秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

 もしかして、瑞葉が帰って来たのだろうか。少しだけ胸を弾ませながら、背後を振り返る。
 しかし、そこに立っていたのは瑞葉ではなかった。

「失礼、お嬢さん。こちらは、神田堂でよろしいかな?」

「え? ええ。そうです」

 たどたどしく肯定する菜乃華へ、左手で山高帽を取って一礼してきたのは、『紳士』という言葉がぴったり当てはまりそうな初老の男性だった。

 流暢な日本語を話しているが、彫りが深くて目鼻がはっきりした顔立ちをしている。明らかに日本人ではないだろう。灰色がかった髪をきっちりと撫でつけていて、整えられた口ひげがおしゃれである。服装は、落ち着いた顔立ちによく似合う、仕立の良いグレーのスーツだ。足元に置かれたカバンも、一目で良い品だとわかった。
 威圧感などまったくなく、穏やかな雰囲気だが、自然と居住まいを正してしまう。平たくまとめると、そんな風貌の男性だった。

 ただ一つおかしな点を上げるとすれば、帽子を持っているのと反対の腕だ。スーツの袖に通していないその右腕は、首からかけた三角巾で吊るされていた。まるで腕の骨が折れている時みたいに。となれば、これはもう間違いない。

「もしかして、本の修理のご依頼ですか?」

「お恥ずかしい話だが、その通りだ。本の背を壊してしまってね。おかげで、右腕をこの通り骨折してしまった」

 言葉通り恥ずかしそうに苦笑しつつ、男性はカバンから一冊の本を取り出して作業台の上に置いた。背に金箔押しで装飾を施した、半革装丁の洋装本だ。やはりこの男性は、本の付喪神だったようだ。

 仕事の邪魔をしては悪いと思ったのか、柊とクシャミは静かに奥の居間に引っ込む。

「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私はこの本の付喪神で、モリスという。お嬢さん、申し訳ないが、店主殿を呼んでもらえないかな」

「えっと……わたしがここの店主の神田菜乃華です」

「ん? お嬢さんが……ここの店主?」

 控え目に手を上げた菜乃華を、モリスは目を丸くして見つめる。
 もっとも、彼が驚くのも無理はないだろう。こんな小娘が「店主です」なんて名乗ってきたら、普通は驚くに決まっている。

「失礼。神田堂の店主は高齢のご婦人と聞いていたものでね。それに、瑞葉殿も店員として働いていると聞いたのだが……」

「実は二か月ほど前に先代店主の祖母が亡くなりまして……。今は、わたしが祖母の後を継いで店主をさせてもらっています」

「そうだったのか。それは辛いことを思い出させてしまったね。本当に申し訳ない。それと、心からお悔やみ申し上げます」

「どうもありがとうございます。それと瑞葉ですが、ただ今買い出しのために外へ出ております」

「そうか、買い出しに……。どうやら、間の悪い時に来てしまったようだね」

 瑞葉も留守であることがわかると、モリスの眉尻がわずかに下がった。おそらく菜乃華しか店にいないというこの状況に、少なからず落胆しているのだろう。

「ちなみに、お嬢さんも先代店主殿と同様に、本の付喪神の修復は行えるのかな?」

「ええ、一応……」

「なるほど、『一応』か。それは、どうしたものか……」

 おとがいに左手を当てたモリスが、思案するように菜乃華を見た。おそらく自分の本を預けるに足る人物かどうか値踏みしているのだろう。

 付喪神にとって、自身が宿る品物は自身の魂と同義だ。たとえ軽い修復であるとしても、信用できない人物に預けることはできない。そして今目の前にいるのは、店主になってまだ二か月しか経っていない、見た目中学生くらいの小娘だ。状況的に、今すぐに修復の依頼を頼めば、対応は菜乃華一人で行うことになる。モリスが慎重になるのも当然だった。

 居間から顔を出していた柊が、状況を察して出てこようとしたが、菜乃華はそれを手で制した。気持ちは有り難いが、店の問題に柊を巻き込むことはできない。

「よろしければ、瑞葉が帰るまでお待ちになりますか?」

「ふむ……。ちなみに、何時ごろ戻られるかはわかるかな?」

「いえ、それはちょっと……。申し訳ありません」

「いや、いいんだ。ただ、そうなると瑞葉殿を待つのは少し厳しいね。実は夕方から、所用があるんだ。ここは無理をせずに、明日にでも出直す方がよろしいかな」

 菜乃華の申し出に、モリスが言葉を選びながら、辞去の意を示す。

 モリスは気を遣ってくれているが、要するに菜乃華は彼のお眼鏡に適わなかったということだ。それをひしひしと肌で感じ、菜乃華の心は重く沈んでいった。

 こういう状況になると、今までのお客さんがすんなりと本を委ねてくれたのは、隣に瑞葉がいてくれたからだと実感する。彼の存在がそのまま信用となって、新米店主の菜乃華に修復を任せてくれていたのだ。

 しかし、今の菜乃華の隣には頼りになる店員がいない。
 菜乃華も本の背の修理は行えるが、それをモリスに証明できる実績がない。

 一人前になろうと日夜頑張ったところで、所詮はまだまだ頼りない子供なのだ。店主として、客から認めてもらうことすらも適わない。自分一人では何もできないということを改めて思い知り、菜乃華は自身の不甲斐なさに唇を噛んだ。

 その時だ。

「――心配しなさんな、モリス。見た目はちと頼りないが、その嬢ちゃんは立派な神田堂の店主だ。オイラたちが保証する」

 俯いた菜乃華の耳に届いたのは、聞き慣れたひょうきんな声だった。

 顔を上げて、声のした方を向く。いつの間にかまた店の入り口が開かれ、外から夏の残り香のような強い日差しが差し込んでいた。その日差しを背に受けながら、サルの坊さんが愉快そうな笑顔でこっちを見ている。

 いや、蔡倫だけではない。サルの坊さんの隣にはもう一人、残暑厳しい日差しの中にあってなお涼やかな顔をした青年がいた。

「……なあ、瑞葉」

「ああ、そうだな」

 蔡倫に話を振られた瑞葉が、穏やかに笑いながら頷く。

「モリス、確かにうちの店主はまだ経験が浅い。だが、たゆまぬ努力で磨いた実力は確かだ。それは、彼女に技術を仕込んだ私が一番よく知っている」

「瑞葉殿……」

 モリスに向かって掛けられた瑞葉の言葉が、同時に菜乃華の心にも染み入る。彼の言葉一つで、菜乃華を蝕んでいた無力感がいくらか和らいだ気がした。

 単純だとか、調子良過ぎるとか、恋愛脳だとか、そんなことはわかっている。自分だけで信用を勝ち取ることができないという事実も、まったく変わっていない。

 けれど、気持ちは十分に前を向いた。
 瑞葉が自分を認めてくれているだけで、勇気が湧いてくる。一歩を踏み出せる。足りない信用を、自分の手で勝ち取りに行ける。そんな気がするのだ。

