山猫は歌姫をめざす

「律儀に、お前を送らなかったことを()びに来た。お前と入れ違いに数分前に出て行った。まだ邸内にいるだろう。
奴の住所を考えて、五番ゲートから出ることを勧めたんだ」
「わかった!」

未優は身をひるがえした。しかし、慧一の部屋を出る前に、彼を振り返る。

「留加と契約してくれて、ありがとう!」

言って、未優は扉も閉めずに走り去って行く。
慧一は顔を覆うように、中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、つぶやいた。

「……馬鹿が……」

†††††

慧一の部屋があるのは、敷地内の北側に位置した「冬の館」である。五番ゲートに行くには、館の中央バルコニーから降りた方が早い。
そう思って、未優はそこに至る客間を横切った。

山積みになったシーツを抱えた使用人にぶつかりそうになりながら、バルコニーに続く大窓を開ける。

「───留加っ!」

月光のもと、留加の後ろ姿が見てとれ、未優は叫んだ。と、同時に、バルコニーの手すりを飛び越える。
風が空を切り、未優の腰まである栗色の髪を巻き上げた。

未優の声に振り返った留加は、ぎょっとして、いま来た道を駆け戻る。
『山猫』の身軽さと、『犬』の俊足力で───未優は留加に、抱きとめられた。

かすれた声で、留加が言った。

「……君は……本当に“歌姫”になる気が、あるのか……!? なんて、無茶なことを、するんだ……!?」

乱れた息遣いが、近い。その事実に未優はときめきながらも、気持ちを抑えて言い返す。

「あたしは『山猫』だもん。このくらいの高さなら、平気だよ。……だけど、留加がここまで駆けてきてくれたこと、嬉しかった。
ありがとう」

瞬間、留加は未優を手放した。片手で顔を覆い、横を向く。
暗がりのなか、留加の顔が赤くなるのがわかった。その反応を、未優はどう解釈してよいのか、とまどう。

(少しは意識してくれてるって、思っても……いいの、かな?)

自分の都合の良いようにとって、あとでひっくり返されるのを恐れた未優の無意識が、彼を追ってきた目的を思いださせた。

「あの……ね、留加。その……今日は、ほっぺ引っぱたいたりして、ごめん!」

思いきり頭を下げる。そんな未優を、留加は黙って見下ろした。

「あたし……ホントどうしようもなく馬鹿だけど、でも、見捨てないで、これからも“奏者”をやっていってくれないかな?
これからも、きっと今回みたいに、留加に対して間違った態度をとっちゃうかもしれない。
だけど、あたし、留加とやっていきたいの。ずっと……ずっと、この先も」
ゆっくりと顔を上げ、未優は留加に想いを伝える。今日の“舞台”で感じたことを。

「あなたしかいないって、思った。あたしが“歌姫”としてやっていくなら、あなた以外の“奏者”は考えられない。
だから、お願い」

留加は未優が語る言葉に、めまいを感じた。自分のなかにあった価値観が、根底から揺らぎそうなほどに。
だが、それでもまだ、かろうじて踏みとどまれる力を彼は持ち合わせていた───幸か、不幸か。

「……おれから、もう一度言ってもいいだろうか」

静かな留加の声音に、未優は、じっと彼を見返した。

「君のために弾こう。これから先、何度でも。……弾かせてくれ」

力強い留加の求めに応じて、未優は改めて彼に言う。片手を差し出して。

「よろしく、留加」

うなずいて、留加が言う。

「こちらこそ」

握り返された大きな手のひらに包まれて、そして未優は“歌姫”になることを改めて決意するのだった。




       1.

