カイガと呼ばれたそいつが一瞬、動きを止めた。
一瞬の隙を、煥は見逃さなかった。
シュッと鳴った拳がカイガの顔を狙う。
「おっと」
カイガはバランスを崩しつつ煥の拳を避けて、地面に手を突いて鮮やかに後転した。
何かの弾みで、フードが外れる。
肩に掛かる長さのウェーブした黒髪が広がった。
額いっぱいに、つやめく漆黒がある。
おれや煥、鈴蘭と同じだ。巨大な胞珠。
それを持つからこその、あの身のこなしなんだろう。
さよ子はカイガと煥を交互に見つめて言った。
「いつもいつも、そんなやり方ばっかり。思いどおりに事を運ぶために、みんなそうやって戦うんですよね。何でそうなっちゃうんです?」
煥は、鼻で笑う表情を浮かべて、そっぽを向いた。
カイガもまた嘲笑う表情で、さよ子に答えた。
「話してわかる相手なら、いちいち暴れる必要もないんでしょうが、あいにくと、ぼくは対等に話せる相手をなかなか見出せないんですよ。
うかうかしていたら、自分の身が危うくなってしまう。さよ子さんも、経験からそれを理解しているはずですよ」
「でも、わたしはイヤなんです! そんなやり方じゃあ、きっと、めちゃくちゃになる日が来ます!」
「笑わせないでください。とっくにめちゃくちゃでしょう?」
理想だの正義だの、通用する世の中じゃあない。
やっぱそうだよね。
カイガがさよ子のほうへ手を伸ばして、「こっちに来なさい」の合図をした。
さよ子が唇を噛む。
鈴蘭がさよ子の腕にギュッと抱き付いた。
「さよ子、行っちゃダメ。わたしと一緒にいたら、絶対に安全だから。ね?」
カイガが鼻白んだ顔をした。
「絶対、ですか。何を根拠にそんなことを言うのか。絶対なんて言葉は、原理的にあり得ないものですよ」
ポンッ、と横合いから音がした。胞珠が破損する音だ。
おれは一瞬だけゾッとして、音の発生源を探す。
左目から血を流して、うつろな顔で立ち尽くす男がいる。
よかった、文徳じゃなかった。
それだけ確認したら、あとはもう関心が消えうせる。
カイガと二人の仲間は撤退を決めたようだった。
カイガ以外の二人はなかなかの重傷だ。
このまま粘っても得られるものはない、と判断したんだろう。
「また近いうちに皆さんとお会いすることになるでしょうが、今日のところはこれで」
三人とも、じっとさよ子を見ていた。
さよ子は気丈に、にらみ返した。
さーっと波が引くように、乱闘は収束していった。
カイガたちが立ち去ると、煥はようやく拳を下ろした。
鈴蘭は甲斐甲斐しく、煥のほうへ飛んでいった。
「煥先輩、ケガしてます。右のほっぺた、あざになって、ちょっと血も出てますよ。わたし、治しますね」
言うが早いか、鈴蘭は腕を伸ばして、煥の頬を手のひらで包んだ。
鈴蘭の手のひらから、じわりと青い光が染み出す。
鈴蘭の額の胞珠が明るく輝く。
「あれがあの子のチカラってわけ?」
鈴蘭は少し眉をしかめている。痛みをこらえるかのように。
さよ子が肩を落として、おれに言った。
「見てのとおり、鈴蘭は傷を治すことができるんです。治すべき傷の痛みを引き受けて我慢して、跡形もなくしてしまう。
三日前なんて、煥先輩の骨折を治しちゃったんですよ。痛みでボロボロ泣きながら」
「へ~、けなげなもんだね」
「ですよね。だから、煥先輩、鈴蘭のこと気に入ってる。わたし、完璧に出遅れちゃいました」
「さよ子ちゃんは、あっきーのこと好きなの?」
「鈴蘭は、煥先輩を手に入れたいって言ってました。わたしにもその気持ちはわかるから、たぶん、わたしも同じです。
煥先輩、カッコよくてキレイだから、ほしいです」
ほしいってのが、好きって気持ちとイコールなら。
おれは一世一代の大事なモノを失ったんだよな。
姉貴のこと、あいつに聞きそびれた。
先にちょっかい出したのはこっちって、どういう意味だよ?
