俺は、この非の打ち所のない大好きな彼女に、思うところが1つだけある。

それは、









呼び名だ。優しい遥には、私に対して怒る対象になる原因が、1つだけある。

滑舌の悪い私は、小さい頃、はるかくんと言えなかった。そのために、はーくんと呼ばせてもらっていたのだけど、どうも遥はそのあだ名が嫌いで、無理矢理遥と呼ばせるようになったんだけど...。実は今でも、たまーに間違えることがある。その度に制裁を受けて来たんだけれども、前回、うっかりはーくんと呼んでしまったせいで、『次はないからね?』と、圧をかけられて。だから今回はもう死ぬ気で制裁を受けるつもりだ。

「あ、あの......遥?」

片手で目だけを覆って、動きが全くない遥に恐る恐る声をかけてみる。
そうすれば、遥は、

「葎。大好きだよ」

と、片手を離し、甘い笑顔で言う。そのまま

「え」

ギシッと、スプリング音が耳に届いた時、私は仰向けになっていて、そこに遥が馬乗りしていた。

「ちょ、ま、はあ?!」

間抜けな声を出したのは私。そんなのに動じず、甘く微笑み続けるのは遥。
これは、あれだ。よく漫画とかであるシチュエーションだ。


「俺ね。そろそろ、制裁を改めようと思うんだ」

待って待って待って。その制裁は意味深なんだけど。

遥は微笑みながら続けた。

「次はーくんって呼んだら、可愛らしい小鳥のさえずりを聴くことになるからね」


その言葉で、顔が熱くなった。
遥は私の反応を見て、

「ははっ。顔、すっごい赤い」

とか言って、笑ってきた。








転帰、とでも言うべきか。


病気は、悪化していた。

「葎!お帰り!」

そう言い、抱き付いてきたのは、葉那乃だった。
私は2週間入院した。葉那乃と会うのも、クラスの皆と会うのも、あのカラオケの日以来だ。

「ただいま。心配かけてごめんね?」

無邪気な笑顔を向けてくれる葉那乃に、優しく微笑みかける。
葉那乃に病気だということは言っていない。今、私が彼女にしていることは、最低行為に過ぎないのだ。

胸の奥でチクリと何が痛む。

「ほんとだよー!この2週間何してたのさ!」


口を開いたのは葉那乃__ではなく、由宇だった。
由宇は私の両頬をつねる。

「いひゃいいひゃい!!(訳:痛い痛い!!)」

そんな私を見て、整った顔を歪ませながら笑う。


「こらこら、小林さん。俺のスイートハニーをあんまりいじめないで下さい」

手の力が抜けた。
由宇はもっと笑う。

「ス、スイートハニーって...」






遥の肩を叩きながら大爆笑する。

「ごめんごめん。お幸せに~」


涙を拭い、私たちの肩をポンポンしながら去って行った。

「.........遥!」

なり、私は名前を呼ぶ。

「え?なに?愛のハグでもしてくれるの?」

遥は最近、ずっとこうなのだ。
実は彼も、一度病室に来たきり、私に会っていない。

彼女が休みということで、モテ男の遥は女の子に追いかけられっ放しだったらしい。だからこんな調子なのだ。

「気持ちはわかるけど、場を考えて。ね?」

なだめるように言えば、

「じゃ、校舎裏だったら何してもいい?」

と捉えた。
そもそも学校でする前提かよ。


「......今日、一緒に帰ろう」

それは無理だ、と言い聞かせる代わりに、約束を提案した。

「やった!そのまま俺の家に行こうね!」

「ごめん葉那乃との約束忘れてた」

「やっぱ本屋行こうか」

「...うん」








「りーつー」

「はーい。今行くー」

いつも通りの朝。遥が迎えに来てくれている。

「行ってきます」

お父さんとお母さんに言い残し、玄関を出る。

「葎」

笑顔の君が、名前を呼んでくれた。それだけで私は、胸が一杯になる。

「ごめんね、待った?」

冷たい風が遥の頬を撫でていて、もしかしたら...と思った。
でも遥は、私の頭に軽く手を置いて、

「葎なら、いくらでも待ってられる」

