やっぱりやめとけばよかったな。

パンッパンッと先程からうるさい。
感覚はとうとう麻痺したかと思ったが、なかなかどうして、現実はそううまくはいかないものである。
一瞬でも叩かれるタイミングがずれると、叩かれた箇所がカッを火を点けたかのように熱くなり、とてつもなく痛い。

例の折檻の庭で、私は袴ひとつで地べたに這いずっている。
その背中と肩を、容赦なく警策で叩いている父親は、もうかれこれ三十分はお経を唱えながらそれを続けていた。

それらを少し離れた場所から見ながら、母と祖母が父に合わせ読経していた。
私は今は、祓い清めの儀の最中だ。

理由は簡単である。
出張から帰った父と母に、私が無断に入信したばかりの信者と会ったことがばれたからだ。
ばれないわけはないと思ったが、憎いことに、ばらしたのが面通しを希望した当の本人だった。
私が、あの青年に名前を尋ねたことを、会う人会う人に吹聴して回っていたそうだ。
〝美代様が、息子に興味をもってくださった〟のだとかなんだとか。
案の定、父と母の耳に入り、私はこうして折檻されているわけである。

父もそろそろ腕が痛いだろうに、いつまで続けるつもりだろう。
たまに思い出したように、冷水を浴びせられる。熱いのか寒いのか、わからなくなって、ただ辛い、ということだけが頭にあった。
意識がぼんやりとしている。

耳元で、警策がしなる音がする。

死ねばいいのにな、と思う。
私も、この人も。
そこで見ている母と祖母も。
私が本当に神様なら、この醜い遺伝子丸ごともって地獄に落ちるのに。

「お前は神だ、美代。お前は我々の〝祖〟から清らかな魂を受け継いだ、尊い存在なのだ。その身を、我が庭に入ったばかりの人間に晒し、穢されるとはなんたることか――」

読経はもう終わりなのか。
父からの有難いお話が始まった。
その言葉の半分も、私の耳には入ってこない。
身体を起こしていられない。

寒い、熱い、痛い、死にたい――。

長い髪が邪魔だ。
どうして、こんなに辺りが暗いんだろう――。
ああ、夜だからだ。部屋には時計が置かれていないので、父と母が部屋へと押し入ってきたときが何時だったかしれないが、夕食の塩を水が運ばれたあとだった。

自分でも他愛無いことを考えていた。
さっさと気を失ってしまいたいと思うのに、人間というのはどうしてこうタフなんだろう。
こんなところで、忍耐を発揮してどうするんだろう。
私は私を守ってくれないのだろうか。気絶のひとつでもすれば、この痛い時間は終わるのに――。

「あの美しい青年に惹かれたなどとは言うまい。あの青年は、あの美しい容姿を利用して女たちに媚を売っているのだ。わが身を差し出して、金を手にしている。己の尊厳を貶めている、お前がこの世で最も触れてはならぬ存在だ」

良く言うよ。
その青年が手にした金を最終的に手にするのはお前だろうに。
言い返す気力も、そんな真似することも許されていない。
私は一体なんだろう。
昔勝手にイメージした〝神様〟とはあまりにもかけ離れていて、自分はとても無力だ。

「お前は、清らかなままでいなくては」

まるで呪いだ。

ああ、息がしづらい。
寒い、熱い、痛い、しんどい――。



どうしてだろう。
今日も死ねなかった。








「美代様、お水をお持ちしました」

朦朧とする意識で、椿の声を聞いた。
背中と肩が痛むので、俯せで寝ている私は顔を上げる気力もなく、返事もできない。
頭が痛い。体が重い。全身が、動くことを拒否している。

