日付は飛んで、十一月五日、日曜日。両親よりも早い朝の四時半に起きた菜乃華は、家の台所でせっせとお弁当の準備を始めていた。
「瑞葉に食べてもらうんだから、おいしいものを作らなきゃ!」
今日のお弁当で、何としても瑞葉の胃袋を掴んでみせる。気合と共に腕まくりをして、昨晩に下拵えしておいた食材などを冷蔵庫から取り出した。
今日のメニューは、おにぎり、エビフライ、鶏の唐揚げ、玉子焼き、アスパラのベーコン巻き、ポテトサラダ、彩りを与えるためのプチトマト、そして筑前煮だ。
特に筑前煮は瑞葉の好物なので、絶対に失敗できない。いや、失敗しないのは当然として、祖母のものよりおいしい筑前煮を作らなければならない。
食材を前に、調理の手順をもう一度頭の中で思い起こした。修復も料理も、大切なのは分量や手順を間違えないことだ。きちんとしたイメージのもと、食材に手を伸ばす。
その時、不意に後ろから、「朝から気合入っているわね」と声が掛かった。
「本当にもう、いつの間にかすっかり恋する乙女になっちゃって」
「お母さん! あれ、何で?」
台所の入り口に立っていたのは、母だった。菜乃華は驚きのままに壁時計を見るが、時間はまだ五時より前だ。母がいつも起きる時間は、まだ先のはずである。
「娘の恋路を応援するのは、母親の責務です。瑞葉においしいお弁当を食べてもらいたいんでしょ。揚げ物系は私の方でやってあげるから、あんたは煮物をきっちり作って、しっかりアピールしてきなさい」
「恋路って……お母さん、何で知ってるの!?」
「むしろ、今まで気付かれていないと思ってたわけ? それは、親を舐め過ぎよ。何年、あんたの母親やってると思ってんの。もう何カ月も前から、相手までバレバレよ」
あんぐりと口を開ける娘を尻目に見つつ、手早くエプロンをした母が、海老と唐揚げ用に下味をつけておいた鶏肉を手に取る。
この台所の主だけあって、動きがこなれていて機敏だ。純粋に心強い。本当なら全部自分で作りたいところだが、今は瑞葉においしいお弁当を振る舞うことが最優先なので、有り難く助力を頂戴しておくことにする。
「ちなみにあんたたち、どこまで進んでるの? もうキスくらいはした?」
「――ッ!!」
いきなりかまされた思いがけない質問に驚き、持っていたこんにゃくをつるりと落としかけた。
慌ててこんにゃくをまな板に置き、何食わぬ顔で衣の準備をしている母を睨みつける。
「何言ってんの! キスなんてしてないよ!」
「なるほど。その様子だと、告白もまだか……」
泡を食って捲し立てる娘の姿に、母がこれ見よがしにため息をついた。
「お父さんに似て、本当に奥手なんだから。我が娘ながら情けないわ。あんた、九月に倒れて神田堂に一泊していたじゃない。なんでその時に告白して決めなかったの。弱っているところを見せて誘い込めば、一発だったでしょうに」
「な! ななな……!」
「もしくは、せっかくお店で二人きりなんだから、隙を見つけて押し倒しちゃえばいいのよ。既成事実は何にも勝る武器よ。何なら、今から試してきなさい」
「お、おおお、おしおし……!」
母から繰り出されるとんでも発言のオンパレードに、菜乃華の頬が真っ赤に染まる。頭は真っ白になって、呂律が回らない。完全にオーバーヒート状態だ。
そんないっぱいいっぱいの娘を、母はにんまりと意地悪く笑って見つめている。娘の反応を楽しんでいる顔だ。
母の表情に気付いたことで、菜乃華もようやく正気を取り戻した。そして、恨みがましい目で再び母を睨みつけた。
「娘になんてこと勧めてんのよ。それが親の言うこと!?」
「親だから、可愛い娘のためを思って言ってあげてるんじゃない。いい? 相手が神様だからって、遠慮しちゃダメよ。男が狼なら、女は狩人なんだからね。私の娘なら、狙った獲物はきちんと仕留めてきなさい。私も、そうやってお父さんをゲットしたんだから」
「お母さん、お父さんに何をしたの……」
呆れ果てて、思わず頭を抱えてしまった。
菜乃華の両親は、父五十五歳、母四十五歳の年の差婚だ。一体どんな恋愛をしていたかとずっと気になっていたが、まさか母がここまでアグレッシブな肉食系だとは思わなかった。というか、こんな捕食関係のような馴れ初めなら聞きたくなかった。
そんな娘の心情なんて、なんのその。母はマイペースに唐揚げの衣の準備を始めた。
「さあさ、無駄話はこれくらいにしましょう。これだけの量、ちゃっちゃと作っていかないと、約束の時間に遅刻しちゃうわよ」
「誰のせいで手が止まったと思ってんの! お母さんのバカ!」
「ヘタレ娘にバカ呼ばわりされるのは心外ね。悔しかったら、彼氏の一人や二人、さっさと連れて来てみなさい。お赤飯炊いて待っててあげるわよ」
ああ言えば、三倍にされてこう言われる。口では敵わないと悟り、さりとて悔しさは募り、心の中で地団太を踏む。
菜乃華は母の助力を受けたことを早速後悔しながら、荒々しく鍋をコンロに掛けるのだった。
色々と思うところが多いというか、納得いかないところも多いが、母の助けのおかげで、お弁当は無事に作ることができた。それも、菜乃華一人で作るよりも、明らかにおいしそうに……。それが余計に悔しいが、何はともあれ出かける準備を整える。
姿見の前で、最後のチェックだ。まずは服装。上は赤のタートルネック、下は明るいブラウンのハーフパンツに黒のレギンスだ。動きやすさを重視しつつ、おしゃれにも気を遣ったコーディネートである。あと、冷えることも考えて、念のため厚手のパーカーも持っていく。メイクはいつも通りナチュラルを心掛けるが、瑞葉と初めての遠出なのだ。化粧品は、お小遣いをはたいて買った特別な一品を使う。格好・化粧共に少し気合が入り過ぎているかとも思ったが、これくらいは許容範囲だろう。
「よっしゃ! オッケー!」
格好は決まった。いざ行かん。歩きやすいスニーカーを履いて、お弁当を詰めた重箱を手に外へ出る。
「菜乃華、もう出かけるのかい?」
「うん。行ってきます、お父さん」
「ああ、行ってらっしゃい。車に気を付けてな」
境内にいた父に軽く手を振り、鳥居をくぐってここのえ商店街に向かう。
目の上に手をかざして空を見上げれば、雲一つない晴れ渡った青が広がっていた。気温も湿度も程よい感じで、正に行楽日和というやつだ。踊るように足取り軽く、商店街の石畳を歩く。
いつもの迷路小路に入ってからは、お弁当を壁にぶつけないよう気を付けて進む。そうしたら、最後の角を曲がったところで、箒を手にした瑞葉と鉢合わせた。
「おはよう、菜乃華。足音がしたと思ったら、やはり君か」
「お、おはよう、瑞葉」
どうやら店の前の掃除をしていたらしい瑞葉が、穏やかに微笑む。菜乃華はその顔を、まともに見ることができなかった。
原因は言わずもがな、母のいらない入れ知恵だ。不意打ち気味に瑞葉と顔を合わせた所為で、心の準備ができないまま、母の言葉を思い出してしまったのだ。
