「美代様、お祓いの時間でございます」
この名前の大変面白いところは、美しい代を織りなす神様であらせられるから、とつけられたところだ。
前の名前は神様の御名とするにはちょこっとばかし不向きだったらしい。まあわかる。〝春野〟だからな。
ちょっと抜けてる感は否めない。
でも私は、前の名前のほうがよっぽど気に入っている。
私のことを〝春野〟と呼ぶ人はいなくなってしまった。
お母さんもお父さんもおばあちゃんも、私のことを「美代様」と呼んでそれ以上踏み込んでこない。
先代のデブ教祖は、あれだけ贅沢三昧して脂肪を溜め込んでいたというのに、私に与えられるものはお清めの塩と水と、味のないおにぎりである。なんでだよ。どうせならお清めの塩で握れよ、と百回くらい思った。
小さいころから、食べていいものには制限があって、お陰で万年栄養失調気味だった。
お陰で身長なんかまったく伸びなかったし、デブ教祖の五分の一もない私は、がりがりの骸骨のようだった。
私が死なずに済んだのは、給食のお陰である。
しかしその給食ももうない。
「美代様、失礼いたします」
日曜、夜中の三時。
この時間から、私のお勤めは始める。
場所は私の家の庭だ。無駄に広い。
この朝行には、集まれる人間は集まらなくてはならない。
今日は新しい入信者がいる。あまりよく知らない顔だ。その後ろに、私と同い年くらいの男の子がいた。
親子だろうか。かわいそうに。その年で親が新興宗教に入信したなど、どう考えても彼の人生は茨の道となってしまった。同情する。
蝋燭の灯りしかないのでうっすらとしか見えないが、すらりと高い身長に、日本人離れした顔をしていた。ハーフかな。美しいな。
ぼんやりとそんなことを思っているうちに、準備が整ったらしい。
私を中心に縁を描くように信者たちが並ぶ。
いつも思うが、まあまあな人数が揃うので、それなりに壮観だ。
今は十一月。恐ろしく寒い。皆、暖かそうな防寒着を着ているが、私は薄い襦袢ひとつだ。死にたい。
私は玉砂利の上に直接正座しているのに、信者たちは何故か茣蓙を引いてその上に胡坐をかいている。殺したい。
「それでは、これより邪祓いの儀を執り行う」
私の父が、私の背後に立つ。
目の前に、新しく入った先程の美しい男の子がいた。彼も暖かそうなジャケットを着ている。街を歩いた時にポスターで見たくらいの知識しかないが、モデルのような人だった。周りに座る女性たちがきゃあきゃあと騒いでいる。
私的な恋愛は御法度ではなかっただろうか。まあ、楽しそうで何よりである。
父の言葉に、私は襦袢の上を脱いだ。
下にはなにもつけていない。下着をつけることは禁止されている。
ろくな膨らみもない乳を名前も知らない他人に曝け出す。いつも、この時間は死にたいと考えている。
私は首を垂れた。
一度も切ることを許されなかった髪は、正座すると地面についてしまう。
でも誰一人、それを気にする人はいない。
父が、警策を取り出す。
きょうさくだったかけいさくだったか。
お坊さんが、座禅なんかで眠気や気の緩みを叩き飛ばすときに使うあれである。
「依り代様に宿りし邪念よ、その身で昇華されたし」
厨二病丸出しの台詞を吐いて、父は私の剥き出しの右肩に力いっぱい警策を叩きつけた。
痛々しい音が響く。
新しい信者の人が、目を引ん剝いてドン引きしてる。
それとほぼ同時に、信者たちからオリジナルのお経らしきものが唱えられる。
私の中に蓄積されている邪念とやらを祓うための祝詞だそうだ。死ねばいいのに。
父がまた何か言う。
今度は左肩が痛い。
父が何か言う。
右肩が爆発しそうなほど痛い。
これが十八回繰り返されると、お勤めは終了する。
これは私の中に溜まった皆の欲望や穢れを祓い、今日も一日心穏やかで暮らせるように、との儀式である。
私の代から、こんなことをするようになった。
最初のころは痛みで熱を出してよく寝込んだ。死ぬほど痛かった。どうして死なないんだろうって思った。そっちのほうがよっぽど楽そうなのに、って。
〝神様〟の私が病院にかかることは御法度だ。何故なら現代医療にかかると穢れてしまうかららしい。
父はちょっと腰の調子が悪いだけですぐ病院に行くくせに。おばあちゃんなんて現代医療のお薬をこれでもかって飲んでいるのに。
「これにて、邪祓いの儀は終了する。お布施は依り代様に渡しなさい」
人々が集まってくる。
私の垂れた髪など誰も気にしない。土足で踏みにじっても、なんとも思わないのだ。
あーーーーーーーーーー。
死にたい。
私が本物の神様ならきっと“悪いもの”になっているな、とこの頃よく思う。
なまじ小学校中学校に通わせたせいで、最低限の常識を身につけてしまった。
小学校を上がるまでに身に付けた親から教えてもらった“常識”は、私の家と“あにさまあねさま”にだけ適用するものだと、九年間で自分を犠牲にして知った。
私の場合、祖父がまともな人だった。
それはもう、私の周りにいるような大人と比べたら、だいぶまともな人だったように思う。
酒飲みで酒乱だったが、酒が抜ければまともな人だった。
その酒癖のせいで祖母が追い詰められ、我が宗教にはまってしまったとしても。
祖母から宗教の男を紹介された母は、完全なる宗教人間として結婚した。
そして産まれたのが私である。
祖父は、私に施される、世間一般から大幅に外れる異常な教育を目の当たりにして恐れおののいたらしい。
孫を救わねばと言う使命感から、私を親元から誘拐し、半年間、手元で育てた。
その頃には祖母とは別居中だったので、私と祖父だけでの生活だ。
目まぐるしい日々だった。
初めて食べた中では焼き鳥が一番美味しかった。
誕生日には、生クリームとチョコレートのケーキを買ってくれて、蝋燭を灯してくれた。
宗門の誕生日はなにかをする日ではない。なんでもない日なのだ。データとして、今日が誕生日、というだけの日。
自然に産まれ落ちた人間が神様のように誕生をお祝いするなどおかしなこと、と教えられた。
蝋燭の火を消すときに願い事をして一回で消せ、と言われたとき、何故か、涙が出た。
祖父がそう言ってくれてるのに、私にはお願い事をする、という行為の意味がわからなかったからだ。
どうしたらいいかわからなくて、とりあえずおじいちゃんが長生きしますように、とお願いしておいた。
吹いた息で火を消す、というのは初めての行為だった。
うまくできるはずもなく、ほんの数本の蝋燭だったが、火は一回では消えなかった。
そのせいか、祖父は長生きはしなかった。
心労が原因だった。逝ってしまった祖父の葬式に出ることも叶わず、私は引き戻された実家で、長い長い「お清め」を受けることになった。
腹にいれた俗世のものを吐き出しなさいと、お腹を殴られたり下剤をのまされたりした。
全身を固いブラシで擦られた。俗世の空気に染まって体がどす黒く見えると祖母に言われた。真っ黒なのはお前の腹の中だ、と悪態を思い付く程度には、この頃の私は彼らの言う“俗世”にまみれていた。
祖父のしたことがよかったのか悪かったのか、私にはわからない。
この宗教に洗脳され、世間から白い目で見られながら生きていくのと、世間一般の常識を持って常に違和感を抱きながらこの宗門に籍を置き続けるの、どちらがよかっただろう。
既に“普通”を植え付けられた身として、この先このおかしな世界で生きていくのは骨が折れそうだな、と思う。
