんでもないと思っとかないといけないかもしれない」

「無理!! 絶対嫌!!」

 言い方を間違えたことを即座に察した嵯峨は、

「牧田さんには、俺が教えると伝えとくよ」

 結局は実践で使えるかどうかが問題だ。別に今からセックスに慣れておく必要も何もないわけで、余計な概念や理論を言い合っている時間はない。

「………」

 納得したようだ。

「悪いが先に風呂に入る。頭痛が酷くてな。先に寝るよ」





 翌朝、食事を済ませてから生島に事情を話すと、牧田との練習方法をもう一度練り直す必要があるという結果になり、急遽日中の練習は中止となった。

 牧田には三咲が体調不良で午前中だけ休むとし、8時から生島と嵯峨の2人で再び会議をすることになる。

 前日同様、パイプ椅子に腰かけた生島は、

「牧田君ねー、そんな風じゃ全然ないけどね、私には見せてないってことなのかしら」

「……俺は正直、今の三咲なら、少し手が尻に触れただけで大声を出す警戒ぶりだから、どこまで鵜呑みにするのかというのも疑問の1つだとは思う」

「………」

「なあ、始まってから10日。技術的には少し進歩したかもしれないが、当の樫原を落とすところまではどうもいけそうにないと思う。
 その、素人さが良いというところが一番の売りなんだとしたら、もうそのままでいいんじゃないかと思う。
 もしかしたら、バーにいたら樫原の方が勝手に寄ってくるかもしれない」

「それほど甘くはないと思うけどねえ…。樫原の好きにされたらあの子、あっちに落ちるわよ。だからある程度、慣らしは必要だと思う」

「その意味では、山本さんとは離すべきじゃないと思う。現実に戻るための手綱を握らせておいて、樫原と接触させる」

「………それでうまくいけばいいけどね。そんな器用じゃないでしょ、あの子。だから要は樫原をどれだけ裏切ることができるかが重要で、そのためには、他の男で練習して、裏切る癖つけとかなきゃ。ホテルに入って自分だけ出てくるなんて高度な裏切りなわけだけど、それを繰り返していくうちに麻痺していくのよ」

「…………」

「バーでの接触、順当に行ってホテル」

 嵯峨は頭の中で想像をした。

「そんな順当には行かないでしょうけど……」

「ところで、牧田さんのことはどうする?」

 話題の限界を感じて、別の話題を出した。

「そんな変な感じしないんだけどねえ、だから、三咲が敏感になってるだけだと思うけど。さすがに牧田も何もしないわよ」

「……、午後からは練習に行かせる」

「空いた宿舎で2人きりでベッド。仮に牧田に魔がさしても、それから逃げれば充分意味はあるわ」

「………」

 生島は笑うが、本来練習とはそういうものではないと強く感じている嵯峨はどうも乗り気にはなれない。





 午後からは説得して空いた宿舎に送り届けた。

 練習時間は1時から9時。

 その間2人きりで練習に励む間、俺は樫原がよく現れるバーの下見や、アジトにするアパートを探して回った。アパートは隣同士で2部屋借りる。そのうちの1つで実際に生活し、もう一つは借りの三咲の部屋として持っておく。広い部屋にすると色々不便なため、LDKが適している。

 1軒は自分で契約し、もう1軒は後で三咲本人に契約してもらう。

 辺りを観察し、生活用品も整えようかと腕時計を見た時、既に時刻が午後8時半になっており、今日はそのまま切り上げて帰ることにする。

 生島は夜に街に繰り出す練習は基本は三咲と2人でして、後から録音テープを渡すように言われているが、しかし今日はできないだろうなと思いながら、宿舎の前に車を停めた。だが既に灯りが消えている。

