リビングに飾ってある自分の写真を眺めていた。

二階からパタパタと忙しく階段を下りる足音が聞こえたので、玄関へと続く廊下を覗いてみる。家族以外の若い女性だった。弟の友達かな、ぼんやりと思った。その人はヒタと立ち止まってこちらに視線をやった。一瞬目が合う。彼女は泣き濡れた顔で、こちらに向かって軽く会釈すると、そのまま玄関に駆け降り出て行った。一秒でも早くここから抜け出したい、そんな彼女の想いがひしと伝るから胸が痛む。

弟は自分の部屋でベッドに転がっていた。壁がわを向いているので表情はわからないけど、その少し丸められた背中が『俺、不貞寝してます』と言っている。

「どうしたの?」

声を掛けると、

「姉ちゃん、ノックぐらいしろよ」

言いながらむっくり起き上がって振り返った。ベッドの上であぐらをかく。こちらを見ているけど視線は合わない。それはいつものこと。

「できない。ごめん」

私が答えると、そっか、できないか、と疲れた笑みを浮かべた。

「彼女とはどういう……」

「俺との関係?」

首が折れそうなぐらい項垂れて弟は考えていた。やがて、思い立ったように顔を上げて、

「肉体関係」

いつもの無表情で答えた。

呆れた。心底呆れた。

けれど弟は続けざまに言葉を発した。

「その結果がそれ」

彼の視線がベッドサイドのローテーブルに注がれる。見れば、一枚の薄っぺらい写真のようなものが置かれていた。エコー写真。結婚していない男女にとって、これを『おめでた』と呼ぶべきか。いや、おめでたいことだと信じたい、個人的には。

なるほど、それを報告するために彼女はここへやって来たのか。

帰りがけの彼女の痛々しい泣き顔が鮮明に思い出された。身だしなみ程度の薄化粧だからか、化粧崩れとは無縁の美しい泣き顔だった。

そう、彼女は美しかった。華やかさはないが、清らかさがあった。人目を惹くほどではないが、一度視界に入ってしまえば、なかなか目を反らせない。そんな心地よい魅力があった。

弟にとって彼女が遊びだけの女だったとは到底思えない。

ではあの涙の意味は?

「あのひと、可哀想なぐらい泣いてた」

「見たんだ?」

「うん、下で見かけた。あんた、一体何て言ったの?」

「『結婚しようか』って。そしたらあいつ、怒って泣き出した」

なんでかなぁ、そう言って天井を見上げた弟も、泣き出しそうな顔をしていた。

「それはあのひとに訊いてみないと」

弟が一人でどんなに考えても、彼女の本当の気持ちは彼女にしかわからない。けれど私はなんとなくわかる気がする。彼女との関係を『肉体関係』などと言ってしまうような弟だもの。

「だな」

弟は、はにかんだような困ったような良くわからない笑みを浮かべると、枕元に無造作に置いてあった携帯電話を手にした。慣れた手つきで操作し左耳にあてがう。

しばらくじっとして相手が電話に出るのを待っていた弟。やがて、

「出ねぇわ」

と苦笑混じりに零した。携帯を耳から下ろして再び画面を見ながら操作する。今度はメールで連絡を取ろうとしているらしい。

私はその場を離れることにした。けれどふと思い立ち弟を振り返る。弟は何度も何度もメールの文章を打ち直しかなり苦戦している様子だ。

「本心を知りたいなら、電話やメールで済まそうとしないで直接会って話をしたほうがいいと思う」

余計なお世話かもしれないけど伝えてみる。

「言われなくてもわかってるよ、そのぐらい。会うにしても連絡取らないとだし?」

「すぐ追えば良かったのに」

「あの時は、あいつ結婚したくねぇんだって思ったから」

「結婚したくないのかもね」

「姉ちゃん……意地くそ悪いこと言うなよ」

「ふふっ」

思わず笑い声を漏らしてしまい慌てて両手で口を塞いだ。

「姉ちゃん……今笑っただろ?」

「失礼な弟ね。笑ってないよ」

心外だと言わんばかりの、少しだけ怒った声をわざと出した。
15年前、私は死んだ。この家で、愛する家族に囲まれて息を引き取った。

病魔に侵され余命わずかだった。食べることが苦痛となり、生きることも苦痛になった。母や父は私の前で決して涙を見せなかったが、私より辛い想いをしているのは明らかで、それが、身体の苦痛以上に私を苦しめた。

