雨に恋するキズナミダ



 ***


 きっかけは猫だった。


 土砂降りの雨なんて久しぶりで、憂鬱な気分な春の午後。曇り空のせいで、心なしか暗く感じる通学路。
 わたしは傘をさしているのにも関わらず、濡れていく制服が鬱陶しくて早足だった。


 でも、その光景が目に飛び込んできて、わたしは足を止めてしまった。



「ごめん……ごめんな!」



 黒い傘。桜の木の下で謝り続ける彼の手には子猫が二匹。何に謝っているのか、なぜそんなに後悔しているのかはわからない。


 だけど、壊れそうな彼を抱きしめたくなった。



「もう、謝らないで」



 驚いた彼の黒い傘が落ちた。
 傘に張りついた桜の花びらがすごく綺麗で、見惚れてしまった。


 違う。本当は彼の横顔に惚れたんだ。
 すごく綺麗な泣き顔が脳裏に焼きついて離れない。


 好き。
 この感情は、忘れたくなかった……。



 中学二年の春。
 あなたに出逢い、約束をした。


 高校生だったあなたが大人びていて、わたしはずっとドキドキしていた。


 あなたは覚えていますか?
 約束。そして、震える子猫たちのこと。


 約束は果たされることなく、あなたに会えないまま、わたしは高校三年になってしまった。


 あなたを待っているのは、わたしだけなのかもしれない。それでも待ちたかった。


 お願い。
 どうか、わたしを忘れないで……。



 ***


 穂高《ほたか》雪乃《ゆきの》。
 わたしの名前。本当は好きじゃない。だって寒そうだし、何となく冷たく見えるから。


 そんなことない、可愛いって友達は言うけど。
 わたしは嫌いなの。頑固者だって怒ってくれるのは、その友達だけ。


 両親がつけてくれた名前に文句なんて、どうかしてる。でも、名前を書くたびに切なくなる。悲しくなる。会いたくなるから……。



「オイ!」

「痛っ!」



 桜散る校庭の片隅。校舎とテニスコートの間にある大きなとちの木。
 その下で寝転がり、真っ青な空を見ていたはずが、突然の衝撃に現実に戻されるわたし。



「さっさと起きろ」

「寝てはないです……」

「完璧に寝ていたら鉄拳だ」

「その分厚い辞書で叩くのも、どうかと思いますけど」



 眩しい太陽を塞ぐように見れば、見た目は熱血教師。手には国語辞典。
 白いTシャツに紺色ジャージ。全くイケてないファッションセンスに幻滅。



 教師にファッションセンスを求めても無駄かなぁなんて笑えば、彼はちょっとムッとした。



「モジャか」

「その呼び方、やめろ!」



 一番、特徴的なのが天然パーマの髪。だからみんなにモジャって呼ばれてる。


 わたしはとりあえず体を起こした。



「あれか? 俺を虐待とか暴力とか言って辞めさせようとする、あれか?」

「あれがなにかはわかりませんけど、わたしは今とっても悩んでいるのでここにいました」

「悩み?」

「それと入学式が苦手です」

「それは言い訳にならないぞ!」



 モジャに捕まるなんて不運すぎる。でも、校舎や校庭から丸見えの場所で寝ていたわたしも残念。
 もう少し考えたらよかったんだけど、このとちの木の下が気持ちよくて、つい。


 睨んでくるモジャ。わたしはため息をしてしまった。



「校長の長い話。生徒会長のありがたいお言葉。新入生代表挨拶。来賓の挨拶。他にもありましたっけ? だいたいわかっていますから、大丈夫です」

「お前は屁理屈ばかり並べおって!」



 事実を言ってみれば、モジャが後ろに回り込む。


 あれ? 痛い。痛い? 痛い!!


 よく見れば拳をこめかみに押し当ててぐりぐりしている。ぐりぐりとか、わたしは小学生か!



「いたたたたた……っ! 痛いです!!」



 というか、力いっぱいぐりぐりとか。何考えてんの!



「さっさと入学式に行け」

「だ、だから……」

「まだ足りんか!」



 その時、タイミングよくチャイムが鳴った。



「ああっ! 入学式、終わっちまった!!」

「そ、それは残念でしたね」

「お前のせいだぞ!」



 力いっぱい、ぐりぐりを三回繰り返してからやっと解放された。本当に暴力で訴えたくなる。



「雪乃にぐりぐりする日が来るとは思わなかったな」

「え、そんなこといつもやってたんですか?」

「信頼関係のある一部の生徒だけだ」

「へー」



 下を向いてこめかみを撫でていると、今度はぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。


「な、何?」

「雪乃はいろいろあったから何も言わなかったが、そろそろ立ち直れよ。お前、二年の時は生徒会役員までやったんだろ」

「そうでしたね」



 モジャとは、その生徒会役員になったのがきっかけでいろいろ話すようになった。
 ちょっとは感謝してる。ちょっとは、ね。



「雪乃の友達は今、生徒会長やってるぞ。去年と逆になったな、お前ら」

「夏海《なつみ》が真面目になって、わたしが不真面目になったってこと?」

「全部とは言わないがな」

「そうかもしれません」

「もう三年。受験の年だぞ。悩みは誰かに言って解決するんだな」



 モジャは簡単に言うけど、わたしの悩みはぐちゃぐちゃに絡まっててどこから解いていいかわからなくなってる。


 誰かに話せって?
 誰かに……。



「俺でもいいぞ」

「やめとく」

「即答するなよ、傷つくだろ」

「へへっ」

「あ。やっと笑ったな」



 わたし、ずっと忘れていた。笑うこと。
 モジャも、たまにはいいことしてくれるじゃない。



「誰かに言ってみる」

「ああ、そうしろ! じゃないと本当に受験失敗するぞ!」

「怖いこと言わないでよ」



 無性に夏海に会いたくなった。今の生徒会長でわたしの親友。
 夏海だったら多分、わたしの悩みを真剣に聞いてくれるから。



「はぁ」

「ため息をつくな、ため息を!」

「いちいち声がでかい、うるさい!」



 でも、ちょっとは元気になれた気がする。
 モジャでも役に立つんだね。やっぱり、教師やってるだけのことはあるな。



 ・・・


 去年は生徒会で書記として頑張っていた。わたしはそれが誇らしくて、自慢で、こんなわたしをみんなが選挙で選んでくれたことが嬉しかった。


 真面目だったのかもしれない。
 勉強だって努力を惜しまず、誰からも褒められるように自分を磨いてきた。ただ、苦しかった。


 わたしはいつも、何かに縋っていないと生きていけないような……そういう損な歩き方をしていた。


 愛されたくて、気にしてほしくて、そばにいてほしくて。
 嫌われたくなかったから。


 そうやって生きていると自分が嫌いになる。醜い姿が浮き彫りになるような、そんな感覚。本当に汚い。


 こんな自分、いなくなればいいのに――――。



「雪乃?」

「あ。わたし、また立って寝てた?」

「お願いだから、椅子を片付ける間は意識をこっちに向けて」

「ごめん、夏海」



 入学式は無事に終わって、わたしは体育館で夏海にこき使われてる。
 生徒会長のありがたいお言葉を聞かないで、サボっていたわたしへの罰だって。


 だいたい、そのありがたいお言葉は新入生に向けて言ったんじゃないの? わたしには関係ないじゃない。