満面の笑みで、答える。
私は遥の笑顔に、胸を締め付けられる。


「...ありがと」

ボソッと言った。






なんていう日常が、毎日続くはずだった。



暗転。
いつかのような感覚に陥る。

「葎!」

授業中のこと。クラスが不安に覆われ、悲鳴にも近い声が聞こえてくる。
そんな中、名前を呼ぶ声だけが耳を突く。

「葎...?深呼吸して...」


何よりも安心する手が、背中に触れる。誰のよりも安心する声が、耳に届く。

「......は...る.........」

必死に名前を呼ぶ。でも聞こえるのはかすれた音だけで。
喉の奥に、異物でも詰まったかのよう。

「大丈夫。無理しないで」



背中をさすってくれた。
まるで、貴重品を扱うかのように。

「...」

私は心から安心したと思う。
証拠に、溜め息が出たから。

「ふ、藤嶺くん、葎...どうしちゃったの...?」

葉那乃は遥のことを藤嶺くんと言う。だから、声を発したのが彼女だと、すぐにわかることができた。

「...今に戻るよ。安心して」

そう言った時、遥は葉那乃じゃなくて、私の方を見たと思う。



「大見!」

直後。先生の声が響き渡った。

「藤嶺、一旦帰れ」

中性な声で遥を私から離す。
でも、

「俺も、葎についてく」

そう言って、多分頭を撫でてくれたんだと思う。

瞬間___。
暗転から、逃れられた。

「.........っは」

喉の奥に何かが詰まったような感覚も消え、今なら声が出せそう。

「はる...」

「吐くぞ!離れろ!」

でも、小さな声はかき消されて。
太い音は耳障りでしかなかった。


やがて、悲鳴に包まれた。




なぜかって?









私が、吐血したから。














「......ん...」

目の前が、断然白かった。
純白だと言えるほど、白かった。

「先生!目が覚めました!」

まだ完全に覚醒していない頭で、言葉を受理するのはかなり難しい。女の人の声だった。


「いや、待て。危険だ」

と、この言葉で、頭がはっきりし始めた。

危険。
私は、危険だと。

「...!はい!」

近付きかけた女の人は、私から遠ざかる。

「脈が正常に動いているか、確かめてみる」


医師の白衣を着た男が、ベッドの淵にある私の手を取ろうとする。自分から彼に手をやろう。そう思った。
けれど、

「......て、ぶくろ...」

男の手には、ポリエチレンの手袋がしっかりとされてあった。
目が覚めての第一声がそれだったのだけれど、音量は小さく、彼にも彼女にも届いていないようだった。
何事もなかったかのように私の手との距離を縮める、男。動かしかけた手を止め、代わりに近付いてくる男の手を払った。

「な...!」

強めに払ったせいか、男の手は少しばかり赤くなっている。

「先生!?大丈夫ですか!」

その、女の人にも、腹が立った。

「...少し、痛めただけだ」

私を睨みながら放つ。
そこで私は、第二声目となる言葉を始めた。

「腫れ物を扱うように接するの、やめて下さい」






声帯が思うような高低で動いてくれない。思っていたよりも低い声だった。






そのとき。

「医者がそんなんでいいのかって言ってんだよ」




なんていう声が、聞こえた。



「遥......」
                        
私はその人物の名前を呼んだ。...いや、厳密には、声が出た。

「遅くなってごめんね」

そう言って、私に駆け寄り、頭を撫でてくれた。
そんな彼に、私は有り得ないくらいの安心感で身を包まれる。

「...っ......何で、来てくれたの...」

気を緩めれば、すぐにでも溢れ出しそうな涙を懸命に抑える。

「.......葎が、俺を呼んでる気がしたから」

優しい笑顔でそう言う。その声。その表情。私は、彼が大好きなんだ。