「お風呂、どうする?先入る?」
部屋に着き、先程の失言から5分程経った時だった。開口一番にそう言う母さんに、私は先どうぞと返す。
「ああ、そう?ありがとう」
言うなり脱衣所に向かった母さん。
部屋には、シングルベッドが二つと、ソファ、テレビがあった。白で統一された家具は、どこか、寂しそうに見えた。
ふと窓に目をやると、外は真っ赤だった。何故気が付かなかったのかと自問自答したくなるくらいの色の濃さだった。吸い込まれるように、大きな窓の方へ向かう。ガラスにそっと手を添える。触れた瞬間に、ひやりとする。次第に、触れたところから熱が奪われていくかのように、座り込む。
「.........これから、どうしよう」
消え入るような声で言う。いや、言うというよりは、落ちたという方が正しいだろう。
そんな独り言も、白い部屋の中では虚しく消えていくだけ。
「......」
沈黙。
数秒だったのかもしれない。数分だったかもしれない。でも、ずっとそこにいた気がする。
やがて立ち上がり、私は部屋をぐるっと見回した。
目についたソファに粗々しく座る。
そして、考えることを止め、目を閉じた。そうしたら、忘れられるかもしれないと思ったから。今までのことも、全部。
-ガチャ
「あがったわよー」
後方から、扉の開く音と、母さんの声が聞こえてきた。私は、目を開き、返事をして脱衣所へ向かった。
それから10日後のことだった。あの喫茶店の男が、私たちを迎えに来たのは。
母さんに言われるがまま、私は白いワゴン車に乗った。助手席に母さん、後部座席に私。運転席には、例の男。2人は、何やら楽しそうな話をしていた。話に入りたいなど特段思わなかった。まして、ぶすくれた態度を取るわけでもなかった。
ただ、見ていた。内容自体私に理解できるものではなかったというのも、行動の根拠に成り得ると思う。
目的地に着いたのか、母さんは私の方を見て降りてと言った。言われたままに降りる。そして、そこには、
「か、ど...うみ?」
黒く、シックなイメージの家が堂々と立ってあった。白く縁取った、紺色の表札が際立つ。その表札に、縦書きで流れた字体として”門海”と書かれてあった。
「花琉(はる)、僕の家へようこそ」
男はあくまでも母さんの方だけを見、そう言った。
「さっさと起きなさい」
階下から聞こえた母の声。もうとっくに起きているというのに。
身支度を済ませ、鞄を持って階段を下りた。
あれから5年。私は17になり、公立の高校に通うようになった。
「早く食べちゃって」
椅子に座れば、たまごがのせられたパンを差し出され、急かされた。
5年が経った今、父に暴力を振るわれていた頃の気弱な母の姿は見られない。
むしろ、粗々しい。全てのことに対して雑になっていた。もっとも、整った顔立ちは所々に皺が入っていたとしても、年不相応だ。
「ふわぁ~。おはよー」
食べ始めたところで扉から出て来たのは、義妹だった。義父方の娘。私にとっては義理の妹になる。
「邪魔」
先程起きたと言わんげな義妹に容赦なく吐き捨てたのは、義兄だ。義妹の後ろから顔を出す。こちらも義父方で、義理の兄となった人だ。...とは言うものの、義兄の場合、私と同い年だった。私の方が遅生まれだということで”義兄”になっているだけである。
義妹は紗和(さわ)。義兄は倖也(ゆきや)。両親はこの2人に滅法甘い。だからといって2人を憎むなんていうことはしないけれど。
「本当、兄貴朝機嫌悪いよねぇ~」
紗和は中2で、ソフトボール部だった。
「急いでんだ。お前と違って」
そして倖也は高2でサッカー部。見るからに紗和に冷たいが、同情だか何なのか知り得ないけれども私への当たり方は優しい。
「朝から喧嘩しない」
2人の間に割って入ったのは義父だった。反応したのは紗和だけで、倖也の方は無視を貫いていた。
「...いってきます」
やがて通学の時間になり、小さい声でその場を後にした。別に何も言わなくても、誰も私のことは気にも留めないが。