 不審に思って三咲の携帯を鳴らしたが、出ない。

 仕方なく牧田に電話をかける。

「時間が余ったので、バーで少し飲もうかと。練習にもなりますし、少し2人で話しも必要ですので」

と言って来た。

 どうも腑に落ちなかったので、俺も混ぜてくれと言うと断られ、三咲に話をと言ってもトイレに立っているという。

 それで電話を切られてしまったので、GPSで調べることにする。

「………」

 ところが既に、2人の電源は切られて所在が分からなくなっていた。

 慌てて生島に、電話をかける。さすがに生島も不審がった。だが、探すアテもなく、最後には2人で飲むという電話もかけている。三咲のスマホの電源が入っていないのはただの充電切れかもしれないし、空いた宿舎も見たが、特に変わった様子はない。

 2人共大人だし、牧田は優良警察官の1人だ。

 当てもなく探しに行く事も考えたが、とりあえずは宿舎で待機することにする。

 三咲がいない宿舎は初めてのことで、食事も作る気にならず適当に間に合わせで食べる。

 昨日、三咲が嫌がっていたこともあり、何もなければ良いが、と思いながら、疲れもあり、そのまま寝てしまう。

 翌朝は、スマホの目覚まし音で目が覚めた。

 着信がない事を確認し、真っ先に玄関へ向かう。靴はない。一応三咲の部屋も、家中見回ったが帰った形跡はない。

 出かけられる準備を済ませてから、生島に連絡を入れる。向こうも同様、帰って来なかったらしい。

 8時からの練習なのに、既に時刻は7時前。まだ両名のスマホの電源は入っておらず、捜索のしようもない…。

 とりあえず、会議室で落ち合おうと電話を切り、車に乗り込んだところで、着信音が鳴った。

 三咲だ!

「………」

 とりあえず聞こうと、「どこにいる!?」の大声を出すのはやめた。

『………』

 相手は喋らない。

「三咲か?」

『………う、動かないんです……』

 嫌な予感しかしない。

「牧田さんか。牧田さんが動かないのか」

『はい……』

 通話はそのままに、GPSを確認する。位置はつかめた。遠くはない、近くのラブホテルだ。

「場所は分かる。そのまま繋いでいろ」

 生島に位置情報をメールで送り、様子がおかしいので先に見に行くから待機していてくれ、とだけ伝える。

「……三咲?」

『あ、すみません……服を着てて……』

「………」 

 裸だったということか……。

「合意の上だったか?」

『………全然……覚えてなくて』

「牧田さんは息をしていないのか?」

『………目が開いたままです』

「………出血は?」

『布団をかぶっていて……分かりません』

「起きたらそうなってた?」

『足に重い物が乗っかってて、……それが……』

 死んだ牧田だったということか。

「そろそろ着く。そこから出られるか?」

『分かりません……』

「どこかにキーはないか? 部屋番号だけ見てくれ」

『キー……キーなんかあるのかな…』

「ないなら部屋の外に書かれている」

『……ドア……開きました。301って書いてます』

「鍵は開けとけ。今車から降りた。すぐに行く」

『………』

 とにかく走り、階段を登って番号を見つけ、カチャと静かにドアを開けると、ジャージ姿の三咲が思い切り抱き着いてくる。

 部屋は籠った、変な匂いがしている。

「………ちょっと思い出した……」

「まず、牧田さんを見て来る」 

 三咲を横にどけて部屋の奥へと進む。既に生きていないことは明白だが、一応シーツを剥いで確認をする。


 勃起したまま死後硬直を迎えている。薬物の瓶も近くに落ちいてる。自殺で決まりだとは思うが、状況証拠としては、三咲の他殺も疑われる。

「チッ……」

 信頼して預けたのに、仇で返され気分が悪い。

「わ…私、殺してないと思うんですけど……」

「自殺だろうが状況証拠が厳しいかもしれない」

 ……こういう時、公安というのは便利なものだと気付く。Q課に依頼すれば、厳正に対処してくれる上、犯人を上書きすることもなんでも可能だ。

「とりあえず、鏡さんに頼む。後は任せておこう」