どうするって、何が何でも渡すしかないだろ!
先生と同様、俺が安易に引き下がると思ったら大間違いだ。
追いかけて、すぐに追い付いて、「ほら」とファイルを押しつけた。
右川は、何かを諦めるみたいに、ぼんやりと受け取る。
「悩むのは仕方ないし、忘れられないのも分かるけど。それなら、何か別の事で頭を一杯にした方が良い事もあると思うから」
俺は、言うべき事は伝えた。
……と、思う。
再び、進路指導室に取って返し、進路ガイダンスを眺めた。
オープンキャンパス……志望校が決まれば、俺だって行く。
各大学が主催する模擬講義なるもののラインナップを1部コピー、またしばらく国立ファイルを眺めた後、生徒会室にやってきた。
桂木が独り居て、辞書をめくっている。
「それ、今日の文法の課題?」
「今日の、塾の課題」と、俺の顔を見ずに言った。
何気なく周囲を眺めていると、
「さっきまで、みんな居たよ」
「右川は?」
「帰った。あのコも、さっきまで居たけど」
見ると、俺が押し付けたはずのファイルが、そのまま置きっぱなし。
机の上に忘れられている。
思わず舌打ちが出た。怒鳴りつけてやろうかとスマホを取り出す。だが通話は出ない。ラインは既読スルー……いつも通りにも程がある。
「何か見てらんないね」
「まったくだ。全然シラけて他人事だよ」
それは突然だった。
俺がスマホを放り投げると同時に、桂木が辞書を叩き付ける。
今日2度目の破裂音だった。
「そういう沢村を!……もう見てらんない」
初めて見る、その表情。
強い口調も。震えるあちこちも。
「あたしが何にも言わないからって、平気で見てるとでも思ってる?」
言いたい事は分かる。怒ってる事も。
「ごめん」と謝ってみたものの、謝る位では済まない事も何となく分かる。
「黒川にブッ込まれた。オレらの邪魔しないように、沢村はお前が捕まえとけって」
桂木は辞書を拾い上げた。
呼吸を整えて、
「志望校の事。ワザと黙ってた。でも、待っても待っても、全然訊いてくれなくて。我慢できなくて、結局自分から言っちゃうし。気にならないの?」
桂木は、俺の返事を待たなかった。
「ていうか、どうでもいいんだなって分かった。あたしの事なんか」
あのコと違って。
……最後は、聞き取れないほど小さい声で。
「あたしの今日、放課後の予定とか、週末とか、夏休みとか、2人のこれからとか……1度もそんな話にならないよね。全部が無くなっても、沢村はまるで平気に見える」
でしょ?
いつかのように、桂木は首を傾げた。1度溜め息をついて、スマホを取り出して、何かを打ち込んで……俺の出方を窺っているような。
許された沈黙の間に、不穏がそこら中を渦巻いた。
程なくして、
「ブッ飛ばしていい?」
「うん」
「黒川じゃないよ」
「うん」
頷くしかなかった。覚悟がある。何をされても文句は言えない。
桂木は、ブッ飛ばすとは言ったものの、向かってくる気配は無い。
「沢村に、ちゃんと聞くのは初めてかもしれないね」
すぅーっと涼しい深呼吸をした。
「本当に……あのコとは何でもないの?」
初めて見る、その表情。
いつか必ず聞かれると恐れて。
聞かれるまで聞かれるまでと、はっきり俺は逃げていた。
俺は黙った。これは逃げたとは違う。
この沈黙を桂木がどう取るかは分からない。
追求されたら、桂木には嘘はつけないと覚悟はあった。
うっかりやった事。山下さんの話。そんな事実を話して聞かせた所で、何でもないどころか、もう有りすぎて有りすぎて……意識しない訳がないと、それを認める事になってしまう。かといって実際、特別な感情があるのかどうか、それが自分でも分からなくなってきた。
黒川なんかやめればいいと思うだけなら何度も思うし、イライラするし。
それは全部、黒川のいい加減が頭に来るからという理由だ。
そんな事以上に、右川が受験をどうするのか大学は決めたのかと、そっちばかりが気になる。
その首根っこを掴まえて、進路指導室にブチ込んだ事はある。
だが、黒川から力尽くで右川を引き剥がした事は1度も無い。
右川を好きだとしたら、それはおかしいんじゃないか。
桂木が結論に至るには十分な間があったと思う。
「議長、片思いってつらいですよね」
「いや、そういうんじゃなくて」
「だったら議長、そこまで、あのコを気に掛ける理由って、何?」
「それは……山下さんに頼まれたから」
そこまでの経緯を話して聞かせるには、長い時間が必要だから……と、適当な言い訳を探して誤魔化すことは、もう的外れにしかならない。
「桂木、ごめん」
正直にいう。
「他に誰か居るとか、そういう事じゃないよ」
あの日の山下さんの表情を思い出した。
残酷なくらいに、冷静で。落ち着いて。
俺は記憶を辿るように、その様子1つ1つを思い浮かべながら声にした。
「桂木とは付き合えない。付き合うの、もう辞めよう。俺は辞めたい」
時計を見て。
外を眺めて。
深呼吸して。
桂木は「わかった」と一言、静かにネクタイを外して出て行った。
気が付けばスマホが鳴っている。右川じゃなかった。椅子の背もたれにグッタリと体を預けて、俺はしばらく目を閉じた。今はもう動けない。
桂木は、右川の名前を出さなかった。〝あのコ〟とか言った。
最後まで怒っていたと思う。
泣かなかったのがせめてもの救いだと思った。
いや……隠れて泣いているかもしれない。
俺を恨んでもいいから、吹っ切れて出てきてくれることを、ただ祈る。
あのコ、みたいに。