臆病な背中で恋をした ~2

受け止めるだけで精一杯だったわたしをバスルームまで軽々と抱いて運び、亮ちゃんは髪から隅々まで丁寧に洗ってくれた。躰を拭くのも髪を乾かすのも全部やりたがって、亮ちゃんがいなくなったあの夜を思い出す。

「・・・髪、伸びたな」

洗面台の前で美容師さんがしてくれるみたいにドライヤーの熱を当てながら。

「似合ってる」

縦長の鏡に映る亮ちゃんの顔は穏やかで。目が合って胸の奥がキュンとなった。こんなに優しい表情はいつぶりだろう。

せめてわたしといる時は。あの頃のままでいて欲しい。生きるか死ぬかの世界を忘れて・・・今だけは。


これからはずっとそうであって欲しい。願いを込めた。
「お願いがあるの」

ベッドに移って胸元に抱き込まれながら、わたしは亮ちゃんに言った。

「・・・亮ちゃんがどこに行っても、待ってろって言うなら何年でも待ってる」

だから。

「行くときは黙っていなくならないで・・・・・・」

手がかりを残してくれないまま置き去りにされるのは本当に辛い。途方に暮れて、あても無くて。ほんの少しでいい、確かなものがあれば。

「・・・ああ分かった・・・」

わたしの髪に顔を埋めるようにして亮ちゃんが呟いた。

「約束する。・・・明里こそさっきの約束は守れ」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」


夜通し亮ちゃんの腕に掴まえられて。赦してって懇願しかしてなかったように思う。あんな責め方されたら、ごめんなさいって観念するしかない。・・・ずるい。




カーテンの透き間から差し込む陽の光りにぼんやり時間を辿る。隣りには静かな寝息を立ててる亮ちゃんの背中。・・・緋色の花が鮮やかな。

いつか。どうしてこうしようって決めたのか訊いてもいいのかな・・・。
そっとおでこを寄せて。
わたしはずっとこの花を裏切れない亮ちゃんに寄り添う。
わたしも誓う、亮ちゃんの背中に。

死が二人を別つまで愛し続けます。・・・って。



外には出ないでマンションに二晩泊まって。亮ちゃんから借りたシャツ一枚の恰好か、何も着てないかのどっちかで殆どの時間を過ごした。
シアワセ過ぎてふわふわしていたら津田さんから電話があって。冷水を浴びたみたいに現実に戻されたりもした。

このまま津田さんにはしばらく、婚約者のフリでいてもらうのを決めたのは亮ちゃん。お正月休み中、ナオの都合に合わせて彼が挨拶をしに家に来ることになった。でも。先を考えればこれ以上、津田さんと家族の接点は無い方がいい。


「亮ちゃん。わたし・・・家を出て一人暮らしする」

一大決心して、亮ちゃんに打ち明けたのだった。







10時出社の仕事初めも課ごとに軽い清掃で始まり、あらたまって課長の挨拶と、新年の抱負なんかを全員が順番に発表していく。その後は恒例の新年会が去年と同じホテルの会場で11時から。

今年のロッカールームも華やかなことになっていて初野さん曰く、自身は清楚さを前面に押し出した婚活仕様を目指したとかなんとか。

「去年は手塚さんにも先を越されたからねーっ。あたしも大穴狙って目線変えてみるわ!」

拳を握って力説されたけど。・・・つまり誰でもいいってことかなぁ。

わたしは初売りセールの時に買った黒のワンピースドレスに、おろした髪は左耳だけかけてコサージュ付きの髪留めをして。会場ではエメラルドグリーンのショールを合わせるつもりでいる。
意気揚々とホテルに向かう初野さんの隣りを歩きながら去年同様、隅で大人しくしていよう、と胸の内で小さく吐息を逃した。





スーツ姿の男性社員がわらわらいる中に、ドレスアップした女性社員が入り雑じった年一回の稀な光景。

えんじ色の絨毯が敷き詰められた会場の一段高いところから、黒の三つ揃いに、斜めストライプのベージュのネクタイをした亮ちゃんが室長として年頭の挨拶をする。マイクの前に立った瞬間、あちこちから女子の感嘆の声が上がった。

亮ちゃんの人気は相変わらず不動だ。髪を後ろに流すようにすると、整った顔立ちが余計にシャープに見えて十割増しくらい格好いい。遠慮なく見惚れてしまう。

『・・・進歩し続ける為に一人一人を尊重する理念を持って、グランド・グローバルをこれからも発展させることに全力を尽くしたいと思います』

凛とした声に続いて、相変わらずの容姿と風格で社長が短いスピーチを終え。そのまま乾杯の音頭が取られて、にぎやかな立食パーティが始まったのだった。




白いテーブルクロスがかかった幾つかの円卓に並んだオードブルやカナッペ、フルーツ、デザートを自分のお皿に取り分けて楽しむ。食事っていうよりお酒のおつまみ的な感じで、あとでお腹は空きそう。

忘年会で席が一緒だったマーケティング課の湯原さんが声を掛けてきて、初野さんと三人でしばらく食べながらお喋り。話題のほとんどが津田さんとわたしのことだったから、曖昧に誤魔化すのが大変で疲れた。・・・どうして他人のことにそんなに興味深々なんだろう。

