退院を間近に控え、既に3週間以上三咲の姿を見ていない山本は、窓の外を眺めながら静かに息を吐いていた。
毎日のように顔を出していた三咲が何故来なくなったのかは鏡から聞いた。
「三咲が出入りしている男が薬の常習犯だったようで…。三咲を潜入捜査員として使うことになりました」と。
その前の一週間、体調でも悪いのかと心配していたが、どうも無駄な心配だったようだ。
「また悪いのに引っかかって」
と、笑いながらなんとか口から出たのは年の功だ。
それが、無理に出した笑顔だということに、油断していた鏡はおそらく気付いていない。
それからは、桐谷、嵯峨が一度ずつ見舞いに来てくれたが、その話はあえて避けた。
聞いても仕方ない事だし、アドバイスも必要ないし、直接関係もない。
さて、このまま3日経って退院してしまうのかと自分でも不安に思いながら溜息を吐く。
退院するのに仕事をしている息子が迎えに来るはずはないし、家族は誰もいない。
そろそろ墓の準備も自分でしておくべきかなと、50を過ぎたばかりだというのに、まだ人生の折り返し地点ともとれる年齢なのにと考えると、悲しさ以外の何も出てこない。
トントン。
ドアをノックする音が聞こえて振り返る。
看護婦の場合は、ノックしながらドアを開ける早さだが、まだドアが開いていない。こちらの返事を待っている。
だが、三咲ではない。
そうではない。
「はい」
ゆっくり返事をする。
「失礼します」
ほら、相原だ。
「………失礼します」
その後ろには……。
「おお、久しぶりだな!」
思わず声が出てしまい、慌てて、
「相原、調子はどうだ」
と誤魔化す。
「変わらずです」
愛想のない返事で持って相原は簡易椅子の後ろに立ち、三咲が前に立つ。
「……お疲れ、様です」
言いながら、ぎこちなく腰かける。
着いて来てもらった雰囲気だ。相原は、静かに見守っている。
「三咲警部も久しぶりだな。初の潜入捜査だったんだって?」
「………」
三咲は、曇った顔のまま、愛想笑いを浮かべ、シーツの上の左手の義手をただ見つめた。
「…俺も今週退院だ。リハビリには通わなきゃならんが、来週には仕事に復帰できる」
パッと顔を上げて、
「もうですか!?」
と目をぱちくり合わせて驚く。
「デスクワークな」
「……あぁ…」
突如落ち込んだその顔を見て、こちらもそうせざるを得なくなる。
「生活安全課のデスクワークだ。久しぶりにゆっくりできるよ」
「………」
三咲は何か言おうと口を開いたが、すぐに閉じる。
「三咲警部は潜入専属班に異動になりました」
思わぬ相原の言葉に、
「この前のが評価されたのか!?」
初捜査でしかもそれを評価されて異動とは大したもんだと、我が息子のように嬉しくなる。
だが、三咲の顔は曇ったままで「まあ…」と言ったきり。
「今度の捜査は大きいので3係りがそのままバックに着くことになりました。三咲警部が潜入し、嵯峨さんが直接的なフォロー、私と桐谷さんがバックアップします」
「なあるほど、そりゃ安心だ」
三咲に向かって言ったが、またも相原が答える。
「はい……。今回の相手は大物でしかも、既存員の女性は顔が割れている可能性があるらしいので、三咲警部が抜擢されたんです」
だがそれでも山本は、三咲に向かって言葉を向けた。
「大丈夫。嵯峨は安心できる」
「はい、分かります………」
直接的なフォローということは、おそらく三咲のボディガードに嵯峨がなるということだ。2人は同じアパートに住み、捜査を続ける。そういう関係になるもならぬもお互いの勝手だ。
「でも……不安です……」
だが、当の三咲はそれどころではなさそうだった。潜入というのは死と隣り合わせの危険も伴い、度胸と自信で成り立っているようなものだ。そういう意味では、生真面目で普通の三咲は、やはり向いていないように思う。
「不安な時はいつでも連絡してください」
相原は優しい声をかけるが、顔は完全に強張っている。
もちろん、潜入捜査というのは生易しいものではない。
おそらくふた月、その為だけの訓練があり、その後実践に移るだろう。
「……相手は?」
誰も言いださないので、痺れを切らして聞くと、三咲がすぐに答えた。
「樫原……という男です」
「樫原慎哉か……」
二代目フィクサー、樫原 慎哉(かしはら しんや) 36歳。これまた、どえらい大物だ。多数のクラブ、ホテルを経営し、表向きは実業家として成功しているが、その裏では数億単位の違法薬物が動いていると言われている。政治家にも顔が効き、一代目の実父も生存していることから、ずいぶん顔が広く扱いづらいと聞く。
その裏の顔を暴くための潜入捜査……。
いくら前の薬物がうまくいったからって、今回は桁が違う。そりゃ、三咲が不安になるのも仕方ない。
「……嵯峨は?」
今度は相原に聞いた。
「ピリピリしてます」
こりゃ、1つ屋根がどうこう言っている場合ではない。
「……おい……おーい」
「あ、はい!!」
三咲は飛び跳ねて答える。
