「……ありがとう、留加」
「いや。他に、聴きたい曲はあるか?」
留加に問われて、未優は一瞬だけ迷ったが、すぐに思いきって、その曲名を告げた。
「エルガーの『愛のあいさつ』を弾いて?」
「……わかった」
わずかだが、留加にためらいが生じたのを見てとれ、未優は少しだけ後悔した。
しかし───。
(あぁ、イメージ通りだ)
甘くて優しくて……ほんの少し高潔な魂が感じられる音。それが、留加の『愛のあいさつ』。
甘すぎない感じが、ちょうど良い。
弾き終えた留加が、ゆっくりと弓を下ろす。
未優は留加に言った。
「留加。あたしの『人魚姫』の終幕は、『愛のあいさつ』でいくね」
真剣な眼差しと口調に、留加は言いかけた言葉をのみこんだ。
『人魚姫』の結末は、悲劇だ。『愛のあいさつ』を使うには、かけ離れ過ぎているように思えてならなかった。
留加がそれを口にしなかったのは、未優が、考えに考え抜いたうえでの“解釈”であるはずだと、思ったからだ。
「……そうか。わかった。君の望む曲を、おれは弾く」
「反対しないんだね」
挑むように自分を見てきた未優を、留加は正面から見据えた。確信しながら答えを返す。
「君の“解釈”を聞こう。そして、そのうえでもう一度、おれは『愛のあいさつ』を弾く」
「───ありがとう、留加」
未優は微笑んだ。
想いがあふれてしまいそうで、未優はなんとかそれをこらえながら、自身の『人魚姫』の“解釈”について語り始めた。
†††††
“連鎖舞台”は、五十音順の演目で行われるのが常である。
つまり、前回は『灰かぶり』『ラプンツェル』の順で、今回は『少夜啼鳥』『人魚姫』という順番だ。
(綾さんの“舞台”観た翌日に、演るだなんて……)
どうせなら、逆が良かったと未優は思った。だが、嘆いても仕方がない。
そう自分に言い聞かせたとき、テーブルを挟んで真向かいに腰かけていた留加が言った。
「始まるな」
静かな声音に、客席と舞台が窺えるそこから、未優は下方に目を向けた。
真っ暗になった客席が徐々に静けさを増し、ゆっくりと緞帳が上がっていく。
響子からすすめられ、“第三劇場”特別仕様の観覧席から、未優は綾の“舞台”の模様を観ることになったのだ。
小スペースのそこは、V.I.P席のようにディナーも楽しむことができるテーブル席だが、もちろん未優にそんな余裕はない。
開演前に、接待係である慧一が「ついでだ」と言って、アイスティーを二つ、持ってきてくれてはあったが。
『少夜啼鳥』は、ナイチンゲールの和名である。鳴き声の美しさから歌姫に例えられる鳥だ。
ある青年に恋した《彼女》は、青年が赤いバラを探しているのを知る。
しかし、見つけたバラの色は白。
《彼女》は、自分の身を犠牲にし白バラを赤く染め、彼の手に渡らせる。
『我が愛しの君。この深紅のバラを、あなたに捧げます。どうぞ、受け取ってください』
第一幕から第三幕は、主人公・ナイチンゲールの美声を、まさしく「歌」で伝えようとし、『声優』三人が魅惑の歌声と、悲劇を予感させる音楽とで物語をつづった。
そして、綾の演じる終幕は一変して、よどみない語りと優美な動きでナイチンゲールの最期と、悲劇とを彩った。
『なんということだ。ようやく見つけたこの一輪のバラの花も、あなたは受け取ってくださらないのですね』
青年の嘆きの語りから、深紅のバラの花に宿ったナイチンゲールの魂へと、綾は、無駄のない動きと歌声で、表していく。
高音で奏でられる嘆きの旋律は青年の声をヴァイオリンが、ナイチンゲールの想いを綾が歌い、そうして幕は閉じられた……。
4.
