からかうような慧一の眼差しは冗談とも本気ともつかない。未優は眉を寄せた。
「あんた、なに言ってるの?」
「仮定の話だ。───お前が『女王』になれなかった時のな」
「『女王』って……」
慧一が口にした言葉に、未優はあっけにとられた。
“歌姫”になって、まだ一ヶ月にも満たないのに、「『女王』になれなかった時」などという仮定をされても、何も答えられない。
「どの道『女王』をめざすのは一緒だろう。早いか遅いかの違いだけだ。
“歌姫”を続けたいなら、お前は『女王』になるしかない」
「『禁忌』のままじゃ、ダメなの?」
それでも懸命に、未優は慧一の話についていこうとする。
慧一は鼻で笑った。
「お前も認めた通り、『禁忌』ってのは制約があり過ぎる。恋愛面も存在理由も。
おまけに、親父さんの許しはハタチまでだしな」
「何それ! 聞いてないよ!?」
「当然だ。言ってないんだからな。余計なことを耳に入れて、お前を動揺させるわけにはいかなかった。
……『禁忌』の“地位”すら築けていない、お前をな」
未優が“歌姫”になることを反対していた泰造を説得するために、慧一があげた条件のうち、それが一番効果的であったことは否めない。
泰造は娘の「趣味」を、当主に就くまでの我がままとして認めたのだ。
未優は唇をかんだ。“歌姫”になれることが嬉しくて、父の真意に気づけなかった。
本当の意味で“歌姫”になることを、許されたわけではなかったのだ。
「───何も、今すぐ『女王』になれとは言っていない。だが、今からめざした方が良いことは、解っただろう?」
未優の表情を読み取り、慧一はなだめるように言った。
自覚のあるなしでは、『女王』になるまでにかかる時間に、雲泥の差があるだろう。
ましてや、一点集中型の未優のようなタイプには、目標は明らかに示した方がいいはずだ。
「でも、『女王』になったからって、父さまに“歌姫”でいることを、許してもらえるわけではないんだよね?」
もちろん、許しを得られなくても、“歌姫”を続けていきたい。だが、そううまくいくだろうか───?
泰造は、未優が二十歳を過ぎても家に戻る意思がないと知れば、あらゆる手段を使って、“第三劇場”に圧力をかけてくるだろう───未優を辞めさせるために。
「許す許さないは、親父さんの心の問題だ。『女王』になれば、事実上、親父さんはお前に、手出しなどできなくなるからな」
「えっ? そうなの?」
驚いて、未優は慧一を見返す。眼鏡のない顔で、慧一はその目を細めた。
「『女王』は公娼免除の他に、様々な特権があると、面接の時にマダムが言っていただろう」
未優は記憶を手繰り寄せる───確かに、言っていた。それゆえに『女王』は全国でただ一人なのだとも。
「それが『女王』の座の意味、不可侵であれ、だ。
つまり、『女王』はひとつの独立した国家と同じなんだ。誰にも指図されず、何者にも支配されない。
『女王』の領土は全国にある各“劇場”だ。その領土を回り、“舞台”を行うことによって統治する。
それが法で守られているとなれば、当然、親父さんがどうこうできるレベルじゃない。晴れてお前は“歌姫”でいられるというわけだ」
おどけるように、慧一は両手を広げた。しかし未優の方は、至って真剣に、慧一の言葉を繰り返す。
「『女王』になれば、あたしは“歌姫”でいられるんだ……」
慧一も真顔になって、うなずく。
「そうだ。
『女王』になれば、恋愛は自由だし、『女王』であるがゆえに、公娼制度から外れる。なにしろ、不可侵であれ、だからな」
未だ『女王』について、完全に把握できていないだろう未優に、言い聞かせるように慧一は言葉を重ねる。
「『女王』になれ、未優。お前が望むものを手に入れるためには、そうするしかない」
2.
