話は一旦区切れました。
そこから沈黙しても良かったのですが、あなたは頭が良いので、彼女の疑問だらけの話を流すことができません。

「さ迷っていた、というのは、どれくらいのことですか」

「え……」

「今は朝ですから、昨夜は宿をとっていないんですよね。海岸へ来たのは昨日の話で……それで、一晩歩いていた、と」

「そうなんですよね。恥ずかしい……本当に、何やってるんだか、ですよね……」

「別にそうは思いませんが、まあ、大変だったんですね」

嘘です。何をやってるんだか、そう顔に出ていましたよ。

彼女にもバレています。
あなたは女というものを神経の少ない生き物だと思っていますが、それは間違いです。あなたの前では神経の少ないふりをしなければ身が持たないから、彼女たちはそうするのですよ。
気付いていないのは、あなただけです。

彼女も同じく、神経を減らして、無愛想なあなたに合わせています。しかし、あなたが今まで付き合ってきた女性たちよりは、彼女は本当に神経の数が少ないのかもしれません。
あなたが何を言っても、顔を歪めませんから。

「あの……私は藍川(あいかわ)と申します。お名前を聞いてもいいですか?」

名前を聞いた彼女に嫌な気はしませんでした。
あなたもちょうど、名前を知らないままでは会話がしにくいと思っていたところでしたから、彼女もそれを感じてのことだと分かったのです。

「ああ、はい。碓氷(うすい)です」

「字は何て書くんですか?」

「“氷”を使う碓氷です。説明しにくいんですが……」

「あ、“碓氷峠”の碓氷ですか?」

あなたは久しく碓氷峠を思い出しました。

「ああ、それです。……よく知ってますね」

「行ったことがあります」

仕事で自分の漢字を説明するのに、今後は碓氷峠を使おう、あなたはそう思いつきましたが、もしかしたら彼女のようには伝わらないかも、とも思い直しました。