秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

 吟の家を辞した菜乃華と瑞葉は、急いで蔡倫たちが待つ朧車へと戻った。
 晴れやかな笑顔で戻ってきた菜乃華を労いつつ、一行が向かったのは、吟の家よりもさらに山奥だ。

「着いたぜ。ここがオイラのお勧め穴場スポットだ」

「おお! 何これ、すごいです。超絶景!」

 蔡倫と一緒にすだれの外に顔を覗かせ、辺りを見渡す。そこに広がっていた光景に、菜乃華は目を輝かせた。
 蔡倫が一行を案内したのは、森の狭間にある滝の畔だ。轟々と水が流れ落ちる滝の周りを、とりどりに色付いた楓や銀杏の木が縁取っている。滝つぼから川を流れていく赤や黄色の落ち葉が、何とも雅で風流だ。

「ここは山道から少し外れたところにある滝でな。山道付近にはもっと大きな滝もあるから、登山客もわざわざこっちまでは来ない。つまり、貸し切りでこの景色を楽しめるってこった」

 どうだ、すごいだろう、という視線を寄こしてくる蔡倫に、菜乃華も全力で頷く。
 穴場のスポットとは聞いていたが、こんな絶景を独り占めなんて贅沢過ぎる。さすがは神様、やることが大きい、などと妙に感心してしまった。

 神田堂上空と同様に、朧車はここでも地面まで下りることができない。そこで菜乃華は、再び瑞葉にお姫様抱っこをしてもらい、朧車から降りた。一日に何度も瑞葉にお姫様抱っこしてもらえるなんて、なんという役得だろう。これだけでも、紅葉狩に来た甲斐があったというものである。後ろで柊が悔しそうに瑞葉を見ているが……ごめん、やっぱり好きな人のお姫様抱っこの方がいい。

 ただ、今日の本番はここからだ。ここから、瑞葉に手料理を食べてもらうという、一大イベントが待っている。母の言葉を真に受けたわけではないが、菜乃華も瑞葉の胃袋とハートを仕留める覚悟でこの場に臨んでいた。

「お腹も空いたし、早速お弁当にしようか。今、レジャーシート敷くね」

「菜乃華さん、手伝いますよ」

「ありがとうございます、柊さん。じゃあ、そっち持ってください」

 重箱を瑞葉に持ってもらい、家から持ってきたレジャーシートを柊と協力して河原に敷く。シートの端に石を載せたら、靴を脱いでシートの中心に重箱を広げていった。
 程なくして、菜乃華渾身のお弁当がシートの上にきれいに並んだ。

「ほほう。こいつはすげえ。これ、全部お嬢ちゃんの手作りかい?」

 シートに座った蔡倫が、並べられた料理を見て感嘆の声を上げた。その隣では、柊が目を輝かせ、クシャミがよだれを垂らしている。

「揚げ物系はお母さんに手伝ってもらいましたけど、他は食材の仕込みから私がやりました。お口に合えばいいんですけど」

 紙皿と割り箸を取り出した菜乃華は、ちらりと瑞葉の方を窺った。
 シートの一角に座った瑞葉は、穏やかな顔でお弁当を見ている。菜乃華の料理についてどういう感想を持ったのか、その表情からだけでは計り知ることができない。

「さあ、いっぱい食べてくださいね」

「おう! 相伴に預かるぜ」

「いただきます!」

 蔡倫と柊が、我先にとおかずへ箸を伸ばす。手早くおかずを自分の紙皿に持った彼らは、二人揃ってまずベーコン巻きにかぶりつき、これまた二人揃って目を丸くした。

「うまいな、これ。ここまで料理が上手いとは、驚きだ。嬢ちゃん、いい嫁さんになるぜ」

「僕、もう死んでもいいかも……」

 おかずにがっつく蔡倫と、感涙にむせび泣く柊。揃ってオーバーなリアクションだが、褒めてもらえるのは素直にうれしい。クシャミの分の料理を取ってあげながら、菜乃華は「ありがとうございます」と笑顔で応じた。

 だがしかし、菜乃華が一番気にしているのは残る一人の感想だ。渾身の筑前煮を口に運ぶ瑞葉を凝視する。

「どう……かな、瑞葉。おいしい?」

 恐る恐る瑞葉に感想を尋ねる。先程から、菜乃華の心臓はドキドキと早鐘のように鼓動を打っていた。早く感想を聞きたいが、聞くのが少し怖い。でも、やっぱり聞きたい。
 どんな答えが返ってくるのか緊張しながら待っていると、煮物を味わっていた瑞葉がゆっくりと口を開いた。

「うまい。だが、正直に言えば、味付けはまだサエの方が上だな」

「…………。そっか……」

 瑞葉らしい忌憚ない感想に、胸のドキドキが急速に静まっていった。後の残ったのは、寂寥感と敗北感だ。やっぱり自分は、まだ祖母には勝てないらしい。好きな人の一番には、まだなれない。少し、いや、とても残念だ。祖母のことは尊敬している。けれど、どうしても悔しくて、油断すると涙が零れそうになった。

 ただ、瑞葉の感想は、それだけでは終わらなかった。

「そう、味付けはサエの方が上だ。……けれど、なぜだろうな。君が作ってくれた筑前煮の方が、おいしく感じる。食べると、なぜか心が温まる」

 そう言って、瑞葉はもう一口、筑前煮を食べる。そして、「やはりうまい」とどこか満足げに繰り返した。

 瑞葉の言葉を聞きながら、呆けた顔で筑前煮を食べ続ける彼を見る。菜乃華の目から、再び涙が零れそうになった。だがそれは、悔し涙ではない。温かな幸せの結晶だ。
 浮かんだ涙を指で掬い、口元に笑みを浮かべたまま、菜乃華は呟く。

「当然だよ。だって……」

 だって、誰にも負けないくらい、あなたへの愛情を籠めて作ったから。心の中でだけ、そう付け加えておく。

「ん? 『だって……』、なんだ?」

「ごめん、ここから先は秘密。だってこれは、瑞葉のためのとっておきの隠し味だから」

 唇に人差し指を当て、頬をピンク色にしながら、瑞葉に向かって悪戯っぽく微笑む。
 今は、ここまで言うのが精一杯。みんながいる前で、まだこれ以上は言えない。
 だから代わりに、全力で笑う。自分は今とても幸せだ、と示すように。

「瑞葉、こっちの卵焼きも食べてみてよ。こっちも結構、自信作だから。それから、このポテトサラダも」

「ああ、いただこう」

 瑞葉の紙皿にぽんぽんとおかずを載せていく。そんな菜乃華を穏やかに見つめながら、瑞葉は料理を口に運んでいく。そして、その度に「うまい」と呟いた。

 こんな幸せな時間が、いつまでも続けばいいのに。自分が作った料理を食べる瑞葉の隣で、そう願わずにはいられない菜乃華だった。
 菜乃華の持ってきた重箱を空っぽにし、柊特製のレアチーズケーキも平らげた一行は、のんびりと紅葉と滝のコントラストを眺めていた。

