「なるほどね~。で、嬢ちゃんは打倒|祖母さん、打倒瑞葉に燃えているわけか」
事の顛末を聞いた蔡倫が、愉快と言いたげな口調で感想を述べた。ここ二週間ばかり別の地方の付喪神を訪ねていた蔡倫は、土産を持って久しぶりの来店だ。顔が広い蔡倫は吟のことも知っているらしく、「面白そうなもんを見逃しちまったぜ」と悔しそうである。
なお、菜乃華は「別に打倒したいわけでは……」と困ったように苦笑している。
「菜乃華さん、頑張ってください。僕は、菜乃華さんを応援しますよ!」
「な~お」
一方、こちらは例のごとく遊びに来ていた柊とクシャミだ。すでに事情を知っている彼らは、思い思いのエールを送ってくる。柊に至っては「菜乃華さんファイト!」と書かれたハチマキまで付けているので、その応援はうれしいを通り越して恥ずかしい。
以前、彼は菜乃華を振り向かせると言っていたが、そのための方法がこれだとしたら、色々と全力で間違っている。完全に迷走している。慎ましやかにお土産を持ってくるだけだった頃の彼が、非常に懐かしい。
「……なあ、柊。お前さん、一体どこに行きつくつもりなんだ」
「どういう意味ですか、蔡倫さん」
「いや、何でもない……」
柊の変貌ぶりに、さすがの蔡倫も呆れて何も言えない様子だ。できれば諦めずに粘り強く説得してほしかった。
「それで嬢ちゃん、装飾は置いとくとして、箱作りの方は問題なくできそうなのかい?」
「昨日までに何度か練習したので、たぶん大丈夫です」
菜乃華が言うと、柊が自慢げに夫婦箱を取り出して、蔡倫に見せた。ちょうど良かったので、柊とクシャミの本で練習をさせてもらったのだ。柊用が緑の水玉模様で、クシャミ用が黄色の水玉模様となっている。コンビで色違いのお揃いである。柊からは、「家宝にして、一生大事にします!」と泣いて喜ばれた。
ともあれ、柊たちの分を含めてそこそこの数の夫婦箱を作ってみたおかげで、コツは大体つかめた。昨日の内に吟の夫婦箱に使う布も買ってきたので、あとは作るだけだ。
ちなみに本日は十一月三日、文化の日。学校も休みのため、急な依頼さえなければ、夫婦箱作りに一日当てられる。今日中に夫婦箱を作り、明日一日糊を乾かして、明後日の日曜日に届けに行く予定だ。
「よし! 部品の切り出し、完了!」
蔡倫に事情を話している間に、ボール紙の切り出しも終わった。
「瑞葉、サイズ間違ってないよね」
「見ていた限り、サイズは問題ないはずだ。形の方も……きちんと長方形になっているし、これなら組み立てた時に箱が歪むこともないだろう」
三角定規で角を計測した瑞葉が、ポンと菜乃華の肩を叩いた。
九月のあの出来事以来、瑞葉との距離感が少し変わったと思う。あの出来事のおかげというと少し不謹慎かもしれないが、あれ以来、お互いに少しだけ気安さが増した。菜乃華としては、店主と店員という関係から、一歩前進できたという感じだ。それに、神様と人間だからとか、そういう逃げの言い訳も考えなくなった。
もっとも、現状はそこで足踏み状態となっている。あれからの一カ月半、菜乃華からはこれといった行動を起こせず、もちろん瑞葉からのアクションもなく、片思いを実らせられるような進展はない。さらに距離を縮めていきたい菜乃華からすると、何とも歯がゆいところである。
ただ、ここで焦りは禁物だ。幸いなことに、瑞葉の周りには菜乃華以外の女性の影はない。つまり、今のところ菜乃華に恋のライバルはいないということである。
ならば、じっくり長期戦の構えで行けばよい。二人の時間を積み重ねて、自然とそういう関係になっていく。これが現状考えられるベストアンサーである。……というか、恋愛初心者かつ奥手でチキンな菜乃華には、それしか取れる方法がない。もちろん告白なんて、もっての外だ。そんなもの、実行前に心臓発作を起こして倒れてしまうだろう。
そう考えると、柊はすごいと言わざるを得ない。柊に告白された時と、それからの日々を思い返す。告白時の思い切りの良さとその後のなりふり構わない様は、菜乃華も少し見習うべきかもしれない。
横目でこっそりと柊の方を見る。彼はカバンから、手作りと思われる応援団扇を取り出していた。視線を手元に戻す。あれは見本にも手本にもしてはいけないと悟った。
「どうかしたか、菜乃華」
「何でもない。さあ、続き、続き!」
瑞葉に晴れやかな笑顔で返答しながら、作業の続きに取り掛かった。
夫婦箱は本を収納する側と蓋となる側のケース、そして二つのケースをつなぎ合わせる表装の三つのパーツからなる。
まず組み立てるのは、二つのケースだ。本を収納する側と一回り大きな蓋側のケースをそれぞれ組み立てていく。
「夫婦箱の名前の由来って、この二つのケースがぴったりと合わさる様からきているんだっけ? 素敵な由来だよね」
「素敵、か……。その発想はなかったな」
「え~。瑞葉、それはちょっとロマンス成分が足りてないよ」
接着剤が固まるのを待ちながら、菜乃華は瑞葉と取り留めもない会話を交わす。こういう何気ない会話をたくさん重ねることが、長期戦では大事だと思う。
接着剤が乾いてケースの形が固まったら、ケースの内面全体と外側の側面を覆うように、布を貼っていく。布に皺が寄ってしまったり、ボール紙から浮いてしまったりしないよう、十分に気を遣って行う。
「上手に仕上げるコツは、ヘラを使ってケースの角や隅にきちんと布を接着すること、だよね」
「そうだ。使う相手のことを思って、丁寧に。修復と同じで、それが基本だ」
真剣な顔で呟く菜乃華に、瑞葉も微笑みながら相槌を打つ。
ケースを覆う布のカラーは、明るめのベージュである。ふんわりと柔らかい、本を優しく包み込んでくれるような色合いだ。
「うん、上出来、上出来」
瑞葉にアドバイスをもらいながら、作業すること幾ばくか。予想していたよりもいい感じに仕上がって、菜乃華も満足げに頷いた。
再び接着剤がある程度乾くのを待ち、二つのケースを重ね合わせてみる。抵抗なくすんなりと、しかし隙間なく二つのケースが重なった。おそらく、これまでで一番良い出来だ。これなら使い勝手も悪くないだろう。店主としてもらっている給料をつぎ込んで練習用の材料を買い、失敗も含め、何度も練習した甲斐があった。
「実践を重ねるごとにうまくなっていくな。最初の頃とは雲泥の差だ」
「最初に作ったやつは、両方のケースが同じサイズになっちゃってたもんね。やっぱり、最初から全部一人でやってみるのは失敗だったよ。ケースの上にケースがぴったり載っちゃった時は、開いた口が塞がらなかったもん」
「ああ。確かに、あの時の君の顔は面白かったな。思わず笑ってしまったよ」
「あー、ひどい! わたしは一生懸命やっていたのに、瑞葉は後ろで笑ってたんだ」
「すまない、許してくれ。君がいつでも懸命なのは、私もよくわかっているよ。それにこれだけの箱を作れるようになったなら、そう遠くない内に他の夫婦箱作りの依頼も任せられそうだ」
「本当!? そしたらわたし、頑張っちゃうよ」
こんな軽口を叩き合えるようになったのも、気を許せる間柄になってきたからだろう。