「お母さん、ごめん。もう頑張りたくない」

入院中の病室で本心を伝えた時、母はその場に泣き崩れた。母の涙を見るのはこの時が初めてだった。

治療を緩和ケアに切り替え、住み慣れた自宅で、最期の時を静かに待った。

8つ年下の弟は当時10歳。私のことが大好きで、泣いてばかりいた。

最期の時はとても穏やかだった。雨がしとしと降っていて、雨音が心地よかったのを今でも覚えている。まるで温かい光に包まれているような感覚だった。苦痛がすーっと消えていく。そろそろだな。ぼんやりした意識の中で感じた。

弟の泣きじゃくる声が遠くに聞こえる。大丈夫、姉ちゃんはずっとそばにいるから。私の声は届かない。それでも構わなかった。

幸せだった。みんなに会えなくなるのはちょっと寂しい気もするけど、これでお別れって気がしなかった。

さようなら。短い人生だったけど、思う存分楽しんだよ。唯一の心残りは、泣き虫の弟を残して、自分だけ旅立つことかな。でも連れて行くわけにもいかないし。私の分まで親孝行してもらわないといけないし、ね。

――――というわけで、あの日から私の魂はずっとこの家に居る。

『大丈夫、姉ちゃんはずっとそばにいるから』

死ぬ間際にあんなこと考えちゃったから、どうやら成仏できていないらしい。

弟にだけ私の声が聞こえるようで、弟と会話ができる。でも姿は見えないらしい。魂という存在だから? よくわからない。

こうして15年間、弟と、この家でずっと一緒に過ごしてきた。気付けば私の年齢を優に追い越し、赤ちゃんまで授かったという。

感情表現が得意でない弟は、彼女に自分の気持ちを伝えるのに苦労している模様。いい大人が、なにやってんだか。未成年の私でも呆れてしまう。
弟が弾丸のように玄関へ飛んできて、慌てて靴を履いていたので、思わず弟の背中にしがみついた。魂だけになってから、この家から外出するのは初めてだった。

うっかり弟に付いてきてしまったけど――いや、憑いてきてしまったけど、これからどうしたらいいのやら。

弟が喫茶店に入り、空いている席に着いた。私も弟の身体から離れる。こんなとこまで付いてきた――憑いてきたことが弟にバレたら怒られるから、声は出さないように気をつけよう。