盛られた塩と水を前に、考える。
このご飯が普通だと思えるなら、常識なんてなくてよかったのかもしれない。
ケーキが食べたい。生クリームとチョコレートのやつ。
焼き鳥も食べたい。
祖父と二人で、縁側で食べた、たれのついたやつ。
じいちゃん、私は神様じゃないよね。
でも私の世界で、そう言ってくれる人はいなくなっちゃったよ。
肩が痛い。
じりじりと焼けるように痛い。
冬の儀式は、外で叩かれている間はまだましなのだ。体が冷えていて、痛覚も鈍くなっている。
最悪なのは、そのあとのお風呂と寝るとき。
身体が温まると、眠っていた痛覚がむくむくと目覚める。
最初のうちは痛くて泣いていた。まあ、今でも泣く。
逃げたいと思ったことなんかもう腐るほど。
腐るほど思っても叶わないのだから、彼らが信仰する〝神様〟は役立たずである。
今日は休日だ。
まあ、本当にお休みを貰えるわけではないのだが。
親がいない。
単純にそれだけである。
地方にある支部のほうで、信仰者を増やす活動に出るらしい。それも一週間。
私にとってのこの世の春である。
実の両親とはもう、家族関係はない。
勿論、この宗教上の関係では、だ。
私はもう、〝神様〟なので、親は存在しないものとされている。
そして、私のお世話をできるのも、言葉を交わせるのも、両親と祖母のみとなっている。
だから、彼らが支部に駆り出された今は、ある意味自由だ。
そんな重要なポストにいる彼らがどうして駆り出されたかといえば、〝神〟にもっとも近しい存在だからだそうだ。彼らが教えを説けば、信者が倍増するらしい。
我が宗教の信仰者は、おめでたい頭の持ち主ばかりである。
ご飯はいつも通り塩と無味のおにぎりと水。これは、時間になると部屋の前に置いてあることになっている。
誰か毒でも盛って殺してくれないだろうかと、詮無いことを考えて、そっと縁側に出た。
今は昼。
信者たちは、人々をこの地獄に勧誘する仕事をしている時間だ。
誰も入り込めないようにきつく言われている、私だけの庭がある。
この庭は、私に許された唯一の自由だ。とはいえ、私のためのものではない。
私が〝神様〟として失敗したとき、この場所で両親から折檻を受けるための場所だ。
だからこそ、誰もいないし、誰も来ない。
この庭は存在しないことになっている。
――そのはずだった。
鍵がついている筈の竹を編んで作られた扉から、すっと影が入り込んだ。
縁側に腰かけながら、死神かな、とぼんやりと思う。
さっさと連れて行ってくれたらいいのに。
「あ」
そう思ったら、その影が声を出した。
首を動かすのは痛いので、動かしたくなかった。だから動かさなかった。
縁側に座ったときのまま、ぼんやりと空を眺めていると、影がゆっくりとこちらに近づいてきた。
「死んでる?」
「残念なことに生きてる」
顔を覗き込まれたので、そう答えた。
あの人だ。この前の儀式のときに来ていた、美しい男の子。
陽の下で見ても、その美しさに遜色はない。むしろ、内から輝くような美しさがある。
髪は限りなく黒に近い茶色だが、目元がもう、日本人のものじゃない。ばっさばさの睫毛に、黒とは言えないグレーの瞳だった。曇り空みたいだ。美しいな。
通った鼻筋は細くて、口許は品がいい。
そんな人間が、何を間違ってこんなところに迷い込んだのか。
「……喋った」
彼は、私の声に衝撃を受けているようだ。
驚いた顔をすると、少し幼くなる。かわいいな。その美しさ可愛らしさ、羨ましい。
それはさておき、そりゃあ喋る。
覇気がないことは自覚しているし、滅多に話さないので、声は掠れているが。
「こんなところにいたら怒られるよ。お下がりよ」
正確には、この現場を見られて折檻されるのは私のほうだ。目撃した人間が、そく両親に告げ口するだろう。
考えただけで憂鬱になる。
さっさと消えてほしい。
「そういうわけにもいかなんだ。あんたのせいで、俺のオヤジが頭のいかれた宗教にのめりこんじまった」
そうなのか。そうだろうな。私は、信者を引き寄せるための餌だ。
「じゃあ、私を殺してくれたらいいのに」
あー。馬鹿な事を言ってしまった。
痛みのせいもあるだろう。やけくそだ。
最近ちょっとやばかったから、精神的に。
こんなことを言ってしまえば、あとあとどんな折檻が待っているか。
でもそんなこともどうでもいいってくらい、そろそろ壊れてきたなって、自覚はあった。
曇り空の彼は、さっきと同じように驚くかと思ったが、そうでもなかった。
何故か、そうだろうな、って顔をされてしまった。
ああ、あの〝儀式〟のせいかな。
そうかもね。この宗教に染まっていない人間に、あれは、頭がいかれた異教徒の遊戯にしか見えないだろう。
どんな思いで見られていたんだろうか。
自分と大して年の 変わらなそうな女が、神様だなんて崇められて、他人の前でおっぱい丸出しで両肩を棒で叩かれている姿なんて、そりゃ衝撃だっただろう。
考えたら、また死にたくなった。
この子、ほんとに殺してくれないかな、私のこと。
「日本語上手だね」
「日本生まれ日本育ちだから」
「そか」
どうでもいいことを訊いてしまった。
彼の外国人然とした容姿に反して、言葉はイントネーションも完璧で、違和感もない。
まあ、そんなことだろうとは思ったが訊いてみただけだ。もしかしたら一生懸命勉強したからかもしれないし。もしそうなら、失礼かなって思ったから。
つまり正直どうでもいい。さっさと出て行ってくれ。
「人間じゃん」
可笑しなこと言うなあ。
でも彼は、心底から、驚愕した声でそう言った。
「待って、正気の人間じゃん。自分のこと神様なんて思いこんでる頭いかれた女だと思ってたのに、……ふつーじゃん!」
そうか。頭いかれてると思われてたのは私のほうだったのか。
まあ、間違ってはいない。
「なんでそんな痩せてんの?飯食ってる?もしかして病気なの?」
驚いたかと思えば慌てて心配してくれるようになった。
まあ、自分の身体が標準と比べて小さくてガリガリなのは承知している。爪も、栄養が足りてなくて白く濁って割れている。
彼から見たら、私は異常だろう。
「見た目はあれかもだけど、元気はあるから大丈夫。それより、早く行きな」
まるで迷い込んだ猫にでも言うように、そう言ってしまった。
タイミングよく、誰かの声が聞こえた。人を探しているようだ。聞きなれない名前を呼んでいる。
その声に、曇り空の彼が反応したので、彼の名前だということが分かった。
声は遠くて、彼の名前がなんなのかはよくわからなかったけど。
それなのに彼は、すぐさま立ち去ろうとしなかった。
入ってきた入り口と、私とを何度も往復して、どうしたらいいか迷っているようだった。
「見つかると私が怒られるんだ。だから、早く行ってくれると有難い」
言ったら、びくっと肩を震わせた。
この前の儀式を思い出したのかもしれない。
そうなんだ、君の想像通り、私が受ける折檻は、あんな感じ。
彼は、私に小さな何かを投げて寄越して、慌てて庭を出て行った。
出て行った扉もきちんと閉めて行ったので、私はほっと息を吐く。
私の膝には、優しいミルク色の、飴玉が転がっていた。
曇り空の彼が置いていった飴玉をこっそり隠した。
そして時々取り出して、貴重な宝石でも鑑賞するするような気持ちで、眺めている。
見つかれば折檻である。
こんな飴玉ひとつで?