「どうかしたか。顔が少し赤いが……」
「ううん、何でもない。気にしないで」
心配そうに顔を覗き込んできた瑞葉に、大丈夫だと首を振る。さすがに、母から「押し倒してこい」と言われて、まともに顔が見れませんでした、とは言えない。
「それより、蔡倫さんたちはもう来てるの?」
「――今、来たぜ」
「おはようございます、菜乃華さん、瑞葉さん!」
菜乃華が瑞葉に尋ねたちょうどその時、背後から声がした。振り返ってみれば、手を上げた蔡倫と、その後ろに手荷物を持った柊、そして「な~お」と鳴くクシャミがいた。
「みなさん、一緒だったんですね」
「オイラたちも、すぐそこで鉢合わせたんだ。どうやら、グッドタイミングだったみたいだな。んじゃ、早速行くとするか」
「でも、どうやって高峰村まで行くんですか。さすがにバスや電車じゃないですよね。クシャミちゃんはぬいぐるみとか言い張ればいいかもしれませんけど、蔡倫さんはさすがに無理でしょうし」
「心配すんな、嬢ちゃん。ちゃんと、移動手段は確保してある」
首を傾げる菜乃華の前で、蔡倫が空に向けって人差し指を向ける。菜乃華が不思議そうに指差された方向を見上げると、そこには空飛ぶ牛車が止まっていた。
あまりにも非現実的な光景に、菜乃華は開いた口が塞がらなくなった。
「何ですか、これ……」
「朧車ってんだ。神様専用のタクシーみたいなもんだな。もちろん、オイラたち神様と無関係な人間には見えてねえぜ」
蔡倫の声を聞きながら、空の上の牛車を見入る。サルの坊さんである蔡倫や神力など、これまで色々とファンタジーなものを見てきたが、これは過去最大級の衝撃だ。
「でも、どうやってあれに乗るの? あの大きさだと、ここに降りてこられないよね」
「心配するな。ここから飛び乗ればいいだけだ」
瑞葉が、疑問符を浮かべる菜乃華の肩に手を置いた。どうやら菜乃華が蔡倫と話している間に、支度を整えてきたらしい。手に持っていた箒はなくなり、代わりに夫婦箱が入っていると思しき風呂敷包みを持っている。
もっとも、菜乃華にとってはそんなことより瑞葉の言葉の方が気になった。
「飛び乗る? 瑞葉、飛び乗るって、どういう……」
「こういうことだ」
怪訝な顔をする菜乃華を、瑞葉がひょいっと抱きかかえた。いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「み、瑞葉!?」
「あまりしゃべらないほうがいい。舌を噛むぞ」
「え? え? どういうこと?」
真っ赤な顔でオロオロする菜乃華に微笑みかけ、瑞葉が空を見上げる。そのまま彼は、タン、という軽い足音を響かせ、空に舞い上がった。
何かを考える暇もない。一瞬の浮遊感の後、気が付けば菜乃華は、瑞葉に抱えられたまま畳が敷かれた朧車の中にいた。
「大丈夫か、菜乃華」
「うん、平気……」
お姫様抱っこしてもらった幸せと驚きに茫然自失しながら、畳の上に降ろしてもらう。
すると、後ろから蔡倫とクシャミを抱えた柊も牛車に乗り込んできた。
ようやく思考が追いついてきたが、どうやら高く飛び跳ねて乗り込んだらしい。さすが神様というべきか、人間ではありえない身体能力だ。付喪神という存在の常識外れぶりを再認識した。
「そんじゃ、行くとするか。頼むぞ、朧車」
蔡倫が声を掛けると、朧車は空中を滑るように進み始めた。
神田堂一行の行楽旅行は、こうして店主の驚きの中で幕を開けたのだった。
「あー、緊張する……」
「落ち着け、菜乃華。別に取って食われるわけではないのだ。この間会った時と同じように、普通にしていればいい」
「それはわかってるけど……。それでも、自分の作品を評価してもらうと思うと、やっぱり緊張する~」
夫婦箱が入った風呂敷を胸に抱いたまま、緊張のあまり天を仰ぐ。今、菜乃華と瑞葉が立っているのは高峰村の最奥、他の民家から少し離れたところにある一軒家の前だ。吟の家である。元は彼女の本の持ち主が住んでいたそうだが、その人が亡くなってからは吟が一人で暮らしているらしい。
蔡倫たちには朧車で待っていてもらい、菜乃華は瑞葉と二人で吟の家を訪ねていた。
「大丈夫。君は神田堂の名に恥じない夫婦箱を作った。私が保証する。自信を持って行け」
「うん……」
瑞葉に背中を押され、緊張に固まったまま呼び鈴を鳴らす。しばらく待つと、家の中から足音と共に「はいはい」という声が聞こえてきた。
「あら、いらっしゃい、店主さん。待っていたのよ」
「こんにちは、吟さん」
玄関先に出てきた吟が、満面の笑みで菜乃華たちを迎える。お誕生日会で友達が来るのを待っていた子供のようだ。
菜乃華も、強張りそうになる顔に精一杯の笑顔を浮かべ、吟に頭を下げた。
「ご注文いただいた品物を持ってきました」
「はい、確かに」
菜乃華が差し出した風呂敷包みを、吟はうれしそうに受け取った。
「開けてもいいかしら?」
「ええ、どうぞ」
吟から向けられる期待の眼差しに、今度は緊張を隠せないままに頷いてしまった。
そんな菜乃華の前で、吟はプレゼントの包装紙を開けるように、手に持った包みを大事そうに広げていく。そして、現れた夫婦箱を驚きの表情でまじまじと見つめた。
「あらあら。これはまた、随分と可愛らしい箱が出てきたわね」
「……お気に召しませんでしたか?」
緊張から一転、不安げな声で菜乃華が訊く。驚く吟の顔を目の当たりにして、自分のデザインが吟の趣味に合わなかったのかと思ったのだ。
一方、表情を曇らせた菜乃華とは逆に、吟は「とんでもない」と軽やかに首を振った。
「一目で気に入りましたよ。特にこの飾りのリボン、とても素敵。結わえ付けてあるのは、クローバーかしら」
「はい。四つ葉のクローバーは幸せを呼ぶと言いますから、吟さんに幸せが舞い込むようにと思って付けました」
菜乃華が答えると、吟は「にくい演出ね」と感心したように唸った。
どうやら言葉の通り、気に入ってはもらえたらしい。不安が一蹴されて、一安心だ。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。
「ねえ店主さん、一つ聞かせてくださいな。あなたはどうして、あたしへ納める箱をこのデザインにしようと思ったの?」
安心して少し気が緩んだところに、吟から試すような質問が飛んできた。見れば、吟の表情は悪戯を仕掛ける女の子のようだ。
ただ、この質問は菜乃華も予想していた。もちろん、答えは用意してある。少し驚いたことで回答が頭から飛びかけたが、気を取り直して口を開いた。
「……最初はわたしも、大人っぽい落ち着いたデザインにしようと思っていました。まるで、そうするのが当然であるかのように。けど、途中で友人たちがわたしに気付かせてくれたんです。それは、『わたしらしい』じゃないって」
