秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

「ここか……」

 手紙と地図を手にした菜乃華は、路地の奥にひっそりと佇む建物を見上げて呟いた。

 日光は遮られ、地面は舗装されることもなく土が剥き出しだ。その所為か、真夏の昼間なのにどこかひんやりしている。加えて、遠くから聞こえるセミの鳴き声以外に音はなく、まるで世界に一人だけ取り残されてしまったかのようだ。

 そんな場所に、菜乃華は立っていた。

 地図を封筒にしまい、改めて手紙の方に目を落とす。それは、祖母からのもらった最初で最後の手紙――遺言だ。

 そこに書かれているのは、祖母の直筆で菜乃華に宛てたお願い事である。
 今はもう懐かしい祖母の文字を見つめながら、菜乃華は今日までの出来事を振り返った。


          * * *


 大好きな祖母が亡くなった。菜乃華にとって、それは自分の世界が揺らいでしまうくらい辛い出来事だった。

 高校が夏休みに入って、二日目の朝のことだ。祖母の亡骸を最初に見つけたのは、母だった。いつもは誰よりも早起きな祖母が部屋から出てこないことを心配し、母は様子を見に行った。そして、祖母が息をしていないことに気が付いたのだ。

 実家である九ノ重神社の境内を掃除していた菜乃華は、取り乱した母に呼ばれてすぐに母屋へ戻った。箒を投げ捨て、玄関で靴を脱ぐのももどかしく、転がるように祖母の部屋の前まで走る。途中、柱に肩をぶつけて鈍い痛みが走ったが、菜乃華には痛みに意識を向ける余裕さえもなかった。

 祖母の部屋では、両親が慌ただしく動き回っていた。母は涙声になりながら携帯で救急車を呼び、父は祖母の肩を揺らしながら必死に呼び掛けている。かつて見たこともないほど必死の形相をしている両親の間で、祖母だけが静かに眠り続けていた。

 菜乃華は目を閉じたままの祖母の顔を見つめ、部屋の前で力なく崩れ落ちた。
 ショックが大き過ぎて感情が追いつかず、涙さえも出てこない。現実を受け入れられないまま廊下にへたり込み、壊れたカメラのように、その瞳に動かない祖母の姿を焼き付け続けた。

 祖母の死に顔は、実に安らかなものだった。まるで今すぐにでも起き出してきそうなほど穏やかで、菜乃華には祖母が本当に死んでいるのか疑わしく思えたほどだ。

 けれど、意識の片隅に聞こえてくる両親の悲痛な声が、祖母の死は現実なのだと物語っていた。
 大学で神職に就くための勉強をしている双子の長兄と次兄もすぐさま帰省してきて、祖母の通夜と葬式はしめやかに営まれた。
 葬儀の間中、菜乃華は人形のように黙ったまま、祖母の棺桶を見つめ続けていた。

「菜乃華、大丈夫? 顔、真っ白よ」

「平気だよ、お母さん。大丈夫」

「辛ければ、泣いてもいいんだぞ。感情を胸の内に押し込めておくのは、体に毒だ」

「うん。ありがとう、お父さん」

 両親が声を掛けても、心の宿らない返事をするのみ。その様はまるで、魂を失った抜け殻のようであった。

 実際、祖母が死んだ朝から葬式が終わるまで、菜乃華の記憶はあやふやだ。自分がその間に何をしていたのか、思い出すことができない。

 ただ、菜乃華が抜け殻でいられたのもそこまでだった。自室に戻ってベッドに倒れ込んだ瞬間、胸に堪えようのない悲しみが去来した。葬儀が終わったことで心が祖母の死を受け入れ、それまで押し止められていた感情の箍が外れたのだ。

「お祖母ちゃん……。お祖母ちゃん……っ!」

 感情と共に、涙と嗚咽が溢れ出す。枕に顔を埋めた菜乃華は、体を震わせながら涙を流し続けた。

 菜乃華にとって、祖母はいつも自分を見守ってくれる、かけがえのない存在だった。
 物心ついた頃、両親は神職の仕事で忙しく、兄たちは少し年が離れていることもあって、いつも二人で外に遊びに行ってしまっていた。そんな幼い菜乃華にとって、祖母だけが唯一の遊び相手だったのだ。

 学校に通うようになってからも、菜乃華はいつも祖母にべったりだった。悩んでいる時は励まし、失敗した時は慰め、喜んでいる時は一緒に笑ってくれる。そんな祖母のことが大好きだった。今の高校に合格した時も、一番に喜びを分かち合ったのは祖母だ。

『大丈夫。なっちゃんは九重の土地神様に愛された子だから。何があってもへっちゃらさ』

 祖母がよく掛けてくれた言葉が、菜乃華の胸に蘇る。

 けれど、もうそんな祖母の声も言葉も聞くことはできない。それどころか、もう祖母の笑顔を見ることもできないのだ。
 祖母がいなくなってぽっかり空いた胸の穴から流れ出すように、涙は後から後から止め処なく零れ落ちた。

 次の日、涙が枯れるまで泣き尽した菜乃華は、熱を出した。
 熱が出るなんて、小学校六年の時にインフルエンザに罹って以来だ。熱に浮かされ、布団の中で眠りについては、祖母が歩き去っていく夢を見て目を覚ます。七月の終わりまでの一週間ほど、そんなことの繰り返しだった。

 それでも、熱が下がっていくにしたがって、ようやく感情の波もコントロールできるようになってきた。祖母の死のショックはまだ残っているし、悲しみが消えることはないが、前を向くことができる程度には気持ちの整理もついた。

 第一、これ以上落ち込んでいたら、天国の祖母にまた心配をかけてしまう。そう心に言い聞かせて、菜乃華は祖母の死を乗り越えた。

 両親から「少し話がある」と呼ばれたのは、そんな頃のことだった。
 改まってどうしたのだろうと思いつつ居間へ行くと、両親は真剣な面持ちで彼女を待っていた。

「お祖母ちゃんから、お前にだ」

 そう言って、父が対面に座った菜乃華に渡したのは、一通の手紙だった。白い封筒には、祖母の字で『なっちゃんへ』と書かれている。

 どうやらこれは、祖母から自分に宛てての遺言らしい。両親の態度と簡素な封筒から、そのように悟った。
 祖母から手紙を受け取るなんて、菜乃華にとっても初めての経験だ。それがまさか遺言という形になるなんて思いもしなかった。

「開けてもいい?」

「もちろんだ」

 菜乃華が窺うように目を向けると、父はゆっくりと頷いた。その隣で、母は黙って菜乃華を見つめている。
 もしかしたら、両親はこの手紙の内容を知っているのかもしれない。何となく、そのように思った。

 きちんと正座をして姿勢を正し、祖母からの最初で最後の手紙を受け取る。封筒を開けると、中には二枚の便箋が入っていた。折り畳まれていた便箋を、緊張しながらゆっくりと開く。

 そこには祖母の字で、
【なっちゃんへ おばあちゃんからの最後のお願いです。神田堂と瑞葉を頼みます。】
 とだけ書かれていた。

 神田堂とは何のことか。瑞葉とは一体誰だろうか。疑問の渦に飲み込まれながら、もう一枚の便箋に目を移す。そこに書かれていたのは、祖母の手書きの地図と、どこかへの道順を示すメモだった。一枚目の内容から判断するに、おそらく『神田堂』という場所への行き方だろう。地図を見る限り、神田堂は町内、ここのえ商店街の近くにあるらしい。