 山腹の水辺故に空気が少しひんやりとしているが、柔らかな日差しが体を温めてくれる。
 穏やかに過ぎゆく時間。日々の忙しさを忘れ、各々まったりと森林浴を楽しむ。

 だが、その静寂は柊の「ああ!」という叫び声で破られた。

「どうしたんですか、柊さん?」

 驚いて菜乃華が振り返ると、柊はクシャミを顔の高さまで持ち上げ、絶望に打ちひしがれていた。

「あ、すみません。クシャミの毛皮にデザートがこべりついちゃっていたので、つい……」

「毛皮に?」

 言われてクシャミを見れば、確かに顎のところにケーキがべったりと付いていた。どうやら食べている時に汚してしまったようだ。

「これ、水で洗った方が良さそうですね。あっちで流してきましょう」

「そうですね。ほらクシャミ、行くぞ!」

「な~お」

 うざったそうにするクシャミを連れて、菜乃華と柊は足早に川の方へと歩いていった。

「若い連中は、賑やかだね~」

 彼女らを見送って、蔡倫が笑う。
 すると、彼の隣に座っていた瑞葉が、唐突に口を開いた。

「……なあ、蔡倫。私は最近思うのだ。なぜ、九重の土地神がいなくなり、彼女の力をサエたちが持っていたのか。その答えは、とても簡単なものだったのではないかとな」

 菜乃華の背中を見守りつつ、瑞葉は自身の言葉の意味を噛み締めるように言う。自身の考えに確信を得つつも、まだその確信の源に戸惑っている様子だ。
 そんな瑞葉の姿にようやくかと苦笑しつつ、蔡倫は彼の言葉を継いだ。

「九重の土地神は人の子と恋に落ち、人としての限りある命を得て天寿を全うした。そして、サエや菜乃華――自身の血族にその力を託した、ってか?」

「……気付いていたのか」

「まあ、それなりに昔からな。そんで確信したのは、嬢ちゃんに力が宿っていると知った時だ。こいつはあれだろ。土地神と同じ女の血族にだけ力が宿るってこった」

 けけけ、と蔡倫が笑う。その笑い声を聞きながら、瑞葉は一つため息をついた。

「神と人の子が結ばれる話など、過去にはごまんとあった。なのに、私は今までそれに思い至れなかった。情けない話だ」

「まあ、知識として知ってはいても、それを実感として受け止められるかは別問題だ。お前さんは、模範的な神様過ぎた。人の世を乱さずにひっそりと在り続ける。神として、人の間に一線を引く。それを守り続けたお前さんだから、逆に気付けなかったってことさ」

 そこまで言い切った蔡倫が、お茶で喉を潤しながら一呼吸置く。

「で、お前さんがそれに思い至ることができたのは、九重の土地神と同じ気持ちを知ったからかい?」

 蔡倫の問いに、瑞葉は答えない。ただ、その沈黙は蔡倫の問い掛けを肯定しているも同然だった。

「まあ、神が人の子に惚れるっていうのは、姿かたちではなくその者の魂に惚れたってことだ。外見や年齢は関係ない。それこそ、相手が百歳超えた老人だろうが、赤ん坊だろうがな」

 このサルの坊主は、どこまで見透かしているのだろうか、と瑞葉は素直に思う。
 ここまで勘付かれているのなら、もう隠しても仕方がないだろう。瑞葉は観念するように言う。

「兆しは、お前の想像通り、おそらく十二年前からあったのだろうな。菜乃華が初めて神田堂を訪れた、あの時から……。ただ、はっきりと自覚したのは、九月に菜乃華が倒れた時だ。自分の無力さを悔いながら、同時に、約束を果たしてくれた彼女を失いたくないと強く思った」

 故に、菜乃華が目覚めた際は、感情のコントロールが効かずに思わず抱きしめてしまった。そして、その瞬間から、もう引き返すことができなくなった。

「付喪神として本が朽ちるまで何百年もの時間を生きるより、菜乃華と過ごす今この時を大事にしたい。菜乃華と共に生き、菜乃華と共に天寿を全うしたい。そう思ってしまうのだ」

 肩を竦めた瑞葉が、「私は、神格を与えられた者として失格だな」と嘯く。

「もっとも、最近ではそんな風に考える自分も悪くないと感じている」

「ならば結構。神格なんて、別に気にすることはないさ。神の立場よりも大事だと思えるものに出会えたなら、そいつはお前さんにとって掛け替えのないものってことだ。胸を張って誇ればいい」

 蔡倫が、瑞葉を祝福するように快活に笑った。
 このサルの坊主は、昔からそうだ。普段はどれだけおちゃらけていても、大事なところでは必ず相手の心に寄り添い、そっとその背中を押す。瑞葉にしてみれば、自分よりもよっぽど神らしい存在だ。

「ただ、これはあくまで私の一方的な気持ちだ。菜乃華には、菜乃華の生き方がある。私は、これからも彼女を見守るだけだ」

「いや、『見守るだけ』って……。別に、一方通行の気持ちってわけでもないじゃないか。お前さんだって、嬢ちゃんの気持ちには気付いているんだろ?」

「ん? 菜乃華の気持ち? どういうことだ?」

 真顔の瑞葉が、蔡倫に問い返す。その表情に、照れや冗談などは一切ない。つまり、本気で言っているのだ。
 瑞葉が見せたあまりの天然ぶりに、蔡倫は呆れた様子で頭を抱えた。

「あれ見て気付かないって、お前さん、どんだけ朴念仁なんだ……」

「なんだ、蔡倫。さっきから、何を言っている」

「はあ……。駄目だ、こりゃ。重症だな」

 疑問符だらけになっている瑞葉を前に、蔡倫はため息をつく。手の掛かる友人を持つと苦労する。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
 だが、すぐに仕方ないという風に笑い、彼は瑞葉の肩を叩いた。

「まあ、お前さんの堅物ぶりは、今に始まったものでもないからな。それもお前さんらしさってことだろう。だから今回は、オイラが知恵を貸してやる」

「知恵だと?」

 訝しげな目をする瑞葉に、蔡倫が「そうだ」と頷く。

「この後、オイラは柊とクシャミを連れて、先に朧車に戻る。だからお前さんは、嬢ちゃんに自分の気持ちをぶつけてみろ。きっと悪いことにはならないはずだぜ」

「悪いことにはならないとは……どういうことだ?」

「お前さんのささやかかもしれんが大切な願いは、きっと成就するってことだ」

 蔡倫は発破をかけるように、瑞葉の背中を叩いた。

「あんまり深く考えんなよ、瑞葉。お前さんは、いつも思慮深過ぎるんだ。たまには感情のまま、自分の願いに素直に行動してみな」

 そう言って、蔡倫はいまだ眉をひそめる瑞葉の前で気楽に笑うのだった。
「やっと落ちたね。意外と手こずっちゃった」

「ご迷惑おかけしてすみません、菜乃華さん。ほらクシャミ、お前も謝れ」

「な~む」

 瑞葉と蔡倫の会話が一段落してしばらくすると、菜乃華たちが川辺から戻って来た。濡れそぼったぬいぐるみみたいになったクシャミは、どこか元気なさげだ。ため息でもつきたそうな顔をしている。そんなクシャミを見て、菜乃華と柊はおかしそうに笑っていた。

「おう、戻ったか。そんじゃあ、そろそろ帰るとするか。もう少しすると、ここら辺は結構冷えてくるし、クシャミが風邪引いちまうぜ」

 すでに重箱やごみの片付けを済ませた蔡倫が、菜乃華たちを迎える。
 そして、戻ってきたばかりの柊にゴミ袋を渡すと、菜乃華に向かってこう言った。

「嬢ちゃん、オイラたちは先に朧車に戻ってる。悪いが、瑞葉と一緒にレジャーシートを片付けてきてくれ」

「え! それなら僕が一緒に片付けますよ。菜乃華さんと一緒に!」

 すぐに柊が手を上げ、立候補する。菜乃華と二人きりになりたいのだろう。
 だが、すぐに蔡倫が却下した。

「お前さんは大人しく、オイラと一緒に来い。相棒が風邪引いてもいいのか?」

「そこは蔡倫さんにお任せします。僕は、菜乃華さんと残りたい!」

「素直なのはいいが、お前さんも本当に懲りねえな……。いい加減、負けを認めろ」

「僕の辞書に、『諦め』の二文字はありません」

「はいはい、そうかい。言いたいことはそれだけだな。んじゃ、そろそろ行くぞ」

 最後は力づくで、蔡倫が柊を引きずっていく。ぬれねずみ状態のクシャミも、名前の通りくしゃみをしながら、その後ろに続いた。柊はそれでも「菜乃華さーん」と手を伸ばして来るが、菜乃華は苦笑しながら見送った。