でも、自分が責を受けるだけならいいな、とも思う。
優しい彼には、どうか被害が及ばないで済めばいい。
あの人は、私が餓えていると思ってこれをくれたのだろう。
即席で安易な心遣いだが、そんな風に誰かに人間的な扱いをされたのは久しぶりだった。
その飴が、まるで暖かいストーブのようになって、私の心をあったかくする。
まだこんな気持ちが残っていたのかと驚いた。
飴玉ひとつで。
ちょろい神様である。
この飴玉で、だいぶ堕ちかけていた何かが少しだけ立てなおってしまった。
困ったな、早くおかしくなりたかったのに。
「美代様」
声を掛けられ、慌てずにその飴を隠した。
少しでも挙動が不審だと、徹底的に調べられてしまう。
不審だと言われ、私も折檻を受けることになる。
それだけは避けたい。肩の傷がまだ良くなっていないのに。
「大兄様には内緒で、お会いしていただきたい信者がおります」
なんと。
いつも食事を運んでくる女が珍しいことを言う。
私は彼女の名前も知らない。
中途半端な髪をいつも一つに結んでいる、あくまで普通で、地味な女だった。
無駄口も叩かず、黙々と父たちの言いなりになっているのを知っている。
「何故?」
「賄賂を貰いました」
馬鹿正直な女である。普通であるという認識は改めたほうがいいかもしれない。
それとも、我が宗教の教義に、〝嘘は魔物が吐くもの〟という項目があるからだろうか。
「わたくしがそこへ行って、何が起きる」
「何も起きません。美代様にご挨拶したいという新参の入信者がおります」
ちなみにこの語り口調はもうずっと前からだ。
私が〝先代の依り代〟になってからは、このように話すことを強いられた。
それにしても、女の話は面倒だ。
私がどう断ろうかと考えていると。
「彼らが〝同志を集う〟ようになってから、入信者が爆発的に増えております。それに伴い、お布施も高額に。とても美しい青年が多くの人の窓口になってくださっているようです」
女は無表情でそう答えた。
ここまで無表情なのもどうかと思うが、我が宗教では〝善人〟ぶりたがる人間ばかりいるので、こういうタイプは珍しい。
そして、〝美しい青年〟――あの人だ。〝同志を集う〟は、要するに布教活動のことだ。疑うことを知らないような人間を集めて、信者たちが講演する。
清潔感があり、巧みな話術ができる者、それらを訓練された者だけがつける役職のようなもので、これに多く貢献した者には給料も発生する。そうして世間を生きている人間も少なからずいるのだ。
あの美しい青年が舞台に立てば、それは人々の目を引き寄せるだろう。
人の目を引き寄せることができれば、あとは簡単だ。人は、〝その人のことを知りたい〟と思うだけで、自分の置かれた状況への判断が甘くなる。
美しい青年が講演するこの団体に入れば、彼と仲良くなれるのではないか。言葉を交わすことができるのではないか。あわよくば――と考えてしまう者は少なからずいる。
そういった人間の隙に付け入るのは、意外と簡単だ。
役割だけで言えば、美しい容姿をしたあの青年は適任だろう――。
「そのため、今回の賄賂も高額でございました故」
「……お前、それは誰にも言わないほうがいいわ」
「勿論でございます」
孤立している私なんかに取り繕っても無駄だと思っているのか、嘘は吐けないと思っているのか、もともとこういう性格なのか。
「もし私が彼らに会わないと言えば、お前のもらった賄賂はどうなるの?」
「そのまま納めてよいと言ってくださいました。我らが祖たる美代様をお呼び出しするために、それが叶わないからと一度渡したものを返せなどとは、そのような卑劣な真似はできないと」
賄賂を渡す時点で正義からは外れているような気はするが、人の価値観などそれぞれなのだろう。
だからこそ、こんなくだらない〝庭〟に入り込んできてしまう人間がいるのだ。
言い忘れていたが、〝庭〟――それが私達集合体の名前だ。
先代のころとは区別するために、〝美代の庭〟などと呼ばれているらしい。
俗世にまみれたネーミングだと思うが、拒否する人間もいれば、入ってくる人間は一定数いるのだという。
「わたくしが会わないと言えば、お前はどうする?」
「どうもしません」
「訊き方が悪かった。賄賂をどう使う?」
「……それは」
ここで初めて言い淀んだ。
私事に使おうというのか――我らが宗教のために使わないとは何事かと怒られるとでも思っているのだろうか。
そういったことを恐れるタイプにも見えないが。
「人々がお金をどう使うのか聞いてみたい。話せ」
神様ぶって訊いてみるが、これは私自身の興味だ。
私はお金を持つことは許されていないし、今まで買い物なんて一度もしたことがない。学校の購買部でノートや消しゴムを購入することは禁止されていたし、私を一時自由にしてくれた祖父も、子供にはお金を持たさない主義の人だった。
級友達がおそろいで買っていた、可愛らしい消しゴムを、羨ましく思っていたことを思い出す。
可愛らしい交換ノートも置いていた。私にとって小学校の購買部は、憧れと未知のものへ対する恐怖で成り立っていた。
「年老いた父と母に、温泉旅行をプレゼントしたく……」
何故か罰が悪そうにそう言われた。
――ああ。
「いいな。是非そうしなさい。きっとお前のご両親も喜んでくれる」
笑うことなんて数えることしかしなかったというのに、何故かこの時は、とても自然に笑えた気がする。
純粋に羨ましく、微笑ましかった。
「そのように想える家族がいるのはいいことだと、わたくしでもわかる。さて、お前のその素敵なプレゼントとやらに水を差すわけにはいかぬな」
そう言って立ち上がると、女は少し驚いたような顔をしていた。
「美代様は、話してみると全く印象が変わります」
「そうかい」
彼女がどんな印象を抱いているかは聞きたくなかった。
私が先を行くと、彼女は黙ってついてくる。
信者と面通しをするのは初めてのことではない。
基本、話をするのは私の世話係である大兄――私の父親になるが。
年末年始の挨拶などは、何日もかけて行う。その間の私の食事は清められた水と黒豆だけだ。