「それが、お祖母ちゃんがお前に遺した遺産だ」

 二枚の便箋を確認し終えたところで、父が口を開く。
 便箋から父へと視線を戻した菜乃華は、不思議そうに首を傾げた。

「お祖母ちゃんの……遺産? それって、どういうこと。神田堂って何なの?」

「神田堂は、お祖母ちゃんが開いていた店の名前だ。お祖母ちゃんは、かねてからその店をお前に継いでほしいと考えていた」

「お祖母ちゃんが、お店を……」

 祖母がお店をやっていたなんて初耳だ。昔からいつも祖母に遊んでもらっていたように思うが、まったく気が付かなかった。
 いつから? 一体何の店を? と菜乃華の頭に様々な疑問が飛び交う。

 ただ、今はそれよりも気になることがある。菜乃華はその疑問を、素直に父へぶつけた。

「でも、なんでわたしに継がせたいなんて……。なんでお父さんやお母さん、お兄ちゃんたちじゃなくて、私なの?」

「神田堂は、お祖母ちゃんの持っていたとある力によって成り立っていた店だ。私や母さん、衛(まもる)、健(たける)にはその力がない。今この家で――いや、この世界でお祖母ちゃんと同じ力を持つのは、お前だけだ」

 父が淀みない口調で、菜乃華の疑問に答えた。

 その内容は、はっきり言ってしまえば荒唐無稽の一言だ。祖母は何がしかの力を持っており、その力を使ってお店をやっていて、あまつさえ自分も同じ力を持っている。そんな絵空事、今時小学生だって信じないだろう。

 だが、父が冗談を言っているようにも見えない。そもそも父は、このような場面で冗談を言うような人ではない。故に菜乃華は、何を信じてどう理解すればよいのかわからず、余計に混乱した。

 眉をハの字にする菜乃華に、父は「もっとも……」と続ける。

「お祖母ちゃんがお前に継いでもらいたいと思ったのは、力云々以前にお前という個人を見込んでのことだと、父さんは思う。お前がお前だったから、お祖母ちゃんは店を畳むことはせず、お前に託そうと思ったんだろう」

「お祖母ちゃんが、わたしを見込んで……」

「ああ、そうだ。そうでなければ、長年苦楽を共にしてきた店と店員――親友を托したりなんかしないさ」

 父と、隣で父の話を聞いていた母が、穏やかに微笑む。
 父が言う祖母の『親友』というのが、手紙にあった『瑞葉』のことだろうか。祖母は、そんなにも大切な財産を菜乃華に託してくれたのだ。その信頼が、菜乃華にとっては堪らなくうれしいものだった。

「もちろん、神田堂を相続するかはお前の意思次第だ。もし、お前が相続を辞退したいなら……」

「――やる」

 父の言葉を最後まで聞くことなく、まっすぐな声音で返事をする。

 祖母が何の店をやっていたのかなんてわからない。自分に何の力があるのか、そもそもそんな力を本当に持っているかも知らない。それでも、祖母が自分を信じて托してくれたことだけはわかった。
 ならば、それだけで十分だ。祖母の遺産を――遺志を受け継ぐのに、それ以上の理由はいらない。

 両親の目を見つめ、もう一度はっきり自分の意思を示す。

「わたしが、お祖母ちゃんのお店を守る。神田堂は、わたしが継ぐ」

「……そうか」

「なら、精一杯やってみなさい。応援しているわ、菜乃華」

 娘の意思を受け止め、両親がその答えを尊重するように優しく頷いた。
 菜乃華なら、そう答えるとわかっていた。二人とも、そんな表情だ。

「お前の意思はよくわかった。とりあえず明日にでも、一度神田堂へ行ってきなさい。そこに住み込みで働いている瑞葉という店員がいるから、お前が店を継ぐということを伝えるんだ」

 父の言葉から、『瑞葉』の正体についても確認が取れた。やはり、祖母の手紙に書かれていた『瑞葉』とは、神田堂の店員にして祖母の親友のことだったようだ。

「お前の力や神田堂については、その時にでも瑞葉に訊くといい。私が話してもいいのだが、おそらく長年神田堂の店員をやってきた彼の方が適任だ」

「わかった。それなら明日、話を聞きに行ってみる」

 やや強張った面持ちで背筋を伸ばしながら、菜乃華が頷く。一人で神田堂へ赴き、件の『瑞葉』と会うことに緊張しているのだ。
 娘の緊張を感じ取り、母が父の言葉に付け加える。

「安心しなさい、菜乃華。瑞葉は私がこれまでに出会った中で最高の人格者よ。きっとあんたを助け、教え導いてくれるはずだから」

「お母さん……。ありがとう。大丈夫だよ。こう見えても、コミュ力には自信ある方だから」

 母に向かって微笑みつつ、自分に対しても大丈夫だと言い聞かせる。
 祖母が親友とまで言った『瑞葉』とは、どんな人か。神田堂とは、一体どんな店なのか。
 様々な謎を気にしつつも心を躍らせ、菜乃華は祖母の手紙と共に自室へと戻った。
 そして翌日、正装代わりに高校の夏服に身を包んだ菜乃華は、日課である朝の境内掃除を終え、早速神田堂へ赴くことにした。

 封筒に入っていた地図を手に、まずは九重町の中心、ここのえ商店街を目指す。
 ここのえ商店街は、この町で最も活気溢れる場所だ。大型ショッピングセンター等の台頭でつぶれていく商店街も多い昨今にありながら、多種多様な個人商店が今も元気に軒を連ねている。正に九重町のシンボルと言えるだろう。もちろん菜乃華も、幼い頃からお世話になっている。

 そんな商店街の一角で、菜乃華は立ち尽くしていた。

「本当に、ここで合ってるんだよね……?」

 路地を前にして、表情を引きつらせる。

 そこは写真屋と和菓子屋の間にできた、文字通りの細い路地だった。道幅は一メートルくらいで、人が一人通るだけで精一杯といった感じだ。幼い頃から商店街に通っている菜乃華でさえ、今まで気付かなかったような道である。

 本当にここが、神田堂へと続く道なのだろうか。手元の地図と目の前の路地を、何度も交互に見比べる。

 しかし、何度メモを確認しても、やはり間違いはない。祖母からもらった地図は、この道を指し示している。神田堂は、この路地の先にあるのだ。

 恐る恐る路地に近づいて、中を覗いてみた。

 路地の中は、昼間とは思えないくらい薄暗い。おそらく道が細過ぎるせいで、太陽の光も届かないのだろう。神主の娘がこんなことを言うのもなんだが、お化けでも出てきそうな雰囲気である。正直な感想を述べるなら、入るのはちょっと遠慮したい道だ。

 だが、地図がここを示している以上、進まないわけにはいかない。なぜなら自分は祖母から神田堂を托され、自らの意思で継ぐと決めたのだから。
 路地の先を見つめ、勇気を持って第一歩を踏み出す。

