夏が残したテラス……

「海里さん!」

 私は驚いて声を上げた。
 だが、もっと驚いたのは由梨華の方だろう。言葉も出せず、目を大きく見開いていた。


 海里さんは、私の頭をポンと叩き由梨華さんと私の前に屈みこんだ。


「俺は、たとえ奏海の存在が無くても大内さんと婚約はしない。俺は、会社の為に誰かと婚約はしない。それが、誰かの為になるとは思わないから」


「そんな……」

 由梨華は力無く下を向いた。


「大内さん、あなたは今まで、お父さんや大内と言う名に甘えて生きて来たんじゃないんですか? あなた自身の力で、何かを得てきましたか? たとえ、俺があなたと婚約しなくても、あなたのお父様は、自分の力でもう一度立て直す事が出来る人です。あなたも、いつまでも甘えていてはいけないのでは?」

 海里さんの丁寧な言葉に、あまり私が耳にしない、ビジネス的な物を感じた。


「海里さん……」

 由梨華は、泣きはらした顔を上げた。


「俺も、決して偉そうな事を言える人間では無いんです。俺もずっと、父や志賀グループの名に甘えて自由に生きて来た人間なので。でも、この店、そして奏海に出逢って、自分の力で得ようと思えたんです。守りたいもの、背負いたいものが出来たから……」

 海里さんは穏やかな口調だが、目は力強く凛々しかった。

 私は、この目を、この言葉を私は永遠に信じて行くのだと思う。


 由梨華さんの泣きはらした顔、高橋くんの悲しげな笑顔……


 みんな、感情のコントロール効かなくて苦しかったんだろう……

 どうしていいか分からず、人に感情をぶつけたり、時には嘘を付いて人を傷つけたり、
何も見えないまま、感情ばかりが先走ってしまったのだろう……
 
 それでも私は、志賀海里とう人と一緒に、これからの道を歩んで行きたい。
「スープが残っているんです。一緒にいかがですか?」

 私の言葉に、驚いたように由梨華が顔を上げた。


「なによ…… 私に勝ったからって、偉そうに…… バカにしないでよ」

 由梨華は、悔しそうに膝の上の拳をギュッと握った。


「こんな店の残り物ですみません……」

 私は、立ち上がると、キッチンに入りスープの入った鍋に火をかけた。すぐに、温かいいい匂いが店の中に広まった。


 海里さんが立ち上がり、カウンターの椅子に座った。


「しょうがない。特別に飲ませてやるよ」

 海里さんは、由梨華さんに座るようカウンターの椅子に手を掛けた。
 海里さんの口調は、さっきのビジネス的な物でなく、いつものそっけない物だった。それが、逆に由梨華の気持を動かしたのかもしれない。


「えっ? 特別……」

 由梨華さんは、何かに動かされるように立ち上がるとカウンターの席にストンと座った。


 私は何も言わず、温まったスープをカップに注ぐと、由梨華さんの前に置いた。湯気が立ったスープを見つめていた由梨華さんはスプーンを手にすると、戸惑いながら口に運んだ。


 一口含むと、由梨華さんは手を止めた。


 やっぱり、お嬢様の口には合わなかったのだと思ったが……
由梨華は、スプーンを握り直し、二口目を口に入れた。そのまま手を止めず、スープを口に運び続けた。


「俺の分は?」

「えっ。飲むの?」

「当たり前だろ」


 由梨華が、顔を上げた。

「おいしい……」

 由梨華の青白かった顔に赤みが差していた。そして、すこしだけほほ笑んだ気がした。


「外、寒かったから旨いだろ?」


「うん…… もっと、早く気付けば良かった」

 由梨華の目が滲んだ。


「今だから、気付くんだよ。アホだって分かった時になぁ……」

 海里さんは、意味あり気に私を見て、軽く笑った。


「何よ、それ! いつでも美味しいとか言ってくれればいいじゃない!」

 私も海里さんを見て、睨んだ後に顔を緩めた。


「ほんと、アホみたい…… 海里さんとあなたって…… なんだろ…… 同じ波に乗っているみたい。とても一緒にはついていけないわ……」

 由梨華は、大きくため息を着くと、最後の一口を飲み干した。


「海里さん、また、アホって言われちゃったね。あははっ」

 私は、なんだか可笑しくなって笑い出してしまった。


「俺だけじゃないだろ」


「えーっ。あははっ」

 私は、海里さんと目を合わせて笑った。


「ほんと、何だろ…… アホらしくなってきたわ…… あははっ」

 由梨華さんも、泣きながら笑い出した。


  今、由梨華がどんな気持ちでいるのかは分からないけど、きっと、いつかまた、ここにスープを飲みに来て欲しい。

 今は、心からそう思える。
リゾートホテルの倒産。そんな、情報が耳に入ったのは、今年も終わりに近づいている頃だった。

 この時期の、リゾートホテルの影響はそれほどないが、来年の夏の事を考えると気が重い。さすがに、私にだってそれぐらいは分かる。

 だが、パパはリゾートホテルの話は一切口にしなかった。


 テラスに立ち、冬の海に佇む大きなホテルを見つめる。年末年始の宿泊を最後に、ホテルは閉鎖された。
 もっと、活気が無くなりお化け屋敷のようになってしまうのかと思っていたが、後処理なのか? ホテルの窓からは光りが漏れている。確かに、営業していた時の賑わいは無いものの、人の気配はあった。
それも、数週間だと思っていたのだが、ホテルから人気が無くなる事は無かった。


