いつの頃からか
よく同じ夢を見る
それは幼い頃の...記憶にもほとんど残っていない程に遠い頃の夢
高校卒業までを過ごした、今も実家がある山間の田舎町
蝉が煩く鳴く季節
実家の真裏にある高台の公園の端に聳え立つ大きな木
男の子と2人でその木に登り目の前に広がる深い緑の山々と青く澄み渡る空のコントラストと小さく見える町並みに「うわぁキレイ」と感嘆の声を上げ
太い幹から出るしっかりとした枝に、幹を抱きしめるようにして座り
幹の反対側に座る男の子と話したり、笑ったり、景色を眺めたり...
男の子は私のことを「あーちゃん」と呼び、私は男の子のことを「さくちゃん」と呼んでいた
空がオレンジ色に染まり始める頃に男の子の「帰ろっか」で木を降り始める
しかし私が高い所から降りるのが怖くて動けずにいると、男の子が抱っこをしてくれた
正確には私が男の子にギュッとしがみついていた
ゆっくりと確実に近付いてくる地面に恐怖心も薄れ始めた時
ガクンと揺れ、落ちる
そして毎回、地面に叩きつけられる前に目が覚める
目覚ましを止め、体を起こし、胸をさする
この夢を見た後はいつも胸がチクチクする
高山ありす29歳独身
フランス人の父と日本人の母から受け継いだ、色素の薄い栗色のふわふわ猫毛の髪を右手で掻き上げる
色素の薄い髪も肌も緑がかった瞳も昔から嫌いだ
幼い頃はそれ故に、仲間に入れて貰えず寂しく過ごすことも多かった
住み慣れたワンルームのひとり暮らしの部屋で、冷房のスイッチを入れ浴室に入る
7月上旬にもなると朝目覚めると汗だくだ
蛇口を捻り、ぬるめのシャワーを頭からかぶる
夏は嫌いだ
暑いし
蒸すし
彼のことを思い出すし...
3年前の夏の夜
仕事帰りに家までの道のりで事故に巻き込まれ亡くなった彼
赤信号を無視し、猛スピードで突っ込んできた相手方の車はフロント部分は大破したものの、運転手は軽い怪我だけ
運転席側から突っ込まれた彼はほぼ即死だったと聞いた
2ヶ月後に迫った結婚式に心弾ませながら、同棲していたアパートで1人彼の帰りを待っていた私は病院からの1本の電話で奈落の底に突き落とされた
婚約者だった彼、白石新(しらいしあらた)とは社会人になってから同僚から同じ地元の奴知ってると紹介された
狭い田舎ではあるけど、知り合いではなかった
新とはすぐに意気投合して恋人になるのにも時間はかからなかった
新がいるといつだって世界がキラキラと輝いて見えた
辛い時は2人寄り添い
そしてまた笑い合う
ずっと...そんな日々が続くんだと思っていた
駆けつけた病院の霊安室で彼に縋り泣いた
どんだけ名前を呼んだって、彼からの返事はない
どんだけ涙を流したって、冷たく動かなくなった彼が濡れた頬を指で拭ってくれることはない
後のことはよく覚えていない
どうやって家に帰ったのかも
どうやって葬儀をしたのかも
どうやって結婚式をキャンセルして、参列予定者に連絡をしたのかも
いつの間にか葬儀も終わって
いつの間にか新がいない日常が始まっていた...
ただ呆然と過ぎていく日々を見送る
新と住んでいた部屋は2人の思い出が詰まりすぎていて、辛いだけだったから会社の近くに引っ越した
ただ毎年くる蒸し暑い夏の夜にあの日のことを思い出し
ひとり過ごすこの部屋で、彼と過ごした輝く日々を思い出す
あの夢を見るようになったのは、新がいなくなってから
程よく冷えた部屋の中で、朝の支度を整えていく
今年ももうすぐ彼の命日だ
私が勤める有栖川グループは国内各地でホテルを展開する歴史ある大企業
今の社長になってからは世界中に進出していて、毎年のようにその数も増えている
就活の時に『ありす』繋がりで興味を持って、行った説明会で惚れてしまった
この会社に
この仕事に
入社してから楽しいことばっかりではなかったけれど
私は胸を張って「仕事が好きだ」と言える
新がいなくなって、世界の全てが色をなくしてしまっても
仕事だけが私の支えとなった
私の職場は自宅から徒歩5分
この地域の主要駅に直結する大きなオフィスビルの7〜10階を占める有栖川グループ本社
本社には人事法務部、広報部、経理部、総務統括部のみ
現場のことは現場が一番よくわかっているという方針で、営業活動やアルバイトなどの採用業務、イベント企画など現場で起こる殆どのことが現場で動いている
私が所属する総務統括部は3〜5人のチームで担当するエリアにあるホテル全館の動きを精査する
現場から上がってきたイベント企画などでいい案があれば会議で他のエリアにも共有したり意見を求めたり、ホームページや雑誌広告などの広報も受け持つ
「おはようございます」
デスクに鞄を起きながら、上席に座るチームリーダーの金井さんに挨拶をした
金井さんは視線だけこちらに一瞬だけ寄越し、手を動かしながら「おはよう」と口にする
35歳の彼はクール・ビズでカッターシャツとスラックスというラフな格好だけど、歳下の奥さんと3歳の娘さんを守る立派なお父さんだ
「パリからメール来てたから対応よろしく」
今度は手を止めて、デスクに置いてあったコーヒーのカップを持ちながら微笑む
このチームは4人のチームで現在拡大を強化している西欧を担当している
4人それぞれが日本語と英語の他に外国語を操る
私は父から学んだフランス語、金井さんはスペイン語、残りの2人がドイツ語とイタリア語
現場の人とのやり取りは英語が基本だけど、たまに英語ができない人もいるようで、各言語でメールや電話が来ることもある
デスクのパソコンを起動し、外を歩いて来たゆえに額に滲む汗をハンカチで押さえながら座る
「三上くんと木根さんは昼から来るって。俺も今から1回帰って、14時くらいにまたくるわ。」
そう言って自分のデスクを片付ける金井さん
三上くんは今年で4年目、私の3歳下のドイツ語を操る男の子
木根さんは今年で3年目だけど、中途採用で入った同じ歳のイタリア語を操る女性
総務統括部はやり取りをする相手が海外や国内でもホテルの現場の人間なので、勤務時間はコアタイムのないフレックス制
1日8時間働いて、きちんと仕事をこなせば、早朝だろうと夜中だろうと問われない
もちろん8時間以上働けば残業代もつく
週に2回だけ午後3時からの会議は必須
今日も本来なら会議だけど、午後3時からの会議の時間に専務の就任式兼お披露目パーティーがオフィスビルの隣にあるうちのホテルの一番大きなホールである
各チーム上席2人はそちらに出席となるので、今日の会議は行われない
「お疲れ様です」と金井さんをデスクから見送り、パソコンのメールを開く
時刻は午前9時半を過ぎたところ
国内のエリア担当はこれくらいの時間から出勤して来る人が多く、このフロアも国内組が続々と出勤してきている
一方海外組は現地との時差もあり、早朝や夕方から出勤する人も多い
国内エリア担当を国内組、海外エリア担当を海外組という呼び方をするが、週2で会議もあるし、それ以外でも頻繁に情報交換もするし、異動もあるので基本的に社内の仲は良い
私も西欧エリア担当になる前は国内の東海エリア担当をしていたし、今でもその時の先輩と食事に行ったりもする