〝美代様〟に挨拶がしたいという信者がいる限り、その挨拶会は終わらない。
お腹が空いて眩暈がしても、誰かが助けてくれることはない。
そういうときに使われる大きな部屋がある。
部屋というには大きすぎて、もはやただの空間、といったほうがいいような気がするが。
良く磨かれた板張りの長方形の部屋だ。
この一番奥に祭壇があり、不透明な薄布が張ってある。
私はその祭壇で、私を〝神〟と信じる人間たちと会うのだ。気が狂いそうになる。
その場所まで歩く間、ぽつぽつと女と話をした。
女の名前は椿というそうだ。
〝椿〟と聞いて、ぱっとその花の姿は浮かばなかったが、いい名前だと思った。
彼女の独特な雰囲気にとても合っているように思えた。
親以外の人間と話すのは久しぶりすぎて、何を話していいかもわからなかったが、返ってそれが〝神様〟らしかったのか、椿に「美代様はなにもご存じではないのですね」と言われた。皮肉なのかどうかはわからない。
謁見の間に着くと、私は祭壇の横にある小さな扉から入った。
椿は、皆と同じような入り口に回り、そこから部屋へと入るようだ。
いつものように濃い白檀の香が焚かれている。
この香りは、嫌いではなかった。
「お越しくださいました」
祭壇の中央に私が座したのを狙いすましたように、椿がそう声を張り上げた。
あんな声が出るのか、と少し驚く。覇気からは縁遠く見えたのだが。
椿の声を合図に、薄布の上に掛けてある分厚いカーテンが払われる。
うっすらと白い布越し。私の目の前に、彼らはいた。
(近い)
今まで会ってきた信者たちが弁えていた距離ではない。
それよりもっと前に、彼らは座っていた。
一人は、あの美しい青年だ。
それから、彼の父親だろう人。
申し訳ないが、あまり似ていない。
中年太りの穏やかそうな人物だ。人の良さが滲み出ているが、純日本人である。
色黒で、畑を耕しているのが似合いそうな人物だった。
美しい青年とは、もしかしたら他人かもしれない。
私が声を発する必要はないので、ただ黙って彼らが話し出すのを待った。
しかし、待てど待てど、彼らはなにも話そうとしない。
もしや、私からの赦しを待っているのだろうか――。
ここには、勝手に進行して勝手に終わらせる父はいない。
しかし下手に声を発するわけにもいかず、私は椿に目配せした。
「美代様は全て受け入れてくださいます。どうぞ」
私の意図を違わず受け取った椿にそう言われ、中年の男ははっとしたようだった。
ちなみにこの薄布は、私のほうからはそれなりにあちらの姿が見えるが、あちらからはこちらの影ぐらいしか見えないようになっている。本当かどうかは知らないが、ガリガリに痩せている以外は平凡な私の見た目は、あまり〝神様〟には似つかわしくないので、その仕掛けも納得できるものだ。
「――これはこれは……」
中年の男が、声を上げた。
見た目に反していい声をしている。
「まさか、本当に美代様に面通しが叶うとは――」
そう言って、ひれ伏してしまった。
椿に賄賂までして渡しておいて白々しい。
「この度は我々の勝手な振舞い、どうかお許しください。我々はまだ新参者故、大兄様にお願いしても美代様に面通しさせていただけませんでした」
一度は父を通したのか。
まずったな。あの父が一度は断ったものを、こうして私の独断で許してしまった。
これはばれたら、酷い折檻が待っている――。
「実は、美代様に私の息子を知っていてほしかったのです」
そうして、自分の後ろに静かに座っていた美しい青年を、私に見えるように体を傾けた。
青年は、薄暗い中でも美しかった。
曇り空の瞳が、今は薄闇に浮かぶ朧月のようだった。
「我が息子は、母親に捨てられた過去がございます。しかし、美代様の教えに出会い、人々と積極的に関わるようになりました。私は、私の大切な息子を救ってくださった美代様にすべてを捧げる所存でございます」
父親はペラペラとそんなことを話したが、それは、どちらかという青年のほうに話す権利がありそうな内容だった。
しかも、彼は先程私の庭で、オヤジが宗教にのめりこんでしまった、と発言している。
まあ、この父親には思惑があるのだろうな、と取れる発言だった。
「息子は美代様を崇拝しております。美代様の教えを世の皆に説く責務につけたこと、心より喜んでいるのです」
私も振興宗教信者の二世なので、私たちのような人間がどうなるかはわかる。
社会に出て現実を知り、宗教から離れるもの。
社会での挫折に、再び宗教へと舞い戻ってくるもの。
社会に出たからこその知識を持って、宗教に原点回帰するもの。
美しい青年が、少なくともそれらに当てはまらないことはよくわかった。
そもそも二世ではない。彼はある程度普通に過ごしてきて、そして突如、親の入信によるこの未知の世界に巻き込まれたのだろう。
そんな人間が、突然降って沸いた“美代様”のために不況活動をするか?するわけがない。
「お二方が入信して一ヶ月ほどではありますが、入信者、体験者ともに右肩上がりで増えてきております」
ここで椿が口を挟む。
これも賄賂をもらう条件に入っていたのかもしれない。
「そうなのです。息子はこのように、精力的に活動しております。それもすべては美代様のためでございます。息子には、人を引き寄せる才があります。どうか、近い将来、息子を美代様のお側にーー」
ああ、そういうことか、と納得した。
実の息子を使って私となにかしらお近づきになりたいというわけなのだろう。
青年を見た。
先程のような、活気のある様子は見当たらない。
目が死んでいた。
ただ黙って、父親の言葉を聞いていた。
まるで、他人事のように。
私は、椿を見た。
すぐに気づいた椿は、こくりと頷く。
「それでは、もうお時間でございます。美代様は休まれますゆえ」
今からサボろうって言っているように聞こえるな。
「おおっ、これは大変なご迷惑を」
父親は慌てたように後ろに退いた。
それに合わせて、あの青年も立ち上がる。
行ってしまうな、と思った。
そして、もう会えないのだろうなとも思った。
私なんかのせいで、人生と父親を狂わされてしまった彼。
私なんかに、飴玉をくれた人。
「お前」
ばかだ。