 柊には悪いが、菜乃華としてもこれは願ったり叶ったりの状況だ。まさか、こんな都合良く瑞葉と二人きりになれるとは思わなかった。短い時間とはいえ、蔡倫に感謝である。

「それじゃあ、レジャーシート片付けちゃおうか。瑞葉、そっちの端、持ってくれる?」

 シートの端を持ち上げながら、瑞葉に呼び掛ける。けれど、瑞葉からの返事はない。不思議に思って顔を上げると、瑞葉は何かを考えているような顔で、滝を見ていた。

「瑞葉、どうかしたの?」

「……ん? ああ、すまない。少し上の空になっていた」

「ふーん。瑞葉がぼーっとしているなんて、珍しいね」

 きっと風流な景色に見惚れていたのだろう。取り繕う瑞葉がちょっと可愛くて、菜乃華が楽しそうに笑った。
 すると、不意に瑞葉が菜乃華の方を向いた。

「なあ、菜乃華。少し話をしたいのだが、良いだろうか」

「どうしたの、改まって。別にいいよ」

 心の中で「やった!」とガッツポーズをしながら頷く。折り畳んで二人が並んで座れるサイズにしたレジャーシートをもう一度敷き、瑞葉と並んで座った。

「で、話って何?」

「……以前、君が持つ力について、私が『理由はわからない』と言ったことを覚えているか?」

 瑞葉は少し考えるように間を置き、話を切り出してきた。
 問われたことについては、よく覚えている。菜乃華が神田堂の店主になった日に聞かされた話だ。確か、九ノ重神社が祀っている土地神と同じ力だとか。

「覚えてるよ。それがどうしたの」

「その理由がな、最近、ようやくわかったのだ」

「へえ、そうなんだ。ねえ、どんな理由なの? よければ聞かせてよ」

 菜乃華がせがむと、瑞葉は滝の方を見つめながら、その理由とやらを明かしてくれた。
 瑞葉は言う。土地神は人の子と恋に落ち、人としての一生を送った。菜乃華の家系は、土地神に連なった血筋である。そして、土地神と同じ女性の血族にだけ、土地神が持っていた力――本の付喪神を癒す力が宿った、と……。

「つまり、わたしの中には土地神様の血が流れているってことだよね。なんか、ちょっと信じられない……」

 話を聞き終え、菜乃華が圧倒されたまま声を漏らす。
 それも仕方がないことだと思う。なんたって、自分が神様の血縁と聞かされたのだ。これで驚かない方が、むしろどうかしている。

「でも、どうして理由がわかったの? もしかしてこれも、神力のおかげ?」

 驚きのままに、瑞葉にさらなる質問を投げ掛ける。
 こうなったらもう、好奇心の虜だ。疑問が次々と湧いてきて、知りたいという気持ちが止められなくなっていく。瑞葉はどうやってこの結論に辿り着いたのか。他にも、自分の血縁についてわかったことはあるのか。いや、それより何より、ご先祖様の恋バナについてわかっていることがあったら、できるだけ細かく教えてもらいたい。それは菜乃華の今後に、とても役立つはずだから。

 ただ、瑞葉はなかなか質問に答えてくれない。どうしたのかと思って瑞葉の顔を覗き込めば、珍しいことに逡巡するような表情を見せていた。それに、心なしか頬が少し赤い気がする。こんなこと、初めてだ。何だか見ているこちらまで、胸が高鳴ってくる。

 菜乃華がどぎまぎしていると、瑞葉はまっすぐ正面を見つめ、覚悟を決めた様子で口を開いた。

「それは――私が菜乃華に恋をしたから……。九重の土地神とまったく同じ感情を持つことができたから、気付くことができた」

「え……?」

 無意識のうちに、疑問の声が喉の奥から漏れ出た。

 何を言われたのかわからなかった。何かとても大切で、とてもうれしくて、とても幸せなことを言われた気がする。
 頭の中は、真っ白だ。何も考えられない。ただ驚きと、得も言わぬ喜びだけが、心と体を支配している。

 すると、疑問の言葉を発したまま黙ってしまった菜乃華を見て、意図がうまく伝わらなかったと思ったのだろう。瑞葉が改めて、菜乃華が求める言葉を口にする。

「すまない、少々遠回しな言い方だっただろうか。平たく言うと、私は君のことが好きなのだ。君のことを……愛している」

 懸命で、どこか不器用な瑞葉の声が、再び菜乃華の鼓膜を震わせた。

 もう、聞き間違えたということはない。自分は瑞葉に告白された。自分の恋心は、一方通行の報われない片思いではなかったのだ。いつか自分から言わなければならないと思っていたのに、うれしいことにあっさりと先を越されてしまった。

 気が付けば、菜乃華の目からは大粒の涙が零れていた。笑っていたいと思うのに、幸せ過ぎて感情がうまくコントロールできない。口元を両手で覆い、子供のようにしゃくりあげてしまう。

「どうした、菜乃華。やはり、私のような者に好かれるのは、迷惑だっただろうか」

 菜乃華が突然泣き出したため、瑞葉が見当違いな勘違いをして慌てふためく。瑞葉が取り乱すなんて、相当のことだ。それだけ彼も、いっぱいいっぱいになりながらの告白だったのだろう。普段の泰然自若振りからはほど遠いその姿はどこか微笑ましく、同時にそこまで必死になって告白してくれたことが堪らなくうれしい。

 心を落ち着け、涙を拭い、目を赤く腫らしたまま、瑞葉に精一杯の笑顔を向ける。

「ううん、違うの。ごめんなさい、急に泣いちゃって。うれしいのと驚いたので、感情が言うこと聞かなくなっちゃっただけ」

 そう。これ以上幸せなことなんて、きっとこの世のどこを探しても見つからない。少なくとも、今の菜乃華にはどうやっても見つけられそうにない。
 いや、見つける必要もないのだろう。だって、それほど大切なものを、今の自分は手にすることができたのだから。

「でも、いいの? わたし、たぶん面倒くさい女だよ」

「奇遇だな。私も昔から、堅物だの融通が利かないだの、面倒くさがられていたよ」

「たぶん、嫉妬深いよ。色々、我が儘言っちゃうかもしれないよ」

「では、あまりに程度がひどくなった時は、きちんと諌めるとしよう」

 瑞葉が少し冗談めかした口調で答えた。
 菜乃華は、そんな瑞葉の手を自身の両手で包み込むように握る。もう残された言葉は、一つしかない。心の底から溢れてくる想いを素直に自らの声に乗せた。

「ありがとう、瑞葉。わたしも――あなたのことが世界で一番大好きです!」
「ありがとうございました。お大事に」

 神田堂のガラス戸が開かれ、お客さんの付喪神が帰っていく。瑞葉と一緒にその後ろ姿を見送り、菜乃華はほっと一息ついた。

「お疲れ様、菜乃華。さて、道具を片付けて、お茶にでもしようか」

「賛成。寒い日は、やっぱりこたつで熱いお茶を飲むのが一番だもんね」

 フッと微笑む瑞葉に、菜乃華も満面の笑顔を返す。

 あの紅葉狩の日から、およそ一カ月半。気持ちを確かめ合った菜乃華と瑞葉は、まだぎこちないながらも、恋人としての少しずつ仲を深めていた。劇的に生活が変わったわけではないが、確かに近くなっていく心の距離を感じ、満ち足りた日々を過ごしている。