重い扉に手をかける。ギィ、という音ともに、扉は開かれた。
歩幅。呼吸。角度。その全てが、どれも毎日同じにし、歩き出す。途中、スクールバッグの持ち手が垂れ下がっても、何かを変更することなく、肩にかける。
数メートル程歩き、背後から荒い息遣いと足音が近付いて来た。気が付かない振りをして、歩き進める。
やがて、
「冬!」
そんな声が聞こえた。私は足だけを止め、走って来た人物を待った。
「お前...歩くの速えんだよ...」
息を整えながら言葉を投げてきたのは____倖也だった。確認が遅かったのは、振り向くのに時間を要したからだ。
「......」
私は彼から視線を逸らし、また歩き始めた。
義理とはいえ兄と登校などしたくない。もっとも、倖也とは同じ学校なのだが。
「あ、待てよ!」
早足で私の隣を歩いてきた。
「一緒に行こうぜ」
___鬱陶しい。
心底思った。
「...なに」
気持ちの表れか、冷たい口調で放った言葉だった。
「冷てえ。そんなに警戒すんなよ」
と、大笑いした。間抜けになっていたであろう私の顔に、更に笑った。
「もう何でもいい」
小声でボソッと。でも、彼にはちゃんと聞こえたらしい。
その証拠に___
「おう」
朗らかに笑う。
「おー、冬。調子どうだ?」
「変わらずっすよ」
「そうかそうか。部活ちゃんと来いよ」
「はーい」
学校は、家より気楽だ。素でいられる時間が多いせいだろう。
「冬、おはよっ」
「はよー」
自分で言うのも何であるが、私は人気者の方だと思う。靴箱から教室までの道のりは、約10mある。その距離で毎朝他学年5人以上に挨拶をされる程。
「冬さん、おはようございます!」
「あ、矢川じゃん。おはよ」
後輩で一番仲の良い矢川尋(やがわじん)。問題児で、同級生はもちろんのこと、教師全員を呼び捨て。挙句の果てには本校一のプレイボーイである。そんな矢川ではあるが、入学早々、さん付けで懐かれている。
「今度ダチと入学パーティーするんすけど、ゲストとして冬さんも来ません?」
「はは、入学パーティーとか今冬だけど」
吹き出した私を前に、矢川もにっこりと微笑んだ。
「ほんとは春にする予定だったんすけど、忘れてて。で、冬さん来ます?」
一瞬考える素振りを見せ、折角だけど、と言葉を繋げた。
「お断りしとくよ。入学パーティーなんだから2年がいると変じゃん。ま、楽しんでね。誘ってくれてありがと」
そうとだけ言うと、私は教室の方に足を進めた。
と、そこで__
「...冬さんて、やっぱモテますよね」
矢川のこの言葉で、壁に頭をぶつけてしまった。
「いてえ...」
「うわ、大丈夫っすか?」
彼の本気で心配しているような顔には、原因はお前だよ、とはとても言えない。
「だ、大丈夫...大丈夫だから、変なこと言わないで」
立ち上がりながら、矢川に言い放つ。すると、
「いや、思ったこと言っただけすよ。現に俺冬さんのこと好きですし」
...。
......。
.........。
............。
...............。
「は?」
まずい、かなり間をあけてしまった。
「え」
「え、じゃなくて。ちょっと待って、ごめん。罰ゲーム?」
真に受けてしまったが、罰ゲームという場合もある。証拠に、彼には好きな人がいるのだ。以前から私は彼の恋愛相談に乗っていた。
「本気っすよ。俺、冬さんには嘘つきませんもん」
「え、じゃああの黒髪ロングの好きな人って......私?!」
矢川は頷くだけ頷き、プレイボーイらしい甘い笑顔を向けてきた。
「ええ...っと」
こういうときって、どうすんだっけ。
返答に困っていると、微笑んでいた矢川がその笑顔のまま、付け足す。
「返事、別に今じゃなくていいっすよ」
と、私の頭を撫でた。彼は私よりも背が高い。なので彼を見上げる形になっている。
「それじゃあ」
狼狽えていると、いつの間にか彼はその場を去って行った。
私は、途方もない呆気を自身の中に留めていた。