この場に父親がいたら殺されていたかもしれない。
「名は?」
青年をまっすぐ見つめて問う。
彼は、あの瞳を向けて言った。
「律」
いい名だな。
やっぱりやめとけばよかったな。
パンッパンッと先程からうるさい。
感覚はとうとう麻痺したかと思ったが、なかなかどうして、現実はそううまくはいかないものである。
一瞬でも叩かれるタイミングがずれると、叩かれた箇所がカッを火を点けたかのように熱くなり、とてつもなく痛い。
例の折檻の庭で、私は袴ひとつで地べたに這いずっている。
その背中と肩を、容赦なく警策で叩いている父親は、もうかれこれ三十分はお経を唱えながらそれを続けていた。
それらを少し離れた場所から見ながら、母と祖母が父に合わせ読経していた。
私は今は、祓い清めの儀の最中だ。
理由は簡単である。
出張から帰った父と母に、私が無断に入信したばかりの信者と会ったことがばれたからだ。
ばれないわけはないと思ったが、憎いことに、ばらしたのが面通しを希望した当の本人だった。
私が、あの青年に名前を尋ねたことを、会う人会う人に吹聴して回っていたそうだ。
〝美代様が、息子に興味をもってくださった〟のだとかなんだとか。
案の定、父と母の耳に入り、私はこうして折檻されているわけである。
父もそろそろ腕が痛いだろうに、いつまで続けるつもりだろう。
たまに思い出したように、冷水を浴びせられる。熱いのか寒いのか、わからなくなって、ただ辛い、ということだけが頭にあった。
意識がぼんやりとしている。
耳元で、警策がしなる音がする。
死ねばいいのにな、と思う。
私も、この人も。
そこで見ている母と祖母も。
私が本当に神様なら、この醜い遺伝子丸ごともって地獄に落ちるのに。
「お前は神だ、美代。お前は我々の〝祖〟から清らかな魂を受け継いだ、尊い存在なのだ。その身を、我が庭に入ったばかりの人間に晒し、穢されるとはなんたることか――」
読経はもう終わりなのか。
父からの有難いお話が始まった。
その言葉の半分も、私の耳には入ってこない。
身体を起こしていられない。
寒い、熱い、痛い、死にたい――。
長い髪が邪魔だ。
どうして、こんなに辺りが暗いんだろう――。
ああ、夜だからだ。部屋には時計が置かれていないので、父と母が部屋へと押し入ってきたときが何時だったかしれないが、夕食の塩を水が運ばれたあとだった。
自分でも他愛無いことを考えていた。
さっさと気を失ってしまいたいと思うのに、人間というのはどうしてこうタフなんだろう。
こんなところで、忍耐を発揮してどうするんだろう。
私は私を守ってくれないのだろうか。気絶のひとつでもすれば、この痛い時間は終わるのに――。
「あの美しい青年に惹かれたなどとは言うまい。あの青年は、あの美しい容姿を利用して女たちに媚を売っているのだ。わが身を差し出して、金を手にしている。己の尊厳を貶めている、お前がこの世で最も触れてはならぬ存在だ」
良く言うよ。
その青年が手にした金を最終的に手にするのはお前だろうに。
言い返す気力も、そんな真似することも許されていない。
私は一体なんだろう。
昔勝手にイメージした〝神様〟とはあまりにもかけ離れていて、自分はとても無力だ。
「お前は、清らかなままでいなくては」
まるで呪いだ。
ああ、息がしづらい。
寒い、熱い、痛い、しんどい――。
どうしてだろう。
今日も死ねなかった。
「美代様、お水をお持ちしました」
朦朧とする意識で、椿の声を聞いた。
背中と肩が痛むので、俯せで寝ている私は顔を上げる気力もなく、返事もできない。
頭が痛い。体が重い。全身が、動くことを拒否している。
決められた時間以外は、水ですら与えられない決まりとなっている。
ばれたらお前が怒られるよ、椿。
かさかさの唇で、まともに出ない声でそう言ったつもりだったが、椿には聞こえていないようで、細長い筒を口に突っ込まれた。
「吸ってください」
言われるがままなんとか力を入れると、その筒から冷たい水が口の中に入ってきた。
口を閉じそびれて、いくらか枕に零れてしまったが、お陰で思い出した。この細長い筒の名前。ストローだ。
身体が熱いと、冷たい水が体の中を通っていくのがわかるのだな。こんなふうに意識したのは初めての気がする。
冷たい水が喉を舐めたことで、だいぶ楽になった。
朦朧とする意識で、傍に座る椿を見上げると。
「美代様が庇ってくださったお陰で、私はお咎めはありませんでした。賄賂のことも、黙っていてくださったのですね」
あの律の馬鹿親は、私にどうやって会ったかも言いふらしていたらしい。
私と彼らを引き合わせた椿にも追及がいくはずだったが、父と母が怒りに任せて一番に私のもとにきたことで、彼女を庇うことができた。
あの男から話を持ち掛けられているところを私がたまたま聞きつけ、断ろうとした椿を無視し、無理矢理会ったのだと。
美しい青年に興味があったのだと、あることないこと口にして弁解した。
実際、〝彼〟に興味があったのは本当だ。
とはいえ、穴だらけの嘘だ。
部屋から出ることを禁じられている私が、どうして椿と彼らの話を盗み聞きできるというのか。
そんな戯言を信用されるわけもなかったので、少々脅した。
もし椿に罰を与えるようなら、次の多くの信者との面通しのときに、皆の前で全て話すと。
私に暴力を振るっていること、神様ではないこと、椿を罰しようとしたこと。
まあ、こんなのこけ脅しもいいところだが、私のほぼ初めての反抗のようなものに驚いたのか、納得はいっていないようだが引いてくれた。
いつもよりお祓いを念入りにする、ということで彼らの中で決着がついたようだ。
所詮、暴力でしか抑え込めないような小さい人間なのだ。愚かな親でよかった。
「何故です。私なんかのために、どうして美代様が」
おや。泣きそうな顔をしている。
賄賂をもらったなどと飄々としていたが、彼女もだいぶ人間らしい。
「……お前が羨ましかった。大切にできる親がいるのはいいな」
神様の〝美代〟ではなく、〝春野〟としての正直な想いだった。
純粋に、そう思う。
まだ、今よりもう少し世界に混ざれていた頃。
