煥が半歩、前に出る。
いつでも飛び出せるように身構えている。
襲撃者の視線が煥をまっすぐとらえる。
機械的な口調がまた、言う。
「邪魔ですよ。あなたには用がない。どいてください」
「じゃあ、誰に用がある?」
「さよ子さんと、長江理仁《りひと》」
背筋がゾワッとした。
やっぱりこいつ、おれのこと知ってやがる。
おれは立ち上がって埃を払った。
口を開くより先に、顔がニヤリと仮面みたいに笑う。
癖になった笑顔が、こんなときでも剥がれない。
「話があるって言う割に、いきなり殴り掛かってくるのはおかしいんじゃないの?」
答えが返ってきた。
「防衛手段としての攻撃です。先にちょっかいを出してきたのはそっちでしょう」
「はい? 何のこと? 誤解してない?」
「とぼけているのか本当に知らないのか、判断する材料に欠けますが、ぼくにとってはどちらでもいい。命じられたことを遂行するだけですから。さよ子さん、こちらへ」
最後の一言はもちろん、さよ子に向けて放たれた。
さよ子はかぶりを振った。
鈴蘭がさよ子の前に進み出て、通せんぼするように両腕を広げた。
「嫌がってる女の子を連れ去ろうなんて、顔見知りだとしても失礼すぎるでしょ、あなた! さよ子に何の用なんですか!」
「命じられたんですよ。日が暮れた後、こんな場所にいては危険ですから」
ピリピリと空気が帯電するように、敵意が、戦意が、殺意が、あたり一帯に放射される。
ひんやりした春の夜気が瞬時にカッと燃え立った。そう感じた。
襲撃者とその連れの二人、おびえるようでいて怒りのほうが強いさよ子と鈴蘭、牙を剥くようにニヤリとした煥と文徳《ふみのり》。
チカラある血の持ち主がこんだけ集まって、にらみ合いの興奮を胞珠で増幅させてんだ。
まわりはみんな、あっさり呑まれちまう。
熱狂が始まる。ケンカだ。
襲撃者の連れの一人が、襲撃者の細い肩に手を置いて何かを告げる。
撤退、とでも言ったんだろう。
襲撃者は仲間の手を払って、先に行けとジェスチャーで示す。
煥が一歩、踏み込んだ。
「よそ見してんじゃねぇよ」
悪魔の顔で笑っている。
バンドの取り巻きの不良どもが一足先に暴れ出している。
特に親しい仲間でない相手は、全部が敵。
恨みや害のない相手だろうが、おかまいなし。
野蛮な声を上げながら、乱闘が始まる。
バカバカしいけど、これがこの世界の日常だ。
戦闘的な熱狂ほど簡単に増幅されて伝播する感情は、ほかにない。
人が集まって興奮の度がちょっと過ぎるだけで、止めようもない暴動に発展する。
自分の身を守れるのは、自分だけ。
【こっち来んなよ。おれには手ぇ出すな】
おれは号令《コマンド》を発動して、乱闘を遠ざける。
鈴蘭がさよ子の手を引いて、おれのそばに寄った。
ここにいれば安全だと直感的に理解したんだろう。
おれは女の子ふたりに笑ってみせる。
「今の号令《コマンド》、雑魚《ざこ》にしか効かないよ?」
鈴蘭がちゃっかりと微笑む。
「厄介な人たちからは、煥先輩が守ってくれますから」
ほら、と鈴蘭が指差す先で異次元の戦闘が始まっている。
戦闘服を着込んだ敵の一人が、光の壁に突っ込んで弾き飛ばされた。
煥が突き出した手のひらの正面に、六角形の真っ白な光の壁が生じている。
ほくそ笑む煥が額の胞珠をきらめかせて、引っ繰り返った敵との距離を詰める。
敵は、逃れようとして転がる。
その動きも、煥は先読みしている。
軽い跳躍。容赦なく踏み付けながら着地。
何かが折れて砕ける音。くぐもった悲鳴。
煥は手のひらの先に光の板を創り出して、敵の体に押し当てた。
たちまち、焼け焦げる音と匂い。