 海とホテルを見つめながら、温かいコーヒカップを手に、海里さんの事を考える。年が明けても、海里さんは忙しいみたいで、夜時々顔を出すくらいだ。その度に、温かいスープと軽い食事を作る。他愛も無い話に笑って時を過ごす。

甘い言葉もキスも、あの嵐の夜から一度もない。
まあ、店にはパパがいつも居るから仕方がないが……


海里さんの事も、ホテルの事も気にならないと言えば嘘になるが、不思議と不安は無かった。
海里さんが「俺を信じろ」と言ってくれた。だから大丈夫だと思えた。今は、待つ時なのだろう、きっと、私に何か出来る時がくれば言ってくるはずだ。


 海からの風は冷たい。


 冷たい風を頬にうけ、そろそろ店に入ろうかと向きを変えようとした時、冷たい風が遮られた。
後ろから、すっと腕が伸び首に回った。
 「きゃっ!」一瞬小さく驚いたが、海里さんの匂いに、すっと力が抜けた。

 頭の上に、海里さんの吐息がかかる。
 何も言わず、後ろから海里さんに抱きしめられたまま、二人で海を見つめる。
 言葉は無くても、愛しさに満たされていく。

 そうか。今、パパ居ないんだ……

 私の冷たい髪に、海里さんの暖かい頬がぎゅっと当てられる。
 そして、重なっていた腕が緩み、私の頬が暖かい手に触れられた。


「しっかり冷えちまってる……」

 そう言うと、海里さんは手にスッと力を入れ、私の顔を上げさせたと同時に唇を重ねた。

 誰も居ないとは言え外のテラスだ。

「ちょっと、外だよ……」

 私は、唇が離れた瞬間に言ったのだが、直ぐに又塞がれてしまった。
 今度は、角度を変えながら何度も何度も。
 激しく息をする間もないのに優しくて……

 いつの間にか私の手は、しっかりと海里さんの背中に回っていた。

 すーっと口の中を、海里さんの舌が回ったのが分かった。驚いたのは一瞬で、背中に何かが走ったような感覚に力が抜けそうになり、海里さんがぎゅっと腰を抱きしめた。
 すると、海里さんの舌は、私の舌に絡みだし息もつけず、でも気持ちよくて、ぼ―とっとなる。

 長い、長いキスの後、やっと、海里さんは唇を離し、又、私を後ろから抱きしめるように海を見つめた。

 「心配するな」

 そう言った海里さんを見上げると、海里さんはホテルの方へ目を向けた。


「うん。でも、私に出来る事はないんだよね?」

 私は、小さな声で言った。

「今でも、十分力になっている。いつか、分かるよ……」
 
 海里さんば、ぎゅっと力を入れて抱きしめてくれた。

「えっ…… でも……」


「じゃあ、取り合えず、コーヒー淹れて。これから、まだ仕事に戻らなきゃなんだ」


「えっ? うん……」

 そうか、帰るのか…… 
 少し淋しくなり、海を見つめた。

 まるで、私の気持を受け取ったように、海里さんの顔が近付きふっと唇に触れた。

 今度は、優しい短いキスを落とした。
それから、数か月……
 海里さんとは、ゆっくり会う間も無く過ぎていた。

 冷たい風も緩んだが、春の強い風が吹く。でも、天気のいい穏やかな日には、海岸に砂浜で過ごす人の姿も見え始めた。

 今年の夏はどうなるのだろう?

