「握手なんて、さよならみたいで嫌だよ。もう二度と会えなくなる訳じゃないもん」

 梓は首を横に振り、代わりにハンカチを僕の手に置いた。
 
 二度と会えなくなる訳じゃない、その言葉が嬉しくて、張り詰めた気持ちが少しだけ和らぐ。

「ハンカチ、ありがとう。環はやっぱり優しいね」
 梓の方が優しいよ、と言いかけて僕は止めた。

 それに、梓にもう一つ頼まなければならないことがあった。

「コムギのこと、頼めないかな。梓にしか頼めない」

「もちろんだよ。毎日餌をあげに行く」
「違う。その……出来れば、引き取るとか、出来ないかな。僕はもう、明日から行けなくなりそうだし、コムギのためにもずっと傍に居てあげられる人が居た方が良いと思う」

 梓は考え込むように目線を上に上げて数秒沈黙すると、微笑んで、
「相談してみるけどたぶん、大丈夫だと思う。明日からの餌やりは私がやっておくね」
 と言った。僕はホッとして、胸を撫で下ろした。

「ありがとう」

 僕は再び梓の横に腰をかけ、うっすらと傾き始めた空を仰いだ。季節は夏になって、出会った頃に比べて日が沈むのが大分遅くなった。それでも、夕焼けが少しずつ西の空に迫っている。

「いつ日本を発つの?」
「今週の日曜日」
「……そっか。本当にすぐなんだね」

 もう梓は何も言わなかった。こんな風に二人で肩を並べて座るのも、もう数日後には出来なくなると思うと、何も言えなくかった。きっと梓も同じ気持ちだったんだと思う。

「今週の土曜、お父さんと挨拶に行ってもいい?」
「分かった。お父さんに言っておくね」

 本当に会話はそれきりになった。時折体に当たる生ぬるい風を感じながら、二人でしばらくじっと座っていた。

 その日、僕たちはぎりぎりまで一緒に居て、ただ静かに、二人の時間を噛み締めていた。