理由を言葉にしながら、菜乃華は思う。箱のデザインを考え始めた当初は、瑞葉や亡き祖母に勝つことで頭がいっぱいだった。その所為で、考え方が思い切り狭まってしまっていた。瑞葉たちも作ったであろうデザインを考え、彼らと同じ土俵で戦うことばかりを意識してしまったのだ。吟に言われた、「あなたらしい」という言葉を忘れて……。
そんな菜乃華を引き戻してくれたのは、柊とクシャミだった。練習のために作った夫婦箱を、彼らは心の底から喜んでくれた。柊に至っては、オーバー過ぎるくらいに。
その姿を見て、ようやく気が付くことができたのだ。
わたしが目指すべきは、瑞葉たちに勝つことではない。吟に喜んでもらうことだ。そのために、わたしはわたしにしかできない別の切り口を見つけなければならない、と……。
間違いを自覚した菜乃華は、それまでのデザインを捨てて、一から考え直した。
「それでわたし、吟さんと話した時のことをもう一度思い返したんです。その時にふと思い当たったのが、吟さんは時折すごく可愛らしく笑うってことでした。それこそ、大人の女性というよりも女の子みたいに……。その顔を思い出した瞬間、『これだ!』って閃いたんです」
微笑みながら吟を見つめると、吟も菜乃華を見て笑っていた。そう、菜乃華が女の子みたいと評した、あの可愛らしい笑顔だ。
「吟さんのその笑顔にピッタリの箱を作りたい。それなら、いっそのことメチャクチャ可愛い箱にしてみよう。そう思いました。だから、わたしらしく可愛さを追求してみて……最終的にこのデザインにしようと決めました」
話を終え、吟の様子を窺う。
すると吟は、納得したと思しきすっきりとした表情で頷いた。
「そう……。それが、あなたの答えなのね。よくわかったわ」
楽しそうな声音で、吟が呟く。彼女はそのまま、菜乃華の隣に立つ瑞葉へと目を向けた。
「瑞葉さん、今度の店主さんもとても面白い方ね。ユニークで、からかい甲斐があって、孫みたいに可愛くて……そして、とても一途で一生懸命な頑張り屋さん」
「ええ。うちの自慢の店主です」
吟の評価に、瑞葉も自信を持って肯定するように、力強く頷く。
二人のやり取りを横で聞いていた菜乃華は、恥かしそうに頬を染めて俯いた。ただ、その顔に浮かぶのは誇らしげな笑顔だ。二人の言葉がうれしくて堪らない。そう書いてあった。
そんな菜乃華に、吟は優しく、どこか親愛を感じさせる声で語り掛けた。
「店主さん――いえ、菜乃華ちゃん。今日は、素敵な夫婦箱を届けてくれてありがとう。それと、またあなたに夫婦箱の注文をさせてもらってもいいかしら?」
「はい! ぜひ!」
吟からの申し出に、菜乃華の笑顔が弾ける。
また一人、付喪神が自分のことを認めてくれた。また一歩、祖母に近付けた。それがうれしくて、菜乃華は勢いよくお辞儀をした。
「またいつでも、神田堂に入らしてください。吟さんとまたお話しできるのを、ずっと楽しみにしています!」
菜乃華の弾んだ声は、秋の高い空にどこまでも響き渡るのだった。
吟の家を辞した菜乃華と瑞葉は、急いで蔡倫たちが待つ朧車へと戻った。
晴れやかな笑顔で戻ってきた菜乃華を労いつつ、一行が向かったのは、吟の家よりもさらに山奥だ。
「着いたぜ。ここがオイラのお勧め穴場スポットだ」
「おお! 何これ、すごいです。超絶景!」
蔡倫と一緒にすだれの外に顔を覗かせ、辺りを見渡す。そこに広がっていた光景に、菜乃華は目を輝かせた。
蔡倫が一行を案内したのは、森の狭間にある滝の畔だ。轟々と水が流れ落ちる滝の周りを、とりどりに色付いた楓や銀杏の木が縁取っている。滝つぼから川を流れていく赤や黄色の落ち葉が、何とも雅で風流だ。
「ここは山道から少し外れたところにある滝でな。山道付近にはもっと大きな滝もあるから、登山客もわざわざこっちまでは来ない。つまり、貸し切りでこの景色を楽しめるってこった」
どうだ、すごいだろう、という視線を寄こしてくる蔡倫に、菜乃華も全力で頷く。
穴場のスポットとは聞いていたが、こんな絶景を独り占めなんて贅沢過ぎる。さすがは神様、やることが大きい、などと妙に感心してしまった。
神田堂上空と同様に、朧車はここでも地面まで下りることができない。そこで菜乃華は、再び瑞葉にお姫様抱っこをしてもらい、朧車から降りた。一日に何度も瑞葉にお姫様抱っこしてもらえるなんて、なんという役得だろう。これだけでも、紅葉狩に来た甲斐があったというものである。後ろで柊が悔しそうに瑞葉を見ているが……ごめん、やっぱり好きな人のお姫様抱っこの方がいい。
ただ、今日の本番はここからだ。ここから、瑞葉に手料理を食べてもらうという、一大イベントが待っている。母の言葉を真に受けたわけではないが、菜乃華も瑞葉の胃袋とハートを仕留める覚悟でこの場に臨んでいた。
「お腹も空いたし、早速お弁当にしようか。今、レジャーシート敷くね」
「菜乃華さん、手伝いますよ」
「ありがとうございます、柊さん。じゃあ、そっち持ってください」
重箱を瑞葉に持ってもらい、家から持ってきたレジャーシートを柊と協力して河原に敷く。シートの端に石を載せたら、靴を脱いでシートの中心に重箱を広げていった。
程なくして、菜乃華渾身のお弁当がシートの上にきれいに並んだ。
「ほほう。こいつはすげえ。これ、全部お嬢ちゃんの手作りかい?」
シートに座った蔡倫が、並べられた料理を見て感嘆の声を上げた。その隣では、柊が目を輝かせ、クシャミがよだれを垂らしている。
「揚げ物系はお母さんに手伝ってもらいましたけど、他は食材の仕込みから私がやりました。お口に合えばいいんですけど」
紙皿と割り箸を取り出した菜乃華は、ちらりと瑞葉の方を窺った。
シートの一角に座った瑞葉は、穏やかな顔でお弁当を見ている。菜乃華の料理についてどういう感想を持ったのか、その表情からだけでは計り知ることができない。
「さあ、いっぱい食べてくださいね」
「おう! 相伴に預かるぜ」
「いただきます!」
蔡倫と柊が、我先にとおかずへ箸を伸ばす。手早くおかずを自分の紙皿に持った彼らは、二人揃ってまずベーコン巻きにかぶりつき、これまた二人揃って目を丸くした。
「うまいな、これ。ここまで料理が上手いとは、驚きだ。嬢ちゃん、いい嫁さんになるぜ」
「僕、もう死んでもいいかも……」
おかずにがっつく蔡倫と、感涙にむせび泣く柊。揃ってオーバーなリアクションだが、褒めてもらえるのは素直にうれしい。クシャミの分の料理を取ってあげながら、菜乃華は「ありがとうございます」と笑顔で応じた。
だがしかし、菜乃華が一番気にしているのは残る一人の感想だ。渾身の筑前煮を口に運ぶ瑞葉を凝視する。
「どう……かな、瑞葉。おいしい?」
恐る恐る瑞葉に感想を尋ねる。先程から、菜乃華の心臓はドキドキと早鐘のように鼓動を打っていた。早く感想を聞きたいが、聞くのが少し怖い。でも、やっぱり聞きたい。
どんな答えが返ってくるのか緊張しながら待っていると、煮物を味わっていた瑞葉がゆっくりと口を開いた。
