大手一流商社勤務と聞けば、大抵の人は綺麗なオフィスと手厚い福利厚生と同時に英語が飛び交う活気溢れるグローバルな職場をイメージするだろう。
確かに、冴島光希(さえじま みつき)の働く本社オフィスはとても綺麗だし、廊下では外国人社員とすれ違う事も珍しくない。
でも、光希が所属する場所に一歩足を踏み入れると、その空気はガラリと変わる。
財務部施設資産管理課。
十数名のメンバー中、女性は三人。一人は時短の派遣さんだから、正社員としては五年目の光希と更に五年先輩でママさん社員でもある吉村静香さんと二人だけ。男性陣もミドル世代以降が大半で、社内でもかなり落ち着いた部署なのは仕事内容に比例しているのだろう。
「冴島さん、ちょっと頼まれてくれるかな」
「はい、何でしょう」
部署内でも一番奥、みんなのデスクを見渡せる席に座った若松課長から声が掛かり、光希は席を立った。
「悪いんだけどね、この書類を海外営業部の岡澤主任の所に届けて欲しいんだ。ついでの時で良いとは言ってくれたんだけど、岡澤君も部長に急に頼まれたみたいだし。それに彼らはいつでも日本にいるわけじゃないからね」
「それはそうですが……」
『海外営業部の人間とはなかなか会えないから、会えた時は全ての用事を済ませる』という会社の人間なら誰しもが知る格言を思い出して、光希は苦く笑った。
いつも社内の自分のデスクにいる自分達が都合を合わせるのが一番効率が良いのだから仕方ないのだが、相手の都合に振り回されている感も拭えないので微妙な表情になってしまったのだ。
「岡澤主任は若手のホープだからね。色々頼られるし、忙しいのも仕方ないさ」
光希の心情を慮った若松課長が取りなすような言葉をかけてくるけれど、どうしても引っかかりを感じてしまう。
「僕が届けてもいいんだけど、そうすると岡澤君に気を使わせてしまうからね。冴島さん、お願いするよ」
「はい。でも、岡澤主任も少しは気を使ってもバチは当たらないと思いますよ?大先輩の若松課長に急な残業させたんですから。課長、昨夜、遅かったんですよね?」
「あぁ、バレてたのか。でも大丈夫だよ。僕は普段、毎日定時退社だからね」
そう言って穏やかに笑みを浮かべると、課長はこの話は終わりとばかりに別の書類を手に取り、それを合図に光希も席に戻る。
「静香さん。海外営業部行くんですが、ついでに持っていく書類ありますか?」
準備する手を止めずに隣の席の静香さんに声をかけても返事がない。不思議に思って、顔を向けて、後悔した。
「ーーー何、笑ってるんですか」
「いやー、別にぃ?冴島ちゃんは相変わらず、岡澤主任に厳しいなぁと思っただけだよ?」
「別に、岡澤主任に厳しいわけじゃないですよ。自分より二十近く年上の課長に無理を頼むのは、それが誰でも良くないと思うだけで」
「そう?」
「そうですよ。大体……」
「まぁさ、私は冴島ちゃんの身内に厳しいトコ、嫌いじゃないけどね。でも今回は仕方ないんじゃない?岡澤主任も急に言われたんだし」
「ーーー分かってます。あと、身内じゃないです」
「はいはい。じゃ、これお願いね。誰か事務の人に渡しといてくれたらいいから」
あしらわれて、むくれながら、静香さんから書類を受け取った。『次の監査の日程を社内のデータベースで確認してください』という掲示物だ。
これなら確かに渡す相手は特定しなくてもいいな、と眺めていたら静香さんがふふっと小さく笑った。
「業務とはいえ、会えるの久しぶりなんでしょ?こっちは忙しい時じゃないし、少しゆっくり話してきたらいいわ」
「そういう訳にはいきませんよ。社内ですし、勤務時間内ですし……」
「相手は社内でモテモテの人気者ですし?」
「ーーーはい」
会話が小声で交わされるのは仕事中の静かなオフィスだから、だけではない。
思わずこぼれ出たため息を隠すように「行ってまいります」と声をかけて、席を立った。
⌘ ⌘ ⌘
施設資産課より10階上、海外営業部のフロアは如何にも一流商社なオフィスだ。海外からの電話も多いし、外国人の社員もいる。女子社員もオシャレで綺麗。
彼女たちのゆるふわな巻き髪やひらひら揺れるフレアスカートがオフィスの華やかさを増しているみたいだ。
「あら?冴島さん、何か用かしら」
その中の一人、ダークブラウンの髪を軽やかに、しかし乱れなく巻いたひとつ先輩の女子社員が光希に声をかけた。名前が思い出せない彼女に光希が返事をしようとした、と同時にオフィスの奥から大きな声で呼ばれる。
「冴島さん!ごめん、この電話終わるまでちょっと待ってて」
声の主は岡澤主任。言い終わっても同意を求めるように視線だけはこちらに向けたまま、電話で会話している。
それにこくん、と同意のアクションをしてから先程の女子社員に返事をする。
「はい。若松課長から岡澤主任宛ての書類を預かりました。それからこれ、お願いします」
静香さんからの掲示物を受け取った彼女は光希の全身に上から下に視線を流し、小さく吹き出した。
「なんて言うか……冴島さんって服装やお仕事とトータルイメージが合致してるのね」
ネイビーのトップスとグレーのアンクルパンツという地味で堅実な服装が、施設管理課の地味で堅実なイメージと合っていると言いたいのだろう。ついでに光希自身も同じで面白みはない、と。
多分、岡澤に会いに来た女子社員がもれなく言われる嫌味の類い。
軽い皮肉だけど、光希は頷きこそすれダメージには感じない。自身がその通りだと思っているからだ。
「そうですか?では掲示物、よろしくお願いします」
ちょこんとお辞儀をして岡澤主任のデスクと歩き出す。皮肉を言ったのに思ったようなダメージを与えられなかった女子社員は面白くなさそうだったけれど、それ以上は言えなかったらしくギロリと睨んで行ってしまった。
「ホント、無駄に人気者だから……」
誰にも聞かれないように、口の中でつぶやいてデスクの前に立つ光希を面白そうに見つめて、電話を切った岡澤主任が立ち上がった。
「わざわざ申し訳ないね。じゃあ、ちょっと
場所を移そうか」
「いえ、ここで構いませんが……」
そのまま歩き出す彼に声をかけたが聞こえていないのか、そのままミーティングルームに連れ込まれた。
バタンと扉を閉めて振り向いた岡澤主任は、
「ただいま、光希」
両腕を大きく開いて満面の笑みを浮かべた。
「ーーーはい?」
「だから。ただいま、光希」