「菜乃華さん、幸せそうですね……」

「お前さん、これ見てもまだ諦めてないのかよ」

「いや、さすがにもう頑張って吹っ切りましたよ。すごく未練たらたらで、たまに瑞葉さんに呪いをかけたくなりますが……。けど、僕にとっては菜乃華さんが幸せに笑っていることが一番です。我慢します」

「そうか……。まあ、一応お前さんも、成長したんだな……?」

 後ろから、最早恒例になったやり取りが聞こえてくるが、BGMのようなものだ。気にしない。もし本当に瑞葉に呪いなんてかけたら、この血に宿った土地神パワーを気合で覚醒させて、全力呪詛返しをするけれども……。

 ともあれ、瑞葉と手分けして、修復の道具や使用済みの消耗品を片付けていく。こういう小さな共同作業も、今ではかけがえのないものに思えてくる。恋の力とは、恐ろしいものである。

 話は飛ぶが、学校では瑞葉と両想いになったことが、早々に唯子にばれた。それも、紅葉狩翌日の月曜日にあっさりと。どうやら自分は、傍目から見てもすぐにわかるくらい、幸せオーラを振り撒いているらしい。

 結果、嫉妬の魔王にジョブチェンジした唯子に「う~ら~ぎ~り~も~の~」と追いかけられたが……これもたぶん幸せ税というやつだ。ちょっときつめの恐怖体験だったが、友情にヒビは入らなかったので良しとする。今でも「このリア充め!」と、ことあるごとに舌打ちされるけれど、そろそろ慣れた。現に幸せなので、まったく堪えないし。

 というか、唯子も見た目は可愛いのだから、さっさと彼氏を作ればいいのだ。その気になれば、きっとすぐにできるはず。言ってくれれば、協力することだってやぶさかではないし……。

「どうかしたのか、菜乃華。手が止まっているが」

「へ? あ、ごめん。何でもないよ」

 どうやら親友へのお節介を考えるのに夢中になり過ぎてしまったらしい。いつの間にか、片付けの手が止まってしまっていた。瑞葉に何でもないと手を振りつつ、片付けに戻る。
 さすがに四カ月以上続けてきた仕事だ。余計なことを考えていなければ、スムーズに終わる。あっという間に、作業台の上はきれいになった。

 仕事も終わり、瑞葉と揃って居間に上がる。居間では、蔡倫と柊、そしてクシャミがこたつでぬくぬくと暖を取っていた。こちらも、最早見慣れた光景である。瑞葉には先に休んでいてもらい、自分は台所へ行って、二人分のお茶を淹れる。

「はい、どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 いつものように瑞葉へ湯飲みを渡し、自分の分の湯飲みを卓袱台に置いて、こたつに入る。冷えていた足がじんわりと温めらるとともに力が抜けていき、体が完全にリラックスモードに入った。

「はふ~。癒される~」

 卓袱台に顎を載せ、菜乃華はぬくぬくと幸せを噛み締めた。これこそ、正に冬の醍醐味だ。

「もう五時か……。おそらく今日は、これ以上客も来ないだろう。残り一時間、ここでゆっくり過ごすとしようか」

「うん! ありがとう、瑞葉」

 年の瀬も迫ったこの時期、一度こたつの魔力に捕らわれたら、もう抜け出すことはできない。寒々しい土間に戻るなんて、もっての外だ。瑞葉の心遣いに感謝である。

 ただ、こうなると一時間を持て余すというのも確かだ。こたつからは出たくないが、テレビもない居間で一時間座りっぱなしは、正直暇である。
 つまり、暇つぶしがほしいわけで……。と、そこで菜乃華は、はたと閃いた。
「ねえ、瑞葉。せっかく時間もあるんだしさ、昔の話を聞かせてよ」

「昔の話?」

 瑞葉が首を傾げる。
 すると、背筋を伸ばした菜乃華が、「うん、そう!」と勢い良く頷いた。

「瑞葉はさ、どうしてこの店の店員をすることになったの? というか、どうやってお祖母ちゃんと出会ったの? あと、この店ってどうやってできたの?」

 菜乃華の口から飛び出したのは、ずっと前から気になっていた疑問の数々だ。何となく訊きそびれていたけれど、実はすごく気になっていた質問の山を、菜乃華は矢継ぎ早に瑞葉へぶつけた。

「なんだ、いきなり。そんなこと聞いてどうする」

 一方、いきなり色々と訊かれた瑞葉は面食らった様子だ。人形のように整った顔に、困ったような表情を浮かべた。菜乃華に告白して以来、瑞葉はより一層表情が豊かになったと思う。

「別に理由なんかないよ。ただ、前から気になっていただけ」

 興味津々といった面持ちで、瑞葉に答える。好きな人が歩んできた、自分にもつながる過去なのだ。理由がなくても知りたいに決まっている。
 そして、菜乃華に行動に乗っかる者が、ここにはもう一人いた。蔡倫だ。

「そいつは、オイラも気になるねぇ。お前さん、オイラが日本中を行脚している間に、気付いたらここの店員になっていたもんな。瑞葉、ちょっくらそこら辺の経緯(いきさつ)ってやつを聞かせてくれや」

 蔡倫は、にやにやと楽しむように瑞葉を見る。

 菜乃華と蔡倫によって卓袱台の両脇から見つめられ、瑞葉が無言のまま目を剥いた。間髪入れない蔡倫の援護射撃は、かなりの効果があったらしい。
 この機を逃すまいと、菜乃華もすぐさま次の行動に出る。

「ねえ、瑞葉。わたしは神田堂の店主だよね。このお店の一番偉いんだよね!」

「ああ、そうだが……」

「だったら、わたしにはお店の歴史を聞く権利はあるんじゃないのかな? だって、お店で一番偉い人がお店の来歴を何も知らないって、やっぱり変でしょ」

「いや、確かにそうかもしれないが……」

 神田堂の店主という立場を利用した第二撃だ。瑞葉は真面目な店員故、この手の理由を持ち出されると弱いことを菜乃華は知っていた。実際、普段は理路整然と駄目なことは駄目と言う瑞葉が、今は逡巡している。

 ここが決め所だ。菜乃華は、切り札を使う。

「お願い! 教えて、瑞葉」

 両手を合わせ、拝むように瑞葉を見つめる。
 最後はド直球に頼み込む。これが切り札だ。
 菜乃華からここまで頼まれたら、瑞葉は断らないと思う。というか、断らないでほしい。

 なお、逆の立場なら菜乃華は確実にここで折れる。瑞葉から頼み込まれたら、断り切れない。というか、力の限り頑張って応える。

「……わかった。確かに、ちょうど良い機会ではあるしな。私の過去の所業を含め、いつか語らねばならないものであるし、私も腹をくくろう」

 そして瑞葉も深く息をつきながら、ここで降参してくれた。瑞葉の返答内容が少し妙な感じだったが、以心伝心、愛の力の勝利である。

 ちなみに、これで断られていたら……たぶん、かなり悲しかっただろう。相変わらず面倒くさい上に重たい女だ、と自分で思うが……。ともあれ、勝手に落ち込んで勝手に泣くという失態を犯さずに済んで良かった。

