秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

 気が付くと、菜乃華はいつの間にか神田堂の店先に立っていた。降り注ぐ夏の日差しに、菜乃華は目を眇める。

「あれ? わたし、なんでこんなところに?」

 菜乃華の頭に浮かぶのは、一つの疑問だ。
自分は、どうしてここに立っているのか。その理由が、菜乃華にはまったく思い出せなかった。まるで頭の中に霧でもかかったような心地だ。

「確か、瑞葉の本を修理して、そのまま寝落ちしちゃって……」

 ふと自分の口から出た言葉に目を見開き、顔を上げる。

 そう。自分は、瑞葉の本を直していたのだ。そして、彼の本を直し終えたところで、限界を迎えてしまった。
 あの後、どうなったんだろうか。瑞葉は助かったのか。彼の安否が気になり、菜乃華は急いで店の中へ戻ろうとする。

 だが、ガラス戸に手をかけようとした菜乃華は、おかしなことに気がついた。

「何これ。わたしの手がない」

 先程とは別の驚きで、目を見開く。ガラス戸を開けようとした自分の手が見えないのだ。
 慌ててガラスに目を向ければ、そこには自分の姿だけ映っていない。まるで幽霊にでもなってしまったかのように、菜乃華の体は消えていた。

「これ、もしかして……」

 朧げにだが憶えのある現象に、菜乃華は見えない手をおとがいに当てる。
 その時、店のガラス戸が突然内側から開かれた。

『なっちゃん、そんなに走ると危ないよ』

『はーい! おばあちゃん!』

 神田堂から出てきたのは、五歳くらいの小さな女の子だ。
 その女の子には、見覚えがある。アルバムの写真で見た、小さい頃の菜乃華だ。

 ここに至って、菜乃華は確信した。自分は今、いつぞやと同じように、明晰夢を見ているのだ。それも、おそらくは心の奥にしまい込まれてしまった、自分自身の幼い頃の記憶を……。

「もしかして、これってあの声に関係あるんじゃ……」

 今の菜乃華には、こんな記憶はない。少なくとも、覚えていない。けれど、今見ている光景が夢の中だけのものとは思えない。

 これまで時折思い出しかけていた、過去の記憶。何かを約束する、自分の声。
 確証はない。けれど、この夢の先にその答えがあるような気がした。

『それじゃあ瑞葉、菜乃華のことをよろしく頼むよ』

『ああ、任せておけ』

 考えごとにふける菜乃華の耳に、聞き覚えのある二つの声が響く。菜乃華が振り返ると、そこには瑞葉と今は亡き祖母が立っていた。

「瑞葉……。お祖母ちゃん……」

 小さい菜乃華が、『おばあちゃん!』とうれしそうに駆けていく。その横で、透明な今の菜乃華は、目を潤ませていた。夢の中、過去の出来事とはいえ、元気な祖母と瑞葉の姿を目にして、涙がこみ上げてきたのだ。
 店の外に出てきた祖母は、小さな菜乃華の頭をわしわしと撫でた。

『それじゃあ、お祖母ちゃんはちょっと外に出てくるからね。なっちゃんは、瑞葉と留守番していておくれ』

『わかった! いってらっしゃい!』

 くすぐったそうに撫でられていた小さい自分が、満面の笑顔で頷く。昔は、こうやって祖母に頭を撫でてもらうのが好きだった。
 祖母が路地の先に消えるまで見送ると、瑞葉は小さい菜乃華に手を差し出した。

『さあ、店の中でサエが帰ってくるのを待とうか』

『うん!』

 小さな菜乃華は羨ましいことに瑞葉と手をつなぎ、神田堂の中へ戻っていく。
 そして菜乃華も、過去の二人を追いかけて店に入った。幸いなことに、今回の明晰夢は自由に移動することができるようだ。

 神田堂の中は、今も昔も変わらない。過去の自分は、奥の居間で瑞葉と麦茶を飲んでいた。にこにこしているところを見ると、小さな自分はご機嫌な様子だ。瑞葉と一緒にいるのだけで楽しいのは、今も昔も変わらないらしい。

