如月先輩と目が合い、緊張で思わず顔が強張る。
そんな私を見下ろし、先輩は薄く口元に微笑みを乗せた。
「家に帰れない理由が分かったと聞いたよ」
「…………」
私は無言で先輩のネクタイの辺りへ視線をずらす。
「虐待で傷つけられた痕があるとか?」
「……違います」
“虐待”なんて言って欲しくない。
「違う? それなら今すぐ服を脱いで証拠を見せてもらおうか」
眼鏡の奥の瞳を鈍く光らせ、如月先輩は私の肩に手を置いた。
「そ、そんなことできません」
「海里には見せることができても、彼氏の俺にはできない?」
「先輩には、色々してもらって有難いと思ってます。でも──」
そう言いかけたとき、急に後ろから腕を引かれた。
手元から私が消え、如月先輩は軽く目を見開く。
「俺が代わりに見たんで。今回は見逃してやってくれませんか」
私を先輩から逃がしてくれたのは海里だった。
「人には、見られたくない物があると思います」
「意外だな。海里が女をかばうとは」
如月先輩が低く呟き、海里へ視線を移す。
窓辺で珈琲を飲んでいた春馬君も意外そうに私たちの様子を眺めている。
「別にかばったつもりは。ただ、この場で傷を見せるのはどうかと思っただけで」
私の腕を放し、海里は続ける。
「それに、こいつが貴方の物だってことは、当然理解しています」
「……なるほど。じゃあ今度、二人きりになったときに見せてもらうことにするよ。詳しい話もそのときに」
それを聞き、私は唇を噛みしめる。
「どちらにしろ、優希奈、お前は俺のそばから離れられないんだからな。──今のところは」
唇の端を歪めた如月先輩は、海里に封筒を手渡し、教室から出て行った。
「ホントに意外、まさか海里君が龍臣から優希奈さんを守るなんて。やっぱり、二人ってそういうカンケイ?」
「……違うよ、春馬君」
如月先輩からは『海里とは結ばれる可能性はない』と言われているし。
海里も全然、私にそんな気持ちがあるように見えない。
私のことを庇ってくれたのも、ただの気まぐれ。
冷たい性格に見えて実は優しい所もある、というだけなのだと思う。
「二人の邪魔をするのもあれなんで、俺は先に帰るね」
「邪魔だなんて」
私が引き止めるのも聞かず、春馬君はコーヒーカップをトレイに戻し、笑顔で手を振り教室を出て行ってしまう。
あとに残ったのは、海里と私だけ。
沈黙が訪れ、気まずくなった私はコーヒーカップを片づけることにする。
「これ、洗ってくるね」
確か隣の部屋に流しがあったはず。
これで二人きりの気まずい状況から脱出できるはず、そう思ったのに。
「俺も手伝う」
私からトレイを奪った海里が、流しの方へ先に行ってしまった。
慌てて後を追いかける私。
給湯室のようなその場所は、二畳分くらいのスペースしかなくかなり狭い。
必然的に、さっきよりも彼との距離が縮まることになる。
「あの。私が洗うから」
3人分のカップを受け取り、スポンジで洗い始めると、海里が布巾を引き出しから取り出す。
水道水ですすぎ終えたカップを海里に手渡したそのとき。
落とさないようにするためか、海里の両手が私の手のひらごとカップを包み込む。
異様に長い時間……私の手の甲が彼の温かい手に包まれている。
「あ、あの……」
「──あ、悪い」
今気づいた、という素振りで海里が私の手を離し、カップを受け取った。
海里は天然、なのだろうか。
壁に掛けられた小さな鏡に映る自分の顔は、ひどく真っ赤に染まっていた。
「さっきは、ありがとう」
沈黙に耐えきれなくなり、私は黙々と食器を拭く海里に話しかける。
「別に。見られたくなかったんだろ。けど、ただ先伸ばしになっただけだったな」
先伸ばし──確かに、次に如月先輩と二人きりになったときには傷痕を見せることになるのだろう。
先輩は無理やりな言い方だったけど、たぶん興味本位ではなくて、傷を心配してくれてのことだと思う。
「それでも、助かったことに変わりはないよ。自分でもこんな傷、ないものと思って生活していきたいくらいだから」
同情されるために傷を負ったわけではない。
「俺も……悪かった」
「え?」
カップを戸棚にしまった海里は、私から視線を逸らし、歯切れ悪く謝罪の言葉を口にした。
「その……見られたくないもの、色々見てしまって」
色々……。
それって、傷痕のことだけでなく、私の下着姿を見たことだろうか。
たちまち私の頬が沸騰しそうなほどの熱を持つ。
気まずげに黙りこくる海里へ、私は思い切って心の内を吐き出してみる。
「や……あの、あれは……妹の裸を見たとでも思って、忘れてください!」
「……は? 妹?」
「見て得するような体だったら良かったのですが……、全然違ってごめんなさい! お見苦しいものをお見せしました、失礼しますっ」
なぜか最後は敬語でまくし立て、呆然とする海里の前から姿を消そうと一歩足を踏み出した。
……が、重い物が入った段ボールにつまずき、勢いよく体が投げ出される。
「きゃっ」
短い悲鳴を上げながら、私は咄嗟に目の前にあった何かにしがみついた。
そしてそのまま、ゆっくりと床へ倒れ込む──
「…………」
転んだわりにあまり痛みがなく、頬に触れる布からは何やら良い香りがする。
柑橘系の爽やかな香りだ。
深い青の布──それは海里のシャツだった。
つまずいたときに掴んだのは海里の体で、私は海里を巻き込む形で倒れ込んでいたらしい。
仰向けに倒れた海里の上に、ちょうど私が乗っかっている状態だ。
私の膝が制服越しとはいえ海里の太腿辺りに触れている。
「あんた…………いい加減にしろよ」
低く押し殺した声が下から聞こえてきて、思わず身震いする。
上半身を起こした海里は私を膝の上から退かし、睨みつけてきた。
よく見ると、長めに伸ばした髪の隙間から赤く染まった耳が覗いていた。
「あのさ、如月さんの彼女だって自覚あんの?