ともあれ、瑞葉からもお褒めの言葉をもらい、菜乃華のテンションが跳ね上がった。もう何でも来いといった心境だ。
気分が良いまま、次の作業に移る。ケースの組み立てが終わったら、次に作るのは表装だ。
「表装に使うボール紙のパーツって、ちょうどハードカバーの表紙と同じ構成だよね。ケースの底と合わせる部分が表紙・裏表紙って感じで、その間にある箱の厚さ分の細長いボール紙が背表紙」
「正しくその通りだ。表装の作り方は、くるみ製本の表紙の作り方とほぼ同じだからな」
口にした通りの並び順で、菜乃華はパーツを表装用の布の上に並べていく。表装に使用する布は、白地にパステルピンクのギンガムチェック柄にしてみた。パーツを布で包むように接着し、完成時にボール紙が見えないようにする。
最後に二つのケースの底の外側に接着剤を塗り、表装と合体させれば、夫婦箱の完成だ。
「よし、できた!」
大きく息を吐きながら、額にうっすらと浮かんだ汗を拭う。十一月にもなって汗をかいてしまったあたり、自分でも思っていた以上に集中していたようだ。
もっとも、その集中力のおかげでいい仕事ができた。完成した箱を見下ろし、菜乃華は満足げに頷く。ケースの噛み合わせがうまくいった時から予感していたが、これなら商品として出しても申し分ないと思う。
ただ、吟に気に入ってもらえるかは、どうだろうか。吟は「菜乃華らしい夫婦箱を作って」と言っていた。そういう意味では、個人的に少しだけ物足りない気が……。
「あ、そうだ」
余った表装用の布に目を止め、ポンと手を打つ。
「瑞葉、ごめん。ちょっと外に出てくるね」
「外に? どうかしたのか?」
「ちょっと追加の買い出し。すぐ戻ってくるから」
瑞葉に答えつつ、帳場の手提げ金庫から百円玉を一枚取り出す。これだけあれば、十分だろう。百円をポケットに入れ、神田堂を後にする。
路地を駆け抜け、ここのえ商店街に出たら、近くの駄菓子屋に飛び込んだ。
小さい頃から通い慣れたお店だ。目的のものは、すぐに見つかった。ただ、思っていたよりも形に色んな種類がある。ハートや貝殻といったオーソドックスなものから、珍しいものだとベルの形をしたものまで。これだけ選びたい放題だと、逆に迷ってしまう。
「箱を開けた時のことを考えたら、できるだけ平べったいものの方がいいかな。色は、表装の布に合わせて……」
独り言をつぶやきながら五分間熟考し、厳選した一つを手に取る。店番をしていたおばちゃんにお金を払い、菜乃華は神田堂へ取って返した。
「ただいま!」
「おかえり。何を買ってきたのだ?」
「ん? これだけど」
不思議そうに首を傾けた瑞葉に、買ってきたものを見せる。それは、四つ葉のクローバーの形をした宝石のようなものだった。
瑞葉は難しい顔で眉根を寄せながら、さらに首を傾げる。
「なんだ、これは?」
「何って、アクリルアイスだよ。アクリルでできたおもちゃの宝石」
瑞葉の珍しい表情を堪能しつつ、買ってきたものの正体を告げる。菜乃華が買ってきたのは宝石のおもちゃ、いわゆるアクリルアイスやアクリル宝石と呼ばれるものだ。
「ほう。初めて見た」
「へえ、そうなんだ。ちょっと意外」
菜乃華の手からクローバーをつまみ上げ、瑞葉が物珍しそうに光にかざす。その瞳は、未知のものに触れて心をときめかせる、少年のような好奇心で満ちていた。
瑞葉が初めて見せた表情に、菜乃華も自然と心を弾ませる。
「おもちゃでも、結構よくできているでしょ」
「ああ。とてもきれいだ」
瑞葉の何気ない一言に、菜乃華の心臓が大きく跳ねた。その穏やかな声音での「きれいだ」は、反則だと思う。自分に向かって言われた言葉ではないとわかっていても、思わずときめいてしまう。
何やら居間から歯ぎしりするような音がしたが、聞こえなかった振りをする。アイドルの追っかけみたいな恰好をした青年なんて、知りません。
「夫婦箱の装飾に、もう一工夫しようと思ってね。駄菓子屋さんで買ってきちゃった」
瑞葉からアクリルアイスを受け取り、菜乃華は再び作業台の前に立った。材料も揃ったので、作業再開だ。
何かに使えるかもと持ってきておいたピンクのリボンとピンキングハサミを使って、小さなリボンの花を作る。クローバーのアクリルアイスは、結び目部分のアクセントとしてあしらった。
「ほう、うまいものだな」
「前に、家庭科部の友達に仕込まれてね。今では、目をつぶっていても作れるよ……」
感心した様子の瑞葉に向かって、菜乃華が力なく笑う。
家庭科部の友達とは、もちろん唯子である。今年の文化祭の直前、「ちょっと手伝え!」と家庭科室に連行され、延々とこのリボンの花作りを手伝わせられたのだ。あの夜は、夢の中にまでリボンが出てきて大変だった。
ともあれ、リボンの花を接着剤で表装にくっつければ、ワンポイントの完成だ。どこかのっぺりとした印象だった表装に、立体感が生まれた。できるだけかさばらないように作ったから、箱を開いた際も、それほど邪魔にはならないだろう。
「これでよし!」
表装にアクセントをつけたことで、菜乃華の中にあった物足りなさもなくなった。吟に気に入ってもらえるかは相変わらずわからないが、自分らしさという点ではこれで文句なしだ。
「できたか。お疲れ様、嬢ちゃん」
菜乃華が道具の片付けを始めようとすると、蔡倫が土間に出てきた。その後ろに、柊とクシャミが続く。
「可愛らしい箱ですね。女の子らしくて、すごくいいと思います!」
「ありがとうございます、柊さん。それと、いい加減そのハチマキと団扇をしまってください」
アイドルの追っかけのような姿のまま力説する柊を、菜乃華も満面の笑顔でバッサリと切り捨てた。そんな恰好のままでは、どんなにいいことを言われても、まったく心に響かない。柊への好感度ダダ下がり状態の菜乃華は、もはやオブラートに包むこともなく本音で要求をぶつける。ある意味、ここまで本音をぶつけられる付喪神は柊だけである。恋愛的好感度は、そろそろ最底辺だが。
「これですか? あ、もしかして法被とかの方が、僕の気持ちが伝わりますかね」
「そんなもの着てきたら、翌日から出禁にしますからね」
しかし、相手は恋に現を抜かして迷走一直線の柊だ。斜め上を行く思考で、とんでもない剛速球を返してきた。本当に法被を着てこられたら適わないので、速攻で釘を刺しておくが……どれだけ効果があることやら。
菜乃華がどっと疲れた様子でため息をついていると、蔡倫が手際よく片付けを進めていた瑞葉に声を掛けた。
「時に瑞葉、この箱は日曜日にお前らで届けに行くんだよな」
「ああ。それがどうかしたか?」
「いや、吟の家って確か高峰村(たかみねむら)だろう。時期としてはちと早いだろうが、そろそろ紅葉がきれいだろうなと思ってな」
おとがいに手を当てた蔡倫が、思い出すように言う。
高峰村は、ここ九重町からさらに北、二つ町を超えた先にある山間の小さな村だ。十一月ともなれば紅葉が見頃を迎え、山々がさぞ綺麗に色付いていることだろう。