「そうこなくっちゃな。んじゃ、サクッと聞かせてもらおうか。お前さんの恥ずかしい過去話ってやつをな」

「自戒すべきことだらけだとは思っているが、恥かしいとは言っていない。ふざけたことを抜かしていると、店からたたき出すぞ、蔡倫」

 にたにたと笑う蔡倫へ、瑞葉が鋭い眼光を向ける。
 けれど、蔡倫はそんな眼光一つで怖気づくほどやわではない。むしろ、さらに笑みを深めるばかりだ。瑞葉も不毛な行為だと感じたのか、すぐに嘆息して、一度お茶をすすった。

「まあ、正直に言って少しも面白い話でもないのだがな。とりあえず、サエとの出会いを語る前に、前提となる話をしておこうか。私と九重の土地神の出会いについてだ」

 湯飲みを卓袱台に置いた瑞葉は、何の気ない様子で過去を語り始めた。

「あれは、もう三百年くらい昔の話だ。当時、私はとある事故で自分の本を破損してしまってな。大怪我を負った私は、偶然、九重の土地神に拾われたのだ」

 瑞葉の視線が、過去を思い出すように宙を彷徨う。

 彼の言によると、九重の土地神は傷ついた瑞葉を見つけるや否や、強引に彼を九ノ重神社――当時は小さな祠だったらしい――へ連れ帰ったらしい。そして、神の御業で瞬く間に瑞葉の本体を直してしまったそうだ。

「三百年前の私は、まだ付喪神になりたてでな。助けてもらったことに感謝しつつも、強引に連れ帰られたことに反感を覚えて、随分と無礼な振る舞いをしてしまった。以来、申し訳なさが先に立って、この地に立ち寄ることはできなかった」

 今でも申し訳ないと思っているのか、瑞葉が肩を落とす。

「ふーん。瑞葉にも、思春期みたいな時代があったんだね」

 瑞葉の肩を落とす様が可愛くて、悪いとは思いつつも、菜乃華はくすくすと笑ってしまった。同時に、はねっ返っている頃の瑞葉を見たことある気がしたが、そんなはずはないと頭から打ち消した。

「今の言葉で表すなら、私の黒歴史といったところだ。何はともあれ、この出来事があって、私は九重の土地神のことを知ったわけだ」

 菜乃華に同調するように、瑞葉もおどけた様子で続ける。菜乃華としては、瑞葉が『黒歴史』なんて言葉を使ったことに、失礼ながら少し驚いた。そういう若者言葉みたいなのは、あまり好きではなさそうなイメージだったから。

 そんなどこか微笑ましい前提が終わり、ここからはいよいよ祖母と瑞葉の出会いだ。一体どのような出会いだったのかと、胸踊らせて瑞葉が続きを語り出すのを待つ。
 ただ、対する瑞葉はそれまでと打って変わり、真剣な面持ちで菜乃華を見据えた。

「さて、ここからが本題になるわけだが……予め言っておく。菜乃華、この話を聞き終わった時、君は私のことを軽蔑するかもしれない」

「軽蔑? どういうこと?」

 菜乃華が訝しげな口調で問い返すが、瑞葉は答えない。代わりに彼は目を閉じ、深く息を吸う。まるで、菜乃華から嫌われることがあっても自制心を保てるよう、心の準備をしているようだ。
 そして、ゆっくりと目を開いた瑞葉は、改めて菜乃華の疑問に答えるように口を開いた。

「九重の土地神との出会いから時は流れ、五十年前。私はサエと出会った日に、一つの許されざる過ちを犯してしまった」

「許されざる……過ち?」

「……仲間である付喪神の本体を、破壊してしまったのだ」

「え……?」

 突然の告白に驚き、菜乃華が息を呑む。
 そんな彼女の前で、瑞葉は沈痛な面持ちで自らの罪を告白し始めた――。
 当時の瑞葉は、四角四面の本当に融通の利かない付喪神だった。神としての在り方を重んじ、それから少しでも外れる行いをする者があれば、例え自分より高位の神格を持つ者であっても、少しの容赦もなく責め立てる。相手にいかなる事情があろうと、関係ない。人と神の和を乱す者は、やむにやまれぬ理由があろうとも許さない。そういう純粋過ぎるまでに高潔な神だったのだ。

 そんな瑞葉の行いは、確かに正しかったのだろう。実際、瑞葉が堕ちた神の暴走を止めたことは、一度や二度ではない。それらの功績により、瑞葉は最低の神格しか持ち合わせない付喪神でありながら、高位の神に劣らぬ存在と目されていた。

「だが、当時の私は『神としての振る舞い』にこだわり過ぎていた。そして、正しさを重視するあまり、相手の心が見えていなかった」

 自身の行いを反省するように、瑞葉が淡々と語る。

 瑞葉は正しかったが、正し過ぎた。明らかに正しさが限度を超えていた。故に瑞葉は、周囲から畏怖され、敬遠されていた。恐れもせずに近付いてきたのは、古い馴染みである蔡倫くらいだ。
 そして同時に、瑞葉の苛烈なまでの高潔さは、少なくない数の同族から反感を買っていた。瑞葉の言動が引き金となり、争いが発生することなどざらであった。

 だから、その日の口論も、瑞葉にとってはいつもと変わらないもののはずだったのだ。
 きっかけはささいなことだ。人間の子供に遊びで神力を披露していた付喪神を、瑞葉が見咎めた。それだけであった。

「その付喪神は、子供たちを楽しませたかっただけだった。無論、その方法として神力を使ったのは、今でも間違っていると思っている。……ただ、それを窘めるにしても、やり方はいくらでもあったはずなのだ。頭ごなしに否定して彼を罵り、子供たちを追い返した私も、正しい行いをしたとは言い難かった」

 冷徹な目をした瑞葉に恐れをなし、子供たちは泣いて逃げ去った。そして、瑞葉の行いに対し、件の付喪神は怒(いか)った。

 自分の行動が軽率だったのはわかった。それについての非は認める。だが、子供たちを恐がらせる必要はなかったはずだ。悪いのは軽率な自分一人であって、あの子たちに罪はない。あの子たちに謝ってくれ。

 付喪神は怒りのままにそう言い募ったが、瑞葉はそれを『必要ない』の一言で一蹴した。
 いや、それだけではない。

『むしろ、好都合だ。これであの子供たちも、ここで見たことを吹聴することはしないだろう。これ以上、神と人の和が乱れることはない』

 当時の瑞葉は表情一つ動かさず、躊躇いなくそう言い放った。瑞葉にとっては、これが合理的な判断だったからだ。だが、これが相手の付喪神にとっての決定打になった。

 付喪神の怒りは頂点に達し、彼は瑞葉に掴み掛った。しかし、その付喪神はお世辞にも荒事が得意と言えそうにない、ひ弱な風貌の優男だった。数々の神と対峙してきた百戦錬磨の瑞葉からすれば、正に隙だらけの突貫である。少しいなしただけで、付喪神の体は瑞葉の後ろへ抜けていった。
 ただ、そこで一つ、瑞葉も予期していなかったことが起こった。

「……相手の付喪神が、私の背後にあった崖から転げ落ちていったのだ――」

 すべてが瑞葉たちにとって悪い方向に働いた。二人が対峙していたのは小高い丘の上であり、瑞葉の背後は切り立った五メートルほどの崖となっていた。相手の付喪神は、勢い余ってその崖に突っこんでしまったのだ。

