声帯が思うような高低で動いてくれない。思っていたよりも低い声だった。
そのとき。
「医者がそんなんでいいのかって言ってんだよ」
なんていう声が、聞こえた。
「遥......」
私はその人物の名前を呼んだ。...いや、厳密には、声が出た。
「遅くなってごめんね」
そう言って、私に駆け寄り、頭を撫でてくれた。
そんな彼に、私は有り得ないくらいの安心感で身を包まれる。
「...っ......何で、来てくれたの...」
気を緩めれば、すぐにでも溢れ出しそうな涙を懸命に抑える。
「.......葎が、俺を呼んでる気がしたから」
優しい笑顔でそう言う。その声。その表情。私は、彼が大好きなんだ。
「っ...」
いつもなら、キザと言ってすぐに返せるのに。
何だか今は、その言葉が胸に素直に入ってくる。
そして、私の涙を誘う。
「いつもならキザって言うくせに」
微笑した。私は彼彼女そっちのけで、遥に意識を集中させた。
なんて、違う。無意識にそうなっていたのだ。
「おい」
今度は彼彼女の方を向き、私への声とは全く違う声色で話し始める。そんな遥に、彼彼女は肩を震わせた。
「病気で弱ってる患者を、汚いもの扱いすんじゃねえ。あんたらは病気になったことがないから分からないかもしれないけど、患者は必死に戦ってんだ。あんたらが自分の腕に酔ってる間でも、辛い治療に耐えてんだ」
聞いたことのない口調と声に、びっくりしてしまった。
そんな私をよそに、続ける。
「何が危険だ。患者に寄り添ってあげていない時点で、この病院の方が危険じゃねえか」
そこで私が医者に目をやった。彼は視線に気付き、手袋をしている手を気まずそうに後ろに隠す。
「分かったらとっとと謝罪しやがれ。次こんなことしたら起訴するぞ」
脅しのつもりなんだろうけど、鋭い眼光と低い声で放たれる言葉は、誰でも本気と受け取ってしまう。
「...すまない」
「...すみません」
そう言った後に、彼彼女は逃げるように病室から出て行った。尚もその二人を睨み付けていた遥は、姿が見えなくなったら目線を私に移し、やがて穏やかな声で話し始めた。
「もしまたあんな奴が出てきたら、すぐ俺に言ってね。...俺の葎を悲しませた罪で罰するから」
最後まで微笑んで言った。その笑みが恐ろしい。
「う、うん。ありがとう」
彼女は、私の手を取り、言った。
静かにリンカーンは死んだの。それは、運命?偶然?...どちらでもないというのなら、私は......
そこで言葉は途切れた。彼女の意識が、飛んだから。
真っ白な表紙に、『肖像の人』と、真ん中にかかれてある。私はそれを閉じ、横のデスクにそっと置いた。
その日は、雨が降っていた。嫌な雨音だ。...なんて、いつも思うのに、今日は何故だかその音さえも美しく思えてくる。
「葎」
名前を呼ぶ声がし、扉の方を見る。
「遥」
頬が自然と緩む。だって、大好きな人が逢いに来てくれたから。
遥も、優しく笑んでくれた。こうして、互いに名前を呼び、微笑み合うのは何度目だろう。
「はい、今日はこれ持って来た」
そう言って、本を置いたデスクに、バサッと少し荒めに置く。
「わ...マリーゴールド?」
黄色一色で彩られた花束は、瑞々しく色を発している。
まるで、先程摘んできたかのような様子だった。
「好きでしょ、マリーゴールド」
花びらに優しく触れながら言った。その姿は、とても綺麗だった。儚くもあれば、透けもしていた。私をそれを見て、胸の奥がギュッと苦しくなる。
「...本当に、いつもありがとね」
彼に向けていた視線がするすると降下していき、視界一杯に白い床が映る。
顔は見えてはいないものの、彼は恐らくはてなを浮かべていたと思う。やがて、彼は私を優しく抱き締めた。そしてあやすかのように背をさする。
「どういたしまして」
私はこの言葉に、ひどく安心した。
だって、
「...遥らしい返事」
君という存在を、厚く感じることができたから。
肖像の人の著者は、村元もらいいちろう。
私は、この作家が好きだった。彼の作品中の言葉だけが、胸にスーッと入ってくる。
その日も、肖像の人を読んでいた。
舞台はロサンゼルス。肖像画家の夫を持つ冷酷な女社長、アリエッドが出逢ったのは、自称リンカーンの遠い親戚、クライフポップ。不思議なオーラを纏う彼女に興味を持ったアリエッドは、ある日クライフポップを尾行してしまう。けれど辿り着いた先は、彼女が身に纏っていた不思議なオーラをそのまま映したかのような不思議な世界だった。アリエッドはその世界で、命の尊さに気付く。そしてクライフポップの壮絶な過去を知る。アリエッドはいつしか、彼女を支え、希望を与えたいと考えるようになった。だが容易く出入りできるような世界ではないと告げられ、二人の願いは打ち消された。けれど、ある条件を叶えると、世界から出られることを知り、条件を叶えようとする二人だけど、不覚にもクライフポップを死なせてしまった。
なんていうあらすじ。ストーリー性ができていて、次の文を次の文をととにかく先が気になる物語。
「何読んでんの」
ひょこっと扉から顔を出した遥。その拍子に、真っ黒なキレのある髪が揺れた。
「秘密」
サッと本を隠した私は、笑ってみせた。
「えー。気になる」
拗ねたように顔をしかめる彼は、世界一可愛いだろう。
本をデスクに置こうとして、あるものに目が留まった。
「じゃあ、この花が枯れたら、本を貸してあげる」
それは、相変わらず瑞々しい、真っ黄色なマリーゴールドだった。遥が来るちょっと前に、いつも水替えをしている。
「全然枯れそうにないじゃん。俺、一生読めないよ、その本」
不覚ながらも、”一生”という言葉が嬉しかった。
だって、まるで、
「まあ、枯らす気もさらさらないけどね」
なんて言って、私の頭を撫でるように花びらに触れたから。
自分のことを綺麗だなんて思ってはいないけれど、遥の触れ方が、私に触れる時とあまりにも似ていて、マリーゴールドが自分と重なって見えてしまう。
「葎」
そこで名前を呼ばれた。
「へぁっ?!」
見惚れていた私はびっくりして、思わず変な声を出してしまった。
「はは、そんな驚かなくてもいいじゃん」
心中も知らず、笑い飛ばす。かなり恥ずかしかった。
「...」
分かりやすくぶすくれた私の頭を撫でた、遥。
君はよく、頭を撫でてくれるよね。
「...可愛いってことだよ」
穏やかな声で言い放つ。その言葉は、電流を走らせながら私の胸に落ちていく。体の芯がビリビリと音を立てた。
「っ...」
反動でか、顔が熱くなった。遥はそのまま手を降ろし、私の頬に手を添えたところで降下は終了した。
「ずっと、俺の隣にいてね」
耳元でそう囁いた。熱っぽくて、全てが溶けそうな声色。
そして、優しくキスを落とした。
私は、涙を流していた。それも、温かい涙を。
心から安心したのだ。彼らしいと思ったから。
”好き”でも、”愛してる”でもない。次に繋がる言葉を、欲しい言葉を聞かせてくれる。本当に、この人を好きになって良かった。
時間が過ぎていき、彼は、唇を離そうとした。
そこで私は、彼をひきとめる。
「ん...」
服の裾を引っ張り、今度は私からキスをした。
けれど遥は、そんな私に驚きもせず、応えた。
それが、嬉しかった。彼をさらに愛しく思えた。