瑞葉と蔡倫の会話を横から聞きながら、菜乃華は思う。考えてみれば、これはまたとないチャンスだ。瑞葉は基本、道具や消耗品の買い出し以外では店を離れないから、一緒に出掛ける機会は今までなかった。けれど、今回は配達のついでという名目が立つ。
瑞葉と紅葉を見に行けたら、どんなに素敵だろうか。紅葉した木々の下に立つ自分と瑞葉の姿を想像する。「きれいだね」「ああ」とか会話しながら、二人で唐紅の景色の中を歩くのだ。雄大な自然の中で一気に心の距離を縮める二人。流れで手なんか握ってしまうかもしれない。そして、一際大きな楓の木の下で見つめ合った二人は顔を寄せ合い……。
「いいかも……」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、そっと呟く。場面を想像しただけで、幸せのあまり頬が緩んでしまった。
なお、妄想で幸せいっぱいの菜乃華は気付かなかったが、隣では柊も同じような顔をしていた。考えることは同じである。
「実はオイラ、あの辺の穴場のスポットをいくつか知っているんだ。どうだい、配達がてら弁当でも持って、みんなで紅葉狩といかねえか?」
「いや、私たちは遊びに行くわけではなくて……」
「いいですね、紅葉狩!」
「僕も賛成です!」
真面目一辺倒な瑞葉の声を遮り、菜乃華と柊が勢いよく賛同を示した。
ナイスな提案だ。さすがは蔡倫、グッジョブである。この提案を通せば、瑞葉を誘うという高過ぎるハードルを難なく回避できる。渡りに船とはこのことだ。
できれば二人きりでデートといきたいところだが、それはそれ。みんなでの紅葉狩も賑やかで楽しいし、何よりいきなり瑞葉と二人きりは菜乃華も緊張する。みんなで騒ぎながら、緊張もほぐれたところで少し瑞葉と二人きりになる時間を作る。先程の妄想のように劇的な展開は望めないだろうが、現実路線ではここら辺が無理のない落とし所だろう。
よって、今一番大切なのは、瑞葉と一緒に遊びに行く機会を得ることだ。使える状況は、何でも使う。菜乃華は(そしておそらく同じようなことを考えている柊も)全力で蔡倫のアイデアを支持し、瑞葉の説得に掛かった。
「ねえ、瑞葉。お仕事も大事だけどさ、たまには羽を休めようよ。わたし、頑張ってお弁当作るからさ。腕によりをかけたやつ!」
「あ、それじゃあ僕は、デザート作ります。こう見えて、お菓子作りは得意なんですよ!」
「いいですね! すごく久しぶりに見直しましたよ、柊さん。任せました。瑞葉もいいよね!」
「お、落ち着け、菜乃華。柊も。いきなりどうしたのだ」
ただ、相手は『真面目の権化』と名高い瑞葉だ。菜乃華と柊の連携波状攻撃に面食らいながらも、なかなか折れない。さすがだ。
しかし、勢いは菜乃華たちにある。一人で瑞葉を誘う勇気はない菜乃華でも、この勢いとついでに柊の力を借りれば、押し切ることは不可能じゃない。
菜乃華はこの流れを切らさないよう、さらに押し込むように続ける。
「瑞葉、知ってる? 日本の法律では、従業員をきちんと休ませないと、経営者は罰せられちゃうんだよ。瑞葉が紅葉狩に来てくれないと、わたし、警察に捕まっちゃうんだから!」
「いや、待て。休むことと紅葉狩は別では……」
「瑞葉さん……菜乃華さんが逮捕されることになったら、九ノ重神社で丑の刻参りしますよ。僕の怨念の限りを尽くして、呪い倒します」
「あ、それはやめてください。うちの神社、呪いはお断りなんで。やったら絶交です」
「わかりました、やめます」
「素直でよろしいです」
「……何をやっているのだ、君たちは」
「ごめん、話が逸れた。では、改めまして……瑞葉、お願い! 今回は、わたしの我が儘に付き合って!」
よくわからない理論を瑞葉に押し付け、柊に冷静なツッコミを入れつつ、最後は勢いのままに拝み倒す。もはや、色々とぐだぐだである。
それでも、菜乃華の三連コンボは一応効果があったようだ。瑞葉は根負けしたようにため息をつき、「仕方ないな……」と漏らした。
「わかった、付き合おう。日曜日は、店を臨時休業にしておく」
「本当に!? ありがとう、瑞葉」
両手を合わせて必死に拝んでいた菜乃華が、驚きと喜びが混じった笑顔でガッツポーズをする。そのまま勢い余って、柊とハイタッチだ。相当舞い上がっている。
一方、成り行きを面白おかしく見守っていた蔡倫は、肘で軽く瑞葉を小突いた。
「いや~、随分と面白いものを見させてもらったぜ。天下の瑞葉様が、ここまで見事に押し切られるとは……。お前さん、あの嬢ちゃんにはとことん甘いな」
「うるさい。菜乃華は、店主としての務めを感心するほどよく果たしてくれている。労いのために我が儘の一つくらい聞いて、何が悪い」
「悪いなんて言ってねえよ。ただまあ、もう少し素直になれ、とは思うがな」
蔡倫が窺うように言うと、瑞葉は何も答えずに腕を組んだまま目を伏せた。
古い付き合いである蔡倫にはわかる。これは、図星というか痛いところを突かれた時の瑞葉の癖だ。最近はとんと見なくなっていたが、経験上、こうなったら瑞葉はもうこの話題を取り合わないだろう。蔡倫は、やれやれと肩を竦めた。
「なんにしても、久しぶりの行楽だ。日曜日が楽しみだねえ」
賑やかだったり、だんまりを決め込んだり。様々な感情が行き交う神田堂の中を見回して、蔡倫は愉快に独り言ちた。
日付は飛んで、十一月五日、日曜日。両親よりも早い朝の四時半に起きた菜乃華は、家の台所でせっせとお弁当の準備を始めていた。
「瑞葉に食べてもらうんだから、おいしいものを作らなきゃ!」
今日のお弁当で、何としても瑞葉の胃袋を掴んでみせる。気合と共に腕まくりをして、昨晩に下拵えしておいた食材などを冷蔵庫から取り出した。
今日のメニューは、おにぎり、エビフライ、鶏の唐揚げ、玉子焼き、アスパラのベーコン巻き、ポテトサラダ、彩りを与えるためのプチトマト、そして筑前煮だ。
特に筑前煮は瑞葉の好物なので、絶対に失敗できない。いや、失敗しないのは当然として、祖母のものよりおいしい筑前煮を作らなければならない。
食材を前に、調理の手順をもう一度頭の中で思い起こした。修復も料理も、大切なのは分量や手順を間違えないことだ。きちんとしたイメージのもと、食材に手を伸ばす。
その時、不意に後ろから、「朝から気合入っているわね」と声が掛かった。
「本当にもう、いつの間にかすっかり恋する乙女になっちゃって」
「お母さん! あれ、何で?」
台所の入り口に立っていたのは、母だった。菜乃華は驚きのままに壁時計を見るが、時間はまだ五時より前だ。母がいつも起きる時間は、まだ先のはずである。
「娘の恋路を応援するのは、母親の責務です。瑞葉においしいお弁当を食べてもらいたいんでしょ。揚げ物系は私の方でやってあげるから、あんたは煮物をきっちり作って、しっかりアピールしてきなさい」
「恋路って……お母さん、何で知ってるの!?」
「むしろ、今まで気付かれていないと思ってたわけ? それは、親を舐め過ぎよ。何年、あんたの母親やってると思ってんの。もう何カ月も前から、相手までバレバレよ」