 事態に気付いた瑞葉も急いで手を伸ばしたが、間に合わない。付喪神は、崖の向こうに消えた。

「慌てて崖の下へ降りてみれば、そこに付喪神の姿はなかった。あったのは、彼の本体と思われる、破損した本だけ……」

 本を破損すれば、付喪神は怪我をする。破損が大きくなれば怪我は重くなり、場合によっては付喪神としての姿を保てなくなる。付喪神の姿が消えたということは、彼の命が風前の灯火になっていることの現れだった。

「起こってしまった現実を直視して、私はようやく自分の傲慢さに気が付いたよ。相手を一方的に責め立てるだけだった私は、正義を振りかざす自分に酔っていただけだった。正論を盾にして、自分本位に振る舞っていた。私自身も、神としての自覚に欠ける者の一人だった、とな」

 当時の自分を振り返り、瑞葉が自嘲的な笑みを浮かべる。

 壊れた本を前にして、当時の瑞葉は立ち尽くした。相手が堕ちた悪辣な神であったなら、彼は何の躊躇いもなく自業自得と切り捨てていただろう。だがこの付喪神は、少なくとも自分の非を認めていた。それをわかっていながら、瑞葉はこの付喪神に対し、さらに追い打ちをかけてしまった。自分の側からの合理性だけを押し通し、相手の心情を思いやることができなかった。その結果として、こんな事故を起こしてしまった。

 本を抱きかかえた瑞葉は、すぐにその場を後にした。頭に浮かんだのは、九重の土地神のあっけらかんとした笑顔だ。ばつが悪いなんて言っている暇はない。今は、自分の未熟さで傷付けてしまったこの付喪神を救うことが先決だ。
 疾風のごとくいくつかの町を駆け抜け、瑞葉は二百五十年ぶりに九ノ重神社へとやってきた。

「ただ、そこに土地神の姿はなかった」

 瑞葉は語る。立派な社殿が建った九ノ重神社からは、あの土地神の存在を感じ取ることができなかった。祭神である、より高位の神による加護は感じられるものの、そこはすでに九重の土地神の社ではなくなっていたのだ。

 これは、当時の瑞葉にとって大きな誤算だった。当てが外れた瑞葉は、壊れた本を抱えたまま、その場で膝をついてしまった。

 九重の土地神がいないとなれば、もう頼れるのは高天原の神だけだ。しかし、次に高天原への門が開くのは、数か月後。せめて応急処置の一つでもできなければ、その神のもとに辿り着く前に、件の付喪神の命が尽きてしまうだろう。
 そうなれば、自分のせいで傷付いてしまった付喪神を救うことができない。自身の本が傷付いた時とは比べ物にならない痛みが、瑞葉を襲った。

 だがその時、おかしなことが起こった。ふと、九重の土地神と似た気配を感じたのだ。膝をついたままの瑞葉が呆然と振り返ると、そこには小さな男の子を連れた一人の女性が立っていた。

「……それがサエと、まだ幼かった洋孝だった」

 ずっと辛そうに顔をしかめていた瑞葉が、ふわりと表情を和らげる。

「あとはもう、頭で考えるより先に体が動いていてな。私は、藁にも縋る思いでサエの前に跪いた。目を丸くするサエに、力を貸してくれ、と頼み込んだのだ」

 九重の土地神と似た気配を持っているといっても、相手は明らかに人間だ。当時の瑞葉であれば、このようなことは絶対にしなかっただろう。

 しかし、この時の瑞葉にとって、その女性の存在は絶望の中で見た一筋の光だった。

 唐突に助けを求められても、気味悪がられるだけかもしれない。いや、仮に協力を得られても、彼女には何もできないかもしれない。それでも、今は彼女に賭けるしかない。諦めかけていたところに現れた最後の希望に、瑞葉は全身全霊をかけて助けを乞うた。

 それに対する彼女の返答は、本当に単純なものだった。

『なんだかよくわからないけど、わかったわ。あたしに任せなさい』

 瑞葉に顔を上げさせた彼女は、どんと胸を叩きながら気楽に笑ってみせた。そう、かつての九重の土地神のように……。

 状況は予断を許さないままであったが、瑞葉の絶望感は自然と薄らいだ。きっと何とかなる。そんな根拠のない確信が、瑞葉の中に満ちていったのだった――。
「恥ずかしい話だが、サエに真っ先に救ってもらったのは、実のところ私だったのかもしれないな。彼女の笑顔で、当時の私がどれだけ心休まったことか……」

 そう言う瑞葉の表情は、本当に心穏やかなものだった。

 菜乃華は思う。当時の瑞葉は、それだけ祖母の存在に助けられたということだろう。
 もっとも、そんな安らいだ面持ちの瑞葉の口から別の女性のことを語られるのは、菜乃華としても少し面白くない。相手が祖母とはいえ……いや、大好きな祖母だからこそ、強くジェラシーを感じてしまうのだ。
 なぜなら、祖母がどれだけ素敵な人であったかは、孫である菜乃華自身が一番よくわかっていることだから。

「それで、お祖母ちゃんに協力を得られた後はどうなったの?」

「サエは本の修復について素人だったので、私が指示をしながら本の応急手当だけしてもらった。予感はあったが、実際に本が直っていく様を見た時は驚いたものだ」

 当時の驚きを思い出したのか、瑞葉が懐かしそうに目を細める。神の御業を人間が再現してしまったのだから、それはもう当の神様も驚愕の奇跡だったのだろう。

 なお、応急処置を受けた件の付喪神は、ひとまず一命と取り留めたらしい。その後、高天原の門が開いた際に向こうで本格的な修復を受け、無事に全快したそうだ。

「――以上が私とサエの出会い、そして私の未熟さが招いた事件の顛末だ」

 過去語りを一度区切り、瑞葉が菜乃華の様子を窺う。
 瑞葉の表情は、いつもと変わらない。だが、纏っている雰囲気からは、若干だが不安のようなものが感じられた。

「どうだろうか、菜乃華。やはり、君を落胆させてしまっただろうか」

「うーん、そうだね……。とりあえず、昔の瑞葉って怖かったんだな、とは思ったかな」

「……そうか」

 菜乃華の率直な感想に、瑞葉はどこか弱々しい笑みを浮かべた。菜乃華の「怖い」発言が、相当効いたようだ。

「でも、軽蔑や落胆はしてないよ。だって、私が好きになったのは、今の瑞葉だもん。そういう失敗を反省して、優しい神様になった瑞葉だから、私は好きになったんだよ」

「菜乃華……」

 菜乃華が続けて掛けた言葉に、瑞葉が安堵の表情を見せた。瑞葉が自分の言葉に一喜一憂してくれる様は、うれしいを軽く通り越して愛おしく思える。状況的に不謹慎かもしれないが、惚れ直してしまいそうだ。
 そんな二人だけの世界に入った菜乃華と瑞葉を、蔡倫が「冬なのに熱いったらありゃしない」とこれ見よがしにからかった。

 ちなみに、菜乃華も自身の意見が瑞葉贔屓の甘い裁定だということは自覚している。それを意識できなくなってしまうほど、菜乃華も恋愛脳に支配されてはいない。

 ただ、聞いた限り相手の付喪神にも非があったことは確かなわけだし、そこは喧嘩両成敗ということで収めてもらいたい。だって瑞葉、掴み掛ってきたところを避けただけみたいだし。……と、そこまで考えたところで、自分がいつの間にか瑞葉を擁護していることに気付き、菜乃華は内心で苦笑した。恋愛脳、恐るべし。

「ところでさ、相手の付喪神さんって、今はどうしているの? もしかして、今も瑞葉と喧嘩別れしたままなの?」

「いや、仲違いしたままというわけでは……」

「ああ、それなら安心してください。きちんと仲直りして、今も元気に暮らしていますよ」

 不意に、思いもしない方向から声が上がった。全員の視線が、珍しくずっと静かだったその人物に注がれる。
 すると、件の人物――柊がひょいっと手を上げながら衝撃の事実を明かした。