『犬族』の“支配領域”は、ヤマト全国土中、主に北側に集中している。そこは、文化や芸術というものよりも、農業や漁業を営む者が重宝されていた。

だから、ピアニストやヴァイオリニストといった職業は肩身が狭く、そして、需要もないため、当然ながら生活も苦しかった。

父親は教養を積ませることを目的とした、主に『犬族』の“純血種”の子息にピアノを教え、母親は地方公演にくる有名演奏家の客演をヴァイオリニストとして務め、収入を得ていた。

留加(るか)の覚えている限り、二人の顔に笑顔が絶えることは少なかった。
幼心にも決して裕福と思える暮らしぶりではなかったにも関わらず。

やがて父親は息子の音楽の才能に気づき、自らは音楽の世界とは縁を切り、遠洋漁業に出るようになった。
……彼の才能に見合った楽器を与えるために。

まるでそのためだけに漁師になったといわんばかりに、留加に高級ヴァイオリンを与えた直後の漁で、海に消えてしまった。

母親は哀しみに耐えて、息子に自分の持てうる限りの技術を注ぎこんだ。彼も心得たように、そのすべてを貪欲(どんよく)に吸収した。

そんな日々の中、留加は一人の少女と出会う。彼の母親が亡くなる、一年半前のこと───留加、八歳の冬であった。

†††††

慧一(けいいち)は手にした契約書を、隣に座った未優(みゆう)の前のテーブルへとすべらせた。

「問題ないだろう。お前が良ければ、サインしろ」

未優はうなずいて、署名する。

(ホントは、自分で読んで納得してサインする、っていうのが正しいんだろうけど……)

“第三劇場”にて“歌姫”『禁忌』として雇われることの契約書類。
十数枚に及ぶそれらの最初の二三行の文章で未優はギブアップし、慧一に目を通してもらったのだった。

(だって、甲とか乙とか、わけわかんないよ……)

学業成績は、ほとんどがEという最低評価だった学生時代。
未優は学校に、体育と音楽と給食と、それから級友と会うのを楽しみに行っていたようなものだった。

「契約成立だね。そんじゃまぁ、あとの説明はリョーコとシローに任せて、アタシャちょっと寝るからね、頼んだよ」

思いきり伸びをしながら、響子(きょうこ)が隣室へと入っていく。

支配人室に残されたのは、未優と慧一と留加、そして“歌姫”の世話係である清史朗(せいしろう)と、響子の秘書で実の妹だという涼子(りょうこ)の五人だった。

響子の手から渡された契約書をざっとチェックし、一部を未優に渡し、残ったそれを手元のファイルにしまいこむと、涼子はちらりと腕時計に目を落とした。
「そろそろ来るはずだけど……」

つぶやく唇には、艶やかな深紅のルージュが引かれている。結い上げられたハチミツ色の髪といい、大人の色気を感じさせる女性である。
一見してブランド物とわかる眼鏡が、未優にはうらやましいほどの知的雰囲気をかもしだしていた。

「呼んで参りましょうか? 何しろご高齢ですし……」

清史朗の申し出に、涼子は眉をひそめた。

「あのヒヒジジイ、もとい、獅子(しし)ジジイにそんな配慮は無用よ」
「ですが……」

(……なんか、今、外見と不釣り合いな単語が、もれ聞こえた気が……)

知的美女らしからぬ発言に驚いていると、それに気づいたらしい涼子が、取り繕うように微笑んでみせた。

「未優。あなた、今までピアスの交換は、したことがあって?」
「いえ、生まれた時から、このままです」

『種族識別』のための“ピアス”は、生まれてすぐに付けられたのちは、基本的に生涯取り外すことはない。

特殊な金属加工が施してあり、無理に外そうとすると、命に関わるような信号をだす仕組みとなっているからだ。

しかし、ごくまれに機能の低下や不良が起こり識別が不可能となるため、交換を余儀なくされる場合がある。

「そう。じゃ、今回が初めてとなるのね。
大丈夫よ。ウチの専属医、性格は難ありだけど、腕は良いから」
「はぃ……」

曖昧(あいまい)にうなずき返す。

“歌姫”になると、それまでの身分証明と変わるため、当然“ピアス”の交換が行われるらしい。
いま着けている“ピアス”を外すことは『山猫』の“純血種”であることはもちろん、今までの経歴やその他の個人情報も【捨てる】ことになるのだ。それは、実質、“歌姫”として生まれ変わることを意味する。

(なんだか、落ち着かないなぁ……)