 でも、ホテルはお化け屋敷になる事は無く、どちらかと言うと以前より綺麗に凛々しく建っている気さえする。

 そんな事を思いながら、テラスでホテルを眺めていた。

「リゾートホテル、別の会社が買い取ったらしい」

 パパが、テラスに出てきて言った。パパが、ホテルの事を口にするのは、これが初めてだった。これはチャンスだと思い私も口を開いた。

「そうなんだ…… でも、うちと前みたいに契約してくれるかは分からないよね?」

「そうだな。これから交渉の話になる」

「大丈夫かな?」

「ふっ。奏海が交渉すればいい」

 思いも寄らない言葉に、私は、パパの方へ振り向いた。


「何言っているのよ! そんな難しい事出来る訳ないじゃない」


「お前だって経営者だ。これからは、そのくらいの事やってもらわんとな。俺は、海のそばでのんびり過ごしたい……」


「何、アホな事言ってるのよ」

 私は、呆れてパパを睨んだ。今まで、店の事も、リゾートホテルの事も一切口にしなかったのに、突然何を言い出すのか……


「まあ、半分冗談だが、半分は本気だ。来週末、ホテルの経営方針発表があるらしい。家も呼ばれている。奏海も一緒に行くぞ」

「ええ―っ」

 私は、大きな声を上げた。
桜の花びらがチラチラと舞い、海の色も青く綺麗な朝。

 今日は、リゾートホテルの経営発表の日。昨日から、緊張と、あまり着慣れないスーツを目の前に落ち着かない。

「おはよ―」

 店からの声に、慌てて階段を降りた。


「うわ―っ。美夜さんどうしたの?」

 私は驚きと嬉しさで、美夜さんに抱きついた。


「準備にきたのよ」


「何の?」

 私は、きょとんと美夜さんの顔を見た。


「今日ホテルに行くんでしょ? 私も呼ばれているの。早く着替えて!」


「う、うん」

 そう言えば、美夜さんも、いつもと違って綺麗な黒いワンピーズを着ている。美人がますます目立つ。


「美夜さん、綺麗……」

 思わず、ポロリと口から出てしまった。


「私の事はいいから!」

 私は、美夜さんに引きずれるように二階に上がった。

 美夜さんは、手にしていた大きなロゴの入った紙袋を開いた。中から鮮やかなブルーのワンピースが出て来た。しかも、あちらこちら白い石がちりばめられキラキラと光っている。


「綺麗…… 誰が着るの?」

 私は、ワンピースを見つめて言った
美夜さんが、大きくため息をついたのが分かった。

すると、階段を上ってくる足音がしたかと思うと、

「姉ちゃんこれで、全部か?」

ユウちゃんが、荷物をドサっと置いた。


「オッケ―よ」

「じゃあ、後は頼んだ。俺は先に行ってる」

 ユウちゃんは、そう言って、私に手を振って行ってしまった。


「さあ、着替えて」

「着替えるって?」

「このワンピースよ」

「スーツの方か……」

「ごちゃごちゃ言わない。今日が勝負なんだから!」


「そうだけど……」

 と、言い終わらないうちに、美夜さんにワンピースを押し付けられた。

 言われるまま着替え、鏡の前に立つ。


「凄い! 似合ってるわ」

 美夜さんは満足そうに、眺めると、大きく肯いた。

 鏡に映る自分に、似合ってない訳じゃないと思うが恥ずかしい。

「はい、座って」

 美夜さんに、椅子に座らされた。
 美夜さんは慣れた手つきで、私の髪の毛をさっと上げた。なにやら、ピンで止めたり、ホットアイロンでクルクルしたり、何されているのか分からないが、美夜の真剣な目に、何も聞けずにいた。


 美夜さんは、私の顔をじっと見ると、大きな化粧箱を取だし、私の顔になにやら塗り始め、目や頬をメークし始めた。

 そして、爪にはネイルを……

「よし! 完璧」

 美夜さんは、私を鏡の前に立たせた。


「!」


 言葉を失ったというのはこういう事だろう。
 鏡には、キラキラ光る青いワンピースに、髪をアップにした、別人に近い私が居た。だけど、腕のブレスレットにが、やけにワンピースと合っている事に少しほっとした。

 美夜は、ユウちゃんの置いて行った袋から、ハイヒールと鞄、それに、ベージュの春のコートを出した。


「さあ、時間がない、行くわよ」


「は、はい……」

 私は、コートを羽織り、鞄とハイヒールを手に階段を降りた。


 店には、スーツをバシッと着こなしたパパが待っていた。初めてみるパパのスーツ姿はカッコ良かった。

 パパは、何も言わず優しくほほ笑んでくれた。

私達は、リゾートホテルのロビーへと足を踏み入れた。

「うわ―っ」

 美夜さんの歓声が上がったが、私は、声を上げる事も出来ず、その場に立ちつくした。

 数年前に一度、このホテルの中に入った事はあったが、その時とは全く違う。外観からは、近代的な印象を感じていたが、吹き抜けのロビーからは、緑の植物が生い茂っていてまるで南国の島にでもいるかのようだ。

 そして、ロビーの前に広がるプールから、そのまま海に繋がっているように一体化されている。外からの風が、吹き抜けるようになっていて、どこからが室内なのか分からない。

 ホテルのスタッフは、暖かい笑顔で迎えいれてくれる。

 なにより驚いたのは、ホテルのテラスから、うちの店が見える。
 それが、まるで一枚の絵のようだ。


「す、凄い…… 奇麗……」

 そんな、言葉しか出てこなかった。

 パパも、何も言わず立ちつくしていたが、ホテルの凄さに驚いているだけだと思っていた。


「お時間まで、ホテルの中をゆっくりとご覧ください。宿泊ルームもご覧いただけますので」

 丁寧に、案内してくれたのは、ホテルのコンシェルジュの女性だった。


「ぜひ、拝見させていただきます」

 パパが、答えているが、私はテラスから見える店から目が離せなかった。