「だってその付喪神、僕ですもん」

「……はい?」

 突然のカミングアウトに、菜乃華が思わず素っ頓狂な声を上げた。それをどう勘違いしたのか、柊は「いや~」と照れた様子で頬を掻き、瑞葉の昔語りに捕捉を入れ始めた。

 柊曰く、当時の彼は神力に目覚めたばかりで少々浮かれ気味だったらしい。それで毎日のように近所の子供たちを集め、盛大に神力を披露して自慢していたところ、瑞葉に見つかって騒ぎになったとのことだった。
 柊の口から、次々と明かされる仰天の真実に、菜乃華は開いた口が塞がらなくなった。

「それにしても、瑞葉さんがまだあの時のことを気にしていたなんて、全然知りませんでしたよ。あの後、瑞葉さんはしっかり子供たちにも謝ってくれましたし、僕はてっきり和解は済んだと思っていました」

「いや、確かに君の許しをもらうことはできたが、教訓として胸に刻むことは重要だろう。私は君に対して、あれほど大きな過ちを犯してしまったわけだし……」

「僕としては、むしろさっさと忘れてほしいですよ。瑞葉さんに避けられた瞬間に石に躓いて崖から転がり落ちたのも、かっこよく着地しようとして本を落としたのも、僕にとっては思い出したくない黒歴史です」

「うん。わたしも、さっさと忘れていいと思う。これを機に、スパッと忘れよう」

 腕を組んでむくれる柊の横で、菜乃華も真顔で頷いた。

 何なのだ、この茶番は。瑞葉の話を聞いていた時は相手の付喪神もかっこいいと思っていたのに、蓋を開けたらこれか。とんちきな真実がボロボロ出てくる。本当にこの男は、何をやっているのだ。心配して損した。瑞葉も瑞葉で、後ろめたさがあるからか美化し過ぎだ。

 そんな菜乃華の心情を余所に、柊はさらに墓穴を掘っていく。

「あとですね、瑞葉さん、今のはちょっと卑怯ですよ。あの事件をこんな風に語って、菜乃華さんの好感度を伸ばしにかかるなんて……」

「いや、私は本気で菜乃華に軽蔑されることを覚悟して……。決して同情を引こうなどとは考えていない」

「でしょうね。瑞葉さんの性格は、僕もよく知っていますから。でも、ずるいものはずるいです。こんなことなら、僕が先にやっておけばよかった!」

「ごめん、柊さん。今の話を柊さんから聞かせられてたら、たぶんわたし、ドン引きしてたと思う」

 半眼のジト目で、柊を睨む。この男は、そんなお調子者の失敗談で自分がなびくと本気で思っているのだろうか。

「まあいいや。なんかぐだぐだになってきたし、話を戻そっか。それで、お祖母ちゃんと出会ってからはどうなったの?」

「ん? ああ、そこからは割と単純だ。先程語った一件をきっかけとして、私はサエと親交を持つようになった。そしてある時、ふとサエが私に『付喪神のための町医者をやりたい』と言い始めたのだ――」
 瑞葉が、再び遠くを見つめるようにしながら語り出す。あの日のサエの笑顔と言葉を、瑞葉は今でも鮮明に思い出すことができた。

『今、この人の世で本の付喪神を助けられるのは、あたしだけなんでしょ? だったら、あたしのこの力を、うちの土地神様の代わりに本の付喪神の役に立てたい。そのために、あなたの力を貸してくれない?』

 そう言って手を差し伸べられたサエの手を、瑞葉は何の迷いもなく握った。サエならば、きっと多くの付喪神を助けることができるはず。サエの友として接してきた瑞葉には、そんな確信があったからだ。

 そして同時に、瑞葉はサエのこの提案が自分を変えるチャンスになると考えていた。

 幸い、サエたちには店として使える土地と建物はあった。婿養子であるサエの夫、つまりは菜乃華の祖父の生家だ。菜乃華の祖父の両親は、九重町で不動産屋を営んでいた。ただ、祖父は祖母と結婚して間もなく両親を事故で亡くしており、その生家は空き家となっていたという。

 しかも、九重町が商店街の発展と共に区画が整備された結果、祖父の生家はいつの間にか、今の迷路のような路地の奥に入ってしまった。おかげでここは、売ろうにも売れない資産となってしまったわけだが……これが偶然にもサエと瑞葉にとって好都合となっていた。

「何度も言ってきたことだが、我々神格を持つ者は、人との和を乱すことなく生きることを己に課している。故に、この場所は我々にとってこの上ない立地条件だったのだ」

 付喪神たちが安心して来られるように、人目につきにくい場所。けれど、付喪神は元々、人から大切にされた道具に宿る神だ。だから、人の活気も感じられる場所。路地の奥で人は来ないが、すぐ近くに人が行き交う商店街がある祖父の生家は、そんな条件を満たした稀有な場所だったのだ。
 土地の持ち主である菜乃華の祖父も、サエの考えを理解し、快く建物を提供してくれたという。

『八百万の神々のお役に立てるのなら、これほど喜ばしいことはない』

 それが、神職として祖父がサエと瑞葉に掛けた言葉だったらしい。自分が生まれる前に亡くなった祖父のことを、菜乃華は粋な人だったのだなと思った。

「店を開いた当初は、ほとんど客が来なかった。けれど、次第にサエの噂が広がっていってな。ちらほらと、付喪神たちが頼ってくるようになったんだ」

 ただの人間と敵が多い付喪神が作った店だ。順調な滑り出しとはいかなかった。

 それでもサエは、たまに来る客の本を直しながらあれこれ話をして、瞬く間に自分の味方にしていった。少し馴れ馴れしいが、気風が良くて底抜けに明るい。そんなサエの人柄に、どんな付喪神もいつの間にか懐柔されてしまったのだ。

 周囲に敵ばかり作っていた瑞葉からすれば、まるで手品でも見ているみたいな心地だった。もっとも、それを成し遂げていた本人は、単に付喪神と話をするのが楽しいだけだったようだが。

「サエの味方が次々増えていく様には、私も舌を巻いた。まあ、口コミが大事なのは、人の世界も神の世界も変わらないということだな」

「お祖母ちゃん、友達を作るの得意だったからなあ。適材適所ってやつだったんだろうね」

「嬢ちゃん、嬢ちゃん。一応言っておくとな、この店の宣伝にはオイラも一役買ったんだぜ。本の付喪神に会う度に、神田堂のことを紹介したもんさ」

 唐突に口を挟んだ蔡倫が、胸を張る。

 蔡倫が初めて神田堂を訪れたのは、店を開いて間もなくのことだ。どこで聞きつけたのか、全国行脚から戻った彼は突然ふらっと神田堂に現れたのだ。
 神田堂を気に入った蔡倫は、そのままちょくちょく顔を出すようになった。そんな彼に連れられて神田堂にやってきた付喪神は、数知れない。そう、蔡倫こそ神田堂の名を世に広めた影の功労者なのだ。

 得意げなサルの坊さんを前に、瑞葉も感謝するように「そうだったな」と笑った。

「店を開いて十年も経つ頃には、神田堂の名は付喪神たちの間に知れ渡った。以来、ここは付喪神たちが集ってくる場となったのだ」

 瑞葉は、心穏やかに言葉を紡いでいく。

 この五十年、本当にたくさんの付喪神が、この店を訪れた。それは、怪我を直してもらいに来た本の付喪神だけではない。家具の付喪神や道具の付喪神、その他の神々も、ただサエと話すためだけに、神田堂へやってきた。
 なぜならみんな、妙に気安く、太陽のように明るい店主のことが好きだったから。