 ただ、すぐに大人しく座っていることに飽きてしまったのだろう。瑞葉が台所に立つと、過去の菜乃華は一人、作業場である土間へと降りていった。

 作業台や大きな箪笥が並ぶ土間は、小さな子供にとって好奇心を刺激される場だ。過去の菜乃華は、丸椅子をよじ登って作業台の上を覗き始めた。

「ああ、もう! 何やってんの。そんなことしたら、危ないってば」

 丸椅子を揺らしてはしゃぐ過去の自分を、思わず今の菜乃華が注意する。
 あんなに揺らしたら、危ないことこの上ない。いつかはバランスを崩して、床に落ちてしまうだろう。
 しかし、当然ながら過去の自分に声が届くはずもない。小さい菜乃華は、何も気付かずにはしゃぎ続ける。

『お?』

「――ッ! いけない!」

 そしてついに、椅子がバランスを崩して倒れた。小さい菜乃華はきょとんとした顔のまま、床へ落ちていく。菜乃華が咄嗟に見えない手を伸ばすも、声と同じで過去の菜乃華に触れることはできない。

 その瞬間、白い影が風のように床の上を走った。

『危ない!』

 目にも留まらぬ速さで落下地点に入った瑞葉が、小さい菜乃華をしっかりと抱き留めた。

 そして、菜乃華は見た。瑞葉が過去の自分をキャッチした際、彼の懐から本が零れ出たのを。その本が空中で開き、地面に落ちた瞬間、ページが小さく裂けたのを……。

『大丈夫か、菜乃華』

『うん! ありがとう、ミズハ!』

 瑞葉の腕の中で、小さい菜乃華が楽しそうに笑う。
 ただ、その笑顔はすぐに凍りついた。見上げた瑞葉の顔を、赤い血が伝ったからだ。

『どうしたの、ミズハ。おけがしたの?』

 小さい菜乃華が、血が伝う瑞葉の頬に手を触れる。
 幼心にも、瑞葉が自分の所為で怪我をしたとわかったのだろう。過去の自分は一転して涙をポロポロと零し、『ごめんね、ごめんね』と謝っている。

『気にするな、菜乃華。私は大丈夫だ。こんなのは、何でもないかすり傷だから』

 泣き続ける小さな菜乃華の頭を、瑞葉がふわりと撫でた。責任を感じている過去の自分を、気遣ってくれているのだろう。瑞葉の顔には、優しい笑顔が浮かんでいる。

『それにサエが戻ってくれば、すぐに本を直してもらえる。この本が直れば、私の怪我も直るのだ。だから、もう泣くな』

 懐から出したハンカチで、瑞葉は過去の菜乃華の涙を拭く。
 すると突然、過去の菜乃華が勢いよく首を振った。

『や! あたしがなおす!』

『……は?』

 小さな菜乃華の『なおす!』宣言に、瑞葉の目が点になった。どうやら小さい菜乃華のこの反応は、瑞葉にとっても予想外だったらしい。

 しかし、言った当の本人は、どこまでも本気のようだ。小さな手をきつく握り締め、瑞葉を見上げてこう言い放った。

『あたしがやる! あたしが、ミズハのおけが、なおすの!』

 精一杯、本気の思いを込めて、小さな菜乃華は瑞葉を見つめていた。子供なりに自分が何をすべきか考え、出した結論なのだろう。
 必死に訴える幼い少女の姿に、瑞葉は驚きのまま目を見開く。

 ただ、瑞葉はすぐに表情を和らげ、もう一度小さな菜乃華の頭を撫でた。

『……わかった。では、菜乃華に直してもらおうか』

『うん! あたし、なおす!』

 喜び飛び跳ねる小さな菜乃華とともに、瑞葉は作業台に向かう。
 瑞葉の手ほどきは、五歳児相手でも完璧だ。本の損傷が軽微だったこともあり、瑞葉の指導を受けた過去の自分は、難なく修復を進めていく。そして、本を直し終えると同時に、瑞葉の怪我はまるで幻のように消え去った。