決められた時間以外は、水ですら与えられない決まりとなっている。
ばれたらお前が怒られるよ、椿。

かさかさの唇で、まともに出ない声でそう言ったつもりだったが、椿には聞こえていないようで、細長い筒を口に突っ込まれた。

「吸ってください」

言われるがままなんとか力を入れると、その筒から冷たい水が口の中に入ってきた。
口を閉じそびれて、いくらか枕に零れてしまったが、お陰で思い出した。この細長い筒の名前。ストローだ。
身体が熱いと、冷たい水が体の中を通っていくのがわかるのだな。こんなふうに意識したのは初めての気がする。
冷たい水が喉を舐めたことで、だいぶ楽になった。

朦朧とする意識で、傍に座る椿を見上げると。

「美代様が庇ってくださったお陰で、私はお咎めはありませんでした。賄賂のことも、黙っていてくださったのですね」

あの律の馬鹿親は、私にどうやって会ったかも言いふらしていたらしい。
私と彼らを引き合わせた椿にも追及がいくはずだったが、父と母が怒りに任せて一番に私のもとにきたことで、彼女を庇うことができた。
あの男から話を持ち掛けられているところを私がたまたま聞きつけ、断ろうとした椿を無視し、無理矢理会ったのだと。
美しい青年に興味があったのだと、あることないこと口にして弁解した。
実際、〝彼〟に興味があったのは本当だ。
とはいえ、穴だらけの嘘だ。
部屋から出ることを禁じられている私が、どうして椿と彼らの話を盗み聞きできるというのか。

そんな戯言を信用されるわけもなかったので、少々脅した。
もし椿に罰を与えるようなら、次の多くの信者との面通しのときに、皆の前で全て話すと。
私に暴力を振るっていること、神様ではないこと、椿を罰しようとしたこと。
まあ、こんなのこけ脅しもいいところだが、私のほぼ初めての反抗のようなものに驚いたのか、納得はいっていないようだが引いてくれた。

いつもよりお祓いを念入りにする、ということで彼らの中で決着がついたようだ。
所詮、暴力でしか抑え込めないような小さい人間なのだ。愚かな親でよかった。

「何故です。私なんかのために、どうして美代様が」

おや。泣きそうな顔をしている。
賄賂をもらったなどと飄々としていたが、彼女もだいぶ人間らしい。

「……お前が羨ましかった。大切にできる親がいるのはいいな」

神様の〝美代〟ではなく、〝春野〟としての正直な想いだった。
純粋に、そう思う。

まだ、今よりもう少し世界に混ざれていた頃。
授業参観にきた母親や父親に、嬉しそうに手を振っている同級生たちが羨ましかった。〝親〟とは、あんなふうに笑いかけてくれるものなのだと知った。
帰り道、手を繋いで歩いている親子が羨ましかった。
一緒にアイスを買って、一緒に楽しそうに食べている母と子が、とても眩しいものに見えた。
あれを食べては穢れてしまうよ、と見向きもしなかった母の言葉が、寂しかった。

(ああいいな。私も欲しいな)

どう願っても手に入らなかったものだ。

更には今は、親子の縁すら切られた。
普段は〝美代様〟と呼ぶくせに、折檻のときだけはまるで父親や母親のような顔をする彼らの顔が認識できなくなったのはいつからだろうか。
何故か彼らのいつ見ても真っ黒に塗りつぶされていて、どんな顔をしているかもわからない。
そうなってから、随分と経つが、私にとっての親という存在は、その程度のものだったのだろう。
たまたま〝娘〟が、彼らの使い勝手のいい道具だったのだろう。
それを自分たちの都合のために利用することに、罪悪感も抱かないような人間たちだ。
顔は、黒塗りでお似合いだな。


「……美代様、私は今日をもって、美代様のお世話係を下がらせていただきます」

そうか。折角言葉を交わせるようになったのに、それは寂しい。
するりとそんなことを考えている自分が可笑しかった。
人間らしさなど、随分と前になくしてしまったような気がしていたけれど。