「モリスさん」

 瑞葉の推挙を聞き、再び思案顔になったモリスに、正面から声を掛けた。
 確かに、自分はまだまだ無力だ。瑞葉と蔡倫が帰ってこなければ、黙って打ちひしがれていることしかできなかっただろう。

 だが、今は違う。今なら神田堂を背負う店主として、まっすぐお客さんと向き合うことができる。

「瑞葉の言う通り、わたしはまだまだ新米の店主です。だけど、付喪神を助けたいという気持ちは、きちんと祖母から――先代の店主から受け継いだつもりです。だから……どうかわたしに、あなたの本を直させてください!」

 モリスに偽りない気持ちを告げ、深々と頭を下げる。千里の道も一歩から。本当の信用は、仕事を完璧にこなすことで初めて生まれるものだろう。だから、まずは仕事をさせてもらえるように誠意を見せる。自分が必ず直してみせると、態度で示す。

「なるほど……」

 しばらく頭を下げていると、上の方からくすりと笑うような口調の台詞が降ってきた。
 菜乃華が顔を上げれば、そこには愉快そうなモリスの顔があった。

「どうやら私は、まだまだ人を見る目が足りなかったようだ。菜乃華殿、大変な無礼を働いたことを許していただきたい。本当に申し訳ない」

「いえ、そんな! わたしの経験が浅いのは事実ですし、モリスさんが謝ることじゃないです」

 入れ替わるようにモリスから頭を下げられ、菜乃華が慌てた様子で手を振る。
 菜乃華の許しを得ることができ、モリスは「ありがとう」と安心した様子で微笑む。そして、自らの魂である本を手に取り、菜乃華に差し出した。

「その上で、改めてお願いする。どうか、私の本を直していただきたい」

「はい、喜んで!」

 モリスから本を受け取った菜乃華は、力強く頷くのだった。
 仕事を受けた菜乃華と瑞葉は、椅子に座ってこちらを見つめるモリスの前で、迅速に仕事に取り掛かった。

 今回の依頼は、外れてしまった背の修理だ。本の修理としては、かなりポピュラーなものと言えるだろう。

 まずは、改めてモリスの本を検分する。どうやらモリスの本は、本の中身と表紙を支持体の糸で接合した『綴じ付け製本』ではなく、本の中身に表紙を糊付けした『くるみ製本』のようだ。
 モリスの本は、表紙が見返しごと本の中身から外れた状態になってしまっていた。

「幸いなことに本の中身、見返しともに目立った損傷はないな。これならば、綺麗に直すことが可能だろう」

「背が外れた原因は、中身と見返しをくっつけていた糊の劣化かな」

「おそらくそうだろうな。ただ、均等に劣化して外れてくれたおかげで、紙自体の損傷はほぼない。正に不幸中の幸いだ」

 菜乃華の診断に、瑞葉も同意を示す。
 瑞葉からのお墨付きを得られたところで、菜乃華は一度モリスの方へ振り返った。

「モリスさん、この本の背って、ホローバック形式で間違いないですよね」

「ああ、その通りだ」

 菜乃華の確認に、モリスが頷く。ホローバックの特徴は、表紙の背と中身の間に空洞を持つ点にある。これにより本が開きやすく背を痛めにくいという利点を得られるが、中身と表紙の接合箇所が限定されるために表紙が外れやすい欠点も併せ持ってしまう。今回は、正にその典型例だ。

「これならば、クータを使用した基本的な修復方法で事足りるだろう。菜乃華、修復の流れは覚えているな」

「もちろん。任せといて」

 瑞葉に返事をして、早速仕事道具が収められた箪笥を漁る。取り出したのは、まっさらな中性紙だ。これが、クータの材料である。クータは、中身の背と背表紙の間に入れる、紙でできた筒状の補強材だ。

 長い時を経たことでの劣化もあったのだろう。モリスの本に元々つけられていたクータは、表紙が外れた際に同じく補強材である寒冷紗(かんれいしゃ)と共に損傷してしまっていた。

「本が壊れた時に一番被害を受けたのは、この古いクータと寒冷紗だね」

「そうだな。寒冷紗についても、新しいものを使って一緒に直しておくとしよう」

「OK!」

 瑞葉に言われ、菜乃華が早速新しい寒冷紗も用意する。

 材料の準備ができたら、新しいクータを作るためのサイズの測定から開始だ。本の中身の背部分に合わせて、必要な紙の大きさを算出していく。
 モリスの本の背は弧を描く丸背だから、プラスチックの定規では正確に測り辛い。こういう時は、いらない紙を細切りにした短冊の出番だ。

「背の丸みに沿って短冊を宛がって、幅を測って印をつける、と……。うん、これでよし!」

 印をつけた短冊を手に、菜乃華が満足げに笑う。これで、正確な背の幅が測れた。
 そうしたら、背の高さと合わせてクータの材料である中性紙に印をつけていき、カッターで裁断する。切り取った紙をきれいに三つ折りにし、紙の端を糊付けして筒状にすれば、クータの完成だ。

「瑞葉、こんな感じでどうかな」

 いつもの調子で、瑞葉に確認を頼む。

 菜乃華から作り立てのクータを受け取った瑞葉は、歪みや皺がないか確かめ、最後に本の背に宛がった。
 クータは大き過ぎても小さ過ぎても本の開きを悪くしてしまうから、瑞葉もここは慎重だ。万に一つのミスも犯さないよう、十分に検証を重ねていく。

「よし、大丈夫だ」

 菜乃華が固唾を飲んで見守る中で、瑞葉がふっと表情を緩めた。
 どうやら合格点を出してもらえたようだ。いつの間にか息を吐くのを忘れていたことに気付き、菜乃華は大きく一息ついた。

「正確な測量だ。練習の成果がよく出ている。この調子で続きも頼むぞ」

 瑞葉から返されたクータを、菜乃華が宝物のように受け取る。褒められたうれしさと気恥しさから、顔がにやけるのを止められない。頬が熱を持ち、真っ赤になっているのがわかる。

「菜乃華さん、あんなにうれしそうに……」

「お前さん、いい加減さっさと諦めた方がいいと思うぞ。勝ち目ねぇって」

「いいえ、まだです。僕はまだ、諦めない!」

「そ、そうかい。まあ、ほどほどに頑張れや、うん」

 居間の方から、何やら聞こえてきた気がする。

 だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。クータの作成は、あくまでモリスの本を直すための下準備の一つに過ぎないのだ。本当の修復は、この先である。

 クータの準備が終わったら、次は糊の準備を行う。今回はクシャミの本のページを直した時と違い、本の構造を支える力が必要になる。よって、糊もそれ相応に強力でなくてはならない。
 菜乃華が手に取ったのは、いつもの澱粉糊と水、そして瑞葉厳選の接着剤だ。

『本来なら、化学的に安定していて水溶性の澱粉糊だけで修復を行うのが望ましい』

 これは、瑞葉が修復の基本として教えてくれた原則の一つだ。

 だが、残念ながら澱粉糊は接着力がそれほど強力ではなく、洋装本の背の修理には適さない。そこで、澱粉糊に接着剤を混ぜて接着力を上げるのだ。
 瑞葉が厳選したこの接着剤は中性だから、紙を酸化させ劣化させる恐れもない。長い時を生きていく付喪神の本にも、比較的安心して使える。