無意識に“ピアス”に触れる。
十七年と数ヶ月、身につけてきた三日月型の金色の“ピアス”を外し、“歌姫”の証である音符型の銀色の“ピアス”を付けるのだ。

「最初に言っとくけど、あんたが『山猫』の“純血種”だってことは、リョーコとシロー、それにシシドーのじいさん以外には伏せておくからね。

ここ何十年、“純血種”の“歌姫”が居なかっただけに【“純血種”の“歌姫”は存在しえない】ってのが、通念になっちまってるんだ。
ましてや、あんたは“希少種”であるイリオモテの娘だからねぇ。
手続き上は問題ない“純血種”の雇用も、対外的にはいろいろ問題があるのさ。
ウチのナイチンゲール達に、いらん影響与えんとも限らないしね」

契約時の響子の口調から、“純血種”が“歌姫”になることへの反発がうかがえ、未優は気持ちを新たにした。

(あたしが思っていた以上の覚悟が、必要なのかもしれない───)

と、その時、ガチャリと支配人室の扉が開いた。
「いやいや、遅くなってすまんねぇ。歳をとると、どうも足腰の調子が思うようにならんでなぁ。
……おぉ、そこの嬢ちゃんが、新人のナイチンゲールじゃな」

白髪に長いあごひげ、背骨の曲がった老人が、片足を引きずって現れた。
茶色の瞳で未優をとらえ、歩み寄ってくる。耳には、星型の銀色の“ピアス”があった。

「猫山未優です。よろしくお願いします」

「ほう……話には聞いておったがイリオモテのお(ひい)さんらしいの。
どれ」

立ち上がって挨拶(あいさつ)する未優を、あごひげをしごきながら見ていた手が、上がる。

「っ!!」

ペタペタと、その手が未優の胸を確かめるように、さわっていく。場にいた全員が、氷ついたように動きを止める。
未優はパニックを起こした。

(ななな、何っ、これ、ナニッ!? あたし今、何されてんのっ……!?)

そんななか、『獅子族』の老医師獅子堂(ししどう)(まさる)が嘆かわしいといった表情で、首を横に振った。

「いかんのう……未優嬢ちゃん。
お前さんは、もっと自分がおなごだってことを、意識せにゃならん。常に雄の視線にさらされているってことをな。

黙って男に(チチ)触らせとっちゃ、いかんだろ。『このエロジジイ、何しやがるんだ』くらい、言わんでどうする?
その点、響子嬢も涼子嬢も、すぐに鉄拳が飛んできそうな勢いの罵声(ばせい)を、ワシに浴びせてくれたもんじゃがなぁ。

どうやら嬢ちゃんは、実社会の経験値が、同年齢くらいのおなごに比べて低いようじゃな。
おおかた、一族の貴重な(メス)として、大事に大事にされてきたんじゃろ」
ちろり、と、勝の瞳が動き、慧一を横目で見る。
未優に視線を戻すと、よっこらしょ、と言いながら、ソファーに腰を下ろした。手で示して、未優も座らせる。

「これまでは、それでも良かったかもしれん。
じゃが、嬢ちゃんは今日から“歌姫”になる。それは、男の慰み物として見られるということじゃ。
好む好まざるに関わらず、これから嬢ちゃんの側に寄ってくる男は、嬢ちゃんをそういう対象として見るじゃろう。

つまり、嬢ちゃんは、自分の身は自分で守るという気概をもたなきゃならんっちゅうことだ。
さっきのように、ぽやーんとしてたらいかんのだ。
ビシッと毅然(きぜん)とした態度で、そういう輩を()ねつけなければな。
でないと、嬢ちゃんだけじゃない、他のナイチンゲール達も【低く】見られてしまう」

じっと見据えられ、未優は息をのんだ。自分に、そういう自覚がなかったのは、確かだった。
だが、“歌姫”が娼婦の一面をもつ以上、客をとらない“地位”とはいえ、性の対象として見られていることは、意識すべきなのだろう。

「さて。ジジイのつまらん説教はこれくらいにして、未優嬢ちゃんの“ピアス”の施術をせにゃならんな。
医務室へ行こうかの」

どっこらしょ、と立ち上がった勝について行きかけた未優の腰の辺りを、勝がなで上げる。

「……っ……ちょっと!」
「ん?」