「うまい。だが、正直に言えば、味付けはまだサエの方が上だな」
「…………。そっか……」
瑞葉らしい忌憚ない感想に、胸のドキドキが急速に静まっていった。後の残ったのは、寂寥感と敗北感だ。やっぱり自分は、まだ祖母には勝てないらしい。好きな人の一番には、まだなれない。少し、いや、とても残念だ。祖母のことは尊敬している。けれど、どうしても悔しくて、油断すると涙が零れそうになった。
ただ、瑞葉の感想は、それだけでは終わらなかった。
「そう、味付けはサエの方が上だ。……けれど、なぜだろうな。君が作ってくれた筑前煮の方が、おいしく感じる。食べると、なぜか心が温まる」
そう言って、瑞葉はもう一口、筑前煮を食べる。そして、「やはりうまい」とどこか満足げに繰り返した。
瑞葉の言葉を聞きながら、呆けた顔で筑前煮を食べ続ける彼を見る。菜乃華の目から、再び涙が零れそうになった。だがそれは、悔し涙ではない。温かな幸せの結晶だ。
浮かんだ涙を指で掬い、口元に笑みを浮かべたまま、菜乃華は呟く。
「当然だよ。だって……」
だって、誰にも負けないくらい、あなたへの愛情を籠めて作ったから。心の中でだけ、そう付け加えておく。
「ん? 『だって……』、なんだ?」
「ごめん、ここから先は秘密。だってこれは、瑞葉のためのとっておきの隠し味だから」
唇に人差し指を当て、頬をピンク色にしながら、瑞葉に向かって悪戯っぽく微笑む。
今は、ここまで言うのが精一杯。みんながいる前で、まだこれ以上は言えない。
だから代わりに、全力で笑う。自分は今とても幸せだ、と示すように。
「瑞葉、こっちの卵焼きも食べてみてよ。こっちも結構、自信作だから。それから、このポテトサラダも」
「ああ、いただこう」
瑞葉の紙皿にぽんぽんとおかずを載せていく。そんな菜乃華を穏やかに見つめながら、瑞葉は料理を口に運んでいく。そして、その度に「うまい」と呟いた。
こんな幸せな時間が、いつまでも続けばいいのに。自分が作った料理を食べる瑞葉の隣で、そう願わずにはいられない菜乃華だった。
菜乃華の持ってきた重箱を空っぽにし、柊特製のレアチーズケーキも平らげた一行は、のんびりと紅葉と滝のコントラストを眺めていた。
山腹の水辺故に空気が少しひんやりとしているが、柔らかな日差しが体を温めてくれる。
穏やかに過ぎゆく時間。日々の忙しさを忘れ、各々まったりと森林浴を楽しむ。
だが、その静寂は柊の「ああ!」という叫び声で破られた。
「どうしたんですか、柊さん?」
驚いて菜乃華が振り返ると、柊はクシャミを顔の高さまで持ち上げ、絶望に打ちひしがれていた。
「あ、すみません。クシャミの毛皮にデザートがこべりついちゃっていたので、つい……」
「毛皮に?」
言われてクシャミを見れば、確かに顎のところにケーキがべったりと付いていた。どうやら食べている時に汚してしまったようだ。
「これ、水で洗った方が良さそうですね。あっちで流してきましょう」
「そうですね。ほらクシャミ、行くぞ!」
「な~お」
うざったそうにするクシャミを連れて、菜乃華と柊は足早に川の方へと歩いていった。
「若い連中は、賑やかだね~」
彼女らを見送って、蔡倫が笑う。
すると、彼の隣に座っていた瑞葉が、唐突に口を開いた。
「……なあ、蔡倫。私は最近思うのだ。なぜ、九重の土地神がいなくなり、彼女の力をサエたちが持っていたのか。その答えは、とても簡単なものだったのではないかとな」
菜乃華の背中を見守りつつ、瑞葉は自身の言葉の意味を噛み締めるように言う。自身の考えに確信を得つつも、まだその確信の源に戸惑っている様子だ。
そんな瑞葉の姿にようやくかと苦笑しつつ、蔡倫は彼の言葉を継いだ。
「九重の土地神は人の子と恋に落ち、人としての限りある命を得て天寿を全うした。そして、サエや菜乃華――自身の血族にその力を託した、ってか?」
「……気付いていたのか」
「まあ、それなりに昔からな。そんで確信したのは、嬢ちゃんに力が宿っていると知った時だ。こいつはあれだろ。土地神と同じ女の血族にだけ力が宿るってこった」
けけけ、と蔡倫が笑う。その笑い声を聞きながら、瑞葉は一つため息をついた。
「神と人の子が結ばれる話など、過去にはごまんとあった。なのに、私は今までそれに思い至れなかった。情けない話だ」
「まあ、知識として知ってはいても、それを実感として受け止められるかは別問題だ。お前さんは、模範的な神様過ぎた。人の世を乱さずにひっそりと在り続ける。神として、人の間に一線を引く。それを守り続けたお前さんだから、逆に気付けなかったってことさ」
そこまで言い切った蔡倫が、お茶で喉を潤しながら一呼吸置く。
「で、お前さんがそれに思い至ることができたのは、九重の土地神と同じ気持ちを知ったからかい?」
蔡倫の問いに、瑞葉は答えない。ただ、その沈黙は蔡倫の問い掛けを肯定しているも同然だった。
「まあ、神が人の子に惚れるっていうのは、姿かたちではなくその者の魂に惚れたってことだ。外見や年齢は関係ない。それこそ、相手が百歳超えた老人だろうが、赤ん坊だろうがな」
このサルの坊主は、どこまで見透かしているのだろうか、と瑞葉は素直に思う。
ここまで勘付かれているのなら、もう隠しても仕方がないだろう。瑞葉は観念するように言う。
「兆しは、お前の想像通り、おそらく十二年前からあったのだろうな。菜乃華が初めて神田堂を訪れた、あの時から……。ただ、はっきりと自覚したのは、九月に菜乃華が倒れた時だ。自分の無力さを悔いながら、同時に、約束を果たしてくれた彼女を失いたくないと強く思った」
故に、菜乃華が目覚めた際は、感情のコントロールが効かずに思わず抱きしめてしまった。そして、その瞬間から、もう引き返すことができなくなった。
「付喪神として本が朽ちるまで何百年もの時間を生きるより、菜乃華と過ごす今この時を大事にしたい。菜乃華と共に生き、菜乃華と共に天寿を全うしたい。そう思ってしまうのだ」
肩を竦めた瑞葉が、「私は、神格を与えられた者として失格だな」と嘯く。
「もっとも、最近ではそんな風に考える自分も悪くないと感じている」
「ならば結構。神格なんて、別に気にすることはないさ。神の立場よりも大事だと思えるものに出会えたなら、そいつはお前さんにとって掛け替えのないものってことだ。胸を張って誇ればいい」
蔡倫が、瑞葉を祝福するように快活に笑った。
このサルの坊主は、昔からそうだ。普段はどれだけおちゃらけていても、大事なところでは必ず相手の心に寄り添い、そっとその背中を押す。瑞葉にしてみれば、自分よりもよっぽど神らしい存在だ。
「ただ、これはあくまで私の一方的な気持ちだ。菜乃華には、菜乃華の生き方がある。私は、これからも彼女を見守るだけだ」
「いや、『見守るだけ』って……。別に、一方通行の気持ちってわけでもないじゃないか。お前さんだって、嬢ちゃんの気持ちには気付いているんだろ?」
