ただなんとなく、今日はなんとなく聞いてみようと思ったのだ。けれど、岡澤の答えは光希の想像外だった。
「もしかすると、なんだけどさ。あるかもしれないな、海外赴任」
「イギリスに、って事?」
「まぁ、そうなるとしても一年後とかだろうけど」
答えながら、反応を伺うように光希の顔を見つめる岡澤の顔はどことなく不安げだ。
「ーーーそう」
でも光希もどう返事したら正解なのか分からない。素っ気なく答えて、食事の準備に戻った。それを聞いた岡澤も何事もなかったように、スーツケースの片付けを再開する。
キッチンから洗濯物を出す岡澤の背中を見ながら、光希はさっきの会話を思い出していた。
「遠距離恋愛なんて寂しい」と泣けば可愛げがあっただろうか。それとも「一緒に行きたい」と言えば喜んでくれただろうか。
でも光希にはどちらも言えなかった。
岡澤の家族の話を聞く前なら言えたかもしれない、と小さく息を吐く。
そのまま食事の準備を続ける光希に、思い出したと岡澤が声をかける。
「明後日の日曜、ちょっと用事があるから出かけるよ」
「日曜日かぁ。何時くらい?」
「んー、昼過ぎには家を出るかな。光希、どうする?待っててくれる?」
「午後いないんだったら、私もそのタイミングて帰ろっかな。月曜日、早めに出勤したいし」
あっさりとした光希の返事に、岡澤はわざとらしくガックリと項垂れる。
「そこは、待ってる!って言うトコじゃないの?二週間振りに会ったのにさぁ」
「えー。でも今から日曜日までずっと一緒にいられるし」
「そんな風に言われたら、一緒にいたいの俺だけみたいだって拗ねるよ」
軽口を続ける岡澤のおかげでさっきまで胸につかえていた悩みが流されていく。
にこにこと笑いながら話す岡澤はきっと、光希の気持ちを分かって空気を変えてくれているのだ。
岡澤が光希を大切にしてくれる気持ちに応えたくて、光希も笑顔を浮かべる。
数日後には、その気持ちが切なくなるとも知らずに。
岡澤の帰国から一週間後の金曜日、清花を待ちながら、光希は何度目かのため息を吐いた。
理由は岡澤の事だ。
先週の日曜日、用事があると言った岡澤はスーツ姿で出掛けた。しかもビジネス用ではなく、お洒落で少しフォーマルな装いのスーツ。
しかも、思わず「どこ行くの?」と聞いてしまった光希に、困り顔をした岡澤は「ちょっと家族の用事」とだけ言って詳しく答えてくれなかったのだ。
何となく面白くないし、岡澤の家族の事も考えてしまうし、それ以上は光希も何も言えなくて、そそくさと帰ってきてしまった。
そのまま、心の隅っこに小さな棘が引っかかった感覚のまま。
「約束通り、今週の金曜日に会社の近くで飲もう」
との岡澤の誘いに先約があると嘘を付いて断って。でも嘘も心苦しくて、清花を夕飯に誘って。
それでも棘が引っかかったままだから、清花を待つ間も光希はため息ばかり吐いている。
「光希さーん!」
だが、少し遅れてやってきた清花は真逆のテンションの高さで光希を驚かせた。おっとりお嬢様な清花は、嬉しい時でもこんな風に感情を弾けさせて喜んだりしないからだ。
「何!?清花ちゃん、いつもと違くない?」
「うふふっ。だって嬉しいのが止まらなくて」
ハートが飛びそうなその声から、光希はピンと来た。
「もしかして……」
「はい!お見合いしたんです。久し振りにお会いしたら更に素敵になってらして。私はもう、すぐにお話進めて下さいって」
頬を染めて話す表情はすっかり恋をしている。
屈託なく恋を喜ぶ清花に、光希も嬉しくなった。
「じゃあお見合い、成功だったんだ」
「はい。両親も喜んで、卒業と同時に結婚式なら忙しくなるって今から張り切ってて」
「清花ちゃんってば恋人を通りこして、一気に婚約者なんて凄いね」
「ふふ。お見合いですからね」
最近うまく歯車が回らない自分の恋愛の苦しさに目を背けるように、光希は清花を質問責めにした。
「ね、婚約者さんはどんな人?」
恋に浮かれて話したい清花も、恥じらいながら嬉しそうに話す。
「元々、父同士が友人で。彼は商社にお勤めされてて、私が卒業する頃に海外に赴任される予定だそうです」
「清花ちゃん、結婚と同時に海外生活なんだ!」
「はい。親の勧めで英会話を習っておいて本当に良かったです。英語が出来ればどこの国でもとりあえずの生活は出来ますから」
「なるほど……」
結婚相手が海外赴任するなら英語が出来たに越したことはない。そんな単純な事実に今更気付いた光希は質問を畳み掛ける。
「ね、それってさ、今から習っても間に合うかな?やっぱり英会話スクール?日常会話が出来るようになるまでどれくらいかかる?」
「み、光希さん?」
さっきまで自分の結婚話で盛り上がっていたはずが、急に英会話の話になって清花も目を白黒させる。
「あ、ごめんね。実は私の彼氏さんも海外赴任するかもって話が最近出てて……」
「あぁ、光希さんと彼氏さんも商社にお勤めでしたものね」
「あ、でもね。彼の場合はするかもって感じで、清花ちゃんの婚約者さんみたいに決まった訳じゃないんだけどね」
「でも赴任される時は光希さん、一緒に付いていく覚悟なんですね」
質問でありながら確認するような問いに光希はこくんと頷いた。
「彼がそれを望んでくれたら、ね」
その答えに清花の顔に満面の笑みが浮かぶ。
「素敵です。それなら、直ぐにでも英会話始めるべきです」
「そう、だよね」
もし海外赴任の話しがなくなっても、岡澤の隣に立つなら出来る事が多いに越したことはないだろう。
英会話だけじゃない。出来る事が増えれば、自信にもつながる。岡澤に言い寄る女性と戦う為の武器にもなるかもしれない。
本当に御曹司なら、きっと周囲にいる女性も教養と嗜みがあるお嬢様が多いだろうから。
「ね、清花ちゃんさ。習い事って何してた?やっぱり茶道と華道?」
この二つはお嬢様の習い事のテンプレートだろう。付け加えるならそこに英会話だろうか。
自分にとって一番身近なお嬢様である清花は良いサンプルだと、突っ込んだ質問もしてみる。
「習い事ですか?そうですね……英会話以外でしたら茶華道とお習字、着付けとスイミング。あとは絵画教室にも行っていました」
「そんなに!?」
「まぁ、親の体面もありますので……」
令嬢として生きるのも案外大変なのだ、と苦笑する清花に光希も笑いが引きつる。
「とりあえずは英会話、かな」
何もお嬢様と戦うと決まった訳じゃない。岡澤と一緒にいるために習得するのだから、無理をする必要はない。
気持ちにつられて、いつの間に合にか前のめりになっていた姿勢を正して、ゆったりと座り直した。