「……外から見るより狭いな、ここ」

 路地に入った瞬間、思わず驚き混じりの声を漏らしてしまった。

 中に入ってみると、商店の壁に挟まれた路地は、外から見た時よりもずっと狭く感じられた。それに、表通りよりもかなり埃っぽい。試しに人差し指で壁に触ってみたら、指先が埃で灰色になった。これは気をつけて歩かないと、制服の紺地のスカートが裾だけ別の色になってしまいそうだ。思いもよらぬ大誤算である。

 こんなことならスカートじゃなくてデニムとかで来ればよかったと、菜乃華は指先に付いた埃を払いながら、心の中でため息をついた。後悔先に立たずとは、このことだ。
 せめて制服を汚さないようとスカートの裾を押さえ、慎重に路地を歩いていく。

 すると、ほどなくして路地の先に丁字路が見えてきた。

 メモの指示に従い、そこを左に曲がる。曲がった先も、写真屋の裏手と民家の塀に挟まれた、細い路地だ。その道を進み、次の曲がり角を右に折れる。進んだ先はまたもや丁字路で、今度は右折だ。

 その後も、細い道を右へ左へと曲がりながら進む。自分がどこを歩いているのかわからなくなるくらい、何度も角を曲がっていった。これでは、ほとんど迷路だ。九つ目の角を曲がり、一息つきながら膝に手をついた。気分はさしずめ、不思議の国に迷いこんだアリスといったところか。もっとも、こんなところにチョッキ姿の可愛らしい白うさぎはいそうにないが。

 商店街からはすっかり離れてしまい、今歩いているのは民家の間を走る道だ。これまでの路地より道幅は広くなったが、右は生け垣、左は板塀となっている。地面は舗装もされておらず、土が剥き出しだ。

 自分が歩いてきた順路を思い出しながら思う。これではまるで、わざと店にたどり着けないようにしているみたいだ、と……。

「お祖母ちゃん、こんなところで何の店をやっていたんだか……」

 人が来るのを拒絶するような場所で開いている店。こんなところに来る人がいるのだろうか。
 だが、その答えもすぐにわかる。膝から手を放し、まっすぐ前を向く。

 見つめた先にあるのは、行き止まりだ。

 商店街から続いた道は、そこで終わり。代わりに一件の建物が、菜乃華を出迎えるように、入り口のガラス戸を見せていた――。
 祖母の手紙から視線を前に戻し、菜乃華は改めて神田堂を見る。ガラス戸には黒い文字で、大きく『神田堂』と記されていた。

 ただし、ガラス戸は擦りガラスとなっていて、外からは中の様子を窺い知ることができない。父はここに来れば『瑞葉』という人物に会えると言っていたが、これだけ静かだと中に人がいるのかさえも怪しく思えた。

 何となくすぐに入って行く勇気が持てず、とりあえず一歩下がって建物の全景を見渡した。神田堂は、二階建てで住居兼お店といった感じの建物だ。そこら辺は、ここのえ商店街にある商店と変わらない。築年数が計り知れないほど年季の入った建物だが、住人の手入れが行き届いているようで、ボロいとは感じられなかった。住人から愛され、大切にされていることがよくわかる佇まいだ。

 建物の外観を見ただけでも、『瑞葉』という人の人となりが垣間見える気がする。きっと真面目で、情の深い人なのだろう。まだ見ぬ相手ではあるけれど、不思議と好感が持てた。
 もっとも、お店として見た場合には、やはり賑わいそうには思えない。どちらかというと経営難に直面していそうで、思わず苦笑してしまった。

 と、その時だ。

「――そこのお前、こんなところで何をしている。人間の娘がどうやってここまで来た」

「きゃっ!」

 不意に横合いから声を掛けられ、菜乃華は悲鳴を上げながら飛び上がった。誰もいないと思って油断していたから、驚きは普段の三割増しだ。そのまま思い切り尻餅をついてしまった。

「いたた……」

「…………。……あー、その……大丈夫か?」

 まさか、ここまで大袈裟に驚かれるとは思っていなかったのだろう。声の主が、やや戸惑った様子で菜乃華に問い掛けた。

 その質問に「平気です」と答えながら、菜乃華は声の主を見上げ……目に飛び込んできたその姿に言葉を失った。

 そこに立っていたのは、菜乃華よりも少し年上――二十歳くらいと思われる青年だった。サファイアのように澄んだ切れ長の蒼眼と絹のように艶のある黒髪を持つ、まるで最高級品の人形のように端正な顔立ちだ。それに、モデルのように背が高くてスタイルも良い。おそらく菜乃華よりも頭一つ分は高いだろう。

 その均整の取れた体を包んでいるのは、父が着ているのと似た感じの白の小袖と浅葱色の袴だった。その出で立ちもあってか、アイドルのようにかっこいいのではなく、美術品のように美しく神々しいと感じられる。

「すまない、驚かせるつもりはなかったのだ。立てるか?」

「あ……その、ありがとうございます」

 青年が差し出した手を、呆然としながら握り返す。肌理細やかだが男らしい力強さも感じる手に引っ張られ、立ち上がる。

「どうやら、怪我はないようだな」

「は、はい! その、丈夫なのが取り柄なので!」

 微笑む青年から後光が差しているような気がして、菜乃華の背筋がこれでもかというくらい伸びる。そこで自分が土まみれになっていることに気が付き、慌ててスカートの裾をはたいていった。
 その姿を青年は苦笑交じりに見ていて、菜乃華の頬は林檎のように赤くなった。

「大丈夫か。髪にもついているぞ」

「うそ! ど、どこですか?」

「後ろを向け。取ってやる」

 すごすごと後ろを向くと、菜乃華の背の中ほどまで届く長い髪に、青年の手が触れた。青年は菜乃華の髪が傷まないよう丁寧に土埃を払っていく。

 後ろを向いて髪を任せている菜乃華は、恥ずかしいやらどこかうれしいやら。赤い顔のまま両手の指を絡めたりしつつ、大人しくしている。

「よし、取れた。もういいぞ」

「は、はい。えっと……ありがとうございました!」

 振り向き様に頭を下げ、勢いよくお礼の言葉を述べる。
 すると、菜乃華の頭の上から、青年が朗らかに笑う声が聞こえてきた。

「気にするな。尻餅をつかせてしまったのは、私の責任だからな」

「いえ、そんな。私が必要以上に驚いてしまっただけですので……」

 顔を上げた菜乃華が、神田堂を背にした青年を見上げる。今更ながら気付いたが、青年の後ろで神田堂のガラス戸が開かれたままになっていた。どうやらこの青年は、神田堂の中から出てきたようだ。

 それを意識した瞬間、菜乃華の頭の片隅を、何かが駆け抜けた。今はもう思い出せない記憶の切れ端が、菜乃華の胸の内を通り過ぎていく。

『――わかった、やくそくする!』

 心の内に木霊するのは、幼き日の自分の声だ。なぜだろうか。懐かしいような、温かいような……。そんな不思議な感覚が、菜乃華を満たした。

「それでは話を戻すが、君は何者だ。人の子が、どうやってここに入って来た」

「……え?」

 青年の声が、菜乃華を現実へ引き戻す。

 同時に、懐かしい感覚や幼き日の声は、心の奥に消えていった。今の菜乃華には、もはやその感覚の尻尾を攫むことさえできなかった。

 今の不思議な気持ちは、なんだったのだろうか。どこか後ろ髪引かれるような気分になりつつ、心の中で首を捻る。

 ただ、今は思索に耽っている場合ではない。菜乃華は用向きを尋ねる青年へ向かって、たどたどしく口を開いた。

「わたし、ここの店主をしていた神田サエの孫でして……。実は先日、お祖母ちゃんが亡くなって、遺言でわたしがこのお店を引き継いだんです。だから、ここの店員をしているという瑞葉さんにご挨拶を、と思いまして……」