 小皿の上に澱粉糊を載せ、そこに接着剤を加えて筆で混ぜる。

「配合の割合は、澱粉糊3に対して接着剤1程度だ。接着剤が多くなり過ぎないように気を付けるのだぞ」

 瑞葉からアドバイスを受けながら、せっせと糊を混ぜていく。
 程よく混ざったら、水を加えて濃度の調整だ。今回は、水を少なくして濃い目の調整とした。

「瑞葉、お願い」

 混合糊が完成したら、小皿を瑞葉に渡す。菜乃華から小皿を受け取った瑞葉は、素早く混合糊の状態を確認し、「問題ない」と菜乃華に返した。流れるような共同作業だ。瑞葉と息の合った連携ができていることに、菜乃華は密かな喜びを感じる。

 同時に背後から、悲嘆に暮れるような湿っぽい気配がした。誰の気配かは、振り返るまでもなくわかる。だが、ここでその気配に対して何かフォローを入れるのも、それはそれで変だ。今は仕事中だしね、と菜乃華はすすり泣く声に苦笑しながら作業を続ける。

 混合糊ができたら、準備はすべて完了。ようやく修復開始だ。
「まずは壊れたクータと寒冷紗を取り除いていこう」

「で、壊れたパーツを取り外したら、本の中身側の背に新しい寒冷紗を貼り付けるんだよね」

「よし、満点の回答だ」

 再び瑞葉に褒められて頬を染めながら、菜乃華は手順通りに修復を進めていく。
 寒冷紗を中身の背に貼り終えると、続いて菜乃華はその上へさらに糊を満遍なく塗っていき、先程作ったクータを手に取った。緊張の一瞬。大きく空気を吸って、息を止める。

「クータがずれたり、傾いたりしないよう気を付けろ。焦らず、丁寧に、だ」

 焦らず、丁寧に。瑞葉の口癖を聞きながら、慎重にクータを本の背に宛がう。きっちりと採寸し、手抜かりなく作り上げたクータは、寸分の狂いもなく中身の背を覆った。上々の出来だ。止めていた息を吐き出し、人心地つく。

 ただ、これで修復が終わったわけではない。続いて、クータの反対側、表紙側の背に混合糊を塗っていく。
 糊を塗り終わったら、背表紙と中身の背の接合だ。クータを貼った中身の背と表紙の背を合致させる。背同士の丸みのバランスは同じだから、綺麗にはまってくれた。

「もう一息……」

「ああ、もう一息だ。次は寒冷紗の接合だ。見返しを少し剥がすことになるが、焦って破かないよう、油断せずにいこう。それができたら、最後にのどの接着だ」

 作業内容を復唱する瑞葉に向かって無言で頷き、菜乃華は作業に取り掛かる。

 慎重に表紙から見返しを剥がし、間に寒冷紗の端を接着して、見返しを貼り直す。これで寒冷紗の接合はOKだ。
 続けて、見返しと本の中身をのどの部分で接着する。これで表紙と見返し、本の中身がすべてきちんとつながった。

「よし。あとは背とのどをヘラで擦って、完全に圧着させるんだ」

「了解」

 瑞葉が差し出した紙とヘラを受け取る。菜乃華は背の装飾が傷つかないように紙で覆い、その上からヘラを使って擦っていった。これで、修復そのものは完了だ。

 最後に表紙の溝に編み棒を宛がい、紙をきつく巻き付ける。本来なら重しを載せて糊を乾かしたいところだが、今回は代替案だ。モリスの方にあまり時間がないようなので、この方式にした。

 菜乃華が紙を巻き終わるのと同時に、モリスの右腕が輝き出した。怪我は無事に治ったようで、モリスは右手を閉じたり開いたりして、調子を確かめている。

「ありがとう、菜乃華殿。おかげで右腕もすっかり良くなった。実に見事な修復だ」

「どういたしまして。明日の朝くらいまでは、紙を巻いたままにしておいてくださいね。できれば本に重しを載せておいてもらえると、なお良しです」

「承知した。では、そのようにしておこう」

 菜乃華のアドバイスに、モリスも柔らかく微笑みながら頷く。その目に浮かぶのは、菜乃華に対する信頼だ。

 菜乃華は、モリスの魂である本の破損を完璧に直してみせた。ならばもう、疑いの余地はない。この紳士の姿をした付喪神は、菜乃華を自分の命を預けられる掛かり付け医として認めてくれたのだ。

「また何かあった際には、ぜひ頼らせてもらいたい。菜乃華殿、これからもどうぞよろしく頼む」

「もちろんです。でも、そんな何かが起こらないことを祈っています。次は、元気な姿で遊びに来てください」

「ありがとう。では、近い内にぜひ立ち寄らせてもらうとしよう」

 菜乃華の言葉に、モリスも呵々と笑って同意する。
 お代を払ったモリスは、「では、また」と会釈をして去っていった。


          * * *


「一件落着だな、嬢ちゃん。店主の仕事も、だいぶ板についてきたじゃねえか」

「菜乃華さん、お疲れ様です!」

 モリスが立ち去り、蔡倫と柊が奥から顔を出した。菜乃華の足元では、クシャミも「な~」とどこか労うような声で鳴いている。

「ありがとう、蔡倫さん、柊さん。どうにかこうにか、モリスさんを失望させずにすんだみたい」

 グッジョブと親指を立てている蔡倫と目を輝かせている柊へ、照れを含んだ微笑で言葉を返す。さらに、その場にしゃがみ込んで、「クシャミちゃんもね」とクシャミの喉も撫でてあげた。クシャミは気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らした。

 そんなクシャミを見ていたら、張り詰めていた緊張感が完全に解けた所為か、ふと軽い眠気が襲ってきた。最近は、気を抜くといつもこうだ。たるんでいるな、と頭を振って、眠気を追い払う。

 そのまま勢いよく立ち上がり、澱粉糊や接着剤のボトルをまとめている瑞葉のもとへ行く。修復が無事に終わったこともあって、その足取りは軽かった。

「瑞葉、今の修復、どうだった?」

「そうだな。一言で言えば、練習の成果がよく出ていた。モリスも満足していたようだし、出来としては文句なしの合格点だ」

「ありがとう。ちなみに、今後に向けての課題は?」

「強いて課題を上げるとすれば、やはり手際か。背幅の測量からクータの作成までは、慣れればもっと短時間で行える。修行を始めて一月半と考えれば十分だが、まだまだ無駄をなくして改善していける余地はあるだろう。あとは糊の塗布量についても、経験をさらに積めば適量を見抜けるようになるはずだ」

 淀みなく答える瑞葉を見上げ、思わず顔をほころばせてしまう。瑞葉はただよくやったと褒めるだけでなく、菜乃華が店主としてステップアップしていくための課題もしっかり示してくれる。瑞葉が自分のことをきちんと見てくれていることが、菜乃華にはこの上なくうれしいのだ。