『……やはり、そうであったか』

 期待が確信に変わった。そんな口調で、瑞葉が呟く。
 隣でそれを聞いていた菜乃華は、ようやく彼の意図を悟った。

 おそらく瑞葉は、過去の菜乃華に祖母と同じ力が宿っている可能性があると考えたのだろう。だから、図らずも壊れてしまった自らの本体を、幼い菜乃華に託してみたのだ。すべては、彼自身が抱いた期待に対する答えを得るために……。

『ミズハ、おけが、なおった?』

『ああ、君のおかげだ。ありがとう、菜乃華』

 えへへ、と得意げな過去の菜乃華へ、瑞葉が笑い掛ける。そのまま彼はしゃがみこみ、小さな菜乃華と目線の高さを合わせた。
『菜乃華、よく聞いてくれ。君には、君の祖母と同じ力がある。私たち本の付喪神を、笑顔にしてくれる力だ』

『ほんとう!』

 瑞葉を見つめ、小さな菜乃華が目を輝かせる。

 無邪気に喜ぶ過去の自分を見て、菜乃華は思った。あれはおそらく、何もわかっていない。褒められている気がして喜んでいるだけだ。

 菜乃華は、過去の自分から瑞葉の方へ視線を移す。
 きっと瑞葉だって、小さい菜乃華が理解していないことはわかっているはずだ。

 だが、瑞葉はそれでもいいらしい。彼は特に気にする様子もなく、『ああ、本当だ』と続けた。

『だから、もし君がサエと同じ志を持つことができるなら、サエと共にこの店を守ってくれないか』

 穏やかに笑う瑞葉が、過去の菜乃華の頭に手を置く。その笑顔に詰まっているのは、純粋な期待と希望だ。
 瞬間、瑞葉の言葉を聞いた大小二人の菜乃華は、驚きに目を丸めた。

『このおみせを……まもる?』

『そう。君の祖母と同じ仕事だ』

『おばあちゃんとおなじ!?』

 疑問に首を傾げていた小さい菜乃華が、一転して目を輝かせた。大好きな祖母と同じ仕事と聞いて、うれしくなってしまったのだろう。握り締めた手を上下に振り回して、喜びを表現している。

『ねえ、ミズハ! あたしがおばあちゃんとおなじになったら、ミズハもずっといっしょにいてくれる?』

 はしゃぐ小さな菜乃華が、まっすぐに瑞葉を見つめる。
 子供とは本当に恐れ知らずだ。今の自分が言いたくても素直に言えないことを、何の抵抗もなくすんなりと言ってのける。若干、羨ましい。

 そして、小さい自分の問い掛けに、瑞葉は笑みを持って応じた。

『ああ、もちろんだ。君が望むなら、私は必ず君の力になる。君の隣にあり続ける。約束しよう』

 瑞葉が小さい菜乃華に向かって、右手の小指を差し出す。
 その姿を見て、菜乃華はすべてを思い出した。

「ああ、そっか……」

 意識していないのに、菜乃華の口元に自然と笑みが浮かんだ。

 そうだ。ようやく思い出せた。あの時、自分は瑞葉の笑顔を見て思ったのだ。自分の力で、もっと瑞葉を笑顔にしてあげたい、と……。
 だから、小さい頃の自分は、迷うことなくこう答えた。

『わかった、やくそくする! あたし、おおきくなったらかんだどうをまもるひとになる! だから、ずっといっしょだよ、ミズハ!』

 隣に立つ過去の自分が記憶にある通りのセリフを告げ、瑞葉と指切りをする。

 今まで記憶の片隅から顔を出そうとしていたのは、これだ。自分と瑞葉の間に結ばれていた、最初のつながり。二人で交わした、最初の約束。今の自分にそれを思い出してほしいと、神田堂に再び訪れた日から、この記憶が必死にアピールしていたのだ。

「ほんと、何でこんな大事なことを忘れていたんだろう」

 こんな大事なことを今まで忘れていたなんて、自分は本当にポンコツだ。
 瑞葉が迷うことなく菜乃華を店主として受け入れてくれたのも、きっとこの約束があったからだろう。瑞葉は十二年間、菜乃華と交わした約束を覚えていてくれたのだ。