お手洗いに立って戻ったら、やっぱり先輩たち二人は姿が見えない。ようやく解放された気分で壁際にずらりと置かれた椅子の一つに腰掛け、大きく見渡してみた。
幾つものグループが出来あがって、大きな笑い声や歓声がどこからともなく湧き上がってる。会場の前の方の人だかりは多分、社長や亮ちゃん達の輪。去年は津田さんと一緒に挨拶に行ったけど。一人で行く勇気は当然ないから遠慮しておこうかな。

そんなことをぼんやり考えていたら。目の前の視界が濃紺のスーツを着た誰かに塞がれた。

「・・・うろうろするな小動物」

見上げた不機嫌そうな顔はやっぱり津田さんだった。
「お疲れさまです」

彼がうちに来て、ナオから散々わたしのことを頼まれて帰ったのはつい一昨日。新年の挨拶は済んでるし、だから普通に。

「たまにはあんたから俺を探せ。でなきゃ次は首輪付きだ」

隣りの空いた椅子に脚を組んで座り、津田さんは上から目線で無茶を言う。

「・・・社長には挨拶したんですか?」

話を誤魔化して思い付いたことを訊くと。

「これからあんたを連れてな」

不本意そうに返った。
えぇと。・・・いつもなんだか、ごめんなさい?

「・・・そういや家出るんだろ?」

「あ・・・はい」

亮ちゃんが話したのかな。視線を傾げて。

「(亮ちゃんに)探してもらってるんですけど、なかなか(亮ちゃんが)納得できる物件がないみたいで・・・」

「ふーん」

気が無い返事にもうこの話は終わりかと思ったら。

「あんたにピッタリなのがあるから、そこに決めろ」

億劫そうに。でも有無を言わせない空気で続きがあった。
わたしにピッタリ・・・って。目を二、三度瞬かせる。
津田さんはこっちに横目を向け淡々と。

「家具付き食事付き、送り迎えとボディーガード付き、それと光熱費込みで月5万だ。優良物件だろ」

「???」

そんな物件がどこに? 
 
「俺のマンションに一緒に住めって言ってんだよ。理解できたか?」

「!!!!!」

思いっきり目を丸くして。絶句したまま固まってるわたし。
やっとのことで思考回路が回り出したけど、今回ほど突拍子もなく驚かされたことはない気がする。

「・・・・・・あのそれはちょっと、多分(亮ちゃんが)無理って思うんですけど・・・」

さすがに遠回しに断ったのに。津田さんは何も言わずに立ち上がって「挨拶に行くぞ」とわたしを促しただけだった。
最近はわたしと津田さんの関係がある程度浸透しちゃったみたいで、手を引かれていてもあんまり気にも留められていない。・・・っていうこの状況が良いのか悪いのか、ちょっとよく分からなくなってる。

人の合間を縫って会場の前の方まで来ると、空気感が違う人達の輪があった。離れたところからでも分かる社長の姿は、いつ見ても堂々としていて自信に満ち溢れている。

「社長。明けましておめでとうございます」

津田さんが変わらない口調で声を掛けると、野性味のあるイケメン顔が振り向いて先にわたしに目を細めた。慌てて挨拶とお辞儀をする。

「噂の彼女か? 親の挨拶も済んだって聞いたぞ」
 
社長は津田さんに向かって人が悪そうに口角を上げた。
なんかもう。全部が筒抜けになっていて、わたしの個人情報って保護されないのかなぁ? ちょっと泣きたい。

「折角だ。報告がてらこの後も付き合え津田」

「・・・小動物付きなんですがね」

「構わん」

「社長、・・・それは」

眼差しを少し険しくした亮ちゃんが間を割ったのを。 

「日下」

そのひと言だけで黙らせて、社長はわたしに視線を向けた。一瞬何かを過ぎらせた眼差しは、でもすぐにその気配を解いていた。

「・・・君も明日からまた、社の為に力を尽くしてくれ」

会社の代表としての仮面を付け換え、穏やかな笑みが覗く。亮ちゃん達が交わした暗号みたいな会話は無かったように。

別の社員が挨拶に近付いてきて、わたしと津田さんはその場を離れた。
小動物がどうとかって、津田さんが社長に言ったのは聴こえてた。後ろの方でまた二人で壁の花になり、躊躇いがちに意味を訊ねてみた。

「行きゃ分かる」

どこに、って説明する気は一切ないオーラが全開で、鬱陶しそうに返っただけ。

津田さんにしても真下社長にしても、前置きなく自分の勝手にされるから。ココロの準備が出来なくていつも大変なのに・・・・・・。

思い切り大きな溜め息を隠して。なにかは分からないけど、心構えだけはしておこうと悲壮な決意を固めたわたしだった。




お昼をまたいで2時前に新年会はお開きになった。

「行くぞ」

クロークに預けてあったコートを受け取り、津田さんに手を引かれてホテルを出る。

会社近くの狭い月極駐車場にメタリックブルーの彼の車が停まっていた。大人しく助手席に納まり、走り出してからしばらくして気掛かりを口にしてみた。

「あの亮ちゃんは・・・?」

こっちを一瞥した津田さんは素っ気なく答える。

「あんたを放っとくわけが無いだろ」

亮ちゃんがいるならどこでも平気。あからさまにホッとしたのが伝わったのか、呆れたような、一言いいたそうな空気を感じて目線で問い返せば。

「・・・一番面倒みてるのは誰だと思ってる」

理不尽そうに横目で睨まれて、言葉に詰まった。

・・・・・・えぇと多分それは、津田さんです。