「私に? いや、それよりもサエの孫ということは……お前は菜乃華か?」

 青年が切れ長の目を見張って、菜乃華のことをまじまじと見つめた。
 同時に菜乃華の方も目をまん丸にして、震える人差し指で青年を指差しながら、確認するように口を開いた。

「あ、あの……もしかして、あなたが瑞葉さんなんですか……?」

「いかにも、瑞葉は私だ。神田堂の店員として、長く世話になっている」

 なぜだかまたもや苦笑しつつ、青年が肯定した。

 まさか件の『瑞葉』がこんな美形の青年だとは思っておらず、菜乃華が絶句する。

 いや、これまでの経緯から、予想して然るべきだったかもしれない。なぜならこの青年は神田堂から出てきて、菜乃華に「こんなところで何をしている」と訊いてきたのだ。立ち振舞いから神田堂の客には見えないし、ならばこの青年は神田堂の関係者以外にありえないだろう。
 加えて、神田堂に店員が二人いるという話も聞いていない。状況証拠だけなら、彼は『瑞葉』以外にあり得ない。

 ただ、菜乃華としては、『瑞葉』は祖母と同年代の老人と思っていたのだ。父も「長年苦楽を共にしてきた親友」と言っていたし。

 それがまさか、蓋を開けてみれば直視できないほどの美青年だ。サプライズもいいところである。年頃の女の子としてうれしいという以上に、相手のレベルが高過ぎて気後れしてしまう。

 この青年と一つ屋根の下でお仕事をするなんて、緊張し過ぎて心臓が持たないかもしれない。暴れ回る心臓を押さえるように胸に手を置きながら、菜乃華は十七歳にして心臓発作になることを本気で危惧した。

「なるほど、君が菜乃華というなら、ここに来られたことも得心いった。サエをはじめ、神田家の人間は結界の対象から外してあるからな」

 菜乃華が胸の鼓動を押さえつける傍らで、青年――瑞葉が何やら呟きながら納得顔で頷いている。

 もっとも、軽くテンパり気味の菜乃華に、彼の台詞を吟味していられる余裕はない。何か気になる言葉があった気がするが、すぐに頭からすっ飛んでしまった。

 そんな菜乃華を微笑ましそうに見つめ、瑞葉はさらにどこか愉快そうな調子で呟く。

「この子が、あの菜乃華か……。随分と大きくなったものだな。人の世の時が経つのは、早いものだ」

「あ、ええと、なんでしょうか!」

 名前を呼ばれた気がして、慌てて訊き返す。
 すると瑞葉は、「いや、何でもない」と軽く首を振った。

「ともあれ、事情はわかった。君のことはサエ――生前の君の祖母からも話を聞いている。彼女の後を継ぐと決めてくれたこと、店員として私からも感謝する。どうもありがとう」

「い、いえ、そんな! わたし、まだこのお店について何も知らなくて……。何ができるのかわかりませんけど、よろしくお願いいたします」

 折り目正しく頭を下げる瑞葉に対し、菜乃華も慌てふためいた様子でお辞儀を返す。これでは、どちらが店主でどちらが店員かわかったものではない。

「さて、それではまずこの店について説明しなければならないな。それと、君の店主としての役割についても。それなりに長い話になるし、中で話そうか」

「はい! お願いします、瑞葉さん!」

「そんなに畏まらなくてもいい。君は店主なるのだ。店員である私に対しては、敬語も敬称も不要だ」

「はい、わかりました! ……あ。う、うん、わかった」

 咄嗟に敬語が出てしまい、菜乃華が恥ずかしそうに俯きながら言い直す。瑞葉に対してフランクに接するには、もう少し練習が必要そうだ。
 肩を丸めて小さくなった菜乃華は、「そのうち慣れるさ」と言う瑞葉の後について、神田堂へと足を踏み入れた。
 外観と同様、神田堂の間取りは、ここのえ商店街にある多くの商店と似ていた。入ってすぐが店舗スペースとなる土間で、奥に住居の一階部分が見える。菜乃華の感覚的には、古き良き日本のお店という感じだ。

 神田堂の中に入った菜乃華の目にまず飛び込んできたのは、土間に置かれた大きな作業台と、二棹の箪笥だった。作業台は学校の美術室にあるような大きい木のテーブルで、マットが敷いてある。おそらく、机を汚さないためのものだろう。箪笥の方は、よく見たら引き出しに『刷毛』や『定規』といったメモ書きが貼られていた。どうやらこれらは、仕事道具を入れる箪笥のようだ。

 つまり神田堂は、これらの道具や作業台を必要とする商売をしているということだ。
 高校で美術部に所属している菜乃華としては、この光景を見ただけでも少しテンションが上がる。同時に、父が言っていた力云々のことはよくわからないが、これなら自分にもできることがあるかもしれないという自信も出てきた。

「奥の居間で座っていてくれ。今、茶を淹れてくるから」

「あ、それならわたしにやらせてください。わたし、お茶を淹れるの、得意なんです」

 またもや敬語になりつつ、菜乃華が表情を輝かせる。
 仕事とはあまり関係ないが、瑞葉に良いところを見せるチャンスだ。菜乃華が淹れるお茶は、近所でもおいしいと評判である。神社の氏子総代さんなんて、「なっちゃんのお茶を飲むのが、神社に来る時の一番の楽しみだ」とまで言ってくれるほどだ。菜乃華にとっては密かな、そして数少ない特技である。

 見たところ、居間のさらに奥に台所があるようだ。瑞葉の脇を抜け、台所へと一直線に向かう。
 菜乃華は足取りも軽く、鼻歌まじりに台所のガラス戸を開け放った。

「うん?」

「…………」

 そこで予想外のものを見つけた菜乃華は、笑顔のまま無言で表情を凍りつかせた。

 台所にいたのは、まんじゅうをくわえた一匹のサルだ。なぜかお坊さんのような袈裟を着ている。さらになぜか急須でお茶を入れている。随分と器用なサルである。

 だが、それだけでは終わらない。サルはまんじゅうを飲み込み、菜乃華に向かって気さくに話しかけてきたのだ。

「よう、人間の子供とは珍しいな! 嬢ちゃん、まんじゅうでも食うかい?」

「…………」

 サルが笑顔でまんじゅうを差し出すも、菜乃華は固まったままだ。頭の中が完全にフリーズしてしまったのか、身じろぎ一つしない。

「おや? おーい。大丈夫かい、嬢ちゃん?」

 サルの坊さんも、さすがに菜乃華の様子がおかしいことに気が付いたようだ。彼女の顔の前で、手を揺らしながら呼びかける。

 そこでようやく我に返ったのだろう。菜乃華が目を見開き、海老のように後ろに向かって飛びはねた。普段の彼女では考えられない、機敏かつ大胆な動きである。
 菜乃華の挙動に、今度はサルの方が目を丸くした。