 そう思うと、自分は本当に情けない。祖母が道をつないでいてくれなければ、自分は危うくこの大事な約束を反故にしてしまうところだった。祖母には感謝してもし切れない。

「ごめんね、昔のわたし。ずっと気付いてあげられなくて」

『……別に謝る必要はないんじゃない? こんな子供の頃のことなんて、思い出せなくても仕方ないことだしね』

 不意に過去の菜乃華が振り向き、姿が見えないはずの自分に話し掛けてきた。いや、それだけではない。過去の自分の姿がぼやけ、豪華な刺繍が施された巫女服を纏った、見目麗しい女性が姿を現した。

 その背後では景色は白い霧に包まれ始めているし、いつの間にか菜乃華も体の色を取り戻していた。もしかしたら、夢の終わりが近いのかもしれない。

 ありとあらゆるものが劇的な変化を遂げる中、唐突に一つの記憶が蘇ってくる。それは九月に倒れた時に見た夢の内容だ。その記憶を持ってようやく、目の前に立つ女性のことも思い出した。
 彼女はその昔に瑞葉を助けた女神であり、菜乃華に大切な力を残してくれた――。

「……ご先祖様」

『正解』

 菜乃華がうれしそうに呟くと、土地神はふわりと柔らかく微笑んだ。

「この夢は、ご先祖様が見させてくれたんですか?」

『まあね。たくさん頑張った可愛い子孫へのご褒美のつもり。もっとも、あたしが手助けしなくても、あなたはいつか思い出していただろうけどね』

 余計なお世話だったかしら、と土地神が小さく舌を見せる。自分のご先祖様ながら、ものすごく可愛らしい。できればその才能も、自分に受け継がせてほしかった。
 それはさておき、菜乃華は大きく首を振った。

「いいえ。思い出すにはベストタイミングでした。ありがとうございます」

『そう。なら、よかった。――で、今の自分に至る原点を思い出した気分はどうかしら?』

「あー……とりあえず、今までわからなかった謎が一つ解けて、すっきりしました」

 土地神からの質問に、若干目を泳がせながら答える。
 なぜ、自分にも土地神の力が宿っていることを、父や瑞葉が知っていたのか。あまり真面目に考えたことはなかったが、その謎が今ようやく解けた。

 ただ、この土地神が聞きたい答えは、そんなどうでもいい感想ではないだろう。その証拠に、土地神は笑顔のまま、変わらず菜乃華を見つめている。

「すみません。答えるのが恥ずかしくて、ちょっと誤魔化しました」

『別にいいわよ。そういうあなたを見るのも、面白いし。それで、本音は?』

 菜乃華が謝ると、土地神が愉快そうにくすくすと肩を震わせた。このご先祖様は、本当にいい性格をしている。
 このままおもちゃにされるのも癪なので、菜乃華は素直に言葉を継ぐことにした。

「瑞葉は、ずっとわたしとの約束を守ってくれていた。だからわたしも、瑞葉が起きたらちゃんと約束を果たさなきゃなって思いました」

 少し頬を染めつつも、堂々と自分の気持ちを告げる。菜乃華にとって、すべてはここから始まるのだ。
 土地神も今度の回答には満足したのか、『よし、合格!』菜乃華の肩を叩いた。

『さて、そろそろ時間ね。子孫の決意も見届けたし、あたしはもう行くわ。もう会うことはないだろうけど、瑞葉と仲良くやりなさい』

 土地神が手をひらひらと振りながら、踵を返した。彼女も自分がいるべき場所へ帰るのだろう。その姿が、景色とともに白い霧の中へ消えていく。
 故に菜乃華は、夢が完全に終わる前に、力強く返事をした。

「言われるまでもありません。ご先祖様が羨ましがるくらい、仲良くしまくってやります!」

 菜乃華が言葉を返すのと同時に、夢の世界は完全に霧に包まれた。
 けれどその霧の先で、九重の土地神が『頑張れ』と言ったように感じた。
「う……ん……」

 足元からの震える寒さに身動ぎしながら、ゆっくりと目を開ける。どうやら、作業台に突っ伏して寝てしまっていたらしい。

 頭をぼんやりさせたままゆっくりと体を起こすと、いつの間にか肩に掛けられていた厚手の羽織が床に落ちた。
 外からは柔らかな朝日がガラス戸越しに差し込んでいる。寝落ちしていた間に、夜が完全に明けたらしい。

