「ーーーはい」
「そうして、慈しみあって支え合って生きていこう。俺の一番近くで、光希の一番近くで」
「ーーーはい」
「だから冴島光希さん、結婚してください」
「ーーーっはい!」
力強く頷いて、光希は岡澤の胸に飛び込んだ。涙でぐしゃぐしゃの顔も泣き過ぎてシャックリの止まらない呼吸も気にならない。
「もっと、ずっと、シンプルな事だったんだ、ね。先輩の、事が、好きで離れたくないっ、て。私、を、ずっと好きでいて欲しいって」
シャックリのせいで途切れ途切れになってしまったけれど、素直な気持ちを伝えると、岡澤は抱き締めるその腕に力を込めた。
「そうだね。俺も光希も大人ぶろうとして複雑に考え過ぎてた。ホントはもっとずっとシンプルだったのに」
嬉しそうな吐息と共に吐き出される言葉に光希はコクコクと頷く。
ずっとどうすれば良いのか分からない、まるで深い霧の中にいるような心境だったのに、今は一転して快晴の空の下にいる気分で、うっとりと温かな腕の中を堪能していたい。
その光希の気持ちを裏切るように、急に腕の中から離された。
「光希、善は急げだ」
「へ!?あ、あの……え?」
強い決意を秘めた視線で宣言した岡澤が、また光希の手を強く握って歩き出す。
急展開過ぎる状況に理解が追い付かなくて、制止も同意も出来ない光希はあたふたと連れられるがまま。
「あの……先輩、どうしたんですか?」
やっと口に出来た質問は、エレベーターの登りボタンを押した岡澤の清々しい程の笑みで返された。
「会長室だよ。結婚するって決めたんだから、早く報告した方がいいだろ」
「えっ!?いや、ならせめて、化粧直しさせて下さい!私、今ぐしゃぐしゃの顔で……」
「だーめ。俺はもう待たないって決めたし。それに光希はちょっと逃げグセあるからなぁ」
「そんなぁー。恥ずかしいからホント、ダメだって……」
「はい、エレベーター来たから乗るよ」
結局、光希の抗議も虚しく、五分後には満面の笑みの岡澤と小笠原会長の前で結婚の挨拶をするはめになった。
その夜、ご機嫌な岡澤の部屋で光希は放心状態で座っていた。
「光希?大丈夫か?疲れた?」
「ーーー疲れたっていうより状況の変化についていけなくて」
はぁっと大きなため息を吐いた光希は恨めしげに岡澤を見上げた。
「大体、展開が早すぎるんですよ。プロポーズの返事をしたらすぐ会長に挨拶で、そのまま若松課長に結婚の報告って。帰りには迎えにまで来ちゃうし」
「だから善は急げだって。それにさ、藤末さん達とのやり取りが結構噂になってたから、これくらいやっといた方が手っ取り早いよ」
少し悪びれずに言われると、もっともだと納得してしまいそうになる。でもそれではいけないのだ。
光希はキッと睨み上げて、語気を強めた。
「そういう事じゃなくて、私の立場も考えて欲しいんです。いきなり先輩と二人で、じゃなくて課長には私から前振りって感じで話しておきたかったし、静香さんにも先に言っておきたかったから」
喜んでくれてはいたが、若松課長をはじめとする施設資産管理課の面々の驚きは半端なかった。皆大きく目を見開いて、岡澤の挨拶を聞いた後もしばらく声が出なかった程だ。
事情を知っている静香さんでさえ「おめでとう」と拍手してくれるまで、数秒かかった。
「でもみんな凄く喜んでくれてたけど?」
キョトンと首を傾げる岡澤は納得出来ないらしい。
「それはそうですけど。でも、私、まだ先輩に聞かなきゃいけない事聞けてないし」
その仕草の可愛らしさにキュンとしながら、心にムチ打って強く言う。
「聞かなきゃいけない事?」
「そうです。それのせいで、私凄く悩んだんですから」
聞かなきゃいけない事とは岡澤の家族のことだ。長く付き合った自分に打ち明けてくれていない事で深く悩んだのだと打ち明ける。
光希としてはかなり思い切った発言だったのだが、岡澤はまだキョトン顔のまま。意味が理解出来ないと顔に書いてある。
「親の職業って普通、言う?」
「え?」
思ってもみない返答だった。光希も負けないほどのキョトン顔になる。
「俺も光希の親の職業はサラリーマンとしか知らないけど、聞こうと思った事も聞く必要もないし」
「それはそうだけど……。で、でも先輩のところは特別だし」
「特別じゃないよ。銀行マンだったのが、たまたま頭取に出世したってだけで」
「じゃあ、小笠原会長は?」
「それも一緒だよ。叔父さんも最初は普通にサラリーマンだったし、世襲で社長になってる訳じゃない。光希だって親の職業で付き合う相手を選んでるわけじゃないだろ?」
言い切られると、こだわっていた自分の方がおかしい気がしてくる。光希は反論の言葉が出なくなった。
「でも、叔父さんの事は言っとくべきだったと反省してる。同じ会社のトップが恋人の親戚ってやっぱり知っときたいよね。ごめん」
謝ってくれてはいるけれど、光希が言いたかった事とは論点がズレている気がする。それが歯痒くてモヤモヤして、文句を捻り出した。
「じゃあ、じゃあ、いつかの日曜日にお洒落して出かけた時は?どうして理由を教えてくれなかったのよ?」
「あー、あれは……恥ずかしかったんだよ。だってそろそろ三十歳になろうかって男がフォーマルな格好して家族と食事なんてさ。うちは母親がそういうの好きでたまに付き合わされるけど、一般的じゃないのは分かってるし」
「恥ずかしかったって……それだけ?」
たったそれだけの理由だったのかと力が抜ける。
「好きな彼女にマザコン疑われたくなかったんだよ」
ちょっとキレ気味に言い切った後、岡澤は強引に光希をその腕に閉じ込めた。
「それで?もう聞かなきゃいけない事は終了?」
「ーーーん、終了」
確かに光希が岡澤を好きな気持ちに家庭環境や親の職業は関係ない。ほうっと息を吐こうとして、気がかりを思い出した。
「あ、やっぱりもう一個!先輩のご両親は私の事、認めてくれますか?」
清花との縁談を勧めていたのだ、反対される事もありえる。
腕の中、不安げに見上げる光希の顔は岡澤が好きだと言っているも同然で。岡澤は幸せだと微笑んでその額に軽くキスを落とす。
「その顔、そそられる」
「先輩!そんな事言ってる場合じゃ」
「大丈夫だよ。光希を迎えに行く前に電話したけど、俺が好きな子と結婚したいって言ったら喜んでた。ただ、清花さんには悪い事したって言ってたけど」
「ーーーそうだよね」
憧れの人との縁談を心から喜んでいた姿が浮かんできて、光希の心が沈む。
「今度、ちゃんと謝ってくるよ。こっちの都合で振り回してしまったんだからね」
「うん……」
幸せな気持ちに混じった切なさは、より際立ってしまう。泣き出しそうになる光希を強く抱き込んだ岡澤は、安心させるように囁き続ける。
「心配しないで。大丈夫、俺たちは祝福されて幸せになれるよ。俺が光希を守るから、光希は俺を信じてて」