翌朝、まだ早い時間帯に救助が来た。

 その実際は道を開けただけで、元来た車に乗って自力で帰ることになる。

 三咲は運転を申し出たが嵯峨にすんなり却下され、助手席に乗り込んだ。

 桐谷は直帰するらしく、その方面を通る応援の刑事課の車に乗せてもらっている。

 若干眠い。だが、きっと嵯峨も同じ気持ちなので、あえて話題を探した。

「桐谷さんの飽きるほど抱くっていうのは、どういう感覚なんですかねえ…」

「さあな」

 嵯峨は面倒くさそうに応えてくれる。

「……あの、今度食事に一緒に行きましょうか。その、2人でよければ」

「時間が合えばな」

 絶対合わせる気がないんだ。

 カチンときた三咲は、スマホですぐにシフトを確認し、

「明後日はお互い日勤だから、夜は時間合いますよ。用事ありますか?」

「………事件がなければ」

「じゃあ、どっか行きましょう! わー、久しぶりー!! そっかー、私、最近本当に署から出てなかったんだー……」

 そういえば、なんだかんだで、プライベートで署から……

「あそっか……。食堂でお茶でも飲みましょうか」

 そうだ、犯人がまだ捕まってない以上、また男性と出歩くと標的にならないとも限らない。

「……」

 嵯峨はサイドウィンドウを少し下げて、そこから煙を飛ばした。

「どこに行きたい」

 それでも連れて行ってくれようとしている……。それだけ自信があるということだろうか。

「えーっと……」

「路地裏にバーがある。そこなら人目を凌げる。だが一応他の連中も誘う」

「あ…行きたい!!」

 しかし、じっと嵯峨の横顔を見た。

 こちらが見ていることは絶対に気付いている。

 その上で無視して煙草を吸っている。

「………」

「行きたいんですが」

「ん? ああ……仕事が上がればな」

「………眠いんですか?」

「若干」

 言いながら、煙草をもみ消し、サイドウインドウをもう少し下げる。

「運転替りますよ!」

「いや、それほどでもない」

「結構ぼーっとしてますけど」

「………」

 話をする気力がないようだ。

 しかし署まではまだ時間がある。

 何か話をして盛り上げた方がいい。

「………嵯峨さんの初体験ってどんなんでした?」

「……それは今する話か?」

 声が尖る。若干眠気は覚めただろう。

「いやだって、眠そうだからなんか刺激的な話題がいいかと思って」

 2人とも貫徹だが、特に規則正しい生活をしている三咲の頭はあまり回っていない。

「山本さんのは聞いたんだけどなあ。すっごい刺激的でしたよー。女教師じゃなかったのが残念だけどなって言ってました。女教師じゃなきゃいけない意味が分かりませんが」

「……、よく聞けたな、そんな話」

 新しい煙草を口に含んだせいで、声がくぐもる。

「いやまあ……。それは、電話で聞いたんですよ。確かに、直接なら聞けてなかったかも」

「電話」

 何が引っかかったのか、嵯峨は珍しく言葉を繰り返してから、煙を吐いた。

 いいところで、腕時計の電話が鳴る。三咲は鏡からの電話をブルートゥースイヤホンに切り替えてから出た。

「はい」

『悪いが、明日は警備課の応援に行ってほしい。要人の警護だ。要人といっても、モデルらしいが』

「モデル?」

『世界的にも有名なモデル、ブライアン、というらしい』

「さあ……私もそういうのにはうといので」

『明日はそのまま警備課に出勤すればいい。頼むぞ』

「はい……」

 今日が済んでも明日がある。Q課は本当に何でも屋だ。

「何て?」と嵯峨が聞きたい気がして、あえて先に

「明日は私、警備課の応援らしいです。ブライアンって世界的に有名なモデルの人が対象らしいですけど」

「………」

 何も言わない。聞くまでもなかったようだ。



 数日前、嵯峨、相原、桐谷の4人でバーを訪れた三咲は、ほのぐらい人気の少ないバーに大いに刺激を受けた。特に、このタイミングで行くにはもってこいの場所である。

 3人は少々酒を飲んだところで何も変わらなかったが、久しぶりに大勢で酒を囲んだ三咲は、記憶がなくなるほどに飲んで翌日みんなに叱られた。

 唯一叱らなかった嵯峨は随分止めたらしいが、その記憶はない。

 今度は事件がちゃんと解決してからにしようと桐谷に言われると、それを待てないと強く感じる自分がいた。

 もしかしたら事件は永遠に解決せず迷宮入りになるかもしれない。そうしたら、ずっと行けないことになる。

 でも、あの場所なら、署を出てすぐの地下階段でさっと移動し、階段を出た先の路地のすぐそこだから、人目につかずに行くことができる。

 ひと月以上外に出ていなかった三咲は、一度出るなり積を切ったように出たい気持ちが強くなり、ある日の仕事帰り、そっと外に出た。

 玄関ロビーを腕時計がすり抜けてももう、追跡されることはない。

 尾行には充分注意して、なるべく人ごみに紛れて移動する。

 と、ものの5分で到着した。

 店は開いており、客は1人もいない。

 最高のタイミングに思い切り笑顔で、一番奥の端に腰かける。

「いらっしゃいませ」

 感極まる瞬間だ。すぐにカクテルを注文し、一杯目がテーブルに置かれた瞬間。

 ドアが開き、そっと横目で姿を確かめた。

「あ」

 口から無意識に言葉が出たせいで、慌てて手で口を押える。

「お忍びで来たのに、バレちゃったかな」

 まるで、隠す気のないブライアンは先日警備した際にファンの前で姿を現したモノトーンでロックな衣装そのままの、革ジャンに革パンツという恰好で真横に腰かけ、「バーボン」と上手な日本語で簡単に注文する。