「――ッ! そうだ。瑞葉は……」

 ようやく、頭に血が廻ったのだろう。寝る前に自分が何をしていたのか思い出し、菜乃華は慌てて作業台の上へ目を向ける。

 しかし、瑞葉の本はいつの間にか作業台から消えていた。修復に使っていた道具だけが、昨夜の痕跡のようにその場に残されている。

「うそ! どうして」

 瑞葉の本がなくなってしまった。
 なぜ。一体どこに。わけがわからず、混乱のままに菜乃華は顔を青ざめさせる。その表情は、焦りと悲しみに染まっていた。

 その時だ。

「おはよう、菜乃華」

 背後から、聞き慣れた涼やかな声が響いた。菜乃華の全身に電流が走り、弾かれたように後ろへ振り返る。
 そして、目をいっぱいに見開いたまま立ち尽くしてしまった。

「み……ずは……」

 菜乃華の前に立っていたのは、いつもと変わらない穏やかな面立ちの瑞葉だった。
 呆然としたまま呟く菜乃華に、瑞葉が「ああ」と頷く。まるで、自分はもう元気だと示しているようだ。
 それでもまだ信じられず、菜乃華は瑞葉に向かって一歩踏み出しながら口を開く。

「本当に瑞葉? 本物? 夢じゃない?」

「心配するな。本物だ」

 震える声で尋ねる菜乃華に、瑞葉は柔らかく苦笑しながら答える。この仕草、この声音、間違いなく本物の瑞葉だ。

 また一歩歩み寄り、瑞葉の頬に手を触れる。温かい。確かにここにある命の温かさだ。
 すると、瑞葉が菜乃華の手に自らの手を重ねた。

「この手の温もりを、本の中でずっと感じていた。それに本の中で眠りながら、ずっと君の声を聞いていた気がする」

「うん……。うん……!」

 涙をにじませながら、瑞葉に向かって何度も頷く。

 そう。ずっと呼びかけていた。必ず助けるから、とずっと心の中で叫び続けていた。
 気が付けば、菜乃華は瑞葉の胸の中に飛び込んでいた。瑞葉の胸に額を押し当て、心のままにその存在を確かめる。

 そんな菜乃華を、瑞葉も優しく抱き留めた。

「菜乃華、私の本体を直してくれて、ありがとう。おかげで、こうしてまた君に会えた」

 礼を言われた菜乃華はついに声も満足に出なくなり、瑞葉の胸の中で首を横に振った。

 うれし過ぎて言葉が出ないとは、このことだ。寝る前に考えていた瑞葉に言いたいことなんて、あっという間に吹っ飛んでしまった。今はただ瑞葉が無事だった喜びを、全身で噛み締める。

 だけど、それでも一言だけ……。

「瑞葉――おかえりなさい」

「ああ。ただいま、菜乃華」

 菜乃華は胸にいっぱいの思いを詰め込んで、瑞葉に笑い掛けるのだった。
 瑞葉が無事に意識を取り戻してからは、なかなか慌ただしい一日だった。

 朝一で様子を見に来た蔡倫、「昨日からろくなもの食べてないでしょ」と全てお見通しでお弁当を持ってきた母、蔡倫から事情を聞いてお見舞いに来た柊とクシャミ。他にも、様々な方法で瑞葉の負傷を察知した付喪神をはじめとする神様たちが、一目散に駆けつけてくれたからだ。