「場合によっちゃ、殺すよ」
うっかりして、声に出してつぶやいてしまった。
「え? 何か言いました?」
おれを見上げるさよ子に、笑顔の仮面で応じる。
【なーんにも。それより、腹減ってない? どっか飯食いに行こうよ。おごるからさ、デートとか。どう? 行こうよ。ね?】
「えええええっ、ま、またそんなデートだなんてっ! わ、わたし、鈴蘭とごはん行くことにしていましてですねっ」
ダイヤモンドみたいな両眼は、困った様子でキョロキョロする。
おもしれー子。
からかい甲斐があるし、落とし甲斐もあるってもんだよね。
胞珠が何のために人間の体にくっついてんのか、って話。
そういう説もあるみたいな、曖昧な言い方しかできないわけだけど。
胞珠を持たない人間ってのは、脳や心臓を持たない人間と同じくらいの割合で発生して、産まれたとしてもきちんと生きられない。
そんくらい、人間の生存にとって重要な器官。
パッと見た感じ、眼球の一部や爪の一枚の代わりに過ぎないのにさ。
思考とか感情とか、人間の脳の中身って、どう働いてるかわかんねー部分がけっこうあるらしい。
胞珠もまさにその仲間だよね。
胞珠の機能は「思念のエネルギーを増幅する」とかっていうじゃん、大まじめに。
何そのオカルト。
そのへんが人間の科学力の限界って?
姉貴ともそういう話、しょっちゅうしてた。
「わたしにもわからないわよ。見つめ合う相手、触れ合う相手と、よりよく意思疎通するために、目や指に胞珠があるっていわれるけど?」
根拠もない一般論。妙にキレイな俗説。
「触れ合う相手かよ。じゃあ、姉貴のコレは狙いすぎじゃねーの?」
左胸の膨らみのてっぺんの淡いピンク色の胞珠。
「目にも手にも胞珠がないから、じろじろ見て探されるのよね。鬱陶《うっとう》しい。わたしの胞珠も、表から見える場所にあればよかったのに」
んなこと言うなよ、姉貴。おれだけ知ってりゃ十分じゃん。
巣穴みたいな二人きりの部屋に隠れて生きた一年間。
溺れるままに時が止まればいいと思った。無我夢中だった。
すぐに終わりが来るってことは最初からわかってた。
いろいろぶっ壊れてるよなってことも理解してた。
たぶん、姉貴も。
代わりを探したって、むなしいだけだ。
姉貴以上に執着できるモノなんて、世界じゅうどこにも存在しない。
世界は記号だらけになっちまった。
おれのチカラで支配できるか否かのマルとバツ。
大半はマルで、バツの中に何種類かの記号がある。
唯一の親友って記号。ターゲット的な美少女って記号。
おれと同じ異能者って記号。相容れない敵って記号。
おれ、という記号。
へらへら笑った仮面の下の、冷めてて投げやりな思考。
ほしいものを永遠に失った、絶望というよりは空虚。
自分から死のうとは思わないけど、もうすぐ終わるんだとしても、どうだっていい。
惜しむ理由なんてない。
そんなことをつらつらと、夜通し、文徳《ふみのり》と煥《あきら》に話した。
兄弟で二人暮らししてるマンションの部屋に泊めてもらって、お互い、垂れ流すように語った。
文徳の手はずっと、憑り付かれたようにギターをつま弾き続けていた。
ときどき煥が歌った。
歌詞のまだない旋律だけの唄を、でたらめな言葉をつないで歌っていた。
どんな楽器よりキレイな音を出す喉だと思った。
一夜明けて、朝。
ほかに何もすることないし、とりあえず学校に向かう。
ひびだらけのガラス窓にガムテープを貼りまくったコンビニの前に、やせて十円ハゲだらけのデカい犬がいて、物欲しげなまなざしでこっちを見ていた。
ピンと立った耳とアイスブルーの目。
たぶんちゃんとした血統のシベリアンハスキーだ。
どうしておまえみたいなのが野良犬やってんだよ?