昔ながらの純喫茶で、霊の私でも居心地がいい。

数分後、ドアベルが客の入店を告げる。さっきの彼女だった。

彼女は弟と向かい合わせに座ると、ちらりと私の方を見た。そして、戸惑いながら軽く頭を下げる。

「誰に挨拶してんの?」

と弟。慌てて彼女に、お願い、私の事は黙っていて、と声を出さずに必死で伝えた。

「いや、別に」

なんとかギリギリ彼女に伝わったようで、ほっと胸を撫でおろした。危なかった。

「なに? 話って」

彼女が冷ややかに問う。弟は困ったような苦笑を浮かべ、おずおずと答えた。

「もえの気持ちが知りたくて」

「気持ちってなに?」

「もえは、俺と結婚したくないってこと?」

彼女――もえさんは深いため息をついた。そして弟を睨みつける。

がしかし、急に私のことを思い出したのか、ちらりとこちらに視線をやり申し訳なさそうな顔をする。弟は俯いていて気付かない。

私のことは気にしなくていいから、ガツンと言ってやってと、また無言で念を送った。もえさんは小さく頷いて、にっと微笑んだ。

「結婚って、そもそも私たち、付き合ってないよね?」

「だけど赤ちゃんが……」

「赤ちゃんできたから、結婚するの?」

「赤ちゃんできたってことは、俺たちそういう運命なんじゃねーの?」

「運命なわけないじゃん! 若い男女がやることやったら、当然ついてくる結果じゃないの?」

恋愛経験ゼロの私には、ちょっと刺激が強いわ。

「もえは、俺と結婚したくないの?」

「またそれ。言いたいことはそれだけ? だったら帰る」

言って、もえさんは立ち上がった。すぐさま弟が身を乗り出して、もえさんの腕を掴んで引き留めた。

「待って。座って」

弟は縋るような瞳でもえさんを見つめる。もえさんは渋々、再び椅子に腰を下ろした。

「何を言えば正解?」

弟がテーブルに両肘をつき頭を抱えて言う。そして、

「姉ちゃん、居るんだろ? 教えてよ」

と。

バレてた。

「ズルい。お姉さんに頼るなんて」

「やっぱ居るんだ。霊感の強いお前が、さっきからチラチラ俺の横を見てるから、ひょっとして居るのかなって。でもおしゃべりな姉が、この状況で黙ってられるわけねーよなって、半信半疑だった」
「もえは、見えるの?」

「うん」

「姉ちゃん、どんな姿してる?」

弟は懐かしそうな顔を隣の私に向ける。でもやっぱり視線は合わない。

「高校生ぐらいの女の子。水色に羊の模様のパジャマを着てる」

「一番気に入ってたパジャマだ。未だにそれ着てんだ」

弟はそう言って、目に涙をためながら笑った。私はとうとう我慢できなくなって、口を開いた。

「もえさんのことどう思ってるか、ちゃんと伝えなきゃ! どこまで不器用なのよ、いい歳して。幸せになりたくないの? もえさん、ごめん。我慢の限界だった」

もえさんは『いいの、気にしないで』とでも言うように小さく首を振って微笑んだ。

「ああ」

弟は納得したような声を漏らした。そして、もえさんを真っすぐ見つめた。

「もえ……俺、初めて会った時からお前に夢中だった。一目惚れだったんだ。でもふられるのが怖くて、その気持ちを伝えられないまま、ずるずると過ごしてきた。自分に自信もなかったし、幸せにする自信も……。でも死ぬまで大切にするから、これだけは自信もって言える。だから、結婚してくれないか?」

もえさんの両目から、ほろほろと綺麗な雫が流れ落ちる。

「あなたとなら、たとえ不幸のどん底でも、きっと最高に幸せよ」

言って、満面の笑みを浮かべ、両手で涙を拭った。

ああ、よかった。もう弟は、私がそばにいなくても大丈夫。これからは、もえさんがそばにいるから。

ふわっと、まるで大きな手ですくい上げられたように宙に浮いて、私は弟ともえさんを空から見下ろしていた。全身が隅々まで中から綺麗に洗い流されている感覚がし、私の意識の中を、あらゆる記憶が走馬灯のように駆け抜けては消えていく。

とても温かくて心地いい時間が流れた。

弟ともえさんの声が遠くに聞こえる。やがて、それが誰の声かもわからなくなった。

「あっ」

「姉ちゃんがどうかした?」

「今、これぐらいの光になって空に浮かんだ」

「成仏した?」

「成仏するところ……かな?」

「きっと俺のせいで成仏できなかったんだよな」

「あっ」

「今度は何?」

「その光が、ここに入った」

「もえのお腹に?」

「うん」

「やだよ、俺たち姉ちゃん育てんのかよ? 勘弁してくれよ」


ああ、液体の中でふわふわして、なんだかとっても気持ちいい。

私は……私は……誰かしら?

2024.6.9 Fin.

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