「みんな、瑞葉が心配で来てくれたんだね」

「本当に有り難いことだ」

 最後の見舞い客を見送りながら、横に立つ瑞葉に目を向けた。

 過去はどうあれ、今の瑞葉は皆から愛される存在である。駆けつけてくれるたくさんの神様を目の当たりにして、菜乃華は改めてその事実を実感した。

 ともあれ、お見舞いラッシュも夕方には一段落した。今、神田堂にいるのは菜乃華と瑞葉だけ。先程までの賑やかさが嘘のような静けさだ。

 けれど、この静けさはゆっくり話をするにちょうどいい。今朝はうれしさのあまり言葉が出なくなってしまったが、今なら落ち着いて話すことができるはずだ。

「ねえ、瑞葉」

「ん? なんだ?」

 名前を呼ばれた瑞葉が、菜乃華の方へ向き直る。涼しげだけど温かい瑞葉の瞳に、神妙な面持ちの菜乃華が映った。
 まず言うべきことは、すでに決まっている。不思議そうに首を傾げている瑞葉へ、菜乃華は勢いよく頭を下げた。

「瑞葉、昨日は助けてくれて、本当にありがとう! それと、怪我をさせちゃって、ごめんなさい!」

「なんだ、そのことか。別に気にすることはない。あれは、君の責任ではないのだから。むしろ、君に怪我がなくて、本当に良かった」

 瑞葉が朗らかに笑う。

 この神様は、本当に優しくて頼もしい。だから、いつも甘えてしまう。その頼もしさに寄りかかってしまう。
 けれど、昨日の昔話を聞き、あの記憶を思い出した以上、それでは駄目なのだ。

 決意を瞳に宿し、菜乃華は瑞葉を見つめる。

「瑞葉、わたしね、神田堂の店主になるよ。ただ本の付喪神を修復できるだけの店主じゃない、本当の『神田堂の店主』に!」

 瑞葉は、神田堂を付喪神たちが集える場所だと言っていた。これからの神田堂がそういう場であり続けられるかは、すべて菜乃華に懸かっているのだ。

 となれば、今までのように本を直す技術を磨くだけでは駄目だ。それも大事だが、それだけでは足りない。
 必要なのは、心。神様さえも安心させてしまう、大きな器を持たなければならない。
 そう。瑞葉が「太陽のよう」と称した、大好きな祖母のように――。

「今はまだ半人前だけど、必ずなる。小さい頃、瑞葉に言った『神田堂を守る』って約束を果たす。それで、胸を張って瑞葉の隣に立つ。だから……」

 覚悟を決めるために言葉を切り、息を吸い込む。
 そして、心臓が大きく鼓動するのを感じながら、自身の素直な気持ちをありのままに曝け出した。

「だから……わたしが一人前の店主になれるか、最後まで見届けてくれますか?」

 菜乃華の若干上擦った声が店の中に反響する。
 緊張のあまり、声が若干裏返ってしまった。大事なところで何ともかっこ悪い。
 それに、わかってはいたけれど、これではまるで告白だ。恥ずかしさのあまり、瑞葉の顔が見られない。目を固くつぶったまま俯いて、縮こまってしまう。

「……すまないが、それは無理だ」

 すると、頭の上から瑞葉の声が聞こえてきた。それは、予想に反する拒絶の言葉だ。嫌な意味での驚きに、思わずつぶっていた目を見張ってしまった。

 もしかして、自分は瑞葉に見限られてしまったのだろうか。先程の「気にするな」というのは、もしやここで終わりの関係だからという意味だったのか。
 溢れ出るネガティブな考えに飲み込まれ、不安に駆られたまま瑞葉を見上げる。

 瞬間、菜乃華は頭の上にクエスチョンマークを浮かべてしまった。瑞葉の表情が、想像とは正反対の穏やかなものだったからだ。

「菜乃華、これを覚えているか?」

 戸惑う菜乃華の前で、瑞葉が懐から直り立ての和装本を取り出し、とあるページを開いた。十二年前、菜乃華が修復したページだ。

「君がこの本を直すと言った時、私は一も二もなく悟ったよ。サエの心と力は、この子に引き継がれたのだな、と……。あの時の君の目には、初めて会った日のサエと同じの輝きが宿っていた。これなら自分の本体を任せられると、すぐに思ったよ」