「ん? 菜乃華の気持ち? どういうことだ?」
真顔の瑞葉が、蔡倫に問い返す。その表情に、照れや冗談などは一切ない。つまり、本気で言っているのだ。
瑞葉が見せたあまりの天然ぶりに、蔡倫は呆れた様子で頭を抱えた。
「あれ見て気付かないって、お前さん、どんだけ朴念仁なんだ……」
「なんだ、蔡倫。さっきから、何を言っている」
「はあ……。駄目だ、こりゃ。重症だな」
疑問符だらけになっている瑞葉を前に、蔡倫はため息をつく。手の掛かる友人を持つと苦労する。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
だが、すぐに仕方ないという風に笑い、彼は瑞葉の肩を叩いた。
「まあ、お前さんの堅物ぶりは、今に始まったものでもないからな。それもお前さんらしさってことだろう。だから今回は、オイラが知恵を貸してやる」
「知恵だと?」
訝しげな目をする瑞葉に、蔡倫が「そうだ」と頷く。
「この後、オイラは柊とクシャミを連れて、先に朧車に戻る。だからお前さんは、嬢ちゃんに自分の気持ちをぶつけてみろ。きっと悪いことにはならないはずだぜ」
「悪いことにはならないとは……どういうことだ?」
「お前さんのささやかかもしれんが大切な願いは、きっと成就するってことだ」
蔡倫は発破をかけるように、瑞葉の背中を叩いた。
「あんまり深く考えんなよ、瑞葉。お前さんは、いつも思慮深過ぎるんだ。たまには感情のまま、自分の願いに素直に行動してみな」
そう言って、蔡倫はいまだ眉をひそめる瑞葉の前で気楽に笑うのだった。
「やっと落ちたね。意外と手こずっちゃった」
「ご迷惑おかけしてすみません、菜乃華さん。ほらクシャミ、お前も謝れ」
「な~む」
瑞葉と蔡倫の会話が一段落してしばらくすると、菜乃華たちが川辺から戻って来た。濡れそぼったぬいぐるみみたいになったクシャミは、どこか元気なさげだ。ため息でもつきたそうな顔をしている。そんなクシャミを見て、菜乃華と柊はおかしそうに笑っていた。
「おう、戻ったか。そんじゃあ、そろそろ帰るとするか。もう少しすると、ここら辺は結構冷えてくるし、クシャミが風邪引いちまうぜ」
すでに重箱やごみの片付けを済ませた蔡倫が、菜乃華たちを迎える。
そして、戻ってきたばかりの柊にゴミ袋を渡すと、菜乃華に向かってこう言った。
「嬢ちゃん、オイラたちは先に朧車に戻ってる。悪いが、瑞葉と一緒にレジャーシートを片付けてきてくれ」
「え! それなら僕が一緒に片付けますよ。菜乃華さんと一緒に!」
すぐに柊が手を上げ、立候補する。菜乃華と二人きりになりたいのだろう。
だが、すぐに蔡倫が却下した。
「お前さんは大人しく、オイラと一緒に来い。相棒が風邪引いてもいいのか?」
「そこは蔡倫さんにお任せします。僕は、菜乃華さんと残りたい!」
「素直なのはいいが、お前さんも本当に懲りねえな……。いい加減、負けを認めろ」
「僕の辞書に、『諦め』の二文字はありません」
「はいはい、そうかい。言いたいことはそれだけだな。んじゃ、そろそろ行くぞ」
最後は力づくで、蔡倫が柊を引きずっていく。ぬれねずみ状態のクシャミも、名前の通りくしゃみをしながら、その後ろに続いた。柊はそれでも「菜乃華さーん」と手を伸ばして来るが、菜乃華は苦笑しながら見送った。
柊には悪いが、菜乃華としてもこれは願ったり叶ったりの状況だ。まさか、こんな都合良く瑞葉と二人きりになれるとは思わなかった。短い時間とはいえ、蔡倫に感謝である。
「それじゃあ、レジャーシート片付けちゃおうか。瑞葉、そっちの端、持ってくれる?」
シートの端を持ち上げながら、瑞葉に呼び掛ける。けれど、瑞葉からの返事はない。不思議に思って顔を上げると、瑞葉は何かを考えているような顔で、滝を見ていた。
「瑞葉、どうかしたの?」
「……ん? ああ、すまない。少し上の空になっていた」
「ふーん。瑞葉がぼーっとしているなんて、珍しいね」
きっと風流な景色に見惚れていたのだろう。取り繕う瑞葉がちょっと可愛くて、菜乃華が楽しそうに笑った。
すると、不意に瑞葉が菜乃華の方を向いた。
「なあ、菜乃華。少し話をしたいのだが、良いだろうか」
「どうしたの、改まって。別にいいよ」
心の中で「やった!」とガッツポーズをしながら頷く。折り畳んで二人が並んで座れるサイズにしたレジャーシートをもう一度敷き、瑞葉と並んで座った。
「で、話って何?」
「……以前、君が持つ力について、私が『理由はわからない』と言ったことを覚えているか?」
瑞葉は少し考えるように間を置き、話を切り出してきた。
問われたことについては、よく覚えている。菜乃華が神田堂の店主になった日に聞かされた話だ。確か、九ノ重神社が祀っている土地神と同じ力だとか。
「覚えてるよ。それがどうしたの」
「その理由がな、最近、ようやくわかったのだ」
「へえ、そうなんだ。ねえ、どんな理由なの? よければ聞かせてよ」
菜乃華がせがむと、瑞葉は滝の方を見つめながら、その理由とやらを明かしてくれた。
瑞葉は言う。土地神は人の子と恋に落ち、人としての一生を送った。菜乃華の家系は、土地神に連なった血筋である。そして、土地神と同じ女性の血族にだけ、土地神が持っていた力――本の付喪神を癒す力が宿った、と……。
「つまり、わたしの中には土地神様の血が流れているってことだよね。なんか、ちょっと信じられない……」
話を聞き終え、菜乃華が圧倒されたまま声を漏らす。
それも仕方がないことだと思う。なんたって、自分が神様の血縁と聞かされたのだ。これで驚かない方が、むしろどうかしている。
「でも、どうして理由がわかったの? もしかしてこれも、神力のおかげ?」
驚きのままに、瑞葉にさらなる質問を投げ掛ける。
こうなったらもう、好奇心の虜だ。疑問が次々と湧いてきて、知りたいという気持ちが止められなくなっていく。瑞葉はどうやってこの結論に辿り着いたのか。他にも、自分の血縁についてわかったことはあるのか。いや、それより何より、ご先祖様の恋バナについてわかっていることがあったら、できるだけ細かく教えてもらいたい。それは菜乃華の今後に、とても役立つはずだから。
ただ、瑞葉はなかなか質問に答えてくれない。どうしたのかと思って瑞葉の顔を覗き込めば、珍しいことに逡巡するような表情を見せていた。それに、心なしか頬が少し赤い気がする。こんなこと、初めてだ。何だか見ているこちらまで、胸が高鳴ってくる。
菜乃華がどぎまぎしていると、瑞葉はまっすぐ正面を見つめ、覚悟を決めた様子で口を開いた。
「それは――私が菜乃華に恋をしたから……。九重の土地神とまったく同じ感情を持つことができたから、気付くことができた」
「え……?」
無意識のうちに、疑問の声が喉の奥から漏れ出た。
何を言われたのかわからなかった。何かとても大切で、とてもうれしくて、とても幸せなことを言われた気がする。