「あ、片付け、わたしも手伝うね」

「頼む。私は資材などをしまっておくから、小皿と筆を洗ってきてくれ」

「了解!」

 軽く敬礼のようなことをして、修復に使った小皿と筆を手に取る。

 その時だ。菜乃華の視界が、急に暗転した。

 小皿と筆が手から離れ、床に落ちる。土間に落ちた小皿が割れる音が、どこか遠くから聞こえてくる気がした。
 気が付けば、体の左半分にひんやりと冷たく硬い感触がする。光を失いかけた目に映る灰色の光景から判断すると、どうやら土間に倒れてしまったらしい。

「菜乃華!」

「おい、嬢ちゃん、どうした!」

「な、菜乃華さん!?」

 鋭い瑞葉の声、慌てた様子の蔡倫の声、動揺しきりな柊の声。三者三様の声が、先程の小皿が割れた音と同じく、遠くから聞こえてくる。

 程なくして、体の左半分にあったひんやりとした感触がなくなった。代わりに、力強く温かい腕が、菜乃華を支えている。覚えのある温かさと力強さだ。誰が自分のことを支えてくれているかを悟った菜乃華は、安心したように微笑みながら意識を失った。
 緑の匂いを含んだ爽やかなそよ風が嗅覚をくすぐり、降り注ぐ眩しくも暖かな日の光が視覚を刺激する。いつの間にか、菜乃華は小さな祠の前に立っていた。

 いや、『立っていた』という言い方には少し語弊がある。正確には、いつの間にか意識だけがこの場所に放り出されていた。視線を下に動かしてみてもそこに自分の体はなく、それ故かこの場から移動することができない。首を回す要領で辺りを見回すことくらいはできるが、それが限界だ。意識と五感だけがそこに固定されている。

 段々と、何があったのか思い出されてくる。自分は貧血を起こして倒れ、そのまま意識を失ったのだ。

 つまり、ここは夢の中ということだろう。おそらく、俗に言う明晰夢というやつだ。
 自分の置かれた状況を分析していると、意識の端から土を踏み締める二つの足音が聞こえてきた。誰か来たらしい。振り向くようにして、意識をそちらへ向けてみる。

 瞬間、見開く目もないのに、菜乃華は驚きのまま現れたうちの一人を凝視した。

「瑞葉……」

 意識に直接響いてくる声で、ぽつりと呟く。連れ立って現れた二人の片割れは、まぎれもない瑞葉だった。

 もっとも、菜乃華の知っている瑞葉とは少し違うようだ。容姿は菜乃華の知る瑞葉とまったく変わらないが、纏っている雰囲気にどこか若気のようなもの感じる。
 要するに、瑞葉のあの涼やかで落ち着いた余裕が見られないのだ。彼が持つ生来の生真面目さが、堅苦しく見えるほどに前面に出てしまっている。

 そんな瑞葉が、共に歩いていた相手に対して折り目正しく頭を下げた。

『土地神殿、この度は本当にお世話になりました。このご恩は忘れません』

『そんな畏まらないの。何度も言ったでしょ。困った時はお互い様だって』

 礼を言われた相手は、瑞葉の肩を叩きながら愉快そうに笑っている。

 それは、とてもきれいな女性だった。小さくて色白の面立ちは美人顔の黄金比を体現しており、腰まで真っ直ぐ伸びる艶やかな黒髪は日の光を反射して輝いている。さらにその華奢な体を包むのは、豪華な刺繍が施された巫女服のような着物だ。瑞葉の言によれば土地神とのことだが、なるほど、確かに女神と呼ぶに相応しい容姿だ。

 けれど、瑞葉に気安く触れていることはいただけない。勝手なことだとはわかっているし、自分のことを面倒くさい女だなと呆れてしまうが、どうしてもジェラシーを感じてしまう。

 ただ、彼女が笑っている姿を見ていると、なぜか祖母を思い出してしまい、菜乃華はどうにもうまく腹を立てることができなかった。

『まあいいわ。何かあったら、またいつでもここに来なさい。あたしは、いつでもここにいるからさ』

『お気持ちは有り難いが、もう自分の本を壊すようなへまはしない』

 感謝の念は示しつつも、瑞葉は憮然とした表情で土地神に反論する。

 やはりこの瑞葉は、お堅いというか融通が利かない頑固者っぽい。もしくは、どこか子供っぽい。これまでに見たことのない瑞葉の態度を見られて、少し得した気分になる。

 巫女服の女神も菜乃華と似たようなことを思ったのか、白い歯を見せながらにかっと笑った。『まだまだ若いな~』と、不満げな瑞葉の背中を叩いている。
 その笑い方は、やはり祖母に似ているような気がして、心の奥から懐かしさと共に切ない感情が込み上げてきた。もし今、菜乃華の体がここにあったら、涙の一つでも流してしまっていたかもしれない。

「そういえば、前に瑞葉がうちの神社の神様は本の付喪神を直せる力を持っていたって言っていたような……」

 神田堂の店主になった日の、瑞葉の言葉を思い出す。瑞葉は確かに、自分と祖母が持っている力は九ノ重神社の土地神様の力と同種のものと言っていた。

 ということは、あそこに立っている土地神様とやらが、うちの神社で祀っている神様なのだろうか。そんな考えが、菜乃華の意識の中に顔を出してくる。

 その時、ふと意識が浮き上がるような感覚がした。縛り付けられたように固定されていた菜乃華の意識が、風に飛ばされた風船のように空へと昇っていく。瑞葉と土地神の姿が段々と遠くなっていき、視界が空の青一色に染まった。

『ねえ、菜乃華……』

「え?」

 不意に、頭の中に声が響いた。先程の女神の声だ。これまでと違い、明らかに菜乃華に語り掛けている。

『これを見ても、わかるでしょ。彼は実直で真面目で頑固者。だけど、固いからこそ脆いところもあるの。そして、彼は誰よりも高い能力を持つ付喪神故に、誰かに頼ることができない。己がどれだけ崩れそうになっても、それを素直に表に出せない。サエのおかげでだいぶ柔軟さも得たみたいだけど、良くも悪くも彼の本質は変わらない』

 女神の声は優しく、同時に気に掛けているような色合いを含んでいる。まるで子供を見守る母親のような声音だ。
 彼女は、菜乃華に何かを伝えようとしている。何かを求めている。そう感じた菜乃華は、女神に問い掛けた。

「わたしは、どうしたらいいですか? 瑞葉のために、わたしは何をしてあげたらいいですか?」

『そんなこと、あたしが知るわけないじゃない』

 先程までの慈愛に満ちた口調から一転、女神がお茶目にバッサリと匙を投げた。体はないけれど、思い切りずっこけてしまった。

「なんなんですか、一体! あなた、何のためにわたしに話し掛けたんですか!」

『いやまあ、平たく言えば好きにすればいいってことよ。神様の操り人形になんかならないで、己が歩く道は己で決めなさいって意味』

「かっこいい感じに言ってますけど、それって丸投げってことですよね」

『そうとも言うわね』

 女神があっけらかんと肯定する。何とも大雑把でいい加減な女神だ。これがうちの神社の神様かもしれないと思うと、無性に泣けてくる。
 菜乃華が軽く打ちひしがれていると、女神は能天気に笑いながら、こうつけ加えた。