「それって……」

 菜乃華も気付いた。だからあの時、瑞葉は自らの魂である本を預けてくれたのだ。試すという意味合い以上に、幼い自分を祖母と同様に信頼してくれていたのだ。
 その信頼がこの上なく誇らしくて、菜乃華の目に涙が滲む。

「結果は、やはり私の思った通りだった。君は見事に、私の本を直して見せた。そしてあの日から、君は私とサエの新しい夢になった」

 当時のことを思い出したのだろう。瑞葉は懐かしげな口調で語る。彼が留守番中の出来事を話した時、祖母はとてもうれしそうに興奮していたらしい。菜乃華が自分の意志と力を引き継いだと知り、誰よりも喜んだのは祖母だったのだ。
 そして、祖母は瑞葉と共に一つの夢を思い描いたという。

「君が作る神田堂を、この目で見てみたい。いや、君と一緒にこれからの神田堂を作っていきたい。それが、私とサエがずっと持ち続けていた夢だ。だから、君が本気で神田堂の店主を目指すのなら、見届けるだけなんてできない。君が立派な店主になれるように、サエの分までしっかり鍛えてやる」

 語る瑞葉の表情は、菜乃華がこれまで見た中で一番晴れやかな笑顔だ。
 瑞葉は本を持っていない方の手を、菜乃華の方へ差し出した。

「他人行儀に『見届けてくれるか』なんて尋ねてくれるな。あの時に約束したはずだ。私はいつまでも、君の隣にいる。だから菜乃華、私に私たちが思い描いた夢の先――君が理想とする神田堂を見せてくれ」

 期待の眼差しを向けられ、思わず気後れしてしまいそうになる。それでも、腰が引けそうになるのをぐっと堪えて、背筋を伸ばす。
 菜乃華は決意も新たに、瑞葉が差し出した手を自身の両手で包み込んだ。

「――はい!」

 木漏れ日のように明るく温かな微笑みで、力一杯返事をする。それは、新たな誓いだ。
 瑞葉は、自分が作る神田堂を楽しみにしていてくれている。亡き祖母の分まで、菜乃華を支えると言ってくれている。そして、これからも一緒に歩もうとしてくれている。

 ならば、是非もない。自身が夢見た理想の『神田堂の店主』となり、瑞葉に最高の夢の続きを見せる。それだけだ。

「じゃあ、わたしからも改めてお願い。――瑞葉、わたしも店主のお仕事を頑張るから、一緒に素敵なお店を作ろう。天国にいるお祖母ちゃんにまで噂が届くくらい、素敵な神田堂を!」

「心得た」

 夕陽に輝く光の部屋が、菜乃華と瑞葉を優しく包み込む。まるで神田堂の新たな門出を祝福するような金色の輝きの中で、二人は互いを慈しむように微笑み合うのだった。

 ……ん?

 おう、こりゃ珍しい。お前さん、ここら辺じゃ見ない付喪神だな。

 ……って、おいおい。なんだよ。そんなビビりなさんな。いきなり話し掛けといてなんだが、これでもオイラ、割とナイーブな性格なんだぜ。そんなに怖がられると、傷つくじゃないか。

 まあ、オイラの性格は横に置いとくとして……安心しろい! このサル顔を見ればわかるだろう? オイラもお前さんと同じ付喪神さ。名前は、蔡倫ってんだ。ここら辺の付喪神の顔役ってやつよ。

 …………。よーしよし、少しは落ちついたみたいだな。けっこう、けっこう!

 おや? 落ちついたと思ったら、今度は疑問顔と見える。一体どうした。

 ……ほうほう。なんでお前さんが、付喪神だってわかったのかってか。自分の見た目は人の姿だし、これまで付喪神ってばれたことはない?

 そいつは、簡単だ。オイラの神力のおかげさ!
 オイラは、付喪神の気配を感じ取る力を持っている。だから、お前さんが付喪神だって、すぐにわかったのよ。

 ……あん? オイラの神力がうらやましいってか? 自分も神力がほしい?

 大丈夫。お前さんだって、オイラと同じ付喪神なんだ。そのうち何がしかの神力は使えるようになるさ。どんな力に目覚めるかは、お前さんの運と努力次第だけどな。

 ところで、見たところお前さん、付喪神になりたての新米だろ。

 ……は? なぜわかるのかって?