 そんなサルを震えながら指差した菜乃華は……、

「サ……」

「さ?」

「サルがしゃべったぁああああっ!!」

 店中が震えるほどの声で、大絶叫したのだった。


          * * *


「菜乃華、一応紹介しておこう。こいつは蔡倫。よく店にやってくる、冷やかしみたいなやつだ」

 菜乃華の大絶叫後、ひとまず彼女の混乱が落ち着いたところで、瑞葉がサル改め蔡倫を紹介した。

 といっても、ここに至るまでが一苦労だった。

 何と言っても、しゃべるサルがいきなり目の前に現れたのだ。菜乃華からしてみれば、自分の正気を疑うレベルの出来事である。おかげで夢オチの確認のために自分の頬をつねるところから始まり、最終的に虚ろな目でスマホを取り出して救急車を呼びかけたところで、瑞葉に止められた。

 ただ、そこで今度は別の問題が発生した。なんと瑞葉は菜乃華を止めるため、スマホを持ったその手を握り締めてきたのだ。しかも至近距離からの柔らかな視線と、「すべてきちんと説明するから、今は落ち着いてくれ」という甘く優しい台詞付きときた。

 しゃべるサルに対する混乱は一気に吹き飛んだが、代わりに最上級の美青年との最接近で、菜乃華の頭のヒューズは一気に吹き飛んでしまった。菜乃華は頭から蒸気を噴き、貧血でも起こしたように倒れ、瑞葉と蔡倫に介抱されることとなったのだった。

 菜乃華からしてみれば、出だしから大失態である。
 もっとも、色々あって精神が麻痺してきた所為か、居間の卓袱台を挟んで座る蔡倫のことも「まあ、そういうこともあるさ」的に受け入れられた。人間の適応能力とは、なかなかに逞しく恐ろしいものである。

「おいおい瑞葉~、冷やかしはねえだろう? オイラはお前さんが誰も来ない店番で退屈しないよう、こうして通ってやってんだぜ」

「余計なお世話だ、馬鹿者が」

 じゃれつく蔡倫を、瑞葉は鬱陶しそうに押し退ける。

 そんな二人のやり取りを、菜乃華はくすくすと笑いながら見守った。なぜなら、二人の漫才のような掛け合いは、自然と笑ってしまうくらいしっくりきていたからだ。

 邪険にしているが、瑞葉が蔡倫に接する態度はとても自然体だ。なんだかんだと言い合っても、彼にとって蔡倫は、馬の合う友人なのだろう。作り物めいて見えていた青年の自然な表情が見られて、少しホッとした。先程までは瑞葉の神秘的な雰囲気に少なからず緊張を感じていたが、今の彼には親近感を覚える。

 菜乃華が微笑んでいると、瑞葉とじゃれていた蔡倫が彼女の前に進み出た。

「いやはや、さっきは悪かったな、嬢ちゃん。驚かせちまったみたいで。改めて、オイラは蔡倫だ。よろしくな!」

「あ、わたしは神田菜乃華です。よろしくお願いします。それと、わたしの方こそ、さっきはごめんなさい。その……いきなり大声を出しちゃって」

 蔡倫が差し出した手を握り返し、握手を交わす。話してみれば、蔡倫は陽気でとっつきやすい相手である。今も謝る菜乃華に、「気にするなよ」と気楽に笑い掛けてくれた。

「それにしても『神田』ってことは、嬢ちゃん、サエばあさんの孫だろう? あのばあさんの孫とは思えないくらいのべっぴんさんだな」

「い、いえ、そんなことはないですよ。わたしなんて、言われるほどのものじゃないです」

 困ったように笑いながら、手や首を小さく振る。

 神社を訪れる氏子さんからも似たようなことを言われることがあるが、菜乃華としてはどう反応していいか困ってしまう類のお世辞だ。ここで素直に「ありがとうございます!」と言えるほど、自分の容姿に自信を持ってはいない。

「謙遜しなさんな。それだけべっぴんだと、中学校でもさぞかしモテるだろう」

 苦笑する菜乃華へ、蔡倫はさらに調子良く言葉を重ねた。
 しかしその瞬間、菜乃華が石膏にでもなったかのように固まった。

「中……学……」

「おや、もしかして小学生だったか? そいつはすまねえ。セーラー服を着ているから、てっきり中学生かと。しっかし、最近の小学生は随分と大人びて――」

「……わたし、高校生です。これでも高二なんです。すみません……」

 これは失敬、とばかりに訂正する蔡倫に、菜乃華が心底申し訳なさそうに真実を告げた。同時に、居間に何とも言えない重苦しい空気が流れる。

 表情を見るに、瑞葉も菜乃華を中学生と思っていたようだ。その素直な驚き顔が、なぜかわからないが菜乃華にとってはとてもショックだった。

「あ~、その、なんだ。すまん、嬢ちゃん。オイラ、ちょっと調子に乗り過ぎた」

「いえ、いいんです。慣れてますから……」

 罪悪感に苛まれている様子の蔡倫に対して、菜乃華も諦めた笑顔で応じた。

 そう。菜乃華にとっては、これくらい日常茶飯事だ。高校二年生にもなって身長が一五二センチしかなく、その上に童顔とあって、初見で菜乃華の年齢を言い当てられた人間は、ここ一年で一人もいなかった。だからといって、傷つかないかと言われれば話は別だが。

 せめて少しでも大人っぽく見えるようにと髪を長く伸ばしてみたのだが、それも今のところ効果はないようだ。

「わたしのことはさておき、そろそろ神田堂のこととか含めて、色々と教えてもらいたいんですが」

 このまま微妙な空気の中というのも居心地が悪い。この雰囲気について一日の長がある菜乃華が、話を逸らす。

「とりあえず蔡倫さんは、普通のおサルさんじゃないんですよね。こうやって言葉もしゃべれるし……。一体、何者なんですか?」

 蔡倫に話を向けながら、小首を傾げる。
 すると瑞葉と蔡倫も、これ幸いとばかりに話に乗ってきた。
「それについてなのだが……時に菜乃華、君は『付喪神』というものを知っているか?」

「付喪神? 確か、古い家具とかに神様や霊なんかが宿ったものだっけ」

 唐突な瑞葉の問い掛けに、菜乃華が腕を組みながら答える。気絶して介抱されてとアクシデントを乗り越えた賜物か、大分口調も親しみが籠ったものになってきた。

「そうだ、その解釈で大体合っている。付喪神は、人間の物に対する信仰心から生まれる神だ。まあ、神といっても時に妖怪と間違われるような最底辺の神格ではあるがな」

「ふーん、そうなんだ。で、それがどうしたの?」

「簡単なことさ。オイラたちは、その付喪神ってこった」

「……へ?」

 瑞葉の言葉を引き継いだのは、蔡倫だ。
 突然の告白に驚く菜乃華の前で、蔡倫は袈裟の懐から一冊の経本を取り出して、卓袱台の上に置いた。長い紙を蛇腹状に折り畳んだ、折本型の経本だ。表紙には紫色の光沢がある絹を張った、古めかしいながらも綺麗な本である。