『あなたは、自分が瑞葉にしてあげたいと思うことをすればいいの。それが一番よ。さあ、そろそろ行きなさい。あっちで、彼が待っているわ』

 体はないけれど、背中を優しく押された気がする。
 すると、菜乃華の意識はさらに加速して、空を上り始めた。

『それじゃあ頑張ってね、あたしの可愛い――』

 女神の言葉を最後まで聞き取ることはできなかった。彼女が何と言ったのか少し気になるところだが、訊き直すことは無理そうだ。
 そうこうしているうちに、空を駆け登っていく菜乃華の意識は、眩しい日の光の中に吸い込まれていった。
 瞼越しに差し込んでくる光が、菜乃華の意識を覚醒させる。
 目を開くと、そこは見慣れない部屋だった。見慣れないが知らない部屋ではない。この部屋は神田堂の二階にある一室だ。古いがよく掃除が行き届いた客間に布団を敷き、菜乃華はそこに寝かされていた。

 カーテンが掛かった窓の隙間からは、朝日が差し込んでいる。これが、菜乃華の意識を覚醒させた光の正体だ。右手で枕もとを漁ると、自分のスマホが置いてあった。日付と時間を確認すると、日曜日の午前八時だった。倒れたのは昨日の午後三時頃だったと思うので、十七時間も寝ていたらしい。随分とよく寝たものだ。

 寝起きのぼやけた頭で体を起こす。何やら夢を見ていた気がするが、うまく思い出すことはできない。ふと視線を下ろすと、いつの間にか服装が学校の制服から浴衣になっていた。藍色一色の浴衣で、随分とサイズが大きい。たぶん男物だろう。

 誰かが着替えさせてくれたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、菜乃華は大きく伸びをし、これまた大きなあくびをした。

「目を覚ましたか、菜乃華」

「ふわっ!」

 あくびをしているところに声を掛けられ、思わず悲鳴のような声を上げてしまう。見れば、部屋の襖が開いていて、瑞葉が立っていた。

「み、瑞葉……」

 瞬間、菜乃華の顔から首筋までが一気に赤く染まる。好きな相手に気の抜けた姿を見られたことが、恥ずかしくて堪らない。というか、寝起き姿を見られたなんて、もう穴を掘って埋まってしまいたいほどの失態だ。

 同時に、頭に血が上った所為か意識も急にはっきりし、思考が全力で回り出した。瑞葉が住む神田堂の一室で眠っていた自分、いつの間にか着替えさせられた浴衣、これはつまりもしかして……。

「安心しろ。君を着替えさせたのは、私ではない。医学に長けた付喪神が近くにいるので、往診に来てもらったのだ。着替えも、彼女に頼んだ」

 頭から湯気を吹き始めた菜乃華を見て、考えていることを察したのだろう。瑞葉が先手を打って注釈を入れてきた。

 瑞葉曰く、ここから徒歩十五分くらいの距離のところに、医療品の付喪神(女性)が住んでいるそうだ。菜乃華が倒れた直後、蔡倫と柊が全力で走って、彼女を呼んできたとのことだった。

「着替えについては、この家に女ものの服がなかったのでな。申し訳ないと思ったが、私の浴衣を使わせてもらった」

「そ、そうなんだ。ええと、ありがとう」

 自分が着ているのが瑞葉の浴衣だとわかり、またもや顔が熱くなってくる。だが、恥ずかしい以上にうれしくもあり、頬が自然と緩んでいってしまった。災い転じて福と為すといったところだろうか。思わず浴衣の袖の香りをかいでしまいそうにもなったが、そこはぐっと堪えた。持ち主の前でそんなことをしていたら、ただの変態だ。今後の瑞葉との関係性を思うに、自重は大事である。

「倒れた原因は、寝不足と過労だそうだ。一晩ぐっすり寝れば回復すると言われたが、気分はどうだ?」

「大丈夫。もうすっかり元気だよ」

 布団の横に座って心配そうな顔をする瑞葉に、胸の前で両の拳を握って元気さをアピールする。
 実際、たっぷりと睡眠をとったからか、最近感じていた軽い頭痛も消えていた。久しぶりにすこぶる快調といった感じである。

 ただ、瑞葉は元気に振る舞う菜乃華のことを、さらに不安そうに見つめた。

「昨日の夜、君の実家に電話した際に洋孝から聞いた。菜乃華、君はここ最近、随分と無茶なことをしていたようだな」

 深い息を吐きながら、瑞葉が言う。

 洋孝とは、父のことだ。どうやら父は、菜乃華が毎日のように夜更かしをしていたことを伝えたようだ。いたずらがばれて怒られているような気分になり、菜乃華がばつの悪そうな顔で俯く。

 すると、おもむろに瑞葉が頭を下げた。

「君にそこまでの無理を強いてしまったのは、偏に私の責任だろう。私が君に期待するあまり、君を追い込んでしまった。本当にすまない」

「ち、違うよ、瑞葉! 瑞葉は悪くない。わたしが勝手に焦って自滅しただけ。むしろ、謝らなきゃいけないのは、わたしの方で……」

 そう。瑞葉は最初から、「焦らなくていい」と言ってくれていたのだ。

 その言葉を聞かず、勝手に暴走したのは、他ならぬ菜乃華自身だ。少しでも早く一人前になりたいと――いや、それ以上に憧れの瑞葉にいいところを見せたいと、必要以上に躍起になっていた。そして、頑張る自分の姿に酔ってもいた。

 その結果が、今回の騒ぎとなった。自業自得もいいところだ。だから、瑞葉はこれっぽっちも悪くない。
 菜乃華がそう訴えると、瑞葉は困ったように微笑みながら「洋孝にも、同じことを言われたよ」と呟いた。

「これは菜乃華の行動の結果だから、私が責任を感じることではない、とな。今回の件について、どんな謗りでも受けるつもりでいたのに、逆に励まされてしまった」

 あそこまで励まされると調子が狂ってしまう、と瑞葉が気安い表情で肩を竦める。祖母同様、父とも長い付き合いなのだろう。その仕草と言葉には、父に対する瑞葉の友愛の情が見て取れた。

「お父さんの言う通りだよ。今回は、わたしが無茶しちゃっただけ。これ以上瑞葉に責任を感じられちゃうと、そっちの方が気まずいよ。だからお願い。もう責任を感じたり、謝ったりしないで」

「……わかった。君がそう言うのであれば、もうこれ以上は謝るまい。君を困らせるのは、私の本意ではないからな」

「ありがとう、瑞葉」

 ようやく納得してくれたらしい瑞葉に、菜乃華も安心した様子で顔をほころばせた。

 片思いの相手から謝られるのは、それがどんな理由からであれ、ふられているみたいで悲しくなってくる。しかも、今回に限っては謝罪の原因が自分の不始末にあるのだから、悲しさに情けなさの上乗せ状態だ。そんなもの、菜乃華としてはぜひとも避けたいシチュエーションである。無事に収束してくれて、本当に良かった。
「ただ、もうこのような無茶はやめてくれ。君は、神田堂にとって大切な人間だ。君が倒れてしまっては、神田堂が立ち行かなくなってしまう。もし君がいなくなったら、多くの付喪神にとって大きな損失だ」