その、上目遣いで涙目ってやつ、やめろ」
「あ……。ごめん、なさい」
意味もわからず怒られ、私は目を伏せる。
「他の男に同じことしてたら、とっくに襲われてるぞ」
その言葉に青ざめて後退りする私。
「えっと……、それなら海里は、どうして私を襲わないの?」
私の言葉が意外だったのか、海里が鋭い目を丸くする。
「──は? そんなの我慢してるからに決まって──…じゃなくてー、」
早口で何かを言いかけた海里は、一旦頭を整理するためか口を閉ざした。
「……如月さんの大事にしてるモノに、手を出すわけがないからだろ」
床に手をつき立ち上がった海里は、座ったままの私に無意識なのか片手を差し出した。
その手をそっと取り、立ち上がる私。
滑らかな海里の手は、細長い指ながらも、がっしりとしていて温かかった。
「なあ。如月さんのことは、どう思ってる?」
「どう、って」
「正式に付き合うことになったんだろ。うまくやっていけそうか?」
正式に……?
私は何も聞いていない。
海里たちはそう聞かされているのか。
「あんまり本気になるなよ」
「え?」
「どうせ、あとで──いや、何でもない」
「な、何? 気になるよ」
言いかけて途中でやめるなんて。
「そのうち分かるから気にするな」
海里は私には構わず背を向ける。
「こいつと居ると……心臓に悪い」
何やらボソリと呟いたあと、フラフラと部屋を出て行ってしまった。
「どうしたんだろ。大丈夫かな海里」
転んだとき頭を打ったとか?
廊下へ出た海里の後を追いかけようと、小走りで部屋を飛び出したとき。
私の肩がまたもや何かにぶつかり、その反動で後ろへ軽くよろめいた。
左右をよく見ていなかったせいで、男子生徒に接触したよう。
「ごめんなさいっ」
反射的に謝り、その相手を見上げた瞬間、私はポカンと口を開けた。
──その人があまりにも綺麗過ぎて。
長めに伸ばした栗色の髪はアシンメトリー。
メイクをしているのかとすら思える、赤い艶やかな唇が印象的。
男子にしては大きめの瞳は長い睫毛で縁取られている。
背がもう少し低くてスカートを履いていれば、女の人と見間違ってしまいそう。
男子にここまで見惚れるなんて、ほとんど経験がないことだった。
藤色のネクタイを締めているから、私と同じ二年生だ。
クラスが違うとはいえ、今までその存在に気づかなかったのが不思議なくらい。
「こちらこそごめん、大丈夫だった?」
心配そうに覗き込む、優しげな琥珀色の瞳に、ドキッと心臓が高鳴る。
「……あ、大丈夫です」
「うわ、可愛い。人形みたい。確かに龍臣がそばに置いておきたがるのもわかるな」
私のことをじっと見下ろし、その人はキラキラと目を輝かせた。
そう言う貴方の方がずっと綺麗で儚い雰囲気なのに、恐縮してしまう。
「如月先輩を知ってるんですか?」
「有名人だからね」
目元に垂れた前髪をゆっくりと耳にかける、その仕草までもが優雅で洗練されている。
「それにしても。……本当に可愛い」
溜め息混じりにそうつぶやいたあと、突然ぎゅーっと抱きしめてきたので、私の体は氷でできた人形のようにカチコチに固まった。