幻獣サーカスの調教師

私には、大切な家族がいた。

父は温厚で、あまり喋らないが優しい人で、母は綺麗で良く笑う人だった。

私には兄がいた。

強くて、賢く、とても尊敬していた。

兄のようになりたいと思っていた。

「ノエン、出掛けるのか?」

「うん」

あの日、私が出掛けていなければ、どうなっていたのだろう?

「あまり遅くなるなよ!母上達も心配するからな」

「分かった!」

あの日、私がもっと強かったら、大切な人達を失わずにすんだだろう。

「……父……上?……母……上?」

目の前には、真っ赤な体と、悪魔のような翼を持った化け物が、ギラギラした瞳を向けていた。

鋭い牙が何本も生えた口には、良く知っている女性がくわえられている。

「あ……あぁ……」

涙が溢れ、足が小刻みに震える。

「ノエン……逃げろ!!」

兄が私を庇うように立ちふさがり、何度も逃げろと繰り返した。

「兄う―」

「早く!!走れ!!」

「!っ」

今まで見たことのない、怖い顔をした兄に促され、私は弾かれるように走り出した。

後ろからは、骨が砕けるような「バキッ」という音がし、私は耳を塞いだ。

「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

兄の悲鳴が聞こえ、咄嗟に振り替えると、母と同じように、兄は化け物に体をくわえられていた。

少しでも力を込めようものならば、兄の体は真っ二つに避けるだろう。

「……っ!」

助けなければと思った。でも、怖くて兄の元へと戻れなかった。

込み上げてきた吐き気に口元を抑え、私はまた逃げ出した。


どれくらい走ったのか分からないが、私の足は限界だった。

もつれて転び、膝がジンジンと痛む。

ただ平穏に、幸せに生きていた。なのに何故、こんな風に奪われなければいけなかったのだろう?

私はあの後、父の友人を名乗る男に保護され、その家の養子になった。

私は家族を殺した化け物が幻獣であり、更にその幻獣に家族を殺させるよう仕向けたのは、かつて父に悪事を暴かれた貴族の男だと知った。

私は誓った。私の家族を奪ったその男と、目の前で兄を噛み千切ったマンティコアを殺すと。
目を開け、ノエンは溜め息を吐いた。

いつの間にか寝ていたらしい。

(今も……まだ夢に見る)

忘れたくても忘れられない。

忘れることなど出来るわけがない。

埃の臭いが充満し、ノエンは「後で掃除だな」と小さく呟いてから、テントの外へと向かう。

外は雨が降っており、ノエンは構わず雨の中に身を投げる。

雨は好きだった。

血で汚れた自分を、残酷な過去を、洗い流してくれるような気がして。

あれから、ルルとすれ違っても、ルルは挨拶をしてくれても、前のように笑ってはくれなかった。

それに、何故か心が痛む。

自分よりもきっと、恵まれない環境で育った彼女は、それでも歪むことなく優しい。

けれども、その優しさが彼女自身を深く傷付けた。

(ラッドの死を願う私は、彼女を利用しようとしていた)

復讐の対象ではないルルの命まで奪う気はない。

だから、次のショーではルルだけでも助けてくれるよう団長に頼むつもりだ。

あの男は金さえあれば何でも言うことを聞く。

元々ノエンを引き取った家が、このサーカスに多大な寄付をしているのだ。

その家の息子であるノエンを、団長はないがしろにはしない。

(金で動かそうとする私も、結局は悪だろうな)

正義感の強い人間から見たら、自分はさぞ悪人に見えるだろう。

家族を奪ったあの男を見殺しにした自分を、きっと善人面している人間は責めるだろう。

「……いいか悪いかなど、誰にも決められない」

正義とは、自分で決めるしかないのだ。

人を殺すことが悪だと言うのならば、何故幻獣は裁かれないのだろう?

答えは簡単だ。

幻獣には、殺すのが罪という概念も法律も無いのだ。

所詮は獣と同じ存在でしかない。

けれども、人は他の生き物よりも多くの感情を持ってしまった。

言葉の鎖で人は人を縛り、開発された凶器で獣や幻獣を縛る。

(確かに、人間は愚かだ)

リュートが人間を嫌っている理由など、聞かなくても分かる。

(けどね、人間は愚かなだけじゃないんだ。幻獣と違ってね)

感情を持った生き物が愚かと言うのならば、それは幻獣にも言えることだ。

家族を奪ったマンティコア。あれは自分が復讐する前に死なれてしまった。

だから、怒りの矛先は今度はマンティコアの子供に向く。

(次のショーで、私は復讐を果たす)

父の形見であるこの刀で。

(……ノエンさん)

雨に濡れるノエンの姿を、ルルはただ見ていることしか出来なかった。

リュートから貰った耳当てのおかげで、鏡を見るのがそこまで苦ではなくなったが、それでも、前の自分ではない気がして、悲しくなる。

あれから、何故かノエンの顔をまともに見ることが出来ない。

彼の目から写る自分は、どんな風なのだろうと想像すると、前のように弾んだ気持ちでノエンの側にいられない。

そのくせ、ノエンの側に居たいと思っている。

正反対の気持ちを、矛盾を抱えていた。

(……私……どうしたいの?)