 安心したのも束の間、瑞葉の一言が菜乃華の胸にグサリと突き刺さった。

「そう……だよね。わたしがいなくなったら、瑞葉や……ここを頼りにしている本の付喪神さんたちに迷惑かけちゃう……もんね」

 落胆した気持ちを表に出さないよう精一杯微笑みながら、相槌を打つ。けれど、その声は震えてしまい、うまく演技できたとは言い難かった。

 わかってはいたが、改めて言葉にされるときつい。瑞葉にとって自分は、やはり『神田堂の店主』であり『祖母の代わり』でしかないのだ。

 もちろん自覚してはいたが、それでも心の片隅には『もしかしたら』という気持ちもあった。もしかしたら瑞葉も、『神田堂の店主』としてではなく『神田菜乃華』として自分を見てくれているかもしれない。そんな夢を抱いていた。

 だが……夢は所詮、夢でしかなかったようだ。

 無論、瑞葉が自分をどう見ていようが、自分がやるべきことは変わらない。祖母の遺志を継ぎ、神田堂を守っていくだけだ。むしろ片思いが望みなしとわかったのだから、これからは店主としての修業だけに集中できるというものだろう。そういう意味で、これは喜ばしいことだ。

 だから今、自分は笑わなければいけない。
 店主として、これからも頑張る。もちろん体調にも気を遣うから大丈夫。
 強がりでも構わないから、明るい顔でそう言わなければならない。

 けれど、体が言うことを聞かなかった。顔を上げなきゃいけないのにどんどん俯いていき、笑わなきゃいけないのに視界が滲んでいく。

「……いや、すまない。今のは、その……建前だ。本音じゃない」

「え……?」

 不意に告げられた再びの謝罪に、菜乃華が顔を上げる。
 同時に、瑞葉の両腕がのびてきて、菜乃華の体を包み込んだ。そのまま引き寄せられたことで体が傾き、左肩と頭が瑞葉の胸板に触れる。

 突然に事態に、菜乃華の頭は真っ白になった。おかげで、瑞葉に抱きしめられたのだと気付くまでに、少しばかり時間が掛かった。

「君がいなくなったら、私が困る。私は、まだこれからも君と一緒にいたい。だから、君に無茶をしてほしくない」

 ちょうど寄り掛かったような形のまま、瑞葉の声を聞く。触れあった部分から瑞葉の体温が感じられ、左耳から瑞葉の心音が聞こえる。少し鼓動が早い気がするのは気のせいだろうか。

「昨晩は、不安と恐怖で本当に胸がつぶれるかと思った。君が目を覚まさなかったらと思うと、居ても立っても居られなくなった」

「瑞葉……」

 菜乃華を抱く瑞葉の腕に力が籠る。まるで、親を見つけて抱き付いた迷子のようだ。触れあった部分から、もう二度と離すまいという瑞葉の意思のようなものを感じる。

 一瞬、これは気落ちした自分を励ますためのリップサービスかとも思った。だが、今はこの力強く抱きしめてくれる腕に籠った思いが、本物であると信じたい。
 瑞葉の胸に額を当てながら、その背に両手を回す。
 すると、瑞葉はさらに言葉を重ねた。

「これは私の身勝手だとわかっている。君のこれまでの努力を否定したくもない。けれど、もうこんな思いをするのはこりごりなのだ。私のためになんておこがましいことを言うつもりはないから、自分のために自分のことをもっと大切にしてくれ」

「わかった……。ごめんね、瑞葉。本当に、ごめんなさい……」

 これはもう、本格的にしばらく顔を上げられそうにない。きっと今、自分は人に見せられないくらいひどい顔をしているから。

 店主と店員としてだけではなく、瑞葉は一人の女の子として自分のことを心配してくれていた。きちんと自分のことを見てくれていた。心配を掛けたことが改めて申し訳なくて、でもそれ以上に心配してくれたことがうれしくて、溜まっていた涙が零れ落ちる。

 いいところを見せたいという不埒な動機から勝手なことをして、その結果として失敗して、瑞葉を含むたくさんの人にたくさん迷惑をかけた。それは、ちゃんと反省しよう。もうこんなことは繰り返さない。それで、瑞葉とずっと一緒にいられるように、もっと自分のことを大事にしよう。

 瑞葉の胸の中で涙を流しながら、菜乃華はしっかりと心に誓うのだった。
 残暑の季節が過ぎ、秋が深まってきた。空は高く、木々が冬支度を始めて色付く今日この頃、菜乃華は瑞葉に指導を受けながら工作に打ち込んでいた。

「久しぶりに来てみれば、嬢ちゃんは何を作ってんだい。学校の宿題か?」

「違いますよ。ちゃんと店主としてのお仕事中です」

 手元から目を逸らさずに、蔡倫の質問に答える。菜乃華が作っているのは、本を入れるための夫婦箱だ。本人の言う通り、神田堂として正式に依頼を受けた品物の作成である。

 本の付喪神にとって、本は命そのものだ。その本を少しでも長持ちさせる一番の秘訣とは何か。それは、劣化や破損の原因から本を遠ざけることである。

 壊れてからの修理では、結局のところ対症療法にしかならず、完全に壊れる前の状態に戻すことはできない。例え見た目上は元通りになっていても、本の寿命は確実に短くなっている。だからこそ、壊さないための対策を講じることが大事になってくるのだ。

 そのため、神田堂では本の修理以外に保存グッズの作成なんかも請け負っている。歯医者などで言うところの、予防歯科といったところだろうか。本の付喪神の町医者を自称するこの店にとって、これも大切な業務の一環なのだ。

 なお、保存グッズの作成については直接本に手を加えるわけではないため、菜乃華しか行えないという縛りはない。誰が作ったものでも、付喪神は問題なく使用することができる。これは製作を請け負う神田堂としても、かなり大きな利点だ。実際、学校がある菜乃華よりも瑞葉の方が迅速に対応できるという事情もあり、特にオーダーメイドの保存グッズ作成は瑞葉が主に担当している。

 ちなみに、瑞葉が作る正確無比な保存グッズは付喪神の間でとても好評であり、ファンも多い。その好評ぶりは、本の付喪神だけでなく多種多様な品物の付喪神が、はるばる遠方から依頼に来るほどだ。神田堂にとっては、割と大きな収入源である。

 しかし、今回の依頼については瑞葉に手伝ってもらいつつも、菜乃華が主導して行っている。その理由は単純明快、依頼人が瑞葉ではなく菜乃華を制作者に指名したからだ。

 夫婦箱の材料であるボール紙に鉛筆で線を引きながら、菜乃華はつい先日の出来事――不思議な依頼人との出会いとおかしな依頼を思い出した。


          * * *


 あれは、今週の月曜日のこと。高校の授業が終わって神田堂にやって来た菜乃華を待っていたのは、瑞葉と一人のお婆さんだった。

「菜乃華、紹介する。こちらは吟さん。和歌集の付喪神だ」

「初めまして、新しい店主さん。吟と申します。どうぞお見知りおきを」

「ご丁寧にどうも。神田堂の店主をさせてもらっています、神田菜乃華です。よろしくお願いします」

 何やらいきなり自己紹介が始まったので、事情もわからないまま、とりあえず名乗り返しておく。

 本の付喪神であり、菜乃華を待っていたということは、たぶんお客さんということなのだろう。握手を交わしながら、ぼんやりとそんなことを考える……のだが、見たところ吟はとても元気そうだ。どこか怪我をしているようには思えない。菜乃華の疑問は募るばかりだった。