未優は溜息をついた。
何度も何度も書き加えては訂正し、そしてたどり着いた『人魚姫』の終幕の“解釈”が入った“演譜”を、握りしめる。
もう一度だけ、と、歌い語りだそうとしたその時、防音室に留加が入ってきた。
「……まだ起きているつもりか?」
言って、留加が未優に近づいてくる。未優の手にした“演譜”に目を留め、息をつく。
「今日は休んで、明日にしたらどうだ。“舞台”は夜の開演だ。リハの前に練習することも可能だろう。
……身体を休めることも、必要なはずだ」
「うん。そうだよね。解っているんだけど、でも……!」
丸テーブルの上で、未優は、ぎゅっと拳を握りしめた。
不安で、たまらなかった。
「実力も経験もハンパなあたしが『女王』を決める大会に出られるかもしれないだなんて……幸運すぎて、ずっと、実感がわかなくて。
だから、綾さんの胸を借りるつもりで、楽しんで『人魚姫』をやろうって、心のどこかで思ってた」
シェリーに「甘い」と指摘されたにも関わらず。
「でも、今日の綾さんの“舞台”を観ているうちに、そういう自分の考えが、本当に甘かったんだって、自覚したの」
シェリーの言う通りだった。
一人一人が競い合い、高め合って、より良い“舞台”を創りあげていく。
その過程は楽しんだとしても、本番の“舞台”では自分でなく観客を楽しませなくてはいけないはずだ。
───プロの、“歌姫”として。
「だからあたしは、今日の綾さんの“舞台”よりも、もっと良いものをお客さんに届けたいって、思った。
それで、部屋に戻って来てから急に練習したくなって……」
テーブルの上に置いた“演譜”を指でなぞる。留加と一緒に少しずつ積み重ねてきた結果が、ここに表れている。
「あたし……本当に、“歌姫”として“舞台”に立てて良かったって、思うの。
留加と音を合わせて、“解釈”を議論して、また歌って、語って……踊って。その繰り返しが、とても楽しくて、仕方がないんだ。
緊張も、するよ? 技術だって、まだまだだって、思う。
だけど───だからっ……!」
ふいに、涙がこぼれた。“演譜”の上に落ちたそれが、染みをつくる。
「あたし……“歌姫”でいたい! ずっと、これから先も……留加と一緒に、やっていきたいよ……!」
明日の“連鎖舞台”で、“女王選出大会”の出場者が決まる。
仮に、未優が“第三劇場”の代表者として選ばれたとしても、『女王』になれるとは限らない。いや、その可能性は極めて低いだろう。
(だけど、このチャンスを逃して……次は、いったいいつ、『女王』になれるチャンスがやってくるんだろう……?)
二十歳までの期限付き“歌姫”の未優にとって、例えわずかな可能性であったとしても、『女王』になれるかもしれないこの機会は逃せなかった。
綾に胸を借りるどころではない。その綾の上をいき、さらにそのまた上を、めざさなければならないのだ───。
「思いつめた音は、思いつめた響きにしかならない」
ポツリと留加が言をもらす。
未優は涙をぬぐって、留加を見返した。青い瞳は鏡のように、真っすぐに未優を映しだす。
「君の心が今のように窮屈なままでいたら、君の歌声も、聴く者に気詰まりな感じを与えるだろう。
───君はそれを、望むのか?」
未優は、首を強く横に振る。そんな仕打ちを、お金を払って来てくれた人に対して、できるわけがない。
「そうだな」
うなずいて、留加は微笑んだ。テーブルに置かれた未優の片手に自らの片手を重ねる。
留加の長くしなやかな指を、未優は驚いて見つめた。
「君の歌声は、優しくてあたたかい。人を惹きつけて、その先にある希望を見せてくれる。
それはとても、尊いことだ───人に、望みを与えるということは」
留加の指が、未優の片手を包むようにして握りこんだ。
「もし、君がいま、明日の“舞台”に立つことに自信をなくしているというなら、どうか、おれを信じて欲しい。