あんぐりと口を開ける娘を尻目に見つつ、手早くエプロンをした母が、海老と唐揚げ用に下味をつけておいた鶏肉を手に取る。
この台所の主だけあって、動きがこなれていて機敏だ。純粋に心強い。本当なら全部自分で作りたいところだが、今は瑞葉においしいお弁当を振る舞うことが最優先なので、有り難く助力を頂戴しておくことにする。
「ちなみにあんたたち、どこまで進んでるの? もうキスくらいはした?」
「――ッ!!」
いきなりかまされた思いがけない質問に驚き、持っていたこんにゃくをつるりと落としかけた。
慌ててこんにゃくをまな板に置き、何食わぬ顔で衣の準備をしている母を睨みつける。
「何言ってんの! キスなんてしてないよ!」
「なるほど。その様子だと、告白もまだか……」
泡を食って捲し立てる娘の姿に、母がこれ見よがしにため息をついた。
「お父さんに似て、本当に奥手なんだから。我が娘ながら情けないわ。あんた、九月に倒れて神田堂に一泊していたじゃない。なんでその時に告白して決めなかったの。弱っているところを見せて誘い込めば、一発だったでしょうに」
「な! ななな……!」
「もしくは、せっかくお店で二人きりなんだから、隙を見つけて押し倒しちゃえばいいのよ。既成事実は何にも勝る武器よ。何なら、今から試してきなさい」
「お、おおお、おしおし……!」
母から繰り出されるとんでも発言のオンパレードに、菜乃華の頬が真っ赤に染まる。頭は真っ白になって、呂律が回らない。完全にオーバーヒート状態だ。
そんないっぱいいっぱいの娘を、母はにんまりと意地悪く笑って見つめている。娘の反応を楽しんでいる顔だ。
母の表情に気付いたことで、菜乃華もようやく正気を取り戻した。そして、恨みがましい目で再び母を睨みつけた。
「娘になんてこと勧めてんのよ。それが親の言うこと!?」
「親だから、可愛い娘のためを思って言ってあげてるんじゃない。いい? 相手が神様だからって、遠慮しちゃダメよ。男が狼なら、女は狩人なんだからね。私の娘なら、狙った獲物はきちんと仕留めてきなさい。私も、そうやってお父さんをゲットしたんだから」
「お母さん、お父さんに何をしたの……」
呆れ果てて、思わず頭を抱えてしまった。
菜乃華の両親は、父五十五歳、母四十五歳の年の差婚だ。一体どんな恋愛をしていたかとずっと気になっていたが、まさか母がここまでアグレッシブな肉食系だとは思わなかった。というか、こんな捕食関係のような馴れ初めなら聞きたくなかった。
そんな娘の心情なんて、なんのその。母はマイペースに唐揚げの衣の準備を始めた。
「さあさ、無駄話はこれくらいにしましょう。これだけの量、ちゃっちゃと作っていかないと、約束の時間に遅刻しちゃうわよ」
「誰のせいで手が止まったと思ってんの! お母さんのバカ!」
「ヘタレ娘にバカ呼ばわりされるのは心外ね。悔しかったら、彼氏の一人や二人、さっさと連れて来てみなさい。お赤飯炊いて待っててあげるわよ」
ああ言えば、三倍にされてこう言われる。口では敵わないと悟り、さりとて悔しさは募り、心の中で地団太を踏む。
菜乃華は母の助力を受けたことを早速後悔しながら、荒々しく鍋をコンロに掛けるのだった。
色々と思うところが多いというか、納得いかないところも多いが、母の助けのおかげで、お弁当は無事に作ることができた。それも、菜乃華一人で作るよりも、明らかにおいしそうに……。それが余計に悔しいが、何はともあれ出かける準備を整える。
姿見の前で、最後のチェックだ。まずは服装。上は赤のタートルネック、下は明るいブラウンのハーフパンツに黒のレギンスだ。動きやすさを重視しつつ、おしゃれにも気を遣ったコーディネートである。あと、冷えることも考えて、念のため厚手のパーカーも持っていく。メイクはいつも通りナチュラルを心掛けるが、瑞葉と初めての遠出なのだ。化粧品は、お小遣いをはたいて買った特別な一品を使う。格好・化粧共に少し気合が入り過ぎているかとも思ったが、これくらいは許容範囲だろう。
「よっしゃ! オッケー!」
格好は決まった。いざ行かん。歩きやすいスニーカーを履いて、お弁当を詰めた重箱を手に外へ出る。
「菜乃華、もう出かけるのかい?」
「うん。行ってきます、お父さん」
「ああ、行ってらっしゃい。車に気を付けてな」
境内にいた父に軽く手を振り、鳥居をくぐってここのえ商店街に向かう。
目の上に手をかざして空を見上げれば、雲一つない晴れ渡った青が広がっていた。気温も湿度も程よい感じで、正に行楽日和というやつだ。踊るように足取り軽く、商店街の石畳を歩く。
いつもの迷路小路に入ってからは、お弁当を壁にぶつけないよう気を付けて進む。そうしたら、最後の角を曲がったところで、箒を手にした瑞葉と鉢合わせた。
「おはよう、菜乃華。足音がしたと思ったら、やはり君か」
「お、おはよう、瑞葉」
どうやら店の前の掃除をしていたらしい瑞葉が、穏やかに微笑む。菜乃華はその顔を、まともに見ることができなかった。
原因は言わずもがな、母のいらない入れ知恵だ。不意打ち気味に瑞葉と顔を合わせた所為で、心の準備ができないまま、母の言葉を思い出してしまったのだ。
「どうかしたか。顔が少し赤いが……」
「ううん、何でもない。気にしないで」
心配そうに顔を覗き込んできた瑞葉に、大丈夫だと首を振る。さすがに、母から「押し倒してこい」と言われて、まともに顔が見れませんでした、とは言えない。
「それより、蔡倫さんたちはもう来てるの?」
「――今、来たぜ」
「おはようございます、菜乃華さん、瑞葉さん!」
菜乃華が瑞葉に尋ねたちょうどその時、背後から声がした。振り返ってみれば、手を上げた蔡倫と、その後ろに手荷物を持った柊、そして「な~お」と鳴くクシャミがいた。
「みなさん、一緒だったんですね」
「オイラたちも、すぐそこで鉢合わせたんだ。どうやら、グッドタイミングだったみたいだな。んじゃ、早速行くとするか」
「でも、どうやって高峰村まで行くんですか。さすがにバスや電車じゃないですよね。クシャミちゃんはぬいぐるみとか言い張ればいいかもしれませんけど、蔡倫さんはさすがに無理でしょうし」
「心配すんな、嬢ちゃん。ちゃんと、移動手段は確保してある」
首を傾げる菜乃華の前で、蔡倫が空に向けって人差し指を向ける。菜乃華が不思議そうに指差された方向を見上げると、そこには空飛ぶ牛車が止まっていた。
あまりにも非現実的な光景に、菜乃華は開いた口が塞がらなくなった。
「何ですか、これ……」
「朧車ってんだ。神様専用のタクシーみたいなもんだな。もちろん、オイラたち神様と無関係な人間には見えてねえぜ」
蔡倫の声を聞きながら、空の上の牛車を見入る。サルの坊さんである蔡倫や神力など、これまで色々とファンタジーなものを見てきたが、これは過去最大級の衝撃だ。
「でも、どうやってあれに乗るの? あの大きさだと、ここに降りてこられないよね」
「心配するな。ここから飛び乗ればいいだけだ」
瑞葉が、疑問符を浮かべる菜乃華の肩に手を置いた。どうやら菜乃華が蔡倫と話している間に、支度を整えてきたらしい。手に持っていた箒はなくなり、代わりに夫婦箱が入っていると思しき風呂敷包みを持っている。