「それ以外にお前への罰はあるか」
「ございません。私は庭を出ることになりました」
「そうか」

それを聞いて、私はほっとしていた。

「椿、お前が、我が庭から飛び立って、自由に羽ばたいてくれたらうれしい」

教祖として、これはおかしな言葉だろうか。
けれど、こんな庭で、椿が幸せになれるとも思えない。
そしてそれに反して、庭から出て幸せになれる確信だってないのだ。
私は、椿がどうしてこの庭にいるのかも知らないのだから。

「……大丈夫、不安がることはない。お前の行く先には、穏やかな日々が待っているからね」

今だけは神様ぶってもいいだろうか。
この言葉を、椿が胸に抱き、少しでも前向きに生きれてくれたら、うれしいような気もする。

〝神様〟を自分都合で利用しているのは、私も同じだな。





体調が悪いときはさすがに儀式は休まされた。
気遣われたわけではなく、〝美代様〟が人間のようだと思われると都合が悪いからだ。
神様が体調を崩していることに、疑問に思う信者もいるだろうから。

その休みが明けて久しぶりの儀式だった。
以前と同じように信者たちに囲まれ、頭が狂いそうな羞恥をやりすごして上半身を晒し、オリジナルお経の合唱を聞きながら警策で叩かれる。
傷は完治したわけではないから、叩かれればそれは痛い。
折檻の傷が残っているのを目の当たりにしているだろうに、私を崇拝しているはずの信者たちは顔色すら変えない。
どうせ父親が、〝美代様が皆の代わりに俗世の穢れを被ってくださった〟とでも伝えているのだろう。死ねばいいのに。

頭を垂れる前、あの青年と目が合った。
律――暗闇でも美しい瞳が、驚きに見開かれている。

ああ、この傷のことか。そうだな、お前の父親のせいだ。

考えはするが、言う術もなければ言おうとも思わない。

警策で肉が叩かれる音を聞きながら、私は目を閉じた。
次に目を開けたときには、みんな死んでいたらいいのに。そうだな、彼以外は――。





「……何しに来た」

なにも救わない無意味だなだけの儀式が終わり、そろそろ一時間が経つ。
多くの信者たちは家の祭壇で引き続き祈るために帰路につき、幹部や関係者はまだ残っている時分だ。
儀式のあとは、ほぼ誰も私には近づいてこない。そもそも、世話役と父母、祖母が接触できるだけであって、ほかの人間は私が生活している〝聖域〟にはまず足を踏み入れることはない。
そもそも私との接見は許可なくては固く禁じられているし、敬虔な信者であればあるほど神に不敬は働けないと領域を侵すことはない。

だというのに、今日は訪問者があった。
時刻は午後三時過ぎ。
既に床に入って休んでいた私の部屋の外――縁側で、彼はそっと私に呼び掛けたのだ。
「起きてる?」と。
起きてるわけないだろうが寝てるわと答えたが、起きてるじゃんと嬉しそうに笑って遠慮なく襖を開けて侵入してきた。世間一般のルールには詳しくないが、これは私が神様ではなくてもアウトではないだろうか。不法侵入である。

この時間にこの場所に悪びれる様子もなく侵入してくるとは、彼は私のことなど〝神様〟だなんて微塵も思っていないらしい。

まあ、そうだろう――律とやら。


「あんたに会いにきたんだ」

こなくていい。帰れ。私は疲れている。
私が横になっている布団の傍らで、律は胡坐を掻いて思いつく端からお喋りを始めた。

「親父が言いふらしてるから、きっとあんたを管理してるやつらにこの前のことが遅かれ早かればれるだろうなって思ってたんだ。案の定、叩かれた痕が、両肩だけじゃなくて背中側にもあった。邪払いの儀式以外でやられたんだろ。この前のが原因か?あんたに引き合わせてくれた女は?」

この飛びぬけて清らかそうな容姿から〝親父〟という単語が出てきた時の破壊力はなかなかだ。
椿のことまで気にしているのか。
それに、観察眼も申し分ないな。
何に対して申し分ないのかわからないが。