「可愛い店主さん、あなたにちょっとお仕事を頼みたいんだけど、いいかしら?」

 すると、吟の方から、そのものずばりな言葉をかけられた。やはり店のお客さんだったようだ。

「お仕事ってことは、本の修理ですか? それなら、すぐにでも対応しますよ」

「ああ、いえ、違うのよ。依頼したいお仕事は、別のこと」

「別のこと……?」

 腕まくりをしかけた姿勢のまま、首を傾げる。

 吟はハテナを浮かべる菜乃華を活き活きとした笑みで見つめながら、「そう、別のこと」と弾んだ声で繰り返した。仕草や声音が、随分と若々しい。まるで少女のようだ。

 ともあれ、仕事が修理ではないのなら、土間で立ち話をしている必要もない。三人揃って、奥の居間に移る。菜乃華が自慢のお茶を淹れてきたところで、依頼話の再開だ。

 話を聞いてみると、吟は神田堂の常連さんで、年に一~二回は夫婦箱の注文に来ているらしい。本人曰く、その日の気分によって自分の本を入れる夫婦箱を変えているそうだ。

 で、吟が前回から約半年ぶりに訪れてみれば、店主が変わっているときた。そこで彼女は、一つ名案を閃いたらしい。そう、「せっかくだから、今回はその新しい店主さんに夫婦箱を作ってもらおうかしら」と……。

「いや、ちょっと待ってください。それはやばいというか、何というか……」

 一方、頼まれた菜乃華は大慌てだ。なぜなら、夫婦箱を作ったことなんてなかったから。

 店主としては恥ずかしい話だが、菜乃華にとっては修復の勉強や訓練が最優先だ。保存グッズ系の依頼は瑞葉に任せきりだったことも相まって、そっち方面の訓練は手つかずとなっていた。無論、商売として商品を提供する以上、そんな素人丸出しの状態で依頼なんて受けられない。菜乃華がやるしかない修復とは、まるで話が違うのだ。

 というわけで、その旨を吟に伝えたわけであるが……何とあっさり一笑に付されてしまった。

「だったら、ちょうどいい機会じゃない。練習だと思ってやってみてくださいな」

「いや、さすがにお客様に提供するもので練習はちょっと……」

「こちらも、あなたが夫婦箱を作ったことがないのを知った上で注文しているんです。ちゃんと使える箱さえ納品してくれれば、文句は言いませんよ。やってみてくれませんか?」

 吟が、「ね?」とおねだりするような笑顔で小首を傾げる。
 こうなると、生粋のお祖母ちゃんっ子であった菜乃華は弱い。自信はないけれど、吟の希望を叶えてあげたくて、うずうずしてきてしまう。

「お願い、店主さん。少しだけ、あたしの道楽に付き合って」

「……わかりました。至らぬ点が多いかと思いますが、精一杯やってみます」

 結局、菜乃華はそのまま吟に押し切られるような形で、依頼を受けることになってしまった。もはや完敗だ。やはりお年寄りには勝てない。

 ただ、吟がとてもうれしそうにしていたので、結果オーライかもしれない。誰かに喜んでもらえると、心の奥から自然とエネルギーが湧いてくる。おかげで、自分でもびっくりするほど気合が入った。

 さて、やるとなれば、ここからは全力だ。吟は夫婦箱として機能すればいいと言っていたが、その言葉に甘えていては神田堂店主の名が廃る。瑞葉が作るものには敵わなくても、今の自分にできる最高の作品を届けたい。
 そのためには、まず情報収集が必要だ。作る夫婦箱の寸法については、過去の記録がたくさんあるようなので、他の部分について相談していく。

「夫婦箱の色や柄はどうしましょう。何かご希望はありますか?」

「そうね……。……じゃあ、あなたに全部お任せするわ」

「へ? お任せ?」

「そう。色も柄も全部あなたが決めてくださいな」

 まさかの回答に、手にしていたペンを取り落としてしまった。
 吟は、菜乃華の反応を楽しむように言葉を続ける。

「こちらで柄なんかを指定してしまっては、どんなものができてくるかは予想できてしまう。そうなると、完成品を見た時の楽しみが減ってしまうでしょう。あたしは、どんな箱ができてくるのかを楽しみにしながら待ちたいのよ。だから、あたしからは何も指定しません。店主さんの好きなように作ってくださいな」

「でも、それだと吟さんの好みにまったく合わないものになっちゃう可能性もありますよ」

「その時はその時よ。店主さんにはまだわからないかもしれないけど、長生きしていると時に刺激がほしくなるものなの。趣味に合わないものが出てくることも、それはそれで一興よ。福袋みたいで楽しいでしょ」

「はあ……」

 唖然としたまま、どうにかこうにか頷く。なかなか享楽的な思考を持ったお婆さんだ。
 隣の瑞葉に目を向けるが、こちらはまた始まったと言わんばかりの苦笑いだ。どうやらこのお婆さん、この手の依頼をよくしてくるらしい。

 しかし、思考が追いついてくると、これは存外面白い依頼だとも思えてきた。菜乃華だって、伊達に中高と美術部に所属してきたわけではない。端的に言って、装飾をどうするか考えるのは心が踊る。腕の、というかセンスの見せ所というやつだ。

 そして、菜乃華のやる気の火種を見透かしたかのように、吟が決め手の一言を放つ。

「そうそう。瑞葉さんや前の店主さんは、同じ条件で随分と素敵な装飾の夫婦箱を作ってきてくれたのよね。あなたの美的センスは、二人を超えられるかしら」

 この言葉が、菜乃華の美術部魂に火をつけた。
 技術ではまだまだ二人に敵わないけれども、美術部で磨いたセンスは負けていないところを見せてやる。一度ついたやる気の炎は、菜乃華の中で見る見るうちに大きく燃え上がっていった。

「わかりました。瑞葉たちに負けない装飾をしてみせます!」

「まあ、楽しみ! じゃあ、あなたらしい夫婦箱を作って、あたしを驚かせてくださいな」

「もちろんです! 任せてください!」

 吟に対し、勢い込んで力強く頷く。
 こうして吟の口車に乗せられ、菜乃華は最終的に意気揚々と依頼を受けることになったのだった。
「なるほどね~。で、嬢ちゃんは打倒|祖母さん、打倒瑞葉に燃えているわけか」

 事の顛末を聞いた蔡倫が、愉快と言いたげな口調で感想を述べた。ここ二週間ばかり別の地方の付喪神を訪ねていた蔡倫は、土産を持って久しぶりの来店だ。顔が広い蔡倫は吟のことも知っているらしく、「面白そうなもんを見逃しちまったぜ」と悔しそうである。