 いちいち疑問の多いヤツだな、お前さんは。むしろ、気づかないわけがないだろう。お前さんの態度や仕草を見れば、まるわかりだってんだ。
 なんたってお前さん、さっきからずっと「新米です!」ってオーラを漂わせっぱなしだからな。まったく、初々しいったらありゃしねえよ。

 で、お前さんは、一体何の付喪神なんだい?

 ……ほほう、なるほどね~。お前さん、国語辞典の付喪神なのか。道理でさっきから質問多いし、頭が固そう……いやいや、真面目そうなわけだ。しかもこの辞典、随分と使い込まれた一品と見える。元の持ち主から、さぞかし大事にされていたんだろうな。お前さんのような付喪神が生まれるのも、納得ってもんだぜ。

 あ、ちなみにオイラは、般若心経の経本の付喪神な。やたらと徳の高い坊さんが、生涯肌身離さず持っていたっつう由緒正しい経本だ。すげえだろう。それに見てくれよ、この表紙! すごく艶やかできれいだろう? なんと、上等な絹が貼られてんだぜ。なんかもう、見ているだけで霊験あらたかって感じがしないか?

 ……おっと、すまねえ。つい、自慢に力が入っちまった。オイラの本体のことは、どうでもいいんだ。

 そんなことより、ここでお前さんと会ったのも、何かの縁だ。お前さんが本の付喪神っていうなら、オイラが一つ、いい話を聞かせてやろう。
 オイラからお前さんへの、付喪神転生祝いってやつだ。


          * * *


 ここ、『ここのえ商店街』には、世にも不思議な店がある。なんと、オイラたち付喪神のための町医者だ。つっても、この店で直してもらえるのは、オイラやお前さんみたいな本の付喪神だけだがな。

 お前さんは付喪神になったばかりだから、念のため教えておくぞ。オイラたち付喪神は、本体である品物が壊れると怪我をする。お前さんなら、その国語辞典だな。その国語辞典のページが破れでもしたら、お前さん自身も傷付くんだ。

 だから、自分の本体は大事にしなくちゃいけないぞ。それこそ寝る時だって、しっかり手元に置いておけ。長生きしたかったら特にな。

 ただ、どんなに大事にしていても、物はいつか壊れちまうもんだ。特に本ってやつは、他のものよりもずっと壊れやすい。なんたって、主に紙でできているからな。ページは破けるし、濡れればふやけるし、油断すると虫に食われるし……。とにかく、本には外敵が多い。

 だからお前さんも、本体に何かあった時はこの店を頼るといい。商店街からのびた細い路地を行き、角を右へ左へと曲がった先にある、『神田堂』って店だ。

 店の連中は気のいいやつらだから、きっとお前さんを助けてくれるはずさ。店主は若い人間の嬢ちゃんだが、修復の腕前はオイラが保証する。安心して任せていい。あと、オイラの名前を出せば、お代もちょっとばかりまけてくれるかもしれないぞ……って、どうした? そんな力一杯に目を輝かせて。

 ……は? オイラの話を聞いていたら、猛烈に神田堂のことが気になって仕方なくなった? 本は壊れてないけど、今すぐ行ってみたい?

 かーっ! 色々と忙しないヤツだな、お前さんは。オイラの知り合いに柊ってのがいるんだが、そいつがもう一人現れたみたいだぜ。まったく、国語辞典の付喪神ってのは、好奇心が強過ぎていかんな。これも性分ってことなのかねぇ。

 けど、まあいいだろう。そんじゃあ今から、オイラといっしょに行ってみるとするか!

 あの店の店主は、付喪神のことが大好きだからな。きっとお前さんのことも、温かく迎えてくれるはずだぜ。まあ、最近は先代に似てきたのか話好きになってきたから、ちょっくら質問攻めにあうかもしれんけどな。それもまた一興ってもんさ。

 さて、そんじゃあそろそろ出発するか。しっかりオイラについて来いよ。神田堂の連中が、お前さんのことを待っているぜ!

〈了〉

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