「この般若心経の経本が、オイラの本体だ。江戸時代、徳の高い坊さんが肌身離さず持っていたっていう有り難い経本さ。オイラは、こいつの付喪神だ」

 だから、こういうこともできるぜ、という言葉を残し、蔡倫の姿が光の粒になって消えた。残ったのは、卓袱台の上の経本だけだ。

『どうだ、すげえだろう!』

 姿を消した蔡倫の声が、経本から聞こえてきた。念のため手に取って確認してみるが、スピーカーのようなものはついてない。
 放心した菜乃華が経本を卓袱台に戻すと、経本から光が溢れ出し、蔡倫の姿になった。

「ざっとこんな感じだ。どうだ、驚いたか?」

 得意げに腕を組む蔡倫に、菜乃華はどうにかこうにかといった様子で頷く。そのまま視線を瑞葉の方へと動かし、ゆっくりと首を傾げた。

「もしかして、瑞葉も蔡倫さんみたいに物に入ったりできるの?」

「ああ、その通りだ。私の本体は、この本だ」

 瑞葉も懐から、古い和紙でできた本を取り出した。菜乃華は知らないが、『袋綴じ』と呼ばれるタイプの本である。二つ折りにした紙を重ね、折り目の反対側を糸で綴じた、日本に古くからある形の本だ。

 瑞葉は自分の本体である和本を大事にしまい、ふと何かを思いついた様子で菜乃華の方を見た。どこか子供っぽい目をしたその表情に、菜乃華の心臓が大きく鼓動する。

「せっかくだから、私も何かお見せするとしよう。菜乃華、ちょっと手を出してくれ」

 袖の中から何かを取り出しながら、瑞葉が言う。
 言われるがままに右手を差し出すと、瑞葉は取り出した何かをその手に載せた。よく見れば、それは折り紙でできた鶴だった。

「いいか、よく見ていろ」

 折り鶴を渡した瑞葉が、何やら印のようなものを結ぶ。
 すると、折り鶴がほのかに輝き、ひとりでに羽ばたき始めた。これが手品などではないことは、菜乃華にも一目でわかる。糸などで操っているにしては、動きがあまりにも自然過ぎるのだ。気が付けば、折り鶴は本物の鶴のように居間の中を飛び回っていた。

「先程、私たちは神格を持っていると言ったが、長い時を生きた付喪神は各々が独自の神力を持つ。これは私が持つ神力の一つで、折り鶴に仮初めの命を与えているのだ。わかりやすく言えば、式神といったところか」

 瑞葉が再び印を結ぶ。同時に、折り鶴は輝きを失って卓袱台の上に着地した。

「どうかな、菜乃華。ここまでは理解してもらえただろうか」

「う、うん……」

 瑞葉と蔡倫の顔を交互に見る。
 自分たちは神様だ。そんなことをいきなり言われても、普通なら信じられないだろう。

 けれど、菜乃華は瑞葉たちの告白に、思わず納得してしまった。いやむしろ、神様だと言われてしっくりきた、という方が正しいか。

 しゃべるサルである蔡倫は言わずもがなだが、瑞葉だって明らかに人間離れした雰囲気を放っている。その美術品のような容姿も、神様ということなら合点がいく。

 第一、ここまで色々と見せてもらった今となっては、心に任せて信じてしまった方が気楽というものだ。この世の中は、自分の想像を超えた不思議で満ちていた。そういうことなのだろう。

「私たちの正体までが、本題に対する前置きとなる。そしてここからが本題、神田堂の仕事についての話だ。今まで私たちが話したことを頭に置きながら聞いてほしい」

 これまでの出来事に対する折り合いをつけていると、瑞葉が話の続きを始めた。

 いよいよ話が核心に入るとあって、菜乃華の態度が一層真剣なものに変わった。無言で背筋を伸ばし、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる。

 菜乃華の態度を好ましく思ったのか、瑞葉はどこか穏やかな目をしている。しかし、口調はあくまで泰然としたまま、彼は本題に入った。
「いいか、菜乃華。ここ神田堂は、平たく言えば付喪神を相手にした町医者だ。それも、『本の付喪神』専門のな。故にこの店は、基本的に『本の付喪神』を客としている。本以外の品物の付喪神が来ることもあるが、人の子が訪れることはまずない」

「『本の付喪神』の……町医者」

 瑞葉の話を聞きながら、ふと自分がここに来た時のことを思い出した。

 人が入らなそうな路地に、迷路のような道順。人を避けているようだという菜乃華の感想は、店の本質をついたものだったのだ。
 なぜなら、ここは人ならざる者のためのお店だったのだから。

「だから瑞葉は、ここに来たわたしを見て、怪しんでいたんだね」

「その節は、本当にすまなかった。店の周りには、念のため私の力で人払いの結界も張ってあるのでな。よくよく考えれば君が神田の者であることは明らかだったのに、結界に綻びでもできたのかと、つい焦ってしまったのだ」

 人の世を乱さないことは、この世で生きる神にとって最低限の責務だ、と瑞葉は言う。

 この世で生きる神は、完全に人の世に溶け込んで暮らすか、人との間に境界線を張って影響を与えないようにしているそうだ。そして瑞葉と神田堂は、後者の道を選んでいるらしい。故にその責務を全うするため、人が誤ってこの店に迷い込まないよう、瑞葉は結界でこの店を守っているのだ。

「許してくれ」と頭を下げる瑞葉に、菜乃華も気にしていないと首を振った。事情を鑑みれば、瑞葉の対応は当然のものだ。許すも何も、そもそも怒る理由さえない。

 それに、今の菜乃華にとって重要なのは、付喪神がお客さんであるという事実以上に、町医者という仕事内容の方だ。菜乃華は何かを見極めようとする目つきで、瑞葉に先を促した。

「ねえ、瑞葉。町医者って、具体的にどんなお仕事をしているの?」

「神田堂の店主が請け負う主な依頼は、本の修理だ。付喪神は、宿っている品物が傷つくと自身も怪我をする。その傷ついた本を直して付喪神の怪我を癒すのが、神田堂店主の仕事だ」

「付喪神が宿った本を直す……」

 瑞葉の言葉を、噛み締めるように繰り返す。菜乃華の頭の中では、瑞葉から聞いた情報をもとに様々な考えが巡り始めていた。

 瑞葉も菜乃華が思索に入ったことを感じ取り、話を一旦区切る。その心遣いに感謝しながら、さらに頭を回転させていった。

 本の付喪神の町医者、本の修復屋、それが神田堂の正体だ。
 物を修理する仕事なら、菜乃華もテレビで何度も見たことがある。古い時計や壊れてしまった家具なんかを、職人が己の腕と経験を頼りに直していくのだ。その神業のような手捌きは、美術部で普段から創作に励む菜乃華にとっても感じ入る点が多い。だからか、職人という仕事に内心では少し憧れも抱いていた。

 その点から言えば、神田堂の仕事は菜乃華にとって願ってもないチャンスだ。本音を言えば、一も二もなく「ぜひやりたい!」と飛びつきたいところである。

「……ごめん、瑞葉。この仕事、わたしには無理かもしれない」

 しかし、熟考の末に菜乃華の口から出てきた言葉は、本音とは真逆のものだった。

 やってみたいという気持ちは、確かにある。祖母が残してくれた神田堂を守りたいという意志も捨て切れない。それでも、菜乃華は自分の感情に対して素直になることはできなかった。
 なぜなら、自分がこの仕事をすることに対して、無視してはいけない現実があるからだ。