もっとも、菜乃華にとってはそんなことより瑞葉の言葉の方が気になった。
「飛び乗る? 瑞葉、飛び乗るって、どういう……」
「こういうことだ」
怪訝な顔をする菜乃華を、瑞葉がひょいっと抱きかかえた。いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「み、瑞葉!?」
「あまりしゃべらないほうがいい。舌を噛むぞ」
「え? え? どういうこと?」
真っ赤な顔でオロオロする菜乃華に微笑みかけ、瑞葉が空を見上げる。そのまま彼は、タン、という軽い足音を響かせ、空に舞い上がった。
何かを考える暇もない。一瞬の浮遊感の後、気が付けば菜乃華は、瑞葉に抱えられたまま畳が敷かれた朧車の中にいた。
「大丈夫か、菜乃華」
「うん、平気……」
お姫様抱っこしてもらった幸せと驚きに茫然自失しながら、畳の上に降ろしてもらう。
すると、後ろから蔡倫とクシャミを抱えた柊も牛車に乗り込んできた。
ようやく思考が追いついてきたが、どうやら高く飛び跳ねて乗り込んだらしい。さすが神様というべきか、人間ではありえない身体能力だ。付喪神という存在の常識外れぶりを再認識した。
「そんじゃ、行くとするか。頼むぞ、朧車」
蔡倫が声を掛けると、朧車は空中を滑るように進み始めた。
神田堂一行の行楽旅行は、こうして店主の驚きの中で幕を開けたのだった。
「あー、緊張する……」
「落ち着け、菜乃華。別に取って食われるわけではないのだ。この間会った時と同じように、普通にしていればいい」
「それはわかってるけど……。それでも、自分の作品を評価してもらうと思うと、やっぱり緊張する~」
夫婦箱が入った風呂敷を胸に抱いたまま、緊張のあまり天を仰ぐ。今、菜乃華と瑞葉が立っているのは高峰村の最奥、他の民家から少し離れたところにある一軒家の前だ。吟の家である。元は彼女の本の持ち主が住んでいたそうだが、その人が亡くなってからは吟が一人で暮らしているらしい。
蔡倫たちには朧車で待っていてもらい、菜乃華は瑞葉と二人で吟の家を訪ねていた。
「大丈夫。君は神田堂の名に恥じない夫婦箱を作った。私が保証する。自信を持って行け」
「うん……」
瑞葉に背中を押され、緊張に固まったまま呼び鈴を鳴らす。しばらく待つと、家の中から足音と共に「はいはい」という声が聞こえてきた。
「あら、いらっしゃい、店主さん。待っていたのよ」
「こんにちは、吟さん」
玄関先に出てきた吟が、満面の笑みで菜乃華たちを迎える。お誕生日会で友達が来るのを待っていた子供のようだ。
菜乃華も、強張りそうになる顔に精一杯の笑顔を浮かべ、吟に頭を下げた。
「ご注文いただいた品物を持ってきました」
「はい、確かに」
菜乃華が差し出した風呂敷包みを、吟はうれしそうに受け取った。
「開けてもいいかしら?」
「ええ、どうぞ」
吟から向けられる期待の眼差しに、今度は緊張を隠せないままに頷いてしまった。
そんな菜乃華の前で、吟はプレゼントの包装紙を開けるように、手に持った包みを大事そうに広げていく。そして、現れた夫婦箱を驚きの表情でまじまじと見つめた。
「あらあら。これはまた、随分と可愛らしい箱が出てきたわね」
「……お気に召しませんでしたか?」
緊張から一転、不安げな声で菜乃華が訊く。驚く吟の顔を目の当たりにして、自分のデザインが吟の趣味に合わなかったのかと思ったのだ。
一方、表情を曇らせた菜乃華とは逆に、吟は「とんでもない」と軽やかに首を振った。
「一目で気に入りましたよ。特にこの飾りのリボン、とても素敵。結わえ付けてあるのは、クローバーかしら」
「はい。四つ葉のクローバーは幸せを呼ぶと言いますから、吟さんに幸せが舞い込むようにと思って付けました」
菜乃華が答えると、吟は「にくい演出ね」と感心したように唸った。
どうやら言葉の通り、気に入ってはもらえたらしい。不安が一蹴されて、一安心だ。ひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。
「ねえ店主さん、一つ聞かせてくださいな。あなたはどうして、あたしへ納める箱をこのデザインにしようと思ったの?」
安心して少し気が緩んだところに、吟から試すような質問が飛んできた。見れば、吟の表情は悪戯を仕掛ける女の子のようだ。
ただ、この質問は菜乃華も予想していた。もちろん、答えは用意してある。少し驚いたことで回答が頭から飛びかけたが、気を取り直して口を開いた。
「……最初はわたしも、大人っぽい落ち着いたデザインにしようと思っていました。まるで、そうするのが当然であるかのように。けど、途中で友人たちがわたしに気付かせてくれたんです。それは、『わたしらしい』じゃないって」
理由を言葉にしながら、菜乃華は思う。箱のデザインを考え始めた当初は、瑞葉や亡き祖母に勝つことで頭がいっぱいだった。その所為で、考え方が思い切り狭まってしまっていた。瑞葉たちも作ったであろうデザインを考え、彼らと同じ土俵で戦うことばかりを意識してしまったのだ。吟に言われた、「あなたらしい」という言葉を忘れて……。
そんな菜乃華を引き戻してくれたのは、柊とクシャミだった。練習のために作った夫婦箱を、彼らは心の底から喜んでくれた。柊に至っては、オーバー過ぎるくらいに。
その姿を見て、ようやく気が付くことができたのだ。
わたしが目指すべきは、瑞葉たちに勝つことではない。吟に喜んでもらうことだ。そのために、わたしはわたしにしかできない別の切り口を見つけなければならない、と……。
間違いを自覚した菜乃華は、それまでのデザインを捨てて、一から考え直した。
「それでわたし、吟さんと話した時のことをもう一度思い返したんです。その時にふと思い当たったのが、吟さんは時折すごく可愛らしく笑うってことでした。それこそ、大人の女性というよりも女の子みたいに……。その顔を思い出した瞬間、『これだ!』って閃いたんです」
微笑みながら吟を見つめると、吟も菜乃華を見て笑っていた。そう、菜乃華が女の子みたいと評した、あの可愛らしい笑顔だ。
「吟さんのその笑顔にピッタリの箱を作りたい。それなら、いっそのことメチャクチャ可愛い箱にしてみよう。そう思いました。だから、わたしらしく可愛さを追求してみて……最終的にこのデザインにしようと決めました」
話を終え、吟の様子を窺う。
すると吟は、納得したと思しきすっきりとした表情で頷いた。
「そう……。それが、あなたの答えなのね。よくわかったわ」
楽しそうな声音で、吟が呟く。彼女はそのまま、菜乃華の隣に立つ瑞葉へと目を向けた。
「瑞葉さん、今度の店主さんもとても面白い方ね。ユニークで、からかい甲斐があって、孫みたいに可愛くて……そして、とても一途で一生懸命な頑張り屋さん」
「ええ。うちの自慢の店主です」
吟の評価に、瑞葉も自信を持って肯定するように、力強く頷く。