自分が何をしたかったのか、それすらもう分からない。

他の幻獣達は、ラッドよりも聞き分けが良いから、今のところルルの手を焼かすような子はいない。

ラッドとの間に壁が出来たあの日から、ルルは幻獣という生き物を、心のどこかで恐れるようになった。

本当は、本音を言ってしまえば、もう「幻獣の調教師」でいたくなかった。

けれども、ルルはラッドの側にいる道を選んだ。

それは、酷く辛い道だと知りながら。

(私はラッドを恐れながら……ラッドをまだ大切にしたいんだわ)

例え前と同じように接することが出来なくても、ラッドを拒絶したいと思いながらも。

それでも、ルルは簡単にラッドを切り捨てることなど出来ない。

何故なら、ルルの心の奥深くに「ラッド」と言う存在が刻み込まれているのだ。

そうなるだけの時間を、共に過ごしてきたのだから。

(……だから、私は最後までラッドと居るわ)

ラッドが死ななければいけないと言うのならば、ルル自身も命を差し出すべきだと思った。

(……ねぇ、ノエンさん)

ルルは心の中でノエンへと声をかける。

(貴方が私を可愛いと言ってくれた時、お世辞だったとしても本当に嬉しかったの)

自分の器量は、自分でも良く分かっている。

それでも、純粋に嬉しかった。

(……好きよ。私、貴方が好きです)

けして口に出すことなく、ルルは悲しげに微笑んだ。

この言葉と気持ちは、死んだ後も自分だけで背負おう。
そう誓った。
そして、運命のショーの日。

「本日お集まりの皆様の中には、このサーカスで起きた忌まわしい出来事のことが耳に入ってらっしゃる方もいらっしゃるでしょう」

団長の話声が、どこか遠くで聞こえるような気がする。

「罪深き幻獣マンティコアの最後の姿を、ぜひご覧下さい!」

(……団長さんは、こんな時でも楽しそうね……)

ニタッとした、ねっとり張り付くような笑みが、ルルは大嫌いだった。

だが、そんな顔も今日で見納めだ。

(……死ぬ時って、こんなに穏やかな気持ちになるものかしら?)

悲しみも怒りも、恐怖ですら、今は何も感じない。

(…………あぁ、でもまだ未練があるわ)

まだ彼にちゃんと伝えていない。

ルルは相変わらずの仏頂面を晒している青年へと近寄る。

「リュート」

「何の用だ?もやし」

相変わらず過ぎて、何故か笑えてくる。が、ルルは何時ものように頬を膨らましてリュートを睨んだ。

「失礼ね!……ねぇ、リュート」

「……」

「私ね、貴方のこと、そんなに嫌いじゃなかったわ。意地悪だったけど、優しい時もあったもの」

目を伏せ、ルルはリュートから貰った耳当てへと手を添えると、息を吐き出す。

そして、短く息を吸い込むと、リュートの目を真っ直ぐ見た。

「だから……だからね。私、貴方が居てくれて良かったと思ってるの。この耳当てを渡してくれた時にちゃんと言えなくてごめんなさい。…………ありがとう」

リュートが居てくれて良かった。リュートの不器用な優しさに救われていたと、その思いを込めた「ありがとう」の言葉。

「……!」

その気持ちは、リュートに届いただろうか?

けれども、届いていなくても良いと思えた。見返りなどいらない。

ルルは、ルルの言いたいことを言っただけなのだから。

「では、長らくお待たせいたしました!『ラッドの処刑ショー』の始まりです!」

「……行くわね」

最後は、せめて笑っていよう。

彼の心の中に、不格好でも情けない顔は残したくない。

大切な友人であり、兄であり、弟だった彼の思い出に残る顔は、笑顔が良い。

「ルル!」

「!……さようなら」

初めて呼ばれた名前。それを嬉しく思いながら、ルルは返事を返さず、舞台へと上がった。

ルルが舞台に上がると、何時もは騒がしいほどの拍手を送る観客達は、クスクスと小さく笑っている。

ラッドが入った檻も、エルフによって運び出され、舞台へと置かれた。

「では、長年ラッドの面倒を見てきた彼女自身の手で、ラッドを殺していただきましょう!」

(……え?)

団長の言葉に、ルルは目を見開いた。

一体どういうつもりなのだろうか?