「椿のことは、私も少し気にかかっていた。特に処罰はなく、庭から出ていくと言っていた。私にここまでしでかす者達が、果たしてそれだけで椿を許すかわからん。お前、丁度いいから、彼女の動向を探ってくれないか?彼女には、大切なご両親がいるのだ。彼らにまで私の庭の者が迷惑を掛けていないかが気になる」

傷が痛いので俯せで寝ていたのだが、彼と話すために俯せのまま上半身だけ起こしていた。
が、彼が思ったよりも近くに座っているので、今はもう完全に体を起こして正座して話している。
この前も思ったが、距離が近いな。お前達親子は一体何なんだ。

それとも私が、人に近づかれることに慣れていないからだろうか。

「椿?苗字はわかんねーの」
「〝美代〟付きの椿だと言えば、すぐわかると思う」

律はわかった、と頷いた。
頼まれてくれるのか?

「……頼んでいおいてなんだが、そんなに安請け合いしていいのか?お前も怪しまれるのではないか?」

とはいえ、彼は新参者なので、目に余る行為も多少は大目に見てもらえるかもしれない。
この〝庭〟は、使える新参者には優しいのだ。

「これくらいなら訳ないかな。幹部の何人かとも連絡先交換してるし、その中に俺に興味ありまくりなオバチャンもいたから、ちょっと探り入れりゃどうにかなるだろ」

まだ入って数か月だろうに、もう幹部と関係があるのか。
もしかしたら、私なんかよりよほど〝庭〟の事情には精通しているかもしれない。

「それで、本題なんだけど」

まだあるのか。

「あんたはなんでこんなところでそんな姿で、〝神様〟なんてしてんの?逃げれば?しんどくない?」

それができれば私も苦労しないのだが。

「逃げはしない。というか、逃げれないし、逃げたとしても、外の世界で生きていけるとも思わない」

中学校を卒業してから、この小さな庭の中で囲われてからもう何年になるだろう。
誕生日は祝われることがなくなったし、日付や時間がわかるものは置かれていないので、今が西暦何年で、今が何月の何日なのかもわからないのだ。
中学卒業時、担任の教師は私の進路に口出しすることはなかった。
親からの手回しがあったのだろうと容易に想像がついて、他を考える余裕もなかった。
もしかしたら、あの時、前教祖が死ななければ、私は普通に進学して、新興宗教の二世代目として生きていたのかもしれない。

そうなった未来では、今より自由はあっただろうか――。
それすらもわからない人間が、今、社会に出てどう生きれるというのだろう。

律は困ったような顔をした。
そんな顔をすると、とても幼く見える。
さっき彼が言った、〝俺に興味がありまくりなオバチャン〟がいるのも納得してしまう。

「やっちゃえばどうとでもなるよ」

困った顔でそう言われたら、私も困ってしまう。
どうとでもならないから、私はこんなところでこんな腐ったことをしているのである。


「……俺さ、十歳の時に母親亡くしてからあの父親と暮らしてんだけど、あいつ、ちょっとどうしようもないクズっていうか、いや、昔はもっとましだったんだけど、母さんが亡くなってからちょっとおかしくなっちゃってさ、俺ネグレクトされてたんだよね。あ、ネグレクトってわかんないかな。育児放棄って意味なんだけど。でさ、俺こんな見た目だから、結構助けてくれる人多くてさ。そんな中でも俺みたいな子供に対して見返り求めてくる奴って一定数いて、俺まだ小学生だったんだけど、体売ってたの」

けろりと激白されてしまった。
私は、特殊な幼少時代と他人とは隔絶されている生活を送ってきたので、知識がだいぶ偏ったまま生きてきた。
祖父のところにいたころも、テレビや本、雑誌の類はすべて禁止されていたので、きっと知らないことがたくさんあるだろう。
だから、彼の境遇など想像もしたことがなかった。