「聞かせてくれ、菜乃華。君はなぜ、この仕事をできないと判断した?」

 申し訳なさそうに俯いた菜乃華に、瑞葉は優しい声音で問いかける。
 対する菜乃華は、どこか悔しそうな様子で口を開いた。

「直す本って、瑞葉や蔡倫さんみたいに生きている神様の本体なんでしょ。もし修復でミスしたら、きっとその神様を苦しめちゃうよね」

「……否定はしない。それに、修復に失敗することがあれば、付喪神の傷をより一層深くしてしまう可能性もゼロではない」

「だったら、やっぱりわたしには無理だよ。本を直したこともないわたしには、付喪神の命を預かる資格なんてない」

 断定の言葉が、居間の中に木霊する。
 これが普通の本を直す仕事であったなら、何の躊躇いもなく引き受けていただろう。菜乃華はこれまで本を修復した経験などないが、練習してできるようになろうという気概だってある。

 けれど、現実はそうじゃない。直すのは、生きている神様の本なのだ。
 そんな神様たちの命を、ずぶの素人である自分が預かる? ありえないだろう。いくら『祖母の後を継ぐ』という大義名分があっても、そんなの無責任にもほどがある。

 そして、自身の懸念に対する瑞葉の答えを聞いて、菜乃華はさらに確信した。神田堂店主という仕事は、自分のような素人が軽い気持ちで継いでいい仕事ではない。祖母の最後の願いを果たすことができないのは心残りだが、今を生きている付喪神たちを不幸にするよりはマシだ、と……。

「わたしみたいな素人じゃなくて、専門の職人さんに直してもらった方が絶対にいいよ。その方が、付喪神さんたちもきっと幸せになれる。だから、ごめんなさい。店主を継ぎに来たって言ったけど、なかったことにしてください」

 真剣な面持ちで、本音を瑞葉に告げる。

 一方、瑞葉は「そうか……」とホッとした様子でどこかうれしそうに微笑んだ。
 と言っても、菜乃華が店主になるのを断ったことに安堵した、というわけではなさそうだ。その証拠に、瑞葉の蒼い瞳からは菜乃華に対する敬意が見て取れた。
「ありがとう、菜乃華。いきなりの話にもかかわらず、そこまで真剣に考えてくれたこと、店員としてうれしく思う。……ただ、結論を出すのはもう少し待ってくれ。私も、少し君のことを脅かし過ぎた」

「どういうこと?」

「私は先程、神田堂の仕事を『町医者』と言ったが、それを深刻に捉え過ぎる必要はないということだ。一応言っておくが、サエだって完全に素人の状態で神田堂を始めたのだぞ」

 首を傾げた菜乃華に向かって、瑞葉は少し困ったように笑う。

「ここに持ち込まれる修復のほとんどは、破れたページを直すといった軽いものだ。練習すればすぐできるようになるし、大きな失敗をするリスクはほぼない。やって来る付喪神たちも、大抵は『擦りむいたから絆創膏をもらおう』といった調子の者がほとんどだ。『命を預かる』というほど、大げさなものではないと思ってもらってよい」

「でも、すべてがそういう軽い修復ってわけでもないでしょ。もし付喪神の本が、わたしの手に負えないような壊れ方をしていたら?」

「万が一、我々の手に余りそうな修復の依頼が来たなら、ここでできる応急処置だけを行えばよい。そして、本格的な修復は|高天原(たかまがはら)――神の国にいるより高位の神に任せる。高天原への門が年に二度しか開かないのが難点だが、応急処置ができていればほとんどの付喪神は持ち堪えられる」

「それにな、嬢ちゃん。今の話を聞いたら、付喪神たちだって嬢ちゃんに直してもらうのを嫌だとは思わないはずだぜ」

 瑞葉の後を受けるように声を発したのは、蔡倫だ。彼はそのまま菜乃華に向かって、「だってよ」と言葉を続ける。

「嬢ちゃんは今、オイラたちにとって何が幸せか、真剣に考えてくれた。そんな優しい子が本を修理してくれたなら、傷にもよく効きそうじゃないか。こんな特効薬、きっと他にないさ」

 オイラはどこぞのお偉い神様より優しい嬢ちゃんに直してもらいたいね、と笑う蔡倫に、瑞葉も「そうだな」と同意を示す。

 安心しろ。今の気持ちを忘れなければ、お前が心配するような『もしも』の事態は起こらない。

 瑞葉と蔡倫は、菜乃華にそう伝えようとしてくれているのだ。
 二人の心遣いに、菜乃華の心は傾いていく。『やってみたい!』という、自分の素直な気持ちを表してもいいのでは、と思えてくる。

 すると瑞葉が、菜乃華の気持ちを後押しするように、こう言い添えた。

「それと、君の『専門の職人に直してもらう』という意見だがな、残念ながら無理なのだ。この仕事は、現在の|葦原中国(あしわらのなかつくに)――この人の世において君にしか頼めない」

「わたしにしか? そういえば、お父さんもそんなこと言っていたけど、なんでわたしだけなの? 本を直すだけなら、わたし以外にもできるはずでしょ」

 最後の質問とばかりに、瑞葉へ問い掛ける。

 それこそ神田堂の店員である瑞葉なら、本を直すことくらい朝飯前にできるだろう。
 では、菜乃華にこだわる理由とは何か。祖母と瑞葉は、菜乃華に何を期待しているのか。
 その種明かしをするように、瑞葉は「いいや、無理だ」と呟いた。

「私を含め、ほとんどの者は付喪神が宿った品物を直すことはできない。仮に修復しても、付喪神の怪我は治らないし、品物はすぐ壊れた姿に戻ってしまう。本の付喪神に限って言えば、本体を直せるのは先程言った高天原にいる高位の神、そして君だけだ」

 瑞葉曰く、葦原中国には『着物の付喪神の直し手』『時計の付喪神の直し手』というように、各品物の付喪神に対応した修復の力を持つ者が一人ずついるとのことだった。そのほとんどは人の世に暮らす神であるそうだが、『本の付喪神の直し手』は神田家の女性となっているらしい。

 なお、本来一人であるはずの直し手が先日まで同時に二人いたこと、家系で引き継がれていることは、相当イレギュラーなケースとのことだ。

 ともあれ、父が言っていた『祖母と菜乃華だけが持つ不思議な力』とは、このことだろう。それはわかったが、当然ながら疑問は残る。

「なんで、わたしやお祖母ちゃんに、そんな力が……」

「残念ながら、理由は私にもよくわからない」

 瑞葉が首を振り、その隣では蔡倫が肩を竦めている。

「ただ、サエが『本の付喪神を修復する力』の担い手があり、その力を君だけが受け継いだ。それは、純然たる事実だ。元々は君の実家の神社で祀っている土地神がこの『本の付喪神の修復』の力を持っていたから、それに関係していると思うのだが……」

「まあ、細かいことは気にしなさんな。別にそいつは、嬢ちゃんが生きていく上で害になるような力じゃないんだ。生まれ持った個性の一つくらいに考えておけばいいんじゃないか?」

