柳原中から、歩いて五分くらい。
 会話もなく歩いて着いた、茅野さんの家。
 とても立派な家だった。
 庭があって、駐車場も二台分くらいあって。
 門から玄関までも少し歩くくらいに大きな家だ。
 でも。
「…誰もいないの?」
 真っ暗。駐車場は空っぽ。
 ご両親、寝ちゃってるわけじゃなさそうだ。
「…いつも」
「え?」
「いつも、こんな感じ」
 そう言って、茅野さんは俺の右手を取った。
 お互い様の、冷たい手。
 両手でキュッと握ってくれた。
 俺、頭、真っ白。
「…ありがとう」
「う、う、うん」
「誘ってくれて…ありがとう」
「や、あ、べ、別に」
「…一緒にいてくれて、ありがとう」
「そ、そんな、俺の方こそ」
「送ってくれて…ありがとう」
 茅野さん。
 うつむいた茅野さんは。
 静かに泣いていたんだ。
「…茅野さん?」
「…ごめんなさい」
 手を離し、指先でそっと涙を拭いて、
「今日…楽しかったね」
 って、小さく微笑ったんだ。
 だから。
 きっと。
 笑顔のせいなんだ。
「か、んざ、き、くん?」
 気がつけば俺、茅野さんを抱きしめていた。
 まったく意識してなかった。
 そんなことしようなんて、ちっとも思ってなかったよ。
「…」
 腕の中に、大好きな女の子がいる。
 あったかくて、柔らかくて、いい香りがして。
 茅野さんと俺は、ほとんど身長か変わらないから、胸の中に抱く…ってよりは、ゴールが決まったあとのサッカー選手が喜んで交わすハグみたいになった。
「…」
 茅野さんは、俺の背中に腕を回してくれた。
「…茅野さん」
「…はい」
「また、一緒に遊ぼう」
「はい」
「俺、何度だって誘うから」
「はい」
「茅野さんも、俺を誘ってね」
「はい…」
 茅野さんの腕に、力が込められるのが分かった。
 俺も、ちょっとだけ強く、茅野さんの細い身体を抱きしめたんだ。
 離したくなかった。
 …どれくらい、そうしてたんだろう。
 どこかの家のドアが開く音が聞こえて、茅野さんの身体が離れた。なんだかくすぐったくて、俺は意味もなく笑っちゃってた。
「じゃあ、またね、茅野さん」
 こくん。もう見慣れてた、ちっちゃなうなずき。「おやすみなさい」とささやいた茅野さんが、なんだかはにかんだような小声でそっと、
「…神崎くんって、あったかいね」
 
それが、この年に起きた初めての出来事だったんだ。
 あれから、三学期はあっという間に通り過ぎた。
 季節はいつしか、春。
 桜も咲いて、風もだいぶあったかくなって。
 春休みが終わった。
 その間、俺は毎日同じように、「神様お願いします」ってお祈りをしてた。もっぱら寝るときに。
 ベッドに入るでしょ?
 そしたら眠るまでずっと想うんだ。
 茅野さんのことを想うんだ。
 神様、お願いします。
 どうか茅野さんと同じクラスになれますように。
 もっともっと、茅野さんと仲良くなれますように。
 って、さ。
 三学期、そして春休み。
 その間、茅野さんは野球部の練習試合、四試合に出場して六本のホームランを打ってた。休み中に部活で学校行ったら、もう噂になってた。
 そして四月。
 いよいよ明日は始業式。遂に運命の日が来た。
 とにかく中学生最後の年は、茅野さんと同じクラスにならなくっちゃお話にならない。修学旅行だってあるし。
 前日、俺は茅野さんちに電話をかけて、一緒にクラス発表を見に行かないって誘ってみた。ちょっとだけ早起きして、みんなが登校してくる前に見ようよって。
 返事は「…行きます」だった。
 ちなみに茅野さんは、ケータイを持たない女の子。買ってもらわないの? そう聞いた俺に、茅野さんは「わずらわしくて…」って微笑ってた。よく見せてくれる、寂しそうな微笑みだった。
 だから俺、それ以上は聞けなかったんだ。

 始業式の日。
 いつもより早起きしてシャワーを浴びてから、登校。早足で学校に行けば、そこにはもう茅野さんがいた。
 桜の下で、春風に吹かれながら青空を見上げていた。
 眩しかったな。
「…おはよう、神崎くん」
 長い黒髪が桜の中で揺れて、俺に笑顔を向けてくれた。
 だから俺、いまの自分が持ってる精一杯の大好きを込めて、
「おはよう、茅野さん」