「身体を売るとは……」

それは肉体労働的なあれだろうか。

「女と寝るんだよー。寝てね、お金貰うの。あと寒くなくて汚くなくて、綺麗な寝床も貸してもらえるから、結構よかったよ。お風呂にも入れたし」

なんだ、寝るだけか。
異性を布団で眠ることを、体を売るというのだろうか。

「でね、なんかそういう生き方してると、そういう人間が寄ってきちゃうんだよね。だから、俺は自分の体を使って生きてきたよ。さすがにあんたにそんな生き方しろとは言えないし、見た目がちょっとあれだから需要もないかもだけど、俺が言いたいのはさ、生きようと思えばいくらでも方法あるよってこと」

なるほど、彼なりに励ましてくれているのだということは解った。

「悪いが、私は生きようとは思っていない」

叶うなら、今この時にでも死にたいと思っているのだ。

「折角話をしてくれたのに、申し訳ないが」

あわよくば、彼が私を殺してくれないだろうか、とも思っている。

なんかごめん。




新しい傍付きが現れた。
珍しいことに男だ。
それも、まだ子供――。


「我々も、美代様に手を上げるのを心苦しく思っていたのです。親子の縁を切ったとはいえ、やはりまだ父と娘の絆が経ち切れずにいるのか、どうしても美代様の至らぬところを見つけてしまうと我を忘れて怒ってしまいます。それもこれも、美代様に我々の真なる神様になっていただきたい一心からくるもの。それで、今日からこの子を美代様に捧げることにいたしました」

お前はなにを言ってるんだ?頭がおかしいのか?そうだな、おかしいよな。
お前がしているのは、〝怒っている〟という言葉では形容できない。
お前がしているのは〝暴行〟であり〝虐待〟だ。

思ったが、口にできるはずもない。


「遥、と申します……」

紹介された子供は、とても小さな声で言った。
まだ小学校低学年くらいの男の子だった。
ちんまりとして痩せている。前髪は誰が切ったのだと問いたいほど短く、表情は良く見えたが、その顔はどこか歳不相応に暗く、淀んでいるようだった。
この寒さの中、白い着物一枚だ。
冷たい廊下の床に正座させられている。

まるで、私のようではないか――。

そう気付いて、背筋が凍った。


「口数も少なく、穏やかな性分で、よく気が付くそうで。美代様の邪魔は致しませんでしょう。これから何か御用がある際は、この子にお申し付けください」

待て待て待て。
こんな小さな子供に何をさせるつもりだ?

私が茫然とその子を見つめていると、頭がおかしいことばかり言っている男は、更に続けた。

「この子は、先日美代様の傍付きから離れた椿の遠縁の子でございます」

なんてことだ――。


「……このように小さな子を親元から引き離すべきではない」

私の言葉に、男は少しばかり驚いた様子だったが、またすぐに可笑しな笑みを浮かべた。
不思議なものである。顔は真っ黒に塗りつぶされているのに、この男がどんな表情を浮かべているのかはわかるのだ。わかりたくもないのに。

「遥の親はおりません。美代様が可愛がられないのでしたら、名のある兄様か姉様にお預けいたしましょう」

ああ、待て待て待て。それはもっと良くない。
遥の顔が、一気に悪くなった。
〝名のある兄様姉様〟のところに連れていかれれば、自分がどのような目に遭うかわかっているのだろう。

(……そうして、今まで生きてきたのだろうか)

「この子は、学校には行っていないのですか」
「そうですな。所謂、産まれていない子、というやつでして」

男がしれっと言った言葉に、どれだけの事実が含まれているか、考えただけで吐き気がした。
大方、妊娠した信者は病院にもかからず、多くの姉様の助けを借りて出産したのだろう。
その出産は役所には届けられず、この子は社会的に存在したない者として育てられてきたのだ。
この腐った庭では、よくあること――。