留加はその扉を叩いた。従業員寮の清史朗の部屋だった。
清史朗は留加の顔を見ると、待ち人来たりというような、ホッとした表情を浮かべた。
「……おはようございます。ご用件は」
一瞬、言いよどんで、留加は真っすぐに清史朗を見返した。
「『王女』に……シェリーに会わせて欲しい。二人だけで」
「本来は、お客様以外の男性と二人きりでというのは引き合わせかねるのですが。『王女』本人からのご用命もございますし、承りましょう。
───そうですね。本日の二十二時に、トレーニングルームでいかがでしょう?」
清史朗は胸元から端末機を取出し、シェリーのスケジュールを確認しながら留加に問う。
留加は驚いた。
「今日頼んで、今日会ってもらえるのか?」
くすっと清史朗が笑う。
「ご用命があったと、申しましたでしょう?
『王女』からは、あなたが会いたいとおっしゃってきた時は、何を差し置いてもスケジュールの都合をつけろと、申しつけられておりましてね。
さすがに、馴染みのお客様との先約をキャンセルするわけにはまいりませんから、空いているのはそのお時間しかないのですが……よろしいでしょうか?」
「あぁ、構わない。……よろしく伝えてくれ」
「かしこまりました。……あぁ、留加様。ひとつだけ」
去りかけた留加を、清史朗が呼び止める。
「ヴァイオリンを忘れずにとの、お言づけがございました」
「……わかった」
ゆっくりと、留加はうなずき返してみせた。
「また明日ね」と言われた日から、もうすぐ八年が経過しようとしていた───。
†††††
(『女王』になれ、か……)
未優は壁にかけたカレンダーを見やる。
“歌姫”になるために、“歌姫”が《本来どんな職業であるかも知らず》未優は面接を受けた。
その日から、ようやく一ヶ月が経つか経たないかのこの時期に、『女王』をめざせと言われるとは予想もしていなかった。
(そもそもあたしの目標って“歌姫”になることで、『女王』になることじゃなかったし)
“歌姫”として“舞台”に立つことができれば、それで良かった。
夢は叶ったと、言っていいだろう。
あとはずっと、このまま“歌姫”で居続けることができれば、それで幸せのはずだった。
(でも、このままじゃ、あたしはいずれ“歌姫”を辞めなくちゃならないんだ)
『山猫族』の頂点に立つために───。
それは、未優が望む場所ではない。未優の居場所は、ここ、“第三劇場”でしかない。“歌姫”であることだ。
(それなら、『女王』になるしかない)
慧一の言う通りだ。遅いか早いかの違いだろう。
“歌姫”を続けていれば『女王』をめざすのは必然だ。ならば、意識を切り替えるしかない。
未優は、カレンダーに印をつける。
今日から、自分が『女王』をめざすのだという決意に代わって。
「───あれ?」
思わず、声をあげた。もう11月も中旬である。
未優は、とっくに来てなければならない自身の“変身日”が、まだ来ていないのに気づく。一週間近く遅れていた。
(あーっ。“連鎖舞台”で頭がいっぱいで、すっかり忘れてたーっ)
あわてて医務室へと向かう。
勝に相談する目的で扉をノックしようとした時、なかから少女のすすり泣くような声がした。
(またエッチなビデオ観てるんじゃ……)
眉をひそめつつ、乱暴なノックをした直後、未優はなかへと入った。
「失礼します、エロビデオ観てる暇があるなら、あたしの相談にのってください」
口先だけの、感情のこもらない言い方で告げる。とたん、
「こら! 相手の返事も待たんで入ってくる馬鹿がおるか!」
勝の一喝に、未優はぎょっとなってそちらを見る。
衝立ての向こうに、人影があった。診察中だったのだ。
「ご、ごめんなさいっ!」
あわてて未優は、医務室の外へと飛び出した。扉の横に立ち、前の人の診察が終わるのを待つ。