二人のやり取りを横で聞いていた菜乃華は、恥かしそうに頬を染めて俯いた。ただ、その顔に浮かぶのは誇らしげな笑顔だ。二人の言葉がうれしくて堪らない。そう書いてあった。
そんな菜乃華に、吟は優しく、どこか親愛を感じさせる声で語り掛けた。
「店主さん――いえ、菜乃華ちゃん。今日は、素敵な夫婦箱を届けてくれてありがとう。それと、またあなたに夫婦箱の注文をさせてもらってもいいかしら?」
「はい! ぜひ!」
吟からの申し出に、菜乃華の笑顔が弾ける。
また一人、付喪神が自分のことを認めてくれた。また一歩、祖母に近付けた。それがうれしくて、菜乃華は勢いよくお辞儀をした。
「またいつでも、神田堂に入らしてください。吟さんとまたお話しできるのを、ずっと楽しみにしています!」
菜乃華の弾んだ声は、秋の高い空にどこまでも響き渡るのだった。
吟の家を辞した菜乃華と瑞葉は、急いで蔡倫たちが待つ朧車へと戻った。
晴れやかな笑顔で戻ってきた菜乃華を労いつつ、一行が向かったのは、吟の家よりもさらに山奥だ。
「着いたぜ。ここがオイラのお勧め穴場スポットだ」
「おお! 何これ、すごいです。超絶景!」
蔡倫と一緒にすだれの外に顔を覗かせ、辺りを見渡す。そこに広がっていた光景に、菜乃華は目を輝かせた。
蔡倫が一行を案内したのは、森の狭間にある滝の畔だ。轟々と水が流れ落ちる滝の周りを、とりどりに色付いた楓や銀杏の木が縁取っている。滝つぼから川を流れていく赤や黄色の落ち葉が、何とも雅で風流だ。
「ここは山道から少し外れたところにある滝でな。山道付近にはもっと大きな滝もあるから、登山客もわざわざこっちまでは来ない。つまり、貸し切りでこの景色を楽しめるってこった」
どうだ、すごいだろう、という視線を寄こしてくる蔡倫に、菜乃華も全力で頷く。
穴場のスポットとは聞いていたが、こんな絶景を独り占めなんて贅沢過ぎる。さすがは神様、やることが大きい、などと妙に感心してしまった。
神田堂上空と同様に、朧車はここでも地面まで下りることができない。そこで菜乃華は、再び瑞葉にお姫様抱っこをしてもらい、朧車から降りた。一日に何度も瑞葉にお姫様抱っこしてもらえるなんて、なんという役得だろう。これだけでも、紅葉狩に来た甲斐があったというものである。後ろで柊が悔しそうに瑞葉を見ているが……ごめん、やっぱり好きな人のお姫様抱っこの方がいい。
ただ、今日の本番はここからだ。ここから、瑞葉に手料理を食べてもらうという、一大イベントが待っている。母の言葉を真に受けたわけではないが、菜乃華も瑞葉の胃袋とハートを仕留める覚悟でこの場に臨んでいた。
「お腹も空いたし、早速お弁当にしようか。今、レジャーシート敷くね」
「菜乃華さん、手伝いますよ」
「ありがとうございます、柊さん。じゃあ、そっち持ってください」
重箱を瑞葉に持ってもらい、家から持ってきたレジャーシートを柊と協力して河原に敷く。シートの端に石を載せたら、靴を脱いでシートの中心に重箱を広げていった。
程なくして、菜乃華渾身のお弁当がシートの上にきれいに並んだ。
「ほほう。こいつはすげえ。これ、全部お嬢ちゃんの手作りかい?」
シートに座った蔡倫が、並べられた料理を見て感嘆の声を上げた。その隣では、柊が目を輝かせ、クシャミがよだれを垂らしている。
「揚げ物系はお母さんに手伝ってもらいましたけど、他は食材の仕込みから私がやりました。お口に合えばいいんですけど」
紙皿と割り箸を取り出した菜乃華は、ちらりと瑞葉の方を窺った。
シートの一角に座った瑞葉は、穏やかな顔でお弁当を見ている。菜乃華の料理についてどういう感想を持ったのか、その表情からだけでは計り知ることができない。
「さあ、いっぱい食べてくださいね」
「おう! 相伴に預かるぜ」
「いただきます!」
蔡倫と柊が、我先にとおかずへ箸を伸ばす。手早くおかずを自分の紙皿に持った彼らは、二人揃ってまずベーコン巻きにかぶりつき、これまた二人揃って目を丸くした。
「うまいな、これ。ここまで料理が上手いとは、驚きだ。嬢ちゃん、いい嫁さんになるぜ」
「僕、もう死んでもいいかも……」
おかずにがっつく蔡倫と、感涙にむせび泣く柊。揃ってオーバーなリアクションだが、褒めてもらえるのは素直にうれしい。クシャミの分の料理を取ってあげながら、菜乃華は「ありがとうございます」と笑顔で応じた。
だがしかし、菜乃華が一番気にしているのは残る一人の感想だ。渾身の筑前煮を口に運ぶ瑞葉を凝視する。
「どう……かな、瑞葉。おいしい?」
恐る恐る瑞葉に感想を尋ねる。先程から、菜乃華の心臓はドキドキと早鐘のように鼓動を打っていた。早く感想を聞きたいが、聞くのが少し怖い。でも、やっぱり聞きたい。
どんな答えが返ってくるのか緊張しながら待っていると、煮物を味わっていた瑞葉がゆっくりと口を開いた。
「うまい。だが、正直に言えば、味付けはまだサエの方が上だな」
「…………。そっか……」
瑞葉らしい忌憚ない感想に、胸のドキドキが急速に静まっていった。後の残ったのは、寂寥感と敗北感だ。やっぱり自分は、まだ祖母には勝てないらしい。好きな人の一番には、まだなれない。少し、いや、とても残念だ。祖母のことは尊敬している。けれど、どうしても悔しくて、油断すると涙が零れそうになった。
ただ、瑞葉の感想は、それだけでは終わらなかった。
「そう、味付けはサエの方が上だ。……けれど、なぜだろうな。君が作ってくれた筑前煮の方が、おいしく感じる。食べると、なぜか心が温まる」
そう言って、瑞葉はもう一口、筑前煮を食べる。そして、「やはりうまい」とどこか満足げに繰り返した。
瑞葉の言葉を聞きながら、呆けた顔で筑前煮を食べ続ける彼を見る。菜乃華の目から、再び涙が零れそうになった。だがそれは、悔し涙ではない。温かな幸せの結晶だ。
浮かんだ涙を指で掬い、口元に笑みを浮かべたまま、菜乃華は呟く。
「当然だよ。だって……」
だって、誰にも負けないくらい、あなたへの愛情を籠めて作ったから。心の中でだけ、そう付け加えておく。
「ん? 『だって……』、なんだ?」
「ごめん、ここから先は秘密。だってこれは、瑞葉のためのとっておきの隠し味だから」
唇に人差し指を当て、頬をピンク色にしながら、瑞葉に向かって悪戯っぽく微笑む。
今は、ここまで言うのが精一杯。みんながいる前で、まだこれ以上は言えない。
だから代わりに、全力で笑う。自分は今とても幸せだ、と示すように。
「瑞葉、こっちの卵焼きも食べてみてよ。こっちも結構、自信作だから。それから、このポテトサラダも」
「ああ、いただこう」
瑞葉の紙皿にぽんぽんとおかずを載せていく。そんな菜乃華を穏やかに見つめながら、瑞葉は料理を口に運んでいく。そして、その度に「うまい」と呟いた。
こんな幸せな時間が、いつまでも続けばいいのに。自分が作った料理を食べる瑞葉の隣で、そう願わずにはいられない菜乃華だった。
菜乃華の持ってきた重箱を空っぽにし、柊特製のレアチーズケーキも平らげた一行は、のんびりと紅葉と滝のコントラストを眺めていた。