煥の白い光はずいぶんな高温らしい。
敵の絶叫。
それを断ち切ったのは、あの素早すぎる襲撃者だ。
猛烈な速攻を、煥は難なく防ぐ。
「邪魔すんなよ」
「するに決まってるでしょう」
妙に静かに会話して、二人とも、ニタリと笑った。
戦闘狂だ。
こいつらにとってケンカってものは、手段じゃなくて享楽なんだ。
接近戦。
繰り出される技を目で追い切れない。
相手の意図は何となく読める。
煥に光の壁を出す隙を与えないこと。
単純な格闘なら互角にやれるから。
あっちでもこっちでも殴ったり蹴ったりの大騒ぎで、熱気と怒号が台風みたいな勢いで立ち上って渦巻いている。
呑まれそうになる。
ついつい、おれも暴れてみたいなんて思ってしまう。
やめてよね。ガラじゃないでしょ。
おれはさ、のんべんだらりと生きていられりゃそれでいいっていう、ことなかれ主義の平和主義を信奉してんだよ。
乱戦のど真ん中のエアポケットで、おれのすぐそばに立つさよ子が「ああぁぁ」と大きなため息をついた。
そして声を張り上げた。
「もうやめて! カイガさん、やめて。帰って! お願い!」
カイガと呼ばれたそいつが一瞬、動きを止めた。
一瞬の隙を、煥は見逃さなかった。
シュッと鳴った拳がカイガの顔を狙う。
「おっと」
カイガはバランスを崩しつつ煥の拳を避けて、地面に手を突いて鮮やかに後転した。
何かの弾みで、フードが外れる。
肩に掛かる長さのウェーブした黒髪が広がった。
額いっぱいに、つやめく漆黒がある。
おれや煥、鈴蘭と同じだ。巨大な胞珠。
それを持つからこその、あの身のこなしなんだろう。
さよ子はカイガと煥を交互に見つめて言った。
「いつもいつも、そんなやり方ばっかり。思いどおりに事を運ぶために、みんなそうやって戦うんですよね。何でそうなっちゃうんです?」
煥は、鼻で笑う表情を浮かべて、そっぽを向いた。
カイガもまた嘲笑う表情で、さよ子に答えた。
「話してわかる相手なら、いちいち暴れる必要もないんでしょうが、あいにくと、ぼくは対等に話せる相手をなかなか見出せないんですよ。
うかうかしていたら、自分の身が危うくなってしまう。さよ子さんも、経験からそれを理解しているはずですよ」
「でも、わたしはイヤなんです! そんなやり方じゃあ、きっと、めちゃくちゃになる日が来ます!」
「笑わせないでください。とっくにめちゃくちゃでしょう?」
理想だの正義だの、通用する世の中じゃあない。
やっぱそうだよね。
カイガがさよ子のほうへ手を伸ばして、「こっちに来なさい」の合図をした。
さよ子が唇を噛む。
鈴蘭がさよ子の腕にギュッと抱き付いた。
「さよ子、行っちゃダメ。わたしと一緒にいたら、絶対に安全だから。ね?」
カイガが鼻白んだ顔をした。
「絶対、ですか。何を根拠にそんなことを言うのか。絶対なんて言葉は、原理的にあり得ないものですよ」
ポンッ、と横合いから音がした。胞珠が破損する音だ。
おれは一瞬だけゾッとして、音の発生源を探す。
左目から血を流して、うつろな顔で立ち尽くす男がいる。
よかった、文徳じゃなかった。
それだけ確認したら、あとはもう関心が消えうせる。
カイガと二人の仲間は撤退を決めたようだった。
カイガ以外の二人はなかなかの重傷だ。
このまま粘っても得られるものはない、と判断したんだろう。
「また近いうちに皆さんとお会いすることになるでしょうが、今日のところはこれで」
三人とも、じっとさよ子を見ていた。
さよ子は気丈に、にらみ返した。
さーっと波が引くように、乱闘は収束していった。
カイガたちが立ち去ると、煥はようやく拳を下ろした。