 真摯に自身の考察を語る瑞葉の横で、蔡倫が気楽な声を上げた。ポジティブというか、のんきというか……。真面目な瑞葉は、けけけ、と笑う蔡倫を呆れた様子で見つめている。

 ただ、菜乃華としては蔡倫の考え方も嫌いじゃない。力を持つことが事実である以上、うだうだと考えたって何かが変わるものでもない。ならば、持って生まれた力で何をするか考える方が、より建設的だ。

「菜乃華」

 不意に名前を呼ばれ、声の主である瑞葉の方を向く。
 いつの間にか瑞葉は正座のまま背筋を伸ばし、菜乃華を見つめていた。瑞葉の澄んだ蒼い瞳を前に、菜乃華の心臓がまたもや高鳴る。

「修復を行う時は、もちろん私も手伝う。それに、客がいない時は、修復の技を教えよう。だから、神田堂の店主を引き受けてくれないだろうか?」

 頼む、と瑞葉が畳に手をついて頭を下げた。
 見れば、蔡倫も瑞葉の後ろで楽しそうに笑っている。おそらく、ウェルカムということなのだろう。
 対して、返事を求められた菜乃華の答えは、すでに決まっていた。

「――喜んで!」

 床に伏せた瑞葉に向かって、満面の笑顔を向ける。

 元々、祖母からの手紙を見た段階で、菜乃華の答えは出ていたのだ。仕事内容を聞いて、自分の気持ちは控えた方が良いかと思ったが、その心配もないと言ってもらえた。
 いや、それどころか、これは菜乃華にしかできない仕事だ。だったら、今の菜乃華に断るという選択肢は存在しない。

「わたし、本を直すのは初心者だけど、精一杯頑張るから。これから色々教えてね、瑞葉!」

「任せておけ。それと――ようこそ、神田堂へ!」

 自分の胸に手を当て、菜乃華が所信表明するように言葉を紡いでいく。
 そして菜乃華の決心に、瑞葉も満面の笑みを持って応えるのだった。
 菜乃華が神田堂の店主を継いでから、早くも三日が過ぎた。

 この間、神田堂を訪れた客はゼロ。神田堂が付喪神の町医者であることを考えれば、これは本来喜ばしいことだ。なぜなら、怪我をした付喪神がいないということだから。

 しかし、菜乃華としては自分の初仕事がいつになるのか気になって、何も手につかないといった心境だった。

「そう焦りなさんな。嬢ちゃんは神田堂の店主なんだ。どっしり構えて、待ってりゃいいのさ。それに、最初の仕事の前に本の修復の勉強をする時間が取れて良かったじゃないか」

「それは確かにそうなんですけど……。でも、時間があるからこそ、余計に色々考えちゃうんです。お客様に失礼ないように振る舞えるかなとか、緊張でうまくしゃべれなかったらどうしようとか……。とにかく、色々気になっちゃうんですよ!」

「嬢ちゃんは、店主の鏡だね~。その心持ちは尊敬するぜ。可愛い上に真面目とくれば、看板娘一直線だな」

 などという会話を、まんじゅう片手の蔡倫と交わしていたのが昨日のこと。

 ちなみにこの後、蔡倫は「だったら尊敬ついでに、お前も菜乃華を見習って真面目に働いてこい」と瑞葉に頭をチョップされていた。まったくもって平常運転、この三日で早くも見慣れた、いつも通りのやり取りである。

 蔡倫の言う通り、菜乃華はこの三日間、瑞葉から本の修理の手解きを受けていた。幸い夏休み期間中とあって、時間に融通は利く。朝から夕方まで瑞葉から教えを受けたおかげで、ページの破れや抜け落ちの修復など、基本的な修復方法はそれなりに覚えることができた。

「美術をやっているからか手先も器用だし、筋も良い。これなら、いつ客が来ても大丈夫そうだな」

 と、これら初歩の修復については、瑞葉からも合格点をもらっている。
 これについては、菜乃華も胸を撫で下ろした。とりあえず、技量による店主失格は免れたようだ。あとは、実際の本番で緊張することなく、実力を発揮できるかどうか……。

 そして、その答えは意外とすぐにわかることとなった。


          * * *


 また本日も太陽が昇り、店主になって四日目の朝。

「あー、今日も暑いなー」

 ここのえ商店街のメインストリートを歩きながら、菜乃華は空を見上げる。
 青空の天辺では、今日も元気に太陽が輝いていた。まだ午前九時を回ったところだというのに、気温はすでに三十度近い。視線を前に戻してみれば、熱せられたアスファルトから、陽炎が立ち上っていた。

「早くお店に行こう。このままじゃあ、干からびちゃう」

 歩く速度を上げ、写真屋と和菓子屋の間の路地へ飛び込む。路地の中は太陽の光が遮られる分、幾分か涼しい。狭くて薄暗い路地も、悪いことばかりではないようだ。

 もはやすっかり覚えてしまった道順を頭に思い浮かべ、路地の中を歩く。人避けの迷路となった路地を右へ左へと曲がり、神田堂へと辿り着いた。

「おはようございまーす!」

 ガラス戸を開けながら、元気よく挨拶をする。菜乃華の声は作業場である土間を通り抜け、店の奥へと吸い込まれていった。

 その時だ。図書館のごとく静かな店内に、騒々しい物音と、次いで慌ただしい足音が響いた。

 昨日までとは打って変わり、奥の方が妙に賑やかだ。何事かと思い、居間を目指す。
 そうしたら障子が勢いよく開き、何か大きなものが当の居間から飛び出してきた。

「お待ちしていました!」

「うわっ!」

 菜乃華の挨拶の三倍くらい大きな声を上げながら、見慣れぬ人影が突進してくる。
 恐れをなした菜乃華が後退りすると、飛び出してきた人物が彼女の手を掴んだ。まるで、逃がさないとでもいうように……。

「えっ! あっ! ちょっと!」

 そのまま力強く手を引き寄せられ、菜乃華が目を白黒される。野獣とダンスでも踊っているような気分だ。思い切り振り回されて、少し酔いそうである。

 ただ、引き寄せられたことで、ようやく相手の顔をしっかりと見ることができた。
 相手は、大学生くらいの青年だ。銀縁の眼鏡に、白のシャツと灰色のスラックス。髪は黒くてしっかり整えられている。何とも真面目そうで、落ち着いた出で立ちの青年だ。顔も整っているので、図書館で本でも読んでいれば、さぞかし絵になることだろう。

 しかし、落ち着いた風貌とは裏腹に、今は居ても立ってもいられないといった雰囲気で、菜乃華を見つめている。取り乱した様子のあまりにも必死な形相が、少し怖い。

「あのぉ、どちらさまでしょうか……?」

 愛想笑いを浮かべて、目と鼻の先にいる青年へ問い掛ける。
 しかし、相手も相手で、まったく余裕がないのだろう。青年は菜乃華の問い掛けには答えず、逆に菜乃華を問い質してきた。

「あなたが、神田堂の店主さんですね。そうですよね!」

「そ、そうですけど……」

 有無を言わさぬ口調で尋ねられ、菜乃華が何度も頷く。
 それを見て取った青年はおもむろに菜乃華の手を放し、

「お願いします! クシャミを――僕の相棒を助けて下さい!」

 これ以上ないほどビシッとした、綺麗な土下座を披露したのだった。