山腹の水辺故に空気が少しひんやりとしているが、柔らかな日差しが体を温めてくれる。
穏やかに過ぎゆく時間。日々の忙しさを忘れ、各々まったりと森林浴を楽しむ。
だが、その静寂は柊の「ああ!」という叫び声で破られた。
「どうしたんですか、柊さん?」
驚いて菜乃華が振り返ると、柊はクシャミを顔の高さまで持ち上げ、絶望に打ちひしがれていた。
「あ、すみません。クシャミの毛皮にデザートがこべりついちゃっていたので、つい……」
「毛皮に?」
言われてクシャミを見れば、確かに顎のところにケーキがべったりと付いていた。どうやら食べている時に汚してしまったようだ。
「これ、水で洗った方が良さそうですね。あっちで流してきましょう」
「そうですね。ほらクシャミ、行くぞ!」
「な~お」
うざったそうにするクシャミを連れて、菜乃華と柊は足早に川の方へと歩いていった。
「若い連中は、賑やかだね~」
彼女らを見送って、蔡倫が笑う。
すると、彼の隣に座っていた瑞葉が、唐突に口を開いた。
「……なあ、蔡倫。私は最近思うのだ。なぜ、九重の土地神がいなくなり、彼女の力をサエたちが持っていたのか。その答えは、とても簡単なものだったのではないかとな」
菜乃華の背中を見守りつつ、瑞葉は自身の言葉の意味を噛み締めるように言う。自身の考えに確信を得つつも、まだその確信の源に戸惑っている様子だ。
そんな瑞葉の姿にようやくかと苦笑しつつ、蔡倫は彼の言葉を継いだ。
「九重の土地神は人の子と恋に落ち、人としての限りある命を得て天寿を全うした。そして、サエや菜乃華――自身の血族にその力を託した、ってか?」
「……気付いていたのか」
「まあ、それなりに昔からな。そんで確信したのは、嬢ちゃんに力が宿っていると知った時だ。こいつはあれだろ。土地神と同じ女の血族にだけ力が宿るってこった」
けけけ、と蔡倫が笑う。その笑い声を聞きながら、瑞葉は一つため息をついた。
「神と人の子が結ばれる話など、過去にはごまんとあった。なのに、私は今までそれに思い至れなかった。情けない話だ」
「まあ、知識として知ってはいても、それを実感として受け止められるかは別問題だ。お前さんは、模範的な神様過ぎた。人の世を乱さずにひっそりと在り続ける。神として、人の間に一線を引く。それを守り続けたお前さんだから、逆に気付けなかったってことさ」
そこまで言い切った蔡倫が、お茶で喉を潤しながら一呼吸置く。
「で、お前さんがそれに思い至ることができたのは、九重の土地神と同じ気持ちを知ったからかい?」
蔡倫の問いに、瑞葉は答えない。ただ、その沈黙は蔡倫の問い掛けを肯定しているも同然だった。
「まあ、神が人の子に惚れるっていうのは、姿かたちではなくその者の魂に惚れたってことだ。外見や年齢は関係ない。それこそ、相手が百歳超えた老人だろうが、赤ん坊だろうがな」
このサルの坊主は、どこまで見透かしているのだろうか、と瑞葉は素直に思う。
ここまで勘付かれているのなら、もう隠しても仕方がないだろう。瑞葉は観念するように言う。
「兆しは、お前の想像通り、おそらく十二年前からあったのだろうな。菜乃華が初めて神田堂を訪れた、あの時から……。ただ、はっきりと自覚したのは、九月に菜乃華が倒れた時だ。自分の無力さを悔いながら、同時に、約束を果たしてくれた彼女を失いたくないと強く思った」
故に、菜乃華が目覚めた際は、感情のコントロールが効かずに思わず抱きしめてしまった。そして、その瞬間から、もう引き返すことができなくなった。
「付喪神として本が朽ちるまで何百年もの時間を生きるより、菜乃華と過ごす今この時を大事にしたい。菜乃華と共に生き、菜乃華と共に天寿を全うしたい。そう思ってしまうのだ」
肩を竦めた瑞葉が、「私は、神格を与えられた者として失格だな」と嘯く。
「もっとも、最近ではそんな風に考える自分も悪くないと感じている」
「ならば結構。神格なんて、別に気にすることはないさ。神の立場よりも大事だと思えるものに出会えたなら、そいつはお前さんにとって掛け替えのないものってことだ。胸を張って誇ればいい」
蔡倫が、瑞葉を祝福するように快活に笑った。
このサルの坊主は、昔からそうだ。普段はどれだけおちゃらけていても、大事なところでは必ず相手の心に寄り添い、そっとその背中を押す。瑞葉にしてみれば、自分よりもよっぽど神らしい存在だ。
「ただ、これはあくまで私の一方的な気持ちだ。菜乃華には、菜乃華の生き方がある。私は、これからも彼女を見守るだけだ」
「いや、『見守るだけ』って……。別に、一方通行の気持ちってわけでもないじゃないか。お前さんだって、嬢ちゃんの気持ちには気付いているんだろ?」
「ん? 菜乃華の気持ち? どういうことだ?」
真顔の瑞葉が、蔡倫に問い返す。その表情に、照れや冗談などは一切ない。つまり、本気で言っているのだ。
瑞葉が見せたあまりの天然ぶりに、蔡倫は呆れた様子で頭を抱えた。
「あれ見て気付かないって、お前さん、どんだけ朴念仁なんだ……」
「なんだ、蔡倫。さっきから、何を言っている」
「はあ……。駄目だ、こりゃ。重症だな」
疑問符だらけになっている瑞葉を前に、蔡倫はため息をつく。手の掛かる友人を持つと苦労する。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
だが、すぐに仕方ないという風に笑い、彼は瑞葉の肩を叩いた。
「まあ、お前さんの堅物ぶりは、今に始まったものでもないからな。それもお前さんらしさってことだろう。だから今回は、オイラが知恵を貸してやる」
「知恵だと?」
訝しげな目をする瑞葉に、蔡倫が「そうだ」と頷く。
「この後、オイラは柊とクシャミを連れて、先に朧車に戻る。だからお前さんは、嬢ちゃんに自分の気持ちをぶつけてみろ。きっと悪いことにはならないはずだぜ」
「悪いことにはならないとは……どういうことだ?」
「お前さんのささやかかもしれんが大切な願いは、きっと成就するってことだ」
蔡倫は発破をかけるように、瑞葉の背中を叩いた。
「あんまり深く考えんなよ、瑞葉。お前さんは、いつも思慮深過ぎるんだ。たまには感情のまま、自分の願いに素直に行動してみな」
そう言って、蔡倫はいまだ眉をひそめる瑞葉の前で気楽に笑うのだった。
「やっと落ちたね。意外と手こずっちゃった」
「ご迷惑おかけしてすみません、菜乃華さん。ほらクシャミ、お前も謝れ」
「な~む」
瑞葉と蔡倫の会話が一段落してしばらくすると、菜乃華たちが川辺から戻って来た。濡れそぼったぬいぐるみみたいになったクシャミは、どこか元気なさげだ。ため息でもつきたそうな顔をしている。そんなクシャミを見て、菜乃華と柊はおかしそうに笑っていた。
「おう、戻ったか。そんじゃあ、そろそろ帰るとするか。もう少しすると、ここら辺は結構冷えてくるし、クシャミが風邪引いちまうぜ」
すでに重箱やごみの片付けを済ませた蔡倫が、菜乃華たちを迎える。
そして、戻ってきたばかりの柊にゴミ袋を渡すと、菜乃華に向かってこう言った。