「……み、美代様」

遥の声が震えている。

「わ、わたくしは、美代様の助けになるよう、精一杯努めます……」

大人に言えと言われたのか。
こんな小さな子供に、そんな言葉を言えと、誰が。



「……頼仁」
「なんでしょう、美代様」

にっこりと笑んだ頼仁に、頭の中で包丁を三十本くらい突き刺した。

頼仁は、私の父親であるこの男の名前だ。
呼べば口が舌から腐りそうで、久しく口にしていなかった。
心底から殺してやりたいと思うが、この男一人殺したところで、何も変わらない。

「私の傍付きにするというのなら、この子は私のところで生活させる。私の部屋の向かいに、一部屋あっただろう。その部屋をこの子にあげなさい。この子に命じる権限は私だけにあると、皆に知らせなさい」

私のこの言葉にどれだけの効力があるのかは知らないが、せめてもの反抗だ。
私を神様だというのなら、黙って従え――。

「お言葉ですが、美代様。遥はまだ勉強不足で、至らない点も多々あると思われます。美代様にご迷惑を掛けない程度に教育してから、と思っておりましたが」
「先程の自身の言葉を忘れたか。そう言うなら、躾てから連れてくればいいだろうに。遥は私がもらい受ける。お前達は手出しせぬよう」

頼仁を見つめると、さすがに言い返すこともできないようだった。
ここからは見えないが、恐らく数人が、廊下の向こうからこちらの様子を伺っている。
私の言葉を無視すれば、それこそ信者たちには不信感が広がることだろう――果たして、そこまで信心深い信者かはわからないが。

「下がれ。私は遥と話がしたい」

言えば、あっさりと下がっていった。
そのまま二度と顔を出さなければいいのに。

頼仁が去って少しして、人の気配もなくなった。
私は遥に手招きして、部屋へと入るよう言う。

「いいえ、美代様のお部屋に入ることは罰当たりだと言われています」

誰がだ。部屋に入ったくらいで罰など当たらない。

「私が入れと言っているのだが」

脅したつもりはなかったが、遥はびくっと肩を震わせておずおずと敷居を跨いだ。

「そこは冷たかっただろう。おいで、この座布団の上に座りなさい」

とはいっても、この部屋にも暖房器具などない。
部屋に置かれた座布団を引き寄せ、しまっていた布団から掛布団を取り出す。
それを遥の肩からくるむように掛けてあげると、遥は驚いたように顔を上げた。
ぱちり、と目が合うが、びくっと怯えられてしまった。
大きな目に映った自分を見て、納得する。

「……ああ、お前、私が怖いのだね」

それもそうだ。私はガリガリで、頬もこけているし眼も窪んでいる。
ちょっとした骸骨になりきれない幽霊のように見えるのかもしれない。

「悪いが、あまりご飯を貰えないんだ。これは栄養不足で痩せているだけで、移る病でもない。だからそんなに怯えなくていいよ。まあ、そのうち慣れてくるだろう」

正座もしなくていいと言ったが、遥はふるふると首を振って律儀に正座を続けた。

「……遥、か。いい名前だね。誰がつけてくれたの?」

とりあえず仲良くなれたらいいな、と単純に思った。
彼が今までどういう世界で生きてきたかは知らないが、まあ、ろくなものじゃないだろう。
おこがましくも、少しでも仲良くなれたら、遥の気持ちが安らぐかもしれないと思ったのだ。

私の言葉を無視するのは不敬だとでも思ったのか、遥は少しだけ考えて口を開いた。

「お父さんが付けてくれたって言ってました」
「そうか。いい名前だね」

これはさっきも言った気がするが、心中それどころじゃなかった。

そのお父さんはどこにいるんだろう。母親は?
亡くなったのだろうか。
この話題はやめよう。

「私の名前はね、皆は美代って呼んでいるけど、本当は春野っていうんだ。〝ハル〟って言葉がお揃いだね」

自分でもしょうもないことを言ってしまったが、遥の表情が少しだけ明るくなってきた気がするのでほっとした。

「そうだ、飴を食べたことはあるかな」

私は、律が投げてよこしたあの飴を取りだした。
私が手にしたそれを見て、遥が不思議そうな表情を浮かべている。

「……これは、なんですか」

飴を知らないか。
軟禁して育てられてきた可能性が高くなった。
決められた範囲内で生活するよう言われてきたのだろう。
もしかしたら、外の世界のことなどほとんど知らないかもしれない。
私以上に。