授業参観にきた母親や父親に、嬉しそうに手を振っている同級生たちが羨ましかった。〝親〟とは、あんなふうに笑いかけてくれるものなのだと知った。
帰り道、手を繋いで歩いている親子が羨ましかった。
一緒にアイスを買って、一緒に楽しそうに食べている母と子が、とても眩しいものに見えた。
あれを食べては穢れてしまうよ、と見向きもしなかった母の言葉が、寂しかった。
(ああいいな。私も欲しいな)
どう願っても手に入らなかったものだ。
更には今は、親子の縁すら切られた。
普段は〝美代様〟と呼ぶくせに、折檻のときだけはまるで父親や母親のような顔をする彼らの顔が認識できなくなったのはいつからだろうか。
何故か彼らのいつ見ても真っ黒に塗りつぶされていて、どんな顔をしているかもわからない。
そうなってから、随分と経つが、私にとっての親という存在は、その程度のものだったのだろう。
たまたま〝娘〟が、彼らの使い勝手のいい道具だったのだろう。
それを自分たちの都合のために利用することに、罪悪感も抱かないような人間たちだ。
顔は、黒塗りでお似合いだな。
「……美代様、私は今日をもって、美代様のお世話係を下がらせていただきます」
そうか。折角言葉を交わせるようになったのに、それは寂しい。
するりとそんなことを考えている自分が可笑しかった。
人間らしさなど、随分と前になくしてしまったような気がしていたけれど。
「それ以外にお前への罰はあるか」
「ございません。私は庭を出ることになりました」
「そうか」
それを聞いて、私はほっとしていた。
「椿、お前が、我が庭から飛び立って、自由に羽ばたいてくれたらうれしい」
教祖として、これはおかしな言葉だろうか。
けれど、こんな庭で、椿が幸せになれるとも思えない。
そしてそれに反して、庭から出て幸せになれる確信だってないのだ。
私は、椿がどうしてこの庭にいるのかも知らないのだから。
「……大丈夫、不安がることはない。お前の行く先には、穏やかな日々が待っているからね」
今だけは神様ぶってもいいだろうか。
この言葉を、椿が胸に抱き、少しでも前向きに生きれてくれたら、うれしいような気もする。
〝神様〟を自分都合で利用しているのは、私も同じだな。
体調が悪いときはさすがに儀式は休まされた。
気遣われたわけではなく、〝美代様〟が人間のようだと思われると都合が悪いからだ。
神様が体調を崩していることに、疑問に思う信者もいるだろうから。
その休みが明けて久しぶりの儀式だった。
以前と同じように信者たちに囲まれ、頭が狂いそうな羞恥をやりすごして上半身を晒し、オリジナルお経の合唱を聞きながら警策で叩かれる。
傷は完治したわけではないから、叩かれればそれは痛い。
折檻の傷が残っているのを目の当たりにしているだろうに、私を崇拝しているはずの信者たちは顔色すら変えない。
どうせ父親が、〝美代様が皆の代わりに俗世の穢れを被ってくださった〟とでも伝えているのだろう。死ねばいいのに。
頭を垂れる前、あの青年と目が合った。
律――暗闇でも美しい瞳が、驚きに見開かれている。
ああ、この傷のことか。そうだな、お前の父親のせいだ。
考えはするが、言う術もなければ言おうとも思わない。
警策で肉が叩かれる音を聞きながら、私は目を閉じた。
次に目を開けたときには、みんな死んでいたらいいのに。そうだな、彼以外は――。
「……何しに来た」
なにも救わない無意味だなだけの儀式が終わり、そろそろ一時間が経つ。
多くの信者たちは家の祭壇で引き続き祈るために帰路につき、幹部や関係者はまだ残っている時分だ。
儀式のあとは、ほぼ誰も私には近づいてこない。そもそも、世話役と父母、祖母が接触できるだけであって、ほかの人間は私が生活している〝聖域〟にはまず足を踏み入れることはない。
そもそも私との接見は許可なくては固く禁じられているし、敬虔な信者であればあるほど神に不敬は働けないと領域を侵すことはない。
だというのに、今日は訪問者があった。
時刻は午後三時過ぎ。
既に床に入って休んでいた私の部屋の外――縁側で、彼はそっと私に呼び掛けたのだ。
「起きてる?」と。
起きてるわけないだろうが寝てるわと答えたが、起きてるじゃんと嬉しそうに笑って遠慮なく襖を開けて侵入してきた。世間一般のルールには詳しくないが、これは私が神様ではなくてもアウトではないだろうか。不法侵入である。
この時間にこの場所に悪びれる様子もなく侵入してくるとは、彼は私のことなど〝神様〟だなんて微塵も思っていないらしい。
まあ、そうだろう――律とやら。
「あんたに会いにきたんだ」
こなくていい。帰れ。私は疲れている。
私が横になっている布団の傍らで、律は胡坐を掻いて思いつく端からお喋りを始めた。
「親父が言いふらしてるから、きっとあんたを管理してるやつらにこの前のことが遅かれ早かればれるだろうなって思ってたんだ。案の定、叩かれた痕が、両肩だけじゃなくて背中側にもあった。邪払いの儀式以外でやられたんだろ。この前のが原因か?あんたに引き合わせてくれた女は?」
この飛びぬけて清らかそうな容姿から〝親父〟という単語が出てきた時の破壊力はなかなかだ。
椿のことまで気にしているのか。
それに、観察眼も申し分ないな。
何に対して申し分ないのかわからないが。
「椿のことは、私も少し気にかかっていた。特に処罰はなく、庭から出ていくと言っていた。私にここまでしでかす者達が、果たしてそれだけで椿を許すかわからん。お前、丁度いいから、彼女の動向を探ってくれないか?彼女には、大切なご両親がいるのだ。彼らにまで私の庭の者が迷惑を掛けていないかが気になる」
傷が痛いので俯せで寝ていたのだが、彼と話すために俯せのまま上半身だけ起こしていた。
が、彼が思ったよりも近くに座っているので、今はもう完全に体を起こして正座して話している。
この前も思ったが、距離が近いな。お前達親子は一体何なんだ。
それとも私が、人に近づかれることに慣れていないからだろうか。
「椿?苗字はわかんねーの」
「〝美代〟付きの椿だと言えば、すぐわかると思う」
律はわかった、と頷いた。
頼まれてくれるのか?