(どうして?団長さんはラッドと一緒に、私のことも処刑するって言ってたのにっ!!)

団長の意図が読めず、困惑するしかない。

だが、ルルが呆然としている間に、ラッドの檻の鍵が外される。

そして、ルルにエルフは斧と鞭を渡した。

これで、ラッドの首を切り落とせと、暗黙に言っているのだ。

初めて持つ斧はとても重く、ルルはカタカタと震える。

ラッドは檻から出ても、唸るだけでまだ襲い掛かっては来ない。

「さぁ!お楽しみください」

団長の声に、こだまがかかる。

『さぁ、殺してしまえ!そうすれば、お前は生きられるのだ』

そう言っているように、ルルには聞こえた。

ルルはラッドと向き合う。

鞭に付いているボタンを押して、ラッドの体に電撃を流し、顔を地面に押し付けるラッドの首に、この重たい斧を振り下ろせと言うのか。

(……そうすれば、私は助かるの?)

ラッドの命を奪い、これからも団長の望む通りに偽りの自分を演じる道か、それとも―。

(……ラッドがいなくなれば……ラッドを殺してしまえば)

生き長らることが出来る。

本当はまだ死にたくなんてない。

だって死ぬのは怖いし、首を落とされたら痛い。

(……殺してしまえば、私は―)

ルルは斧を持ち上げた。重くてふらつきそうだが、何とか堪えて。

「私……はっ―」
重く引きずるような音が辺りに一瞬だけ響いた。

人々の視線の先には、地面に転がった斧。

「……はぁ……はぁ」

放り投げた体勢のまま、ルルは肩で息をしていた。

「何の真似だ?!ルル!!」

団長の怒鳴り声が、静かな会場に響き渡る。

「……」

ルルは姿勢を戻すと、俯いて肩を震わせていた。

「ふっ……ふふふ!」

「な、何がおかしい?」

含み笑いをするルルを、団長は気味の悪いものを見るような目で見ていた。

観客達もルルの様子を、息を飲んで見ている。

「あははは!………………出来るわけがない」

大きな声で笑ったかと思えば、ポツリと小さく呟く。

「?」

意味が分からないと、訝しげな視線を送る団長に、ルルはキッと睨み返した。

「出来るわけがないじゃない!私がラッドを面倒見てきたのは、ラッドを家族のように思っていたから。私が得られなかった家族の愛情を、せめてラッドには与えたかったからよ!」

自分が欲しかった親の愛。

父も母も、記憶の隅に掠れてしまいそうなほど小さい頃には、もしかしたら愛してくれた時があったかもしれない。

けれども、はっきりと覚えている記憶の中の自分は、いつも両親の愛情を求めて泣いていた。

二人に好かれる子供になろうと、「良い子」になろうと必死だった。

それでも、結局得ることは出来なかったが。

だからこそ、ルルは一欠片でも良いから、ラッドに与えたかった。

受け取るだけの愛もあるだろう。けれども、ルルは与える愛を選んだ。

血の繋がった家族でも、恋人でも、ましてや人間でもないこの幻獣に。

「……もし私がラッドを殺してしまったら、私は本当に『私』を失ってしまう」

片耳を失った時、自分はもう自分では無くなったような気がした。

けれども、それは間違いだ。

どんな姿をしていようとも、ルルの中身が変わるわけではないのだから。

大切にしてきたものを、自分の手で壊してしまったその時、ルルはルルで無くなってしまうと、ラッドを前にして初めて気付いた。

「ラッドを殺すくらいなら、いっそラッドに食べられて死ぬことを選ぶわ!」

持っていた鞭を床へと叩き付けると、鞭はバチバチと音をたてる。

すると、ラッドの首輪が外れた。
「……ラッド」

ルルはラッドへと歩み寄る。

ラッドの今の思いなど分からない。分かりはしない。

けれども、分からなくても良いと思った。

「私を食べたいなら、食べて良いわ。だから、逃げて生き延びて」

首輪が外れたラッドは自由なのだと、ルルは笑った。

そして、両腕を広げる。

「私はあなたの一部となり、あなたとずっと一緒にいる。約束するわ」

「……何を馬鹿な」

団長の怒りを堪えるような声が聞こえ、ルルは足を止める。

団長の手には、いつの間にか赤いボタンの付いた装置が握られていた。

あれは、ルルの首輪と腕輪の起爆装置。

「お前の命はワタシが握っているのだ。死に方を決めるのはワタシだ!」

「……」

団長の言葉にも、ルルは何の反応も示さない。

だが、団長は言葉を続ける。

「そんなにラッドと居たいのならば、一緒に爆弾で吹き飛べば良い!!」

「頭に血が上りすぎですよ?お客様も巻き込むつもりですか?」

「ふんっ。殺す方法など、いくらでもある。リュート!ノエン!」

団長は怒鳴り声でリュートとノエンを呼ぶと、剣を持ったリュートと刀を持ったノエンが団長の側にやって来た。

「「……」」

「命令だ。リュートはルルを、ノエンはラッドを殺せ!」

ノエンは抜刀の構えをとり、リュートは剣を構える。

明らかに強い二人相手では、女の自分など、簡単に殺されるだろう。

けれども、ルルは両腕を広げてラッドを庇うように二人の前に立ち塞がる。

「……行きなさい。ラッド」

『……』

今までに無い、静かな声でルルは呟く。

(ノエンさん……リュート)

