Snow Doll ~離れていても君を~


海里がこんな風に感じていたなんて知らなかった。

言われてみれば、私は誰にでも良い顔をしている嫌な女だ。


「……最低だね、私。好きな人のこと、知らないうちに傷つけてた」


その言葉に、海里が小さく息を呑む。

私は一つ深呼吸をして、真っ直ぐに海里の瞳を見つめ返した。


「一番大切で、大好きな人、すぐそばにいるのに……。どうやったら信じてくれるの?」


誤解されたままは嫌だった。
勇気を出して紡いだ言葉に、心臓が壊れそうなほど騒ぎ出す。


緊張しすぎたせいか目尻には涙が現れ、溢れそうになってくる。

零れないように必死になって涙を抑えていると、海里の冷えた手が私の頬へ伸ばされた。


「女は自分の弱みになるから、必要ないって思ってたのにな」


瞼を伏せた海里は、掠れた声でつぶやく。


「……でも。もう、耐えられないんだ。あんたが他の男に笑いかけたり、触れられたりしているのを見るのは」


一歩、私のそばに寄った彼は、整った顔をそっと傾ける。


白い息が重なり、冷たく……柔らかなものが私の唇に触れた。


放心状態になり、しばらくその場から動けなくなった私は、海里に肩を抱かれ再び歩き出す。


会話がない代わりに、海里は手を繋いできた。

指のつけ根まで深く繋ぎ合わされ、恋人繋ぎの状態になっていてドキッとする。


私と海里の気持ちは同じだった、ということでいいのかな……。

まだ実感が湧かなくて、不思議な気分だ。


帰る間際、この雪景色を目に焼きつけておこうと、光輝く花畑のようなイルミネーションを振り返った。





マンションに着き、玄関でブーツを脱いだあと。

自室に入ろうとしていた海里へ声をかける。


「今日はありがとう。海里と一緒にいられて良かった」


振り返った海里はほんの少し目元を緩め、こちらへ近づいてきた。


「俺も、優希奈と一緒に過ごせて良かった」


静かに伸ばされた指先が、私の唇をなぞる。


さっきのキスを思い出してしまい、私は慌てて目を伏せた。


海里が私の肩に手を置き、壁に押しつけた。


唇に触れていた指先の冷たさが消えた代わりに、海里の柔らかな唇の感触が与えられ。

一度目のときよりも長く、唇が触れ合っていた。


「……やっぱり、駄目だな」


名残惜しく唇を離し、海里は低く囁く。


「もうこれ以上、耐える自信ない」


切なく瞳を揺らし、無理やり私から引き剥がすように視線をそらした。


「優希奈、今日は部屋の鍵を閉めてから寝ろよ?」


間違って俺が部屋に入らないように、と付け足された言葉の意味を理解し、頬が一瞬にして熱くなる。


「う、うん。わかった」

「……おやすみ」


いつもと違う甘い響きの含まれた声。


そばでもっと聞いていたいけれど、如月先輩との約束を守るためだから、と心に鍵をかける。


海里は自分の部屋の扉に手をかけ、体を滑り込ませる。


「……おやすみなさい」


扉が閉まり、私はそっと自分の唇に触れた。

彼からもらった温もりが消えないうちに。



高校は冬休みに入り、椿の姫と桜花の姫を賭けての戦いの日が来てしまった。

降り続く雪の中、如月先輩は十数人を引き連れ、蒼生高の旧校舎へと入る。

旧校舎は先生や一般の生徒の姿はなく、誰かが鍵をこっそり手に入れたのか自由に使える状態になっていた。

暖房が入っていないので肌寒い。


「優希奈。俺達の勝負、なるべく見るなよ」

隣に立った海里がいつもよりさらに冷たい表情で私を見下ろす。

「え……?」

「血とか凄いし、見せたくない。慶蔵と女子会でもしてろ」

「あら、海里。私のことも女子って思ってくれるの?」


悪戯っぽく微笑むケイに肯定はせず、海里は溜め息をついた。


「お前はどうせ戦わないんだろ。優希奈のこと、頼む」

「わかったわ」

「少しくらい、見てもいいでしょ?」


袖を引いた私へ、海里は首を左右に振る。


「優希奈には、人を殴ってる所とか見られたくない」

「……それなら、戦わなければいいのに」


思わず、私は本音を漏らしていた。

私は、海里やみんなに、戦って欲しくない。
傷つくのは見たくない。


「そうかもな」

海里はあっさりうなずく。


「けど、如月さんのためだから。いつかの借りは、返さないとな」

「借り?」

「ああ。1年のとき、俺は如月さんに助けられてる」

「海里君の兄貴──冬里君は。過去に蒼生高のトップの座についてたんだよ」

如月先輩のそばを離れてこちらへ来た春馬君が私へ補足説明をしてくれる。


「桜花ではなくて、蒼生高?」

「そう。冬里君とは別の桜花に入った海里君は、やっかみや冬里君への復讐のために、他校の生徒だけでなく自分の高校の人間にまで狙われる毎日で。そんなとき龍臣が助けてくれたんだ。海里君の強さをかって、桜花のチームに引き入れた」


遠い目をした海里は、春馬君の言葉を引き継ぎ、口を開いた。


「俺の居場所は如月さんが作ってくれたんだ。だから如月さんの望むことなら、仲間のために──何でもする。たとえ自分の大切な何かを失うことになったとしても」


自分の幸せより、如月先輩を優先するということ?