頭の中は、真っ白だ。何も考えられない。ただ驚きと、得も言わぬ喜びだけが、心と体を支配している。
すると、疑問の言葉を発したまま黙ってしまった菜乃華を見て、意図がうまく伝わらなかったと思ったのだろう。瑞葉が改めて、菜乃華が求める言葉を口にする。
「すまない、少々遠回しな言い方だっただろうか。平たく言うと、私は君のことが好きなのだ。君のことを……愛している」
懸命で、どこか不器用な瑞葉の声が、再び菜乃華の鼓膜を震わせた。
もう、聞き間違えたということはない。自分は瑞葉に告白された。自分の恋心は、一方通行の報われない片思いではなかったのだ。いつか自分から言わなければならないと思っていたのに、うれしいことにあっさりと先を越されてしまった。
気が付けば、菜乃華の目からは大粒の涙が零れていた。笑っていたいと思うのに、幸せ過ぎて感情がうまくコントロールできない。口元を両手で覆い、子供のようにしゃくりあげてしまう。
「どうした、菜乃華。やはり、私のような者に好かれるのは、迷惑だっただろうか」
菜乃華が突然泣き出したため、瑞葉が見当違いな勘違いをして慌てふためく。瑞葉が取り乱すなんて、相当のことだ。それだけ彼も、いっぱいいっぱいになりながらの告白だったのだろう。普段の泰然自若振りからはほど遠いその姿はどこか微笑ましく、同時にそこまで必死になって告白してくれたことが堪らなくうれしい。
心を落ち着け、涙を拭い、目を赤く腫らしたまま、瑞葉に精一杯の笑顔を向ける。
「ううん、違うの。ごめんなさい、急に泣いちゃって。うれしいのと驚いたので、感情が言うこと聞かなくなっちゃっただけ」
そう。これ以上幸せなことなんて、きっとこの世のどこを探しても見つからない。少なくとも、今の菜乃華にはどうやっても見つけられそうにない。
いや、見つける必要もないのだろう。だって、それほど大切なものを、今の自分は手にすることができたのだから。
「でも、いいの? わたし、たぶん面倒くさい女だよ」
「奇遇だな。私も昔から、堅物だの融通が利かないだの、面倒くさがられていたよ」
「たぶん、嫉妬深いよ。色々、我が儘言っちゃうかもしれないよ」
「では、あまりに程度がひどくなった時は、きちんと諌めるとしよう」
瑞葉が少し冗談めかした口調で答えた。
菜乃華は、そんな瑞葉の手を自身の両手で包み込むように握る。もう残された言葉は、一つしかない。心の底から溢れてくる想いを素直に自らの声に乗せた。
「ありがとう、瑞葉。わたしも――あなたのことが世界で一番大好きです!」
「ありがとうございました。お大事に」
神田堂のガラス戸が開かれ、お客さんの付喪神が帰っていく。瑞葉と一緒にその後ろ姿を見送り、菜乃華はほっと一息ついた。
「お疲れ様、菜乃華。さて、道具を片付けて、お茶にでもしようか」
「賛成。寒い日は、やっぱりこたつで熱いお茶を飲むのが一番だもんね」
フッと微笑む瑞葉に、菜乃華も満面の笑顔を返す。
あの紅葉狩の日から、およそ一カ月半。気持ちを確かめ合った菜乃華と瑞葉は、まだぎこちないながらも、恋人としての少しずつ仲を深めていた。劇的に生活が変わったわけではないが、確かに近くなっていく心の距離を感じ、満ち足りた日々を過ごしている。
「菜乃華さん、幸せそうですね……」
「お前さん、これ見てもまだ諦めてないのかよ」
「いや、さすがにもう頑張って吹っ切りましたよ。すごく未練たらたらで、たまに瑞葉さんに呪いをかけたくなりますが……。けど、僕にとっては菜乃華さんが幸せに笑っていることが一番です。我慢します」
「そうか……。まあ、一応お前さんも、成長したんだな……?」
後ろから、最早恒例になったやり取りが聞こえてくるが、BGMのようなものだ。気にしない。もし本当に瑞葉に呪いなんてかけたら、この血に宿った土地神パワーを気合で覚醒させて、全力呪詛返しをするけれども……。
ともあれ、瑞葉と手分けして、修復の道具や使用済みの消耗品を片付けていく。こういう小さな共同作業も、今ではかけがえのないものに思えてくる。恋の力とは、恐ろしいものである。
話は飛ぶが、学校では瑞葉と両想いになったことが、早々に唯子にばれた。それも、紅葉狩翌日の月曜日にあっさりと。どうやら自分は、傍目から見てもすぐにわかるくらい、幸せオーラを振り撒いているらしい。
結果、嫉妬の魔王にジョブチェンジした唯子に「う~ら~ぎ~り~も~の~」と追いかけられたが……これもたぶん幸せ税というやつだ。ちょっときつめの恐怖体験だったが、友情にヒビは入らなかったので良しとする。今でも「このリア充め!」と、ことあるごとに舌打ちされるけれど、そろそろ慣れた。現に幸せなので、まったく堪えないし。
というか、唯子も見た目は可愛いのだから、さっさと彼氏を作ればいいのだ。その気になれば、きっとすぐにできるはず。言ってくれれば、協力することだってやぶさかではないし……。
「どうかしたのか、菜乃華。手が止まっているが」
「へ? あ、ごめん。何でもないよ」
どうやら親友へのお節介を考えるのに夢中になり過ぎてしまったらしい。いつの間にか、片付けの手が止まってしまっていた。瑞葉に何でもないと手を振りつつ、片付けに戻る。
さすがに四カ月以上続けてきた仕事だ。余計なことを考えていなければ、スムーズに終わる。あっという間に、作業台の上はきれいになった。
仕事も終わり、瑞葉と揃って居間に上がる。居間では、蔡倫と柊、そしてクシャミがこたつでぬくぬくと暖を取っていた。こちらも、最早見慣れた光景である。瑞葉には先に休んでいてもらい、自分は台所へ行って、二人分のお茶を淹れる。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
いつものように瑞葉へ湯飲みを渡し、自分の分の湯飲みを卓袱台に置いて、こたつに入る。冷えていた足がじんわりと温めらるとともに力が抜けていき、体が完全にリラックスモードに入った。
「はふ~。癒される~」
卓袱台に顎を載せ、菜乃華はぬくぬくと幸せを噛み締めた。これこそ、正に冬の醍醐味だ。
「もう五時か……。おそらく今日は、これ以上客も来ないだろう。残り一時間、ここでゆっくり過ごすとしようか」
「うん! ありがとう、瑞葉」
年の瀬も迫ったこの時期、一度こたつの魔力に捕らわれたら、もう抜け出すことはできない。寒々しい土間に戻るなんて、もっての外だ。瑞葉の心遣いに感謝である。
ただ、こうなると一時間を持て余すというのも確かだ。こたつからは出たくないが、テレビもない居間で一時間座りっぱなしは、正直暇である。
つまり、暇つぶしがほしいわけで……。と、そこで菜乃華は、はたと閃いた。
「ねえ、瑞葉。せっかく時間もあるんだしさ、昔の話を聞かせてよ」
「昔の話?」
瑞葉が首を傾げる。
すると、背筋を伸ばした菜乃華が、「うん、そう!」と勢い良く頷いた。