 白い肌に、長めの金髪、青い瞳。つい先日の警備の仕事の時にちら、と見ただけで、その時もスマホで検索した画像そのままだと思ったが、今日も全く同じだった。

 こちらの事など知るはずもないのに、そのガラス玉のような瞳でじっと見つめられて息苦しくなる。

「どこかで見たことあるような」

 まさか! 警備の時は喋ることはおろか、ほとんど近づいていない。あの一瞬で顔など覚えられるはずがない。

「いえ…人違いだと思います」

 さらっと髪の毛を顔に寄せて、他人を装うが、

「いーや……」

 その、長く細い指は断りもなく髪の毛にすっと触れてくる。全身が固まった。

「この前の、警備の」

「………あ……はい……」

 それ以上言葉が出ずに、俯いてしまう。

 視線の中には、テーブルに軽く置いた白い右手、そこにはめられている太いシルバーの指輪しか入らない。

「目……こっち」

 ブライアンが手で髪の毛が流れるのを押さえているままなので、余計に顔が丸見えで恥ずかしい。

「……ハニー、目見せて」

 思わず笑ってしまう。

「僕はここだよ」

 下から覗き込んで無理矢理視界に入ってくる。

「僕を待ってたんじゃないの?」

 いきなり唇が触れるかどうかという距離まで詰め寄ってきたせいで、

「わっ!」

 慌てふためいて頭を後ろに動かせようと、後ずさりする。

 すると、ブライアンはすっと引いて、こちらを見たままで、右手を宙に出した。

 何の合図かと思いきや、マスターはそこにきちんとバーボンを手渡す。

 ブライアンは、手にしたバーボンを一目も見ずに、こちらをじっと見つめてごくりと飲む。

 その、視線に飲みこまれそうだが、できるかぎり平静を装って視線を逸らす。

「君が警備課なんて、人の警備をする余裕なんてないだろうに」

「……」

 どういう日本語か分からなかったので、「え」と問い直す。

「君の美しさは人目を引いた。あんなに大勢の人がいる中で、僕は君から視線が離せなかったよ。だから今日も一目見て気が付いた」

「………」

 苦笑するように、ブライアンはようやく自ら視線を外した。

「……今日は、その…私もここに来たのは偶然で……」

「僕も、お忍び、というやつ」

 ブライアンは小声で言いながらも、可笑しそうに肩を揺する。

 その、無邪気な姿を見た瞬間、先日警備されていた張りつめた空気とは全く違う、自分だけが知り得るブライアンに出会ったような錯覚に陥る。三咲は一瞬にしてすっと警戒心を解いた。

「こっそり出て来たんですか? 警備の方は心配されてませんか?」

「大丈夫。5時間くらいは抜けるとは言ってきたからその間に部屋に入れば。空港から出る所だけが警察で、その後は民間に任せてるから平気だよ」

 そこまで詳しい話は知らなかったので、警備課とはそういうものなのかと、今更知る。

「ホテルは近くですか?」

「うんそこ」

 すぐそこにあるのは五つ星の高級ホテルだ。確かに、そこからここなら納得の距離である。

「…酒は強いの?」

「…どうでしょう」

 三咲は楽しくなって、答える。

「僕は弱いんだ。すぐに顔に出る」

 半分飲んではいたが、言うわりにはまだ顔は白いままだ。

「ああ、そういえばシャワーを浴びていない」

 言いながら、アトマイザーをポケットから取り出し、シュッと自らの耳の後ろに一吹きする。

「シャネルの新作なんだ。まだ未発表…どころか、発売しないかも」

 手慣れたように、三咲の髪の毛をよけるとさっと首元に勝手に吹き付けてくる。

「いい匂い…」

 アルコールが入っているのと、密閉した狭い店の匂いで、それが本当に良い匂いなのかどうか分からなかったが、シャネルの新作なんだ、良い匂いに違いない。

「君は特別だよ……。この香水をかけられる人は、世界でも限られているんだ」 

 あれだけ世界中に注目された人が、なんでもない自分を最大限に認めようとしてくれている。

 その、奇跡的な優越感に浸った三咲は、目の前のブライアンが、あの空港で大騒ぎされていたブライアンが我が者になった実感を得ていた。

「ここのバーボンも確かに良い。だけど、ホテルのラウンジにあるワインも君に是非飲ませてあげたい。僕が日本へ来るにあたって用意してくれたビンテージワインだ。一緒においで」

 ビンテージワインというものが、どんな味なのか。しかも、ワインすらまともに飲んだ事のない三咲にとって、そんなものはどうでも良かったが、ブライアンが手を引いてくれるのなら、世界が注目するブライアンが私と一緒に高級ホテルのラウンジ飲みたいというのなら、行かないという手は思いつかなかった。

 会計はもちろんブライアンが持ち、簡単に店から出て、ホテルに向かう。ブライアンは外に出る時は変装しないと、とサングラスをかけ、ニット帽をかぶった。

 その上で、腕を組んでエスコートし、耳元で

「今日が寒くて良かった」

と、冗談めかして笑ってくれる。

 お互いに腕のぬくもりを感じながらホテルに入り、エレベーターの50階を押す。

 もちろんスイートルームだ。