それって何だか悲しい。
例えば。私の存在よりも先輩との約束が大切だと言っているようなものだから。



旧校舎の端から階段を上り、一番上の階、4階へ着いたとき。

中央のロビーのような場所で待ち構える人影がいくつもあり、緊張が走る。


「ようやくご到着か」


口元は笑っているのに冷たい眼差しをした影島が桜花を出迎えるように前へ出た。
鋭い視線を放つ男達の一番奥にいたのは椿の姫で。
以前見たときと同じく、ただ立っているだけで、きらびやかなオーラを放っている。


その傍らに立つ、スラリとした姿勢の良い人を視界におさめたとき、私は息を呑んだ。


椿の姫にも負けないほどの、堂々とした優雅な空気を纏う人。


それは──私の兄だった。


「薫、兄さん」


海里達は知っていたのか何の動揺もなく彼らを見据えている。
知らなかったのは私だけ……。


蒼生のトップは影島のように“冷酷で、なおかつ残虐”だと噂で聞いていたはず。

しかも兄は影島と『仲間ではない』と、はっきり言ってたのに。


「蒼生高は、生徒会長イコール、蒼生のトップだから」

戸惑う私へ、春馬君が小声で教えてくれる。


私の姿に気づいたのか、兄は私の方へ向けて淡く微笑んだ。


一見、影島達とは違い、不良には見えない。
いつもと変わらない優しげな雰囲気だった。


「さて。早速始めようか」


影島が背筋も凍る不気味な視線を私へ投げたあと、この戦いのルールを告げ始めた。

「事前に伝えていたとおり、代表の者を一人ずつ選び、一階へ。東階段と西階段に各10人配置させ、代表の者はその10人と戦う。4階まで先に辿り着いた方が勝ち、となる」

「こちらは影島を出すけど、桜花は誰を出す?」


兄がゆったりとした口調で桜花のリーダーである如月先輩へ問いかける。


「海里。お前が行け」

「……はい」


如月先輩の命令に海里は静かにうなずいた。

海里が承諾したのを見て、椿の姫がゆっくりと口角を上げた。上機嫌に目を細める。


「やっと、佐々木冬里の弟の力が見れるのね」


一瞬、海里と目が合うけれど、緊迫した雰囲気がフロアに漂っていて声はかけられなかった。


春馬君や理希達は東階段へ向かい、海里は西階段を下りていく。

それぞれが配置につき、このフロアには私とケイ、如月先輩、椿の姫と兄が残された。


「薫兄さん。どうして? あの人とは仲間じゃないって言ってたのに、嘘だったの? まさか兄さんが、あの人と仲間だったなんて……」

軽く失望し詰め寄ると、寂しげな目をした兄は小さく息をついた。
「仲間ではないよ。影島のチームとは敵対している。今はただ、一時的に休戦しているだけなんだ」

「休戦……?」


聞き返したそのとき、窓の外の雪が降り止んだのを合図にしたかのように、勝負が始まった。

この古びた旧校舎は1階から全て吹き抜けになっていて、男達の声や激しく争う音がこの4階まで届く。

時折、階下からうめき声までもが聞こえてきて、桜花と蒼生、どちらのものなのか心配で耳をふさぎたくなった。


「ケイ……。みんな、大丈夫かな」

震える声が廊下へ密かに響く。

「大丈夫。あの子達はケンカ慣れしてるから。ちょっとくらいの怪我なら何ともないよ」

吹き抜けの下へ視線を落としたケイは、優しく私の前髪を撫でた。


「二人はずいぶんと仲が良いみたいだね」


うっすらと微笑み、兄がこちらへ一歩近づいた。

茶褐色の前髪の隙間から覗く目は全然笑っていなかったので、私は一歩後ずさる。


「蒼生の生徒会長さんは、姫に嫉妬ですか?」

如月先輩が面白そうに喉の奧で笑う。

「兄妹とはいえ、血は繋がっていないとか……」

「それがどうかした? 優希奈は血が繋がっていなくても、俺の大切な妹ということに変わりはないよ」

「フン、どうだか」


鼻で嗤う如月先輩は、今日は眼鏡を外していた。

髪もワックスで整えられ、いつもの真面目な雰囲気はない。


ケイも黒いロングコートの中は白シャツにグレーのパンツという男物の私服で、女っぽさは消している。

ノーメイクなのにも関わらず、線の細い綺麗な顔立ちは健在だった。


「血が繋がっていないのをいいことに、優希奈を自分のものにしようとしているという噂を聞いたが?」


どこか挑発するように如月先輩が訊ねる。

兄は否定せす、妖艶に微笑んだ。


「俺は優希奈が男の部屋に泊まっていると聞いたよ。兄としては心配で、迎えに行くことにしたんだ」

「……なるほどな。家出ぐらいでここまで過保護だと、優希奈が誰とも付き合ったことがないというのもうなずける」


小馬鹿にした様子で如月先輩は腕を組んでいた。

それに対し兄は、特に気を悪くした感じもなく微笑みを絶やさない。