「瑞葉はさ、どうしてこの店の店員をすることになったの? というか、どうやってお祖母ちゃんと出会ったの? あと、この店ってどうやってできたの?」
菜乃華の口から飛び出したのは、ずっと前から気になっていた疑問の数々だ。何となく訊きそびれていたけれど、実はすごく気になっていた質問の山を、菜乃華は矢継ぎ早に瑞葉へぶつけた。
「なんだ、いきなり。そんなこと聞いてどうする」
一方、いきなり色々と訊かれた瑞葉は面食らった様子だ。人形のように整った顔に、困ったような表情を浮かべた。菜乃華に告白して以来、瑞葉はより一層表情が豊かになったと思う。
「別に理由なんかないよ。ただ、前から気になっていただけ」
興味津々といった面持ちで、瑞葉に答える。好きな人が歩んできた、自分にもつながる過去なのだ。理由がなくても知りたいに決まっている。
そして、菜乃華に行動に乗っかる者が、ここにはもう一人いた。蔡倫だ。
「そいつは、オイラも気になるねぇ。お前さん、オイラが日本中を行脚している間に、気付いたらここの店員になっていたもんな。瑞葉、ちょっくらそこら辺の経緯(いきさつ)ってやつを聞かせてくれや」
蔡倫は、にやにやと楽しむように瑞葉を見る。
菜乃華と蔡倫によって卓袱台の両脇から見つめられ、瑞葉が無言のまま目を剥いた。間髪入れない蔡倫の援護射撃は、かなりの効果があったらしい。
この機を逃すまいと、菜乃華もすぐさま次の行動に出る。
「ねえ、瑞葉。わたしは神田堂の店主だよね。このお店の一番偉いんだよね!」
「ああ、そうだが……」
「だったら、わたしにはお店の歴史を聞く権利はあるんじゃないのかな? だって、お店で一番偉い人がお店の来歴を何も知らないって、やっぱり変でしょ」
「いや、確かにそうかもしれないが……」
神田堂の店主という立場を利用した第二撃だ。瑞葉は真面目な店員故、この手の理由を持ち出されると弱いことを菜乃華は知っていた。実際、普段は理路整然と駄目なことは駄目と言う瑞葉が、今は逡巡している。
ここが決め所だ。菜乃華は、切り札を使う。
「お願い! 教えて、瑞葉」
両手を合わせ、拝むように瑞葉を見つめる。
最後はド直球に頼み込む。これが切り札だ。
菜乃華からここまで頼まれたら、瑞葉は断らないと思う。というか、断らないでほしい。
なお、逆の立場なら菜乃華は確実にここで折れる。瑞葉から頼み込まれたら、断り切れない。というか、力の限り頑張って応える。
「……わかった。確かに、ちょうど良い機会ではあるしな。私の過去の所業を含め、いつか語らねばならないものであるし、私も腹をくくろう」
そして瑞葉も深く息をつきながら、ここで降参してくれた。瑞葉の返答内容が少し妙な感じだったが、以心伝心、愛の力の勝利である。
ちなみに、これで断られていたら……たぶん、かなり悲しかっただろう。相変わらず面倒くさい上に重たい女だ、と自分で思うが……。ともあれ、勝手に落ち込んで勝手に泣くという失態を犯さずに済んで良かった。
「そうこなくっちゃな。んじゃ、サクッと聞かせてもらおうか。お前さんの恥ずかしい過去話ってやつをな」
「自戒すべきことだらけだとは思っているが、恥かしいとは言っていない。ふざけたことを抜かしていると、店からたたき出すぞ、蔡倫」
にたにたと笑う蔡倫へ、瑞葉が鋭い眼光を向ける。
けれど、蔡倫はそんな眼光一つで怖気づくほどやわではない。むしろ、さらに笑みを深めるばかりだ。瑞葉も不毛な行為だと感じたのか、すぐに嘆息して、一度お茶をすすった。
「まあ、正直に言って少しも面白い話でもないのだがな。とりあえず、サエとの出会いを語る前に、前提となる話をしておこうか。私と九重の土地神の出会いについてだ」
湯飲みを卓袱台に置いた瑞葉は、何の気ない様子で過去を語り始めた。
「あれは、もう三百年くらい昔の話だ。当時、私はとある事故で自分の本を破損してしまってな。大怪我を負った私は、偶然、九重の土地神に拾われたのだ」
瑞葉の視線が、過去を思い出すように宙を彷徨う。
彼の言によると、九重の土地神は傷ついた瑞葉を見つけるや否や、強引に彼を九ノ重神社――当時は小さな祠だったらしい――へ連れ帰ったらしい。そして、神の御業で瞬く間に瑞葉の本体を直してしまったそうだ。
「三百年前の私は、まだ付喪神になりたてでな。助けてもらったことに感謝しつつも、強引に連れ帰られたことに反感を覚えて、随分と無礼な振る舞いをしてしまった。以来、申し訳なさが先に立って、この地に立ち寄ることはできなかった」
今でも申し訳ないと思っているのか、瑞葉が肩を落とす。
「ふーん。瑞葉にも、思春期みたいな時代があったんだね」
瑞葉の肩を落とす様が可愛くて、悪いとは思いつつも、菜乃華はくすくすと笑ってしまった。同時に、はねっ返っている頃の瑞葉を見たことある気がしたが、そんなはずはないと頭から打ち消した。
「今の言葉で表すなら、私の黒歴史といったところだ。何はともあれ、この出来事があって、私は九重の土地神のことを知ったわけだ」
菜乃華に同調するように、瑞葉もおどけた様子で続ける。菜乃華としては、瑞葉が『黒歴史』なんて言葉を使ったことに、失礼ながら少し驚いた。そういう若者言葉みたいなのは、あまり好きではなさそうなイメージだったから。
そんなどこか微笑ましい前提が終わり、ここからはいよいよ祖母と瑞葉の出会いだ。一体どのような出会いだったのかと、胸踊らせて瑞葉が続きを語り出すのを待つ。
ただ、対する瑞葉はそれまでと打って変わり、真剣な面持ちで菜乃華を見据えた。
「さて、ここからが本題になるわけだが……予め言っておく。菜乃華、この話を聞き終わった時、君は私のことを軽蔑するかもしれない」
「軽蔑? どういうこと?」
菜乃華が訝しげな口調で問い返すが、瑞葉は答えない。代わりに彼は目を閉じ、深く息を吸う。まるで、菜乃華から嫌われることがあっても自制心を保てるよう、心の準備をしているようだ。
そして、ゆっくりと目を開いた瑞葉は、改めて菜乃華の疑問に答えるように口を開いた。
「九重の土地神との出会いから時は流れ、五十年前。私はサエと出会った日に、一つの許されざる過ちを犯してしまった」
「許されざる……過ち?」
「……仲間である付喪神の本体を、破壊してしまったのだ」
「え……?」
突然の告白に驚き、菜乃華が息を呑む。
そんな彼女の前で、瑞葉は沈痛な面持ちで自らの罪を告白し始めた――。
当時の瑞葉は、四角四面の本当に融通の利かない付喪神だった。神としての在り方を重んじ、それから少しでも外れる行いをする者があれば、例え自分より高位の神格を持つ者であっても、少しの容赦もなく責め立てる。相手にいかなる事情があろうと、関係ない。人と神の和を乱す者は、やむにやまれぬ理由があろうとも許さない。そういう純粋過ぎるまでに高潔な神だったのだ。