「……頼んでいおいてなんだが、そんなに安請け合いしていいのか?お前も怪しまれるのではないか?」
とはいえ、彼は新参者なので、目に余る行為も多少は大目に見てもらえるかもしれない。
この〝庭〟は、使える新参者には優しいのだ。
「これくらいなら訳ないかな。幹部の何人かとも連絡先交換してるし、その中に俺に興味ありまくりなオバチャンもいたから、ちょっと探り入れりゃどうにかなるだろ」
まだ入って数か月だろうに、もう幹部と関係があるのか。
もしかしたら、私なんかよりよほど〝庭〟の事情には精通しているかもしれない。
「それで、本題なんだけど」
まだあるのか。
「あんたはなんでこんなところでそんな姿で、〝神様〟なんてしてんの?逃げれば?しんどくない?」
それができれば私も苦労しないのだが。
「逃げはしない。というか、逃げれないし、逃げたとしても、外の世界で生きていけるとも思わない」
中学校を卒業してから、この小さな庭の中で囲われてからもう何年になるだろう。
誕生日は祝われることがなくなったし、日付や時間がわかるものは置かれていないので、今が西暦何年で、今が何月の何日なのかもわからないのだ。
中学卒業時、担任の教師は私の進路に口出しすることはなかった。
親からの手回しがあったのだろうと容易に想像がついて、他を考える余裕もなかった。
もしかしたら、あの時、前教祖が死ななければ、私は普通に進学して、新興宗教の二世代目として生きていたのかもしれない。
そうなった未来では、今より自由はあっただろうか――。
それすらもわからない人間が、今、社会に出てどう生きれるというのだろう。
律は困ったような顔をした。
そんな顔をすると、とても幼く見える。
さっき彼が言った、〝俺に興味がありまくりなオバチャン〟がいるのも納得してしまう。
「やっちゃえばどうとでもなるよ」
困った顔でそう言われたら、私も困ってしまう。
どうとでもならないから、私はこんなところでこんな腐ったことをしているのである。
「……俺さ、十歳の時に母親亡くしてからあの父親と暮らしてんだけど、あいつ、ちょっとどうしようもないクズっていうか、いや、昔はもっとましだったんだけど、母さんが亡くなってからちょっとおかしくなっちゃってさ、俺ネグレクトされてたんだよね。あ、ネグレクトってわかんないかな。育児放棄って意味なんだけど。でさ、俺こんな見た目だから、結構助けてくれる人多くてさ。そんな中でも俺みたいな子供に対して見返り求めてくる奴って一定数いて、俺まだ小学生だったんだけど、体売ってたの」
けろりと激白されてしまった。
私は、特殊な幼少時代と他人とは隔絶されている生活を送ってきたので、知識がだいぶ偏ったまま生きてきた。
祖父のところにいたころも、テレビや本、雑誌の類はすべて禁止されていたので、きっと知らないことがたくさんあるだろう。
だから、彼の境遇など想像もしたことがなかった。
「身体を売るとは……」
それは肉体労働的なあれだろうか。
「女と寝るんだよー。寝てね、お金貰うの。あと寒くなくて汚くなくて、綺麗な寝床も貸してもらえるから、結構よかったよ。お風呂にも入れたし」
なんだ、寝るだけか。
異性を布団で眠ることを、体を売るというのだろうか。
「でね、なんかそういう生き方してると、そういう人間が寄ってきちゃうんだよね。だから、俺は自分の体を使って生きてきたよ。さすがにあんたにそんな生き方しろとは言えないし、見た目がちょっとあれだから需要もないかもだけど、俺が言いたいのはさ、生きようと思えばいくらでも方法あるよってこと」
なるほど、彼なりに励ましてくれているのだということは解った。
「悪いが、私は生きようとは思っていない」
叶うなら、今この時にでも死にたいと思っているのだ。
「折角話をしてくれたのに、申し訳ないが」
あわよくば、彼が私を殺してくれないだろうか、とも思っている。
なんかごめん。
新しい傍付きが現れた。
珍しいことに男だ。
それも、まだ子供――。
「我々も、美代様に手を上げるのを心苦しく思っていたのです。親子の縁を切ったとはいえ、やはりまだ父と娘の絆が経ち切れずにいるのか、どうしても美代様の至らぬところを見つけてしまうと我を忘れて怒ってしまいます。それもこれも、美代様に我々の真なる神様になっていただきたい一心からくるもの。それで、今日からこの子を美代様に捧げることにいたしました」
お前はなにを言ってるんだ?頭がおかしいのか?そうだな、おかしいよな。
お前がしているのは、〝怒っている〟という言葉では形容できない。
お前がしているのは〝暴行〟であり〝虐待〟だ。
思ったが、口にできるはずもない。
「遥、と申します……」
紹介された子供は、とても小さな声で言った。
まだ小学校低学年くらいの男の子だった。
ちんまりとして痩せている。前髪は誰が切ったのだと問いたいほど短く、表情は良く見えたが、その顔はどこか歳不相応に暗く、淀んでいるようだった。
この寒さの中、白い着物一枚だ。
冷たい廊下の床に正座させられている。
まるで、私のようではないか――。
そう気付いて、背筋が凍った。
「口数も少なく、穏やかな性分で、よく気が付くそうで。美代様の邪魔は致しませんでしょう。これから何か御用がある際は、この子にお申し付けください」
待て待て待て。
こんな小さな子供に何をさせるつもりだ?