 柳原中の校庭。正面玄関の横に、特設の掲示板。前の夜にでも、先生が用意したのかな。
 茅野さんと二人だけの校庭。
 肩を並べて、掲示板を見る。手分けして見れば早いのは分かってるんだけど、やっぱり一緒がいい。一緒に見たい。
「…」
「ないねえ」
 こくん。茅野さんと俺は出席番号が近い。かやの、かんざきだからね。だから自然と、同じようなところを見てる。
 三年一組から順番に見て、二組、三組…ない。
「あ」
「あった?」
 茅野さんの声に反応すると、
「紅葉、四組」
「あんなのどーでもいーって」
 茅野さんが口にした紅葉ってのは、俺の幼なじみ、藤波紅葉のこと。これがもう、本当に女か? ってくらいにガサツでだらしないばかでね。
 どーゆーわけだか、茅野さんとは仲が良いんだ。
 一年生の頃、しょっちゅう俺のクラスに遊びに来てて、俺は俺で茅野さんに夢中なもんだから、自然と三人で話すようになって、そいで仲良くなったみたい。
 ちょっと羨ましいのは、あのばかが、茅野さんから「紅葉」って呼ばれてること。俺なんか、まだ「神崎くん」なのに。俺も「秋弥」って呼ばれたいな。
 だいたい紅葉のくせに、茅野さんから…。
「あった」
「え?」
「五組。一緒」
「え、どこ」
 いかんいかん、紅葉のばかのことなんかどうでもいい。
 俺は慌てて、掲示板を見直す。三年五組。
 あった。
 茅野霧香。
 神崎秋弥。
 二人の名前が並んで書いてあった。
「うそ、マジ?」
「…マジです」
 そう言って、茅野さんはにっこり。ちっちゃく、
「やったね」
 って、胸元で拳を握った。そんな仕草は、俺のハートを直撃した。
 だってさ、これって茅野さんも喜んでくれてるってことじゃんかさ。俺、凄い嬉しいよ。
「…お、おー、神様っているんだ…」
「?」
「あ別になんでも。それよりまた一緒だね。よかった」
 こくん。うなずいてから、茅野さんはぽつりと、
「あの…ね」
「なーに?」
「一緒のクラスになれたら…」
「うん」
「お願いしようと…思ってたことがあって」
「うんいいよ。なーに?」
「にこ」
 茅野さんはうつむいて、
「いっこは…秋弥くんって呼んでもいい?」
「ぜひ!」
 お願いしたいと思ってました!
 ってか、思ったばっかです!
「もいっこは…」
「なに? なんでもいーよ」
「また…」
「うん」
「この前みたいに…」
「え?」
「ぎゅーって…してください」
 いいいいいいいいいいいいいいの?
 いきなりハートが高鳴った。いつも胸中に流れてるロックンロールがヘヴィ・メタルに変わったみたいだよ。
 どきどきどきどき。
 鼓動が暴れてる。
 茅野さんはうつむいてもじもじもじ。白いはずのほっぺがほんのり紅だー。
「やじゃ…ない?」
「まさかっ! 俺でいいの?」
 こくん。うつむき加減で上目遣いに俺を見た。それ反則。かわいすぎ。
「秋弥くんじゃなきゃ…やです」
「じじじゃゃ、ええ遠慮なくく」
 大晦日の夜は、勢いでやっちゃった。
 けどいまは、ちょっと違う。
 だけど、真っ赤になってうつむいて気をつけしてる茅野さんを見てたら、テレちゃう気持ちがすっ飛んだ。
 ちょっと手が震えちゃってるみたいで…そりゃ俺も一緒だけど、そんな状態なのに、ただ俺を待ってくれてる。
 応えなくっちゃ、男じゃない…よね?
 …。
 あの、さ。
 これ、俺の自惚れかも知んないけど。
 でも、思うんだ。
 茅野さんの俺への気持ちって、まんざら悪いものじゃないよね、って。
 大晦日の夜、俺の手を握ってくれたこととか。
 抱きしめても嫌がらないでくれたこととか。
 会話のひとつひとつとか。
 普通の友達関係よりは、ずっと進んでると思う。
 だって、ただの友達じゃ…ぎゅーってして、なんてこと言わないもんね。
「ね、茅野さん」
「はい」
「俺も、ぎゅーってしたいけど、さ」
 人が。
 もう、登校してきた人が増えてきちゃったんだ。
 俺がぐずぐずしてたのがいけないんだ。俺なんかどーせ。
 でも、さ。
 お前らみんな遅刻して来いよなー。
「いまやったら、目立ち過ぎちゃうね」
 こくん。くすっと微笑んで、茅野さんはぽつり。
「…今度」
「うん?」
「チャンスがあったら…お願いします」
「喜んで!」
 前に、とーちゃんに連れてかれた居酒屋の店員さんが、こんな返事してたっけ。すげえうるせえ返事。
「じゃ…茅野さん。教室、行こっか」
「はい」
 一度、顔を見合わせて。
 なんとなく笑っちゃって。
 俺たちは、歩き始める。
 振り向かずに歩いて行く。
 新しい場所が、そこにあるんだ。