そんな瑞葉の行いは、確かに正しかったのだろう。実際、瑞葉が堕ちた神の暴走を止めたことは、一度や二度ではない。それらの功績により、瑞葉は最低の神格しか持ち合わせない付喪神でありながら、高位の神に劣らぬ存在と目されていた。
「だが、当時の私は『神としての振る舞い』にこだわり過ぎていた。そして、正しさを重視するあまり、相手の心が見えていなかった」
自身の行いを反省するように、瑞葉が淡々と語る。
瑞葉は正しかったが、正し過ぎた。明らかに正しさが限度を超えていた。故に瑞葉は、周囲から畏怖され、敬遠されていた。恐れもせずに近付いてきたのは、古い馴染みである蔡倫くらいだ。
そして同時に、瑞葉の苛烈なまでの高潔さは、少なくない数の同族から反感を買っていた。瑞葉の言動が引き金となり、争いが発生することなどざらであった。
だから、その日の口論も、瑞葉にとってはいつもと変わらないもののはずだったのだ。
きっかけはささいなことだ。人間の子供に遊びで神力を披露していた付喪神を、瑞葉が見咎めた。それだけであった。
「その付喪神は、子供たちを楽しませたかっただけだった。無論、その方法として神力を使ったのは、今でも間違っていると思っている。……ただ、それを窘めるにしても、やり方はいくらでもあったはずなのだ。頭ごなしに否定して彼を罵り、子供たちを追い返した私も、正しい行いをしたとは言い難かった」
冷徹な目をした瑞葉に恐れをなし、子供たちは泣いて逃げ去った。そして、瑞葉の行いに対し、件の付喪神は怒(いか)った。
自分の行動が軽率だったのはわかった。それについての非は認める。だが、子供たちを恐がらせる必要はなかったはずだ。悪いのは軽率な自分一人であって、あの子たちに罪はない。あの子たちに謝ってくれ。
付喪神は怒りのままにそう言い募ったが、瑞葉はそれを『必要ない』の一言で一蹴した。
いや、それだけではない。
『むしろ、好都合だ。これであの子供たちも、ここで見たことを吹聴することはしないだろう。これ以上、神と人の和が乱れることはない』
当時の瑞葉は表情一つ動かさず、躊躇いなくそう言い放った。瑞葉にとっては、これが合理的な判断だったからだ。だが、これが相手の付喪神にとっての決定打になった。
付喪神の怒りは頂点に達し、彼は瑞葉に掴み掛った。しかし、その付喪神はお世辞にも荒事が得意と言えそうにない、ひ弱な風貌の優男だった。数々の神と対峙してきた百戦錬磨の瑞葉からすれば、正に隙だらけの突貫である。少しいなしただけで、付喪神の体は瑞葉の後ろへ抜けていった。
ただ、そこで一つ、瑞葉も予期していなかったことが起こった。
「……相手の付喪神が、私の背後にあった崖から転げ落ちていったのだ――」
すべてが瑞葉たちにとって悪い方向に働いた。二人が対峙していたのは小高い丘の上であり、瑞葉の背後は切り立った五メートルほどの崖となっていた。相手の付喪神は、勢い余ってその崖に突っこんでしまったのだ。
事態に気付いた瑞葉も急いで手を伸ばしたが、間に合わない。付喪神は、崖の向こうに消えた。
「慌てて崖の下へ降りてみれば、そこに付喪神の姿はなかった。あったのは、彼の本体と思われる、破損した本だけ……」
本を破損すれば、付喪神は怪我をする。破損が大きくなれば怪我は重くなり、場合によっては付喪神としての姿を保てなくなる。付喪神の姿が消えたということは、彼の命が風前の灯火になっていることの現れだった。
「起こってしまった現実を直視して、私はようやく自分の傲慢さに気が付いたよ。相手を一方的に責め立てるだけだった私は、正義を振りかざす自分に酔っていただけだった。正論を盾にして、自分本位に振る舞っていた。私自身も、神としての自覚に欠ける者の一人だった、とな」
当時の自分を振り返り、瑞葉が自嘲的な笑みを浮かべる。
壊れた本を前にして、当時の瑞葉は立ち尽くした。相手が堕ちた悪辣な神であったなら、彼は何の躊躇いもなく自業自得と切り捨てていただろう。だがこの付喪神は、少なくとも自分の非を認めていた。それをわかっていながら、瑞葉はこの付喪神に対し、さらに追い打ちをかけてしまった。自分の側からの合理性だけを押し通し、相手の心情を思いやることができなかった。その結果として、こんな事故を起こしてしまった。
本を抱きかかえた瑞葉は、すぐにその場を後にした。頭に浮かんだのは、九重の土地神のあっけらかんとした笑顔だ。ばつが悪いなんて言っている暇はない。今は、自分の未熟さで傷付けてしまったこの付喪神を救うことが先決だ。
疾風のごとくいくつかの町を駆け抜け、瑞葉は二百五十年ぶりに九ノ重神社へとやってきた。
「ただ、そこに土地神の姿はなかった」
瑞葉は語る。立派な社殿が建った九ノ重神社からは、あの土地神の存在を感じ取ることができなかった。祭神である、より高位の神による加護は感じられるものの、そこはすでに九重の土地神の社ではなくなっていたのだ。
これは、当時の瑞葉にとって大きな誤算だった。当てが外れた瑞葉は、壊れた本を抱えたまま、その場で膝をついてしまった。
九重の土地神がいないとなれば、もう頼れるのは高天原の神だけだ。しかし、次に高天原への門が開くのは、数か月後。せめて応急処置の一つでもできなければ、その神のもとに辿り着く前に、件の付喪神の命が尽きてしまうだろう。
そうなれば、自分のせいで傷付いてしまった付喪神を救うことができない。自身の本が傷付いた時とは比べ物にならない痛みが、瑞葉を襲った。
だがその時、おかしなことが起こった。ふと、九重の土地神と似た気配を感じたのだ。膝をついたままの瑞葉が呆然と振り返ると、そこには小さな男の子を連れた一人の女性が立っていた。
「……それがサエと、まだ幼かった洋孝だった」
ずっと辛そうに顔をしかめていた瑞葉が、ふわりと表情を和らげる。
「あとはもう、頭で考えるより先に体が動いていてな。私は、藁にも縋る思いでサエの前に跪いた。目を丸くするサエに、力を貸してくれ、と頼み込んだのだ」
九重の土地神と似た気配を持っているといっても、相手は明らかに人間だ。当時の瑞葉であれば、このようなことは絶対にしなかっただろう。
しかし、この時の瑞葉にとって、その女性の存在は絶望の中で見た一筋の光だった。
唐突に助けを求められても、気味悪がられるだけかもしれない。いや、仮に協力を得られても、彼女には何もできないかもしれない。それでも、今は彼女に賭けるしかない。諦めかけていたところに現れた最後の希望に、瑞葉は全身全霊をかけて助けを乞うた。
それに対する彼女の返答は、本当に単純なものだった。
『なんだかよくわからないけど、わかったわ。あたしに任せなさい』
瑞葉に顔を上げさせた彼女は、どんと胸を叩きながら気楽に笑ってみせた。そう、かつての九重の土地神のように……。
状況は予断を許さないままであったが、瑞葉の絶望感は自然と薄らいだ。きっと何とかなる。そんな根拠のない確信が、瑞葉の中に満ちていったのだった――。