君の歌声を信じている、おれを」
未優は瞳を閉じた。
そうだ。自分は独りで“舞台”に立つ訳じゃない。
いつも側には留加がいて、自分のために旋律を奏でてくれている。その留加のヴァイオリンに応えて歌えばいいのだ。
それがきっと───最高の“舞台”となるはずだから……。
「ありがとう、留加。明日も、よろしくね」
「あぁ。こちらこそ」
向けられたいつも通りの眼差しに、留加は胸を撫で下ろした。
薫あたりに気の利いた言葉でも教わった方が良いのだろうかと、思いながら。
†††††
渡されたプログラムを見ようともせずに、男は舞台と客席を、静謐な眼差しで見下ろしていた。
コツコツと、武骨な指先がテーブルを規則正しく叩いてはいるが、チャコールグレイのスーツ姿は、異国の地の紳士を思わせた。
その耳にあるのは、三日月型の金色の“ピアス”。
「お忙しいところをお越しいただき、恐縮です。イリオモテの……猫山様」
指先がピタリと止まる。かけられた声の持ち主を振り返らず、泰造は息をつきながら言った。
「……君は、どこへ行ってもやっていけそうだな」
「それが、私の唯一の取り柄かと思っております」
「……《あれ》に、その器用さを分けてやって欲しいぐらいだ。まぁ、カエルの子はカエル、ということだろう」
慧一は忍び笑いをもらした。
実直で潔癖な精神と、理想実現のためには手段を選ばない行動力は、確かに受け継がれているといえる。だが───。
「カエルにも、いろいろございましょう。今日は、それを是非ご覧いただきたいかと存じます。
……決して、貴重なお時間が、無駄になることはないかと」
「そうあって欲しいものだがね」
「───では、私は失礼いたします。ごゆっくり、ご鑑賞くださいませ」
一礼し、慧一は泰造の居るテーブルを離れて行った。
泰造は独りごちる。
「カエルにも、いろいろある、か……」
†††††
控え室で、未優は瞑想していた。
昨晩、不安な胸のうちをすべて留加に吐露していたせいか、不思議と気分は落ち着いていた。
(……留加に手、握られちゃったんだっけ)
思いだした事実に、未優の胸は高鳴る。
(もうっ、また違う意味でドキドキしてきちゃったよ……!)
せっかく落ち着いていたのに、と、なんだか留加が憎らしく思えてくる。
これでまた、
「なんの話だ」
などと言われたら、目も当てられない。
「───未優さん、お支度は整いましたか?」
ノックの音と共に、薫が声をかけてくる。
未優が返事をすると、ふふっと笑いながら中へと入ってきた。
「では、参りましょうか、姫? お手をどうぞ」
「……一人で歩けるんだけど」
「そんなつれないこと言わないで。留加のいる舞台袖まででいいから。ね?」
「……あんたが来られるのって、そこまでじゃん」
「うん。そうだよ。だから」
未優の素っ気なさも突っ込みもものともしない薫に、未優は思わず噴きだした。差し出された手を取る。
「薫って、ホント変わってるね」
「そう? 僕はフツーだと思ってるけど、よく人から言われるんだよねー」
歩きだしながら、薫は未優に笑ってみせた。
「でもね、僕の《耳》は変わってないよ。僕が良いと思うものは、多くの人も良いって思えるものだから。
今日の君の“舞台”、本当に楽しみだよ。
僕は世話係になって後悔したことはなかったけど、ひとつだけ失敗したなと思ったのは、君の“舞台”を客席で観られなくなってしまったことかな?
まぁ、その代わり、君のいろんな表情や仕草を、間近で見られるようにはなったんだけどね。
───あぁ、君の王子様が待っているね。僕の役目は、ここまでかな。
行ってらっしゃい、未優。最高の“舞台”を、期待しているよ」
つかまれた指先にキスされて、未優は思わず手を引っこめたが、初めて会った時のように、それをぬぐう真似はしなかった。
……薫が寄せてくれた想いを、むげにはできなかった。