君と過ごした冬を、鮮明に憶えていた。






父さんは、母さんのことを嫌っていた。
毎日毎日、暴力を振るっていたから。

幼い時は、そう、考えていた。

でも、違った。




「要らねえんだよ、こんなの!」
 -ガッシャーン
「ご、ごめんなさい。今すぐ片付けます...」
 汚い部屋。
 酒の匂いで充満した冷蔵庫。
 私は、そんな檻の中で育った。
「おい!酒も切れてんじゃねえか。ふざけんなよ!!」
 ゴツゴツした腕を力任せに振るい、重そうなそれを母さんに投げ付けた。
 -ゴッ
 鈍い音を立てて、母さんの後頭部に当たった。
「い...っ!」
 割れた皿を拾っていた母さんは、後方に倒れ、頭を押さえていた。
 指の間からは、赤いものが垂れている。
 こんなのは、日常茶飯事。
 家ではよくあることだった。
「くそ......ん?」
 椅子に腰掛けたところで、父さんはあるものに目を留める。
「何見てんだクソガキ、あぁ?」
 私だ。父さんは私の視線を感じて、また不機嫌になった。
「...!」
 こちらにゆっくりと近付く父さんを見、母さんは焦った顔をした。
「あなた!お願いです!どうか、冬にだけは、手を出さないで下さ...」
 言いかけて、母さんは後悔したんだと思う。
父さんが、思い切り睨んだから。
「俺に口答えする気か...?」
 ものすごい低い声で言い放つ。それが母さんに向けられる。
 そこで__
 -ピンポーン
 チャイムが鳴った。
 父さんはその音を聞くと、母さんには目もくれず、玄関に向かっていく。さっきまで、あんなに怒っていたのに__呪いをかけられたように、ふらふらと。
「雪江...」
 ただ一つの、母さん以外の女の名前を、繰り返しながら。やがて父さんは、重い音を響かせながら、扉を開ける。
「秀介!」
 父さんの名前だ。誰が呼んだかなんて、秒でわかった。ベルを鳴らした、雪江という女だ。
 ちらっと見えた、女のハニーブロンドの髪。『派手』がぴったりの女性だったと思う。
 私は、何故そのような女が父さんを好むのか、わからなかった。父さんは、別に、不細工というわけではない。けれど、派手な女性に好まれるような系統の顔でもない。
「行こうか」
 扉の向こうで、聞こえた声。
 私たちに向けるものとは全く違っていて。
 でも、気のせいだろうか。
 寂しさが入り混じったように、聞こえたのは。
「う...うぅっ......」
 静寂の字が相応しいであろうこの空間は、どんな時よりも安心出来る。だが、毎度毎度、母さんの嗚咽により邪魔される。
「母さん、泣かないで」
 安心感を削がれて、苛立ってしまっていた私は、急かすように母さんを慰める。これも毎度のこと、『急かし』と『優しさ』を履き違える母さんは、
「...っう...いつも、ごめんなさい......冬は優しいわね...」
 ”冬”
 そう言われた時に、体全体が反応した。
「...」
 背中をさすってあげる。そうするとやっぱり、苦しい笑顔を作る。そこで私は、ある決心をした。
「母さん」
 その決心が母さんにも少し分かったのか、反応を見せ、首を傾げる。
「逃げよう」

 この一言から、始まっていたんだと思う。
「はぁ...はぁ...」
 真っ暗な夜道を走っていた。冷たい風が体を突き抜いても、そんなの気にしない。いや、気にできない。
 遠くへ、遠くへ。父さんの目の行き届かないところへ、早く。
 そこで、隣を走っていた母さんの姿が見えなくなった。
「わっ」
 つまづいたのだ。運良く、自らの手で受け止め、大きな傷は免れたが。
「母さん!大丈夫?」
 すぐさま駆け寄る。素早く立ち上がる母さんの手を見て、顔面蒼白。
「どうしよう...何も持って来てない...」
 そう、手を切っていたのだ。約7㎝の切り傷だった。
 こういう時のことは全く頭に無く、急いで家から出たので、救急箱は愚か、何も持って来ていなかったのだ。
 焦る私をよそに、母さんは意外と冷静だった。やがて、口を開き始める。
「...ごめんね。もう、帰ろう」
「...は...?」
 耳を疑った。母さんは、力無さげに続ける。
「今更よね。でも、まだ間に合うわ。父さんも、話せばわかってくれるはずよ」
 母さんは、暴力を振るわれている時でも、父さんのことを信じていた。『疲れているだけ。そのうち昔の父さんに戻ってくれる』と。故に、激情からの涙を流していた。
「ほら、冬。帰りましょう?」
 なかなか動かない私をなだめるように、背中に手を添えた。
__いやだ。
 あんな家に、汚い家に、あの男がいる家に、帰りたくない。
 そんな時。
「...どうされたんですか?」

 思い返すと、今までの生活の方が、これからの生活よりも、もっと、ずっと、楽だった。
 そんなことにも気付かずに、差し伸べられた手を疑いもせず取ろうとした私は、本当に愚かだったんだと思う。