「変なものじゃない。手に取って……そうそう、その包みは食べたらだめだ。それを剥がしたら、丸いのが出てくるからね」

遥は不慣れな手つきで飴の包装を解いた。
ミルク色のそれは、きっと甘くて美味しいだろう。

「食べてごらん。大丈夫、美味しいからね」

言えば、遥は存外素直に口に入れた。
それを見て、少し安心する。
これだけ素直に見慣れないものを口に入れたということは、腐ったものを与えられた経験もなさそうだ。
そんな経験、なくていいのだが。

「……」

遥の表情が、見る見るうちに変化していった。
口に添えられた両手から、高揚が伝わってくる。

「美味しいだろう?飲み込んだらだめだよ。喉に詰まってしまうからね。ゆっくり舐めて溶かしてもいいし、噛んでもいいよ」

言うと、遥は少しだけがりっと噛んだようだった。
遥の口の中に、甘い優しさが広がっていくのがわかる。

私はなぜか、少し泣きそうになっていた。


「……美味しい?」

問うと、遥は興奮したようにこくこくと頷いた。
もごもごしている口許を手で覆っているあたり、しっかりと教育されてきたことはわかる。

「そうか、喜んでくれたらなら、よかったよ」

祖父のことを思い出した。
何も知らない私に、飴やチョコや焼き鳥を与えたとき、私もこんな顔をして食べていたのだろうか。

「でも、これは秘密だよ。飴を食べたなどと、絶対に、誰にも言ったらいけない」

真剣にそういえば、遥もしっかりと頷いた。
これがばれれば、どんな罰が待っているかわかっている顔だ。


そして遥は、頼仁のためにある私の杭だ。

これから私が勝手をすれば、遥に追及がいくだろう。
私を同じ体罰を遥に受けされることで、私の自由を制限しようというのだろう。
私が頼仁に不利益を与えれば、神の身代わりだとでも称して遥を罰するつもりなのだ。

遥は、初めて食べる飴に瞳をキラキラさせている。
可愛いな。

可愛いのに、こんな歪なことがあるだろうか。
小学生くらいの子供が、初めて飴を食べて、涙を流さんばかりに感動している。

そういったものから、遠ざけられて育った証拠だ――。
戸籍もなく、軟禁生活で育ち、世俗のものとは隔離され、〝教え〟に背いたら罰を与えれる――。
遥は、間違いなく不幸な生まれだ。

こんな、〝庭〟という名の宗教団体に生まれてきてしまったがために。


死ねばいいのに。

みんな、みーんな死んでしまえばいいのに。







「このチビ何?」
「私の世話係だ」

真夜中。
何故かまた訪れた律が、すやすやと穏やかな寝息を立てている遥を見て仰天している。

今日は遥の部屋の準備が間に合わないと言ってきた頼仁に、私と共に寝かせるからいいと言ってからひと悶着あった。
たまたまほかの信者たちもいたため、彼らがよく囀ったからだ。
穢れるだ恐れ多いだ許されることではないとか。
そうだな、こんな子供を私のような人間の傍付きにするお前らは穢れすぎてるな。

とはいえ、騒がしい外野に反して、頼仁はどちらかというと肯定的だった。
それはそうだ。私が遥に情を寄せるのを企んでいるのだ。
私にとって遥が大切になればなるほど、遥を使って私を服従しやすくなるから。