「嬢ちゃん、オイラたちは先に朧車に戻ってる。悪いが、瑞葉と一緒にレジャーシートを片付けてきてくれ」
「え! それなら僕が一緒に片付けますよ。菜乃華さんと一緒に!」
すぐに柊が手を上げ、立候補する。菜乃華と二人きりになりたいのだろう。
だが、すぐに蔡倫が却下した。
「お前さんは大人しく、オイラと一緒に来い。相棒が風邪引いてもいいのか?」
「そこは蔡倫さんにお任せします。僕は、菜乃華さんと残りたい!」
「素直なのはいいが、お前さんも本当に懲りねえな……。いい加減、負けを認めろ」
「僕の辞書に、『諦め』の二文字はありません」
「はいはい、そうかい。言いたいことはそれだけだな。んじゃ、そろそろ行くぞ」
最後は力づくで、蔡倫が柊を引きずっていく。ぬれねずみ状態のクシャミも、名前の通りくしゃみをしながら、その後ろに続いた。柊はそれでも「菜乃華さーん」と手を伸ばして来るが、菜乃華は苦笑しながら見送った。
柊には悪いが、菜乃華としてもこれは願ったり叶ったりの状況だ。まさか、こんな都合良く瑞葉と二人きりになれるとは思わなかった。短い時間とはいえ、蔡倫に感謝である。
「それじゃあ、レジャーシート片付けちゃおうか。瑞葉、そっちの端、持ってくれる?」
シートの端を持ち上げながら、瑞葉に呼び掛ける。けれど、瑞葉からの返事はない。不思議に思って顔を上げると、瑞葉は何かを考えているような顔で、滝を見ていた。
「瑞葉、どうかしたの?」
「……ん? ああ、すまない。少し上の空になっていた」
「ふーん。瑞葉がぼーっとしているなんて、珍しいね」
きっと風流な景色に見惚れていたのだろう。取り繕う瑞葉がちょっと可愛くて、菜乃華が楽しそうに笑った。
すると、不意に瑞葉が菜乃華の方を向いた。
「なあ、菜乃華。少し話をしたいのだが、良いだろうか」
「どうしたの、改まって。別にいいよ」
心の中で「やった!」とガッツポーズをしながら頷く。折り畳んで二人が並んで座れるサイズにしたレジャーシートをもう一度敷き、瑞葉と並んで座った。
「で、話って何?」
「……以前、君が持つ力について、私が『理由はわからない』と言ったことを覚えているか?」
瑞葉は少し考えるように間を置き、話を切り出してきた。
問われたことについては、よく覚えている。菜乃華が神田堂の店主になった日に聞かされた話だ。確か、九ノ重神社が祀っている土地神と同じ力だとか。
「覚えてるよ。それがどうしたの」
「その理由がな、最近、ようやくわかったのだ」
「へえ、そうなんだ。ねえ、どんな理由なの? よければ聞かせてよ」
菜乃華がせがむと、瑞葉は滝の方を見つめながら、その理由とやらを明かしてくれた。
瑞葉は言う。土地神は人の子と恋に落ち、人としての一生を送った。菜乃華の家系は、土地神に連なった血筋である。そして、土地神と同じ女性の血族にだけ、土地神が持っていた力――本の付喪神を癒す力が宿った、と……。
「つまり、わたしの中には土地神様の血が流れているってことだよね。なんか、ちょっと信じられない……」
話を聞き終え、菜乃華が圧倒されたまま声を漏らす。
それも仕方がないことだと思う。なんたって、自分が神様の血縁と聞かされたのだ。これで驚かない方が、むしろどうかしている。
「でも、どうして理由がわかったの? もしかしてこれも、神力のおかげ?」
驚きのままに、瑞葉にさらなる質問を投げ掛ける。
こうなったらもう、好奇心の虜だ。疑問が次々と湧いてきて、知りたいという気持ちが止められなくなっていく。瑞葉はどうやってこの結論に辿り着いたのか。他にも、自分の血縁についてわかったことはあるのか。いや、それより何より、ご先祖様の恋バナについてわかっていることがあったら、できるだけ細かく教えてもらいたい。それは菜乃華の今後に、とても役立つはずだから。
ただ、瑞葉はなかなか質問に答えてくれない。どうしたのかと思って瑞葉の顔を覗き込めば、珍しいことに逡巡するような表情を見せていた。それに、心なしか頬が少し赤い気がする。こんなこと、初めてだ。何だか見ているこちらまで、胸が高鳴ってくる。
菜乃華がどぎまぎしていると、瑞葉はまっすぐ正面を見つめ、覚悟を決めた様子で口を開いた。
「それは――私が菜乃華に恋をしたから……。九重の土地神とまったく同じ感情を持つことができたから、気付くことができた」
「え……?」
無意識のうちに、疑問の声が喉の奥から漏れ出た。
何を言われたのかわからなかった。何かとても大切で、とてもうれしくて、とても幸せなことを言われた気がする。
頭の中は、真っ白だ。何も考えられない。ただ驚きと、得も言わぬ喜びだけが、心と体を支配している。
すると、疑問の言葉を発したまま黙ってしまった菜乃華を見て、意図がうまく伝わらなかったと思ったのだろう。瑞葉が改めて、菜乃華が求める言葉を口にする。
「すまない、少々遠回しな言い方だっただろうか。平たく言うと、私は君のことが好きなのだ。君のことを……愛している」
懸命で、どこか不器用な瑞葉の声が、再び菜乃華の鼓膜を震わせた。
もう、聞き間違えたということはない。自分は瑞葉に告白された。自分の恋心は、一方通行の報われない片思いではなかったのだ。いつか自分から言わなければならないと思っていたのに、うれしいことにあっさりと先を越されてしまった。
気が付けば、菜乃華の目からは大粒の涙が零れていた。笑っていたいと思うのに、幸せ過ぎて感情がうまくコントロールできない。口元を両手で覆い、子供のようにしゃくりあげてしまう。
「どうした、菜乃華。やはり、私のような者に好かれるのは、迷惑だっただろうか」
菜乃華が突然泣き出したため、瑞葉が見当違いな勘違いをして慌てふためく。瑞葉が取り乱すなんて、相当のことだ。それだけ彼も、いっぱいいっぱいになりながらの告白だったのだろう。普段の泰然自若振りからはほど遠いその姿はどこか微笑ましく、同時にそこまで必死になって告白してくれたことが堪らなくうれしい。
心を落ち着け、涙を拭い、目を赤く腫らしたまま、瑞葉に精一杯の笑顔を向ける。
「ううん、違うの。ごめんなさい、急に泣いちゃって。うれしいのと驚いたので、感情が言うこと聞かなくなっちゃっただけ」
そう。これ以上幸せなことなんて、きっとこの世のどこを探しても見つからない。少なくとも、今の菜乃華にはどうやっても見つけられそうにない。
いや、見つける必要もないのだろう。だって、それほど大切なものを、今の自分は手にすることができたのだから。
「でも、いいの? わたし、たぶん面倒くさい女だよ」
「奇遇だな。私も昔から、堅物だの融通が利かないだの、面倒くさがられていたよ」
「たぶん、嫉妬深いよ。色々、我が儘言っちゃうかもしれないよ」
「では、あまりに程度がひどくなった時は、きちんと諌めるとしよう」
瑞葉が少し冗談めかした口調で答えた。
菜乃華は、そんな瑞葉の手を自身の両手で包み込むように握る。もう残された言葉は、一つしかない。心の底から溢れてくる想いを素直に自らの声に乗せた。
「ありがとう、瑞葉。わたしも――あなたのことが世界で一番大好きです!」