私が茫然とその子を見つめていると、頭がおかしいことばかり言っている男は、更に続けた。
「この子は、先日美代様の傍付きから離れた椿の遠縁の子でございます」
なんてことだ――。
「……このように小さな子を親元から引き離すべきではない」
私の言葉に、男は少しばかり驚いた様子だったが、またすぐに可笑しな笑みを浮かべた。
不思議なものである。顔は真っ黒に塗りつぶされているのに、この男がどんな表情を浮かべているのかはわかるのだ。わかりたくもないのに。
「遥の親はおりません。美代様が可愛がられないのでしたら、名のある兄様か姉様にお預けいたしましょう」
ああ、待て待て待て。それはもっと良くない。
遥の顔が、一気に悪くなった。
〝名のある兄様姉様〟のところに連れていかれれば、自分がどのような目に遭うかわかっているのだろう。
(……そうして、今まで生きてきたのだろうか)
「この子は、学校には行っていないのですか」
「そうですな。所謂、産まれていない子、というやつでして」
男がしれっと言った言葉に、どれだけの事実が含まれているか、考えただけで吐き気がした。
大方、妊娠した信者は病院にもかからず、多くの姉様の助けを借りて出産したのだろう。
その出産は役所には届けられず、この子は社会的に存在したない者として育てられてきたのだ。
この腐った庭では、よくあること――。
「……み、美代様」
遥の声が震えている。
「わ、わたくしは、美代様の助けになるよう、精一杯努めます……」
大人に言えと言われたのか。
こんな小さな子供に、そんな言葉を言えと、誰が。
「……頼仁」
「なんでしょう、美代様」
にっこりと笑んだ頼仁に、頭の中で包丁を三十本くらい突き刺した。
頼仁は、私の父親であるこの男の名前だ。
呼べば口が舌から腐りそうで、久しく口にしていなかった。
心底から殺してやりたいと思うが、この男一人殺したところで、何も変わらない。
「私の傍付きにするというのなら、この子は私のところで生活させる。私の部屋の向かいに、一部屋あっただろう。その部屋をこの子にあげなさい。この子に命じる権限は私だけにあると、皆に知らせなさい」
私のこの言葉にどれだけの効力があるのかは知らないが、せめてもの反抗だ。
私を神様だというのなら、黙って従え――。
「お言葉ですが、美代様。遥はまだ勉強不足で、至らない点も多々あると思われます。美代様にご迷惑を掛けない程度に教育してから、と思っておりましたが」
「先程の自身の言葉を忘れたか。そう言うなら、躾てから連れてくればいいだろうに。遥は私がもらい受ける。お前達は手出しせぬよう」
頼仁を見つめると、さすがに言い返すこともできないようだった。
ここからは見えないが、恐らく数人が、廊下の向こうからこちらの様子を伺っている。
私の言葉を無視すれば、それこそ信者たちには不信感が広がることだろう――果たして、そこまで信心深い信者かはわからないが。
「下がれ。私は遥と話がしたい」
言えば、あっさりと下がっていった。
そのまま二度と顔を出さなければいいのに。
頼仁が去って少しして、人の気配もなくなった。
私は遥に手招きして、部屋へと入るよう言う。
「いいえ、美代様のお部屋に入ることは罰当たりだと言われています」
誰がだ。部屋に入ったくらいで罰など当たらない。
「私が入れと言っているのだが」
脅したつもりはなかったが、遥はびくっと肩を震わせておずおずと敷居を跨いだ。
「そこは冷たかっただろう。おいで、この座布団の上に座りなさい」
とはいっても、この部屋にも暖房器具などない。
部屋に置かれた座布団を引き寄せ、しまっていた布団から掛布団を取り出す。
それを遥の肩からくるむように掛けてあげると、遥は驚いたように顔を上げた。
ぱちり、と目が合うが、びくっと怯えられてしまった。
大きな目に映った自分を見て、納得する。
「……ああ、お前、私が怖いのだね」
それもそうだ。私はガリガリで、頬もこけているし眼も窪んでいる。
ちょっとした骸骨になりきれない幽霊のように見えるのかもしれない。
「悪いが、あまりご飯を貰えないんだ。これは栄養不足で痩せているだけで、移る病でもない。だからそんなに怯えなくていいよ。まあ、そのうち慣れてくるだろう」
正座もしなくていいと言ったが、遥はふるふると首を振って律儀に正座を続けた。
「……遥、か。いい名前だね。誰がつけてくれたの?」
とりあえず仲良くなれたらいいな、と単純に思った。
彼が今までどういう世界で生きてきたかは知らないが、まあ、ろくなものじゃないだろう。
おこがましくも、少しでも仲良くなれたら、遥の気持ちが安らぐかもしれないと思ったのだ。
私の言葉を無視するのは不敬だとでも思ったのか、遥は少しだけ考えて口を開いた。
「お父さんが付けてくれたって言ってました」
「そうか。いい名前だね」
これはさっきも言った気がするが、心中それどころじゃなかった。
そのお父さんはどこにいるんだろう。母親は?
亡くなったのだろうか。
この話題はやめよう。
「私の名前はね、皆は美代って呼んでいるけど、本当は春野っていうんだ。〝ハル〟って言葉がお揃いだね」
自分でもしょうもないことを言ってしまったが、遥の表情が少しだけ明るくなってきた気がするのでほっとした。
「そうだ、飴を食べたことはあるかな」
私は、律が投げてよこしたあの飴を取りだした。
私が手にしたそれを見て、遥が不思議そうな表情を浮かべている。
「……これは、なんですか」
飴を知らないか。
軟禁して育てられてきた可能性が高くなった。
決められた範囲内で生活するよう言われてきたのだろう。
もしかしたら、外の世界のことなどほとんど知らないかもしれない。
私以上に。
「変なものじゃない。手に取って……そうそう、その包みは食べたらだめだ。それを剥がしたら、丸いのが出てくるからね」
遥は不慣れな手つきで飴の包装を解いた。
ミルク色のそれは、きっと甘くて美味しいだろう。
「食べてごらん。大丈夫、美味しいからね」
言えば、遥は存外素直に口に入れた。
それを見て、少し安心する。
これだけ素直に見慣れないものを口に入れたということは、腐ったものを与えられた経験もなさそうだ。
そんな経験、なくていいのだが。
「……」
遥の表情が、見る見るうちに変化していった。
口に添えられた両手から、高揚が伝わってくる。
「美味しいだろう?飲み込んだらだめだよ。喉に詰まってしまうからね。ゆっくり舐めて溶かしてもいいし、噛んでもいいよ」
言うと、遥は少しだけがりっと噛んだようだった。
遥の口の中に、甘い優しさが広がっていくのがわかる。
私はなぜか、少し泣きそうになっていた。
「……美味しい?」
問うと、遥は興奮したようにこくこくと頷いた。
もごもごしている口許を手で覆っているあたり、しっかりと教育されてきたことはわかる。
「そうか、喜んでくれたらなら、よかったよ」
祖父のことを思い出した。
何も知らない私に、飴やチョコや焼き鳥を与えたとき、私もこんな顔をして食べていたのだろうか。
「でも、これは秘密だよ。飴を食べたなどと、絶対に、誰にも言ったらいけない」
真剣にそういえば、遥もしっかりと頷いた。
これがばれれば、どんな罰が待っているかわかっている顔だ。
そして遥は、頼仁のためにある私の杭だ。
これから私が勝手をすれば、遥に追及がいくだろう。
私を同じ体罰を遥に受けされることで、私の自由を制限しようというのだろう。
私が頼仁に不利益を与えれば、神の身代わりだとでも称して遥を罰するつもりなのだ。
遥は、初めて食べる飴に瞳をキラキラさせている。
可愛いな。
可愛いのに、こんな歪なことがあるだろうか。
小学生くらいの子供が、初めて飴を食べて、涙を流さんばかりに感動している。
そういったものから、遠ざけられて育った証拠だ――。
戸籍もなく、軟禁生活で育ち、世俗のものとは隔離され、〝教え〟に背いたら罰を与えれる――。
遥は、間違いなく不幸な生まれだ。
こんな、〝庭〟という名の宗教団体に生まれてきてしまったがために。
死ねばいいのに。
みんな、みーんな死んでしまえばいいのに。