ほどなくして、室内からハチミツ色の髪をした12、3歳の少女が出てきた。
緑色の眼が、未優を見上げてくる。
“踊り子”のキャサリンだった。皆にはケイトと呼ばれている。
「未優さん、こんにちは」
「こ、こんにちは。えっと、ごめんね? いきなり入って行ったりして……」
「いいえ。気にしないでください。……それじゃ、さようなら」
ペコリと頭を下げて、キャサリンは未優に背を向け、歩きだす。
フレアースカートからのぞいた『山猫』の尾が、なんだか元気がないように見えた。
未優は思わず、キャサリンを呼びとめる。
「ケイト? なんか、あったの?」
側に寄って顔をのぞきこむと、瞳が潤んでいる。キャサリンは言った。
「あたし、明日からサヨナキドリのリストに載るんです」
「あ……」
未優は、言葉を失った。
サヨナキドリとは、ナイチンゲールの別名だ。そのリストに載るということは、娼婦として買われることを意味する。
キャサリンは、おそらくそのために、診察を受けていたのだろう。
「勝医師は、初めての相手がお客さんじゃ嫌だって言うなら、“第三劇場”にいる男の人ならどうだって。
だからあたし、ちょっと考えて……『虎』の薫さんか『山猫』の慧一さんがいいかなって。
両親のどちらかの血筋の人とって思ったんです」
「やっ、やめときなって! 特に、慧一……さん。あの人、超性格悪いんだから!」
反射的に叫んだ未優を、キャサリンはきょとんとして見上げた。
「そうですか? 慧一さん、優しいですよ? この間、食事当番の時、棚の上の方にあった調味料に手が届かないでいたら、取ってくれて。そのあと、手伝ってくれたし」
(……『山猫』の猫かぶりめ!)
「あの、未優さん。話を聞いてくれて、ありがとうございました。
未優さんに話して、口にだしたら、あたし、実感わいてきました。だから、なんとか頑張ってみようと思います。
───えぇと……それと、未優さんの『ラプンツェル』良かったです。
試験の時、あたし、感動して……あんなにキレイな飛翔、初めて見ました。
……あたしもいつか、できたらいいな」
まだあどけなさの残る頬でキャサリンは言い、もう一度頭を下げ去って行った。未優はその後ろ姿を、複雑な思いで見送る。
医務室の扉が開いた。
「未優嬢ちゃん、相談にのらんでもいいのか?」
「……おじいちゃん。あたし、なんかいろいろ、解んなくなってきちゃった……!」
「……ともかく、なかへ入りなさい」
うながされて、未優は医務室に入った。
勝は緑茶を二つ淹れると、スチール椅子に腰かけた未優に茶碗の一つを渡し、残った方を自分に取った。
「で? 何が解らんと言うんじゃ?」
「“歌姫”が娼婦であることの意味。
前は、みんなが“舞台”にだけ専念できればいいのにって、思ってた。
でも、さゆりさんみたいに“歌姫”の娼婦である側面を肯定的に受けとめてる人もいて、誇りに思っている人もいるって知って、あたしのなかで少し感じ方が変わってきてたの。
だけど……さっきのケイトの話を聞いちゃうと、やっぱり、イヤイヤ自分の身体を売らなきゃならない子もいる訳だし。
“歌姫”になったからって、自動的に娼婦にならなきゃいけないのは、おかしいと思う」
勝はふっと笑った。茶をすする。
「……ふむ。おかしい、か」
未優は、大きくうなずいた。
人が、自分の望むべき有様でいられないのは、どう考えても、納得がいかない。
「のう、嬢ちゃん。お前さんは『禁忌』で、だから客をとらない。
そして、そのことによって恋愛も禁じられておるな。それは、おかしいとは思わんか?」
「……正直、思いました。
だけど……“歌姫”としてやっていくなら、それに従わざるをえないのかもって、自分を納得させて……」
響子にクギをさされた時に感じたこと。
例えイヤだと思っても、それが『禁忌』であるというのなら、受け入れない訳にはいかない。