 サエが夢見た、怪我をした本の付喪神を助ける町医者、神々と一緒に生きていくための店――。

 神田堂は、見事にその目的を果たしたのだ。
 そして、店主が代替わりした今も、そんな神田堂の理念は変わることなく生き続けている。他でもない、サエの意思と力を引き継いだ菜乃華の手によって守られているのだ。

 瑞葉は、親友と同じ目をした最愛の少女を見つめた――。


         * * *


「これが、私とサエの出会いから、現在に至るまでの物語だ。満足してもらえたかな、店主殿?」

「うん! 瑞葉の過去にはちょっと驚いたけど、すごく素敵なお話だった。ありがとう」

 満ち足りた面持ちで、菜乃華は大きく頷いた。特に後半、神田堂ができた辺りは想像以上に素敵な物語で、大満足である。それに、自分が目指すべき店主像というものが、よりはっきりと見えた気がする。菜乃華にとって、何よりも大きな収穫だ。

 と同時に、店の壁時計が午後六時を知らせる鐘を鳴らした。

「ふむ、ちょうど時間だな。今日の仕事はここまでだ」

「そうだね。じゃあ、わたし、今日はこれで帰るね」

「あ、それなら僕らも、そろそろお暇します」

 菜乃華が帰り支度を始めると、柊もこたつの中からクシャミを引っ張り出して抱き上げた。クシャミはこたつが恋しいのか、「な~む」と少し不機嫌そうに鳴いている。こたつを出してきてからというもの、これも見慣れた光景だ。

 湯呑みは瑞葉が洗っておいてくれると言うので、お言葉に甘えておく。柊たちを伴って店のガラス戸を開けた菜乃華は、居間にいる瑞葉たちの方を振り返った。

「瑞葉、蔡倫さん、また明日!」

「それじゃあ、失礼します」

「ああ、気をつけて帰れよ」

「じゃあな、嬢ちゃん。ついでに柊たちも。車に気を付けろよ」

 店の奥から、瑞葉と蔡倫が手を振ってくる。
 二人の付喪神に手を振り返して、菜乃華は柊たちと共に夕暮れの路地を歩いていった。
 賑やかな菜乃華たちが去って、随分と静かになった神田堂。居間に残った瑞葉と蔡倫は、のんびりと茶を飲みながら、卓袱台越しに向き合っていた。

「にしても驚きだ。あの頃、オイラがいない間にそんな事件があったとはな」

「まあ、改めてお前に語るような機会もなかったからな」

 蔡倫が水を向けると、瑞葉はお茶をすすりながら澄まし顔で答えた。

「けど、思い起こしてみれば確かにお前さん、ここの店員になってから性格がどんどん丸くなっていったよな」

 ここ五十年の瑞葉を思い返し、蔡倫が呟く。

 蔡倫と瑞葉の関係は、遠く江戸時代からの腐れ縁だ。故に、蔡倫は神田堂の店員になる前の――サエと出会う前の瑞葉のことも、よく知っている。

 サエと出会う前の瑞葉は、本人が語った通り、孤高の存在だった。なまじ高い能力を持っていたことも、ある意味では瑞葉の不幸だったのかもしれない。その能力の高さ故に、彼はほとんどの相手に後れを取ることがなかった。高い理想とそれを実現させる力を持っていた瑞葉は、その生真面目な性格故に立ち止まることができなくなってしまったのだ。

 そして蔡倫には、そうやって突き進んでいく瑞葉を見ていることしかできなかった。止めてやりたいとは思っても、止めることができなかった。蔡倫には、瑞葉を止められるだけの力がなかったからだ。
 だが、今にして思えば、『止める力』なんて必要なかったのだろう。

「私自身、自分を変えたいと思っていたが、実際に変われたのはサエのおかげだな。奔放なサエを見ていたら、常に肩ひじを張っていることが馬鹿らしく思えてきた」

「お前さんにそれを悟らせちまったあたり、あのばあさん、本当に人間にしておくには惜しい傑物だったな」

 愉快と言いたげな口調で、しかしその裏にサエへの尊敬を滲ませ、蔡倫が相槌を打つ。

 そう、『止める力』なんて必要なかった。必要だったのは、ただ一つ。サエのように、友として隣でいつも笑っていてやることだった。そんな簡単なことにも気付けなかったのだから、自分もまだまだ修行が足りないと思う蔡倫だった。
 そんな蔡倫の心情を知ってか知らずか、瑞葉が微笑みながら頷く。

「まったく、お前の言う通りだ。この五十年でサエから学んだことは、数知れない。彼女のおかげで、毎日が充実していたよ」

「そいつは結構なことだ。人生、これ勉強ってな。……って、うん?」

 呵々と笑っていた蔡倫が、ふと何かに気づいた様子で首を傾げる。そのままサルの坊さんは、こたつ布団の上に落ちていたものを拾い上げた。

「どうかしたのか、蔡倫?」

「なあ、瑞葉よ。こいつは、嬢ちゃんのじゃないか?」

 蔡倫が、右手を瑞葉に向かって差し出す。蔡倫の右手に乗っていたのは、クマのキーホルダーがついた鍵だ。
 瑞葉も、このキーホルダーには見覚えがあった。確かにこれは、菜乃華の持ち物だ。きっと帰り支度をしている時にでも落としたのだろう。

「ああ、確かに菜乃華のものだな。仕方ない。蔡倫、少し留守番を頼めるか?」

「なんだ? お前さんが届けに行くのかい?」

「おそらくこれは、菜乃華の家の鍵だ。ここにあっては、菜乃華が困るだろう」

 鍵を懐にしまい、瑞葉が席を立つ。一度決めたら、時間を無駄にしないで即行動を起こす。真面目な瑞葉らしい。

「……本当に変わったね~」

「ん? 蔡倫、今、何か言ったか?」

 不思議そうに訊き返した瑞葉へ、蔡倫は「何でもない」と首を振った。ただ、蔡倫の表情はうれしげだ。
 昔の瑞葉なら、誰かの忘れ物を届けに行こうとなんてしなかっただろう。「注意力が足りない」と、簡単に切り捨てていたはずだ。

 そんな瑞葉が、今では他人を気遣い、心配している。過去語りをしていた所為か改めて思うが、随分と優しくなったものだ。もっとも、今回については単純に菜乃華と二人で過ごす時間を少しでも増やしたいだけかもしれない。それはそれで、瑞葉の大きな変化であることに違いはないが。

 サエといい、菜乃華といい、九重の土地神の血族は蔡倫にできないことを難なくやってのける。本当に、羨ましいくらい面白い一族だ。

「では、行ってくる。蔡倫、後を頼む」

「おう、車に気を付けろよ! それと、嬢ちゃんによろしくな」

 菜乃華たちにしたのと同じように、蔡倫はひょいひょいと手を振る。

 おそらく瑞葉は、遠くない未来に九重の土地神と同じ決断をするだろう。神格を捨て、愛する者と数十年という短い命を精一杯燃やしながら生きていくのだ。
 神にとって神格を捨てることは、二度と後戻りできない片道切符だ。それでも、瑞葉はためらうまい。それこそが瑞葉の望みであり、幸せなのだから。

 友の門出は、蔡倫にとってうれしくもあり、同時に寂しくもあった。
 長く生きた付喪神だって、変わる時は変わる。時には大きく成長していく。瑞葉の背中を見送りながら、蔡倫はそんなことを考えるのだった。

秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

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