「寝てない顔だ。お前さんが患者として来ない事だけを、俺は祈ってるよ」
毎日のように顔を出していた三咲が何故来なくなったのかは鏡から聞いた。
「三咲が出入りしている男が薬の常習犯だったようで…。三咲を潜入捜査員として使うことになりました」と。
その前の一週間、体調でも悪いのかと心配していたが、どうも無駄な心配だったようだ。
「また悪いのに引っかかって」
と、笑いながらなんとか口から出たのは年の功だ。
それが、無理に出した笑顔だということに、油断していた鏡はおそらく気付いていない。
それからは、桐谷、嵯峨が一度ずつ見舞いに来てくれたが、その話はあえて避けた。
聞いても仕方ない事だし、アドバイスも必要ないし、直接関係もない。
さて、このまま3日経って退院してしまうのかと自分でも不安に思いながら溜息を吐く。
退院するのに仕事をしている息子が迎えに来るはずはないし、家族は誰もいない。
そろそろ墓の準備も自分でしておくべきかなと、50を過ぎたばかりだというのに、まだ人生の折り返し地点ともとれる年齢なのにと考えると、悲しさ以外の何も出てこない。
トントン。
ドアをノックする音が聞こえて振り返る。
看護婦の場合は、ノックしながらドアを開ける早さだが、まだドアが開いていない。こちらの返事を待っている。
だが、三咲ではない。
そうではない。
「はい」
ゆっくり返事をする。
「失礼します」
ほら、相原だ。
「………失礼します」
その後ろには……。
「おお、久しぶりだな!」
思わず声が出てしまい、慌てて、
「相原、調子はどうだ」
と誤魔化す。
「変わらずです」
愛想のない返事で持って相原は簡易椅子の後ろに立ち、三咲が前に立つ。
「……お疲れ、様です」
言いながら、ぎこちなく腰かける。
着いて来てもらった雰囲気だ。相原は、静かに見守っている。
「三咲警部も久しぶりだな。初の潜入捜査だったんだって?」
「………」
三咲は、曇った顔のまま、愛想笑いを浮かべ、シーツの上の左手の義手をただ見つめた。
「…俺も今週退院だ。リハビリには通わなきゃならんが、来週には仕事に復帰できる」
パッと顔を上げて、
「もうですか!?」
と目をぱちくり合わせて驚く。
「デスクワークな」
「……あぁ…」
突如落ち込んだその顔を見て、こちらもそうせざるを得なくなる。
「生活安全課のデスクワークだ。久しぶりにゆっくりできるよ」
「………」
三咲は何か言おうと口を開いたが、すぐに閉じる。
「三咲警部は潜入専属班に異動になりました」
思わぬ相原の言葉に、
「この前のが評価されたのか!?」
初捜査でしかもそれを評価されて異動とは大したもんだと、我が息子のように嬉しくなる。
だが、三咲の顔は曇ったままで「まあ…」と言ったきり。
「今度の捜査は大きいので3係りがそのままバックに着くことになりました。三咲警部が潜入し、嵯峨さんが直接的なフォロー、私と桐谷さんがバックアップします」
「なあるほど、そりゃ安心だ」
三咲に向かって言ったが、またも相原が答える。
「はい……。今回の相手は大物でしかも、既存員の女性は顔が割れている可能性があるらしいので、三咲警部が抜擢されたんです」
だがそれでも山本は、三咲に向かって言葉を向けた。
「大丈夫。嵯峨は安心できる」
「はい、分かります………」
直接的なフォローということは、おそらく三咲のボディガードに嵯峨がなるということだ。2人は同じアパートに住み、捜査を続ける。そういう関係になるもならぬもお互いの勝手だ。
「でも……不安です……」
だが、当の三咲はそれどころではなさそうだった。潜入というのは死と隣り合わせの危険も伴い、度胸と自信で成り立っているようなものだ。そういう意味では、生真面目で普通の三咲は、やはり向いていないように思う。
「不安な時はいつでも連絡してください」
相原は優しい声をかけるが、顔は完全に強張っている。
もちろん、潜入捜査というのは生易しいものではない。
おそらくふた月、その為だけの訓練があり、その後実践に移るだろう。
「……相手は?」
誰も言いださないので、痺れを切らして聞くと、三咲がすぐに答えた。
「樫原……という男です」
「樫原慎哉か……」
二代目フィクサー、樫原 慎哉(かしはら しんや) 36歳。これまた、どえらい大物だ。多数のクラブ、ホテルを経営し、表向きは実業家として成功しているが、その裏では数億単位の違法薬物が動いていると言われている。政治家にも顔が効き、一代目の実父も生存していることから、ずいぶん顔が広く扱いづらいと聞く。
その裏の顔を暴くための潜入捜査……。
いくら前の薬物がうまくいったからって、今回は桁が違う。そりゃ、三咲が不安になるのも仕方ない。
「……嵯峨は?」
今度は相原に聞いた。
「ピリピリしてます」
こりゃ、1つ屋根がどうこう言っている場合ではない。
「……おい……おーい」
「あ、はい!!」
三咲は飛び跳ねて答える。
「寝てない顔だ。お前さんが患者として来ない事だけを、俺は祈ってるよ」