そういうわけで、遥は今夜、私と眠ることになった。
私が眠るまで見守っていると息巻いていたが、気付けば座ったまま船を漕いでいるのだから可愛いものである。

小さくて細いが、肉もなければ筋肉もない私が遥を布団まで運べるわけもなく、とりあえず膝に頭を乗せて布団を掛けて休ませていたのだが、遥の寝顔に目を奪われてしまった。
今日会ったばかりの、名前くらいしか知らない子供の寝顔が、恐ろしく無邪気で、無防備で、胸の奥がむずむずとした。
子供の寝顔を見たのが、初めてだからだろうか。
こんな私の膝の上で、こんなに暖かく柔らかい生き物が寝息を立てていることが、まるで奇跡のように思えたのだ。

そうして一人浸っていると、律が音もなく現れたのである。



「びびったー。子供飼うとか、とうとうあんたも頭おかしくなっちゃったのかと思った」

律は笑いながらも、私のお願いをきいて遥を布団まで運んでくれた。
ところでお前はどうしてそんなに自然体なんだ。お前がしているのは不法侵入だ。

「てか、布団はひとつなわけ?はみ出ない?」

存外丁寧に遥を寝かしつけて、きっちり布団をかけながら不思議そうに振り返られ、私は言葉に詰まってしまった。
子供一人満足に寝かせてあげられないのかと、責められた気がしたのだ。

「あ……いや、遥の分は持ってきてくれなかったんだ。だから仕方がない。私は今日は起きておく」
「は?嘘でしょ寝なよ。そんな痩せてんのに更に寝不足なんかになったら折れちゃうんじゃないの?」

言っていることはよくわからないが、心配してくれているのは解った。

「見た目は確かにあれだが、そこまで弱くないと思うのだが」

むしろそこまで弱かったならよかったと思う。
全身骨折でもして重症化して死んでしまえるなら、それは救いだ。

「まあねえ、あんな寒空で拷問じみたことされてるのに、あんたけろっとしてるもんね」
「そうだな」

だよね、あれは人から見たら拷問に見えるよね。私の認識に間違いがなくてよかった。

「あんたのその、自分に無頓着すぎるところは、他を超越してると思うけどね」

何故か呆れられたが、好きでこうなったわけじゃない。
自分を大切にしていればしているほど、頼仁の仕打ちは私の心を壊すだろう。
考えてみれば、それがいけなかったのかもしれない。
さっさと壊れれば、捨ててもらえたかもしれないのに。

「お前、またここに来る気があるか?」
「会話の脈絡って知ってるかなあ?」
「……ごめん」
「だよね」

律という男は、馴れ馴れしいというより、突然現れて次の瞬間には友達のように振舞える人間だ。
自分を嫌う他人はまずいないということを、よくわかっているのかもしれない。
私との距離が近いのも、自分が近づいて嫌がる人間がいないと無意識でも思っているからだ。

「飴を、また持ってきてほしいのだが」

私が言うと、律はきょとんとした顔をした。
灯りが点いていると怪しまれるので、灯りは落としている。
けれど暗闇に慣れた瞳は、律の顔をよく見せてくれた。

「美味しかった?」

首を傾げて尋ねられる。
なんだその仕草。かわいいな。

「私にくれたのにお前には悪かったが、遥にあげてしまったんだ。とても美味しそうに食べていたから、また与えてみたくなったのかもしれない」

言うと、律はぼそっとあーそういうことね、と言った。
さすがに、私にくれたものを勝手に人にやったのはまずかったかもしれない。
怒っただろうか。

「すまない。折角私を心配してくれたのに」
「あーやめてえ。そういうんじゃねーからあ」

律はそっぽを向いて、まあまた気が向いたらね、と言ってくれた。

「お前はとても美しい見た目だけど、中身は可愛いのだな」
「だからそういうのやめてって言ってんだけど」
「すまない」

どうしてか、また怒らせてしまった。



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