二人は、自分とラッドを本気で殺すつもりなのだろうか?

それでも、ルルは引く気はない。

「行きなさい。……行きなさいラッド!!」

観客達も混乱している。今がチャンスなのだ。
ルルの声が届いたのかは分からない。

だが、ラッドは背を向けた。

(………そう。それで良いの。……生きなさい)

生きてほしい。自分の代わりに生き延びてほしい。

ルルはそんな思いを込めて、もう一度ラッドに言う。

「いきなさい!!」

「そうはさせません!!」

ラッドの背を、黙って見送りそうになったノエンは、ハッと我にかえると走り出す。

だが―。

「ふっ!」

リュートの剣が、ノエンの刀を弾き飛ばした。

そして、呆気にとられている間もなく、今度は素早く団長の腕を切り落とす。

「うぁぁぁぁぁぁぁっ!!?」

一瞬のことで団長も反応が遅れ、無くなったものに気付いた途端、悲鳴をあげた。

リュートはそんな団長の姿に目もくれず、落ちた起爆装置を踏みつけて壊した。

すると、ルルの首輪と腕輪が外れる。

「…………リュート………」

どうしてと聞こうと口を開いたその時―。

「きゃぁぁぁぁぁ!!」

つんざく悲鳴が、会場中に響き渡る。

何が起きたのか、呆けていたノエンは顔をあげて観客達を見た。

ラッドも何事かと動きを止めて、きょろきょろと見回し始めた。

ルルも顔をあげる。

すると、妖精達が天井を舞い、カーバンクルがテントの布を切り裂いていた。

そして、突如各観客席から、爆発音と共に火の手が上がる。

「……何が―」

「幻獣(俺達)の怒りだ」

ノエンの疑問に答えたのは、うっすらと笑みを浮かべたリュートだった。
「いい加減、うんざりなんだよ。そこの太ったおっさんに従うのも、見世物にされるのも……こいつを悲しませるお前達には、へどがでるほどうんざりしてるんだ!!」

吐き捨てるように怒鳴ると、リュートはルルの側へ寄り、その手を掴む。

団長は出血が酷く、このまま放っておけば死ぬかもしれない。

だが、観客は逃げるのに精一杯で、誰も団長を助けようとしないし、リュートとノエンに見向きもしない。

火に包まれていくテントの中で、ノエンとリュート達はお互いに向き合っていた。

「俺達幻獣は、もうお前達何かに従わない。そして俺達は、ルルを守ると決めた」

リュートとルルの回りに、幻獣達が集まる。

だが、ラッドだけはルルの側に寄ろうとしない。

「……私はルルさんを殺す気はありません。私が殺したいのは、そこのマンティコアだけですから」

カチャっと金属の鳴る音が響くと、ラッドの鼻の上に皺が寄る。

「ラッド、駄目!」

ルルの声に、ラッドは余計に苛立ちを露にする。

これ以上頭に血が上れば、また前と同じことになりかねないだろう。

「ラッドのやりたいようにさせておけ」

「殺る気ですか?……こちらも遠慮はしません。今こそ、家族の恨みを晴らす!!」

ノエンは走りだし、ラッドもルル達の上を飛び越える。

「死ね!ラッド!!」

『ガァァァァァ!!』

牙を剥き出し、鋭い爪を振り上げたラッドと、刀を抜いたノエン。

二つの刃がぶつかり合うその寸前―。

小さな影が二人の間に割って入った。

すると、何かが切り裂かれるような音と共に、赤い鮮血がまるで雨のように降り注ぐ。

「……ぁ……っ」

『……』

ノエンとラッドは、熱い雨を浴びながら固まった。

目の前にいる人物に、声をあげることも忘れて立ち尽くす。

「……ノエ……さ……」

ラッドを庇うように立ち、お腹にグッサリと刺さった刀を握りしめ、切り裂かれた背中から流れた赤い雫が、ルルの足元に水溜まりを作っていた。

ノエンは自分の手の先を見て、血の気が引く。

「……ルル……」

呟いたのはノエンだったのか、それともリュートだったのか、確かめる前にルルは後ろへと倒れた。