 なお、菜乃華は「別に打倒したいわけでは……」と困ったように苦笑している。

「菜乃華さん、頑張ってください。僕は、菜乃華さんを応援しますよ!」

「な~お」

 一方、こちらは例のごとく遊びに来ていた柊とクシャミだ。すでに事情を知っている彼らは、思い思いのエールを送ってくる。柊に至っては「菜乃華さんファイト!」と書かれたハチマキまで付けているので、その応援はうれしいを通り越して恥ずかしい。

 以前、彼は菜乃華を振り向かせると言っていたが、そのための方法がこれだとしたら、色々と全力で間違っている。完全に迷走している。慎ましやかにお土産を持ってくるだけだった頃の彼が、非常に懐かしい。

「……なあ、柊。お前さん、一体どこに行きつくつもりなんだ」

「どういう意味ですか、蔡倫さん」

「いや、何でもない……」

 柊の変貌ぶりに、さすがの蔡倫も呆れて何も言えない様子だ。できれば諦めずに粘り強く説得してほしかった。

「それで嬢ちゃん、装飾は置いとくとして、箱作りの方は問題なくできそうなのかい?」

「昨日までに何度か練習したので、たぶん大丈夫です」

 菜乃華が言うと、柊が自慢げに夫婦箱を取り出して、蔡倫に見せた。ちょうど良かったので、柊とクシャミの本で練習をさせてもらったのだ。柊用が緑の水玉模様で、クシャミ用が黄色の水玉模様となっている。コンビで色違いのお揃いである。柊からは、「家宝にして、一生大事にします!」と泣いて喜ばれた。

 ともあれ、柊たちの分を含めてそこそこの数の夫婦箱を作ってみたおかげで、コツは大体つかめた。昨日の内に吟の夫婦箱に使う布も買ってきたので、あとは作るだけだ。

 ちなみに本日は十一月三日、文化の日。学校も休みのため、急な依頼さえなければ、夫婦箱作りに一日当てられる。今日中に夫婦箱を作り、明日一日糊を乾かして、明後日の日曜日に届けに行く予定だ。

「よし! 部品の切り出し、完了!」

 蔡倫に事情を話している間に、ボール紙の切り出しも終わった。

「瑞葉、サイズ間違ってないよね」

「見ていた限り、サイズは問題ないはずだ。形の方も……きちんと長方形になっているし、これなら組み立てた時に箱が歪むこともないだろう」

 三角定規で角を計測した瑞葉が、ポンと菜乃華の肩を叩いた。

 九月のあの出来事以来、瑞葉との距離感が少し変わったと思う。あの出来事のおかげというと少し不謹慎かもしれないが、あれ以来、お互いに少しだけ気安さが増した。菜乃華としては、店主と店員という関係から、一歩前進できたという感じだ。それに、神様と人間だからとか、そういう逃げの言い訳も考えなくなった。

 もっとも、現状はそこで足踏み状態となっている。あれからの一カ月半、菜乃華からはこれといった行動を起こせず、もちろん瑞葉からのアクションもなく、片思いを実らせられるような進展はない。さらに距離を縮めていきたい菜乃華からすると、何とも歯がゆいところである。

 ただ、ここで焦りは禁物だ。幸いなことに、瑞葉の周りには菜乃華以外の女性の影はない。つまり、今のところ菜乃華に恋のライバルはいないということである。

 ならば、じっくり長期戦の構えで行けばよい。二人の時間を積み重ねて、自然とそういう関係になっていく。これが現状考えられるベストアンサーである。……というか、恋愛初心者かつ奥手でチキンな菜乃華には、それしか取れる方法がない。もちろん告白なんて、もっての外だ。そんなもの、実行前に心臓発作を起こして倒れてしまうだろう。

 そう考えると、柊はすごいと言わざるを得ない。柊に告白された時と、それからの日々を思い返す。告白時の思い切りの良さとその後のなりふり構わない様は、菜乃華も少し見習うべきかもしれない。
 横目でこっそりと柊の方を見る。彼はカバンから、手作りと思われる応援団扇を取り出していた。視線を手元に戻す。あれは見本にも手本にもしてはいけないと悟った。

「どうかしたか、菜乃華」

「何でもない。さあ、続き、続き!」

 瑞葉に晴れやかな笑顔で返答しながら、作業の続きに取り掛かった。

 夫婦箱は本を収納する側と蓋となる側のケース、そして二つのケースをつなぎ合わせる表装の三つのパーツからなる。
 まず組み立てるのは、二つのケースだ。本を収納する側と一回り大きな蓋側のケースをそれぞれ組み立てていく。

「夫婦箱の名前の由来って、この二つのケースがぴったりと合わさる様からきているんだっけ? 素敵な由来だよね」

「素敵、か……。その発想はなかったな」

「え~。瑞葉、それはちょっとロマンス成分が足りてないよ」

 接着剤が固まるのを待ちながら、菜乃華は瑞葉と取り留めもない会話を交わす。こういう何気ない会話をたくさん重ねることが、長期戦では大事だと思う。
 接着剤が乾いてケースの形が固まったら、ケースの内面全体と外側の側面を覆うように、布を貼っていく。布に皺が寄ってしまったり、ボール紙から浮いてしまったりしないよう、十分に気を遣って行う。

「上手に仕上げるコツは、ヘラを使ってケースの角や隅にきちんと布を接着すること、だよね」

「そうだ。使う相手のことを思って、丁寧に。修復と同じで、それが基本だ」

 真剣な顔で呟く菜乃華に、瑞葉も微笑みながら相槌を打つ。
 ケースを覆う布のカラーは、明るめのベージュである。ふんわりと柔らかい、本を優しく包み込んでくれるような色合いだ。

「うん、上出来、上出来」

 瑞葉にアドバイスをもらいながら、作業すること幾ばくか。予想していたよりもいい感じに仕上がって、菜乃華も満足げに頷いた。

 再び接着剤がある程度乾くのを待ち、二つのケースを重ね合わせてみる。抵抗なくすんなりと、しかし隙間なく二つのケースが重なった。おそらく、これまでで一番良い出来だ。これなら使い勝手も悪くないだろう。店主としてもらっている給料をつぎ込んで練習用の材料を買い、失敗も含め、何度も練習した甲斐があった。

「実践を重ねるごとにうまくなっていくな。最初の頃とは雲泥の差だ」

「最初に作ったやつは、両方のケースが同じサイズになっちゃってたもんね。やっぱり、最初から全部一人でやってみるのは失敗だったよ。ケースの上にケースがぴったり載っちゃった時は、開いた口が塞がらなかったもん」

「ああ。確かに、あの時の君の顔は面白かったな。思わず笑ってしまったよ」

「あー、ひどい! わたしは一生懸命やっていたのに、瑞葉は後ろで笑ってたんだ」

「すまない、許してくれ。君がいつでも懸命なのは、私もよくわかっているよ。それにこれだけの箱を作れるようになったなら、そう遠くない内に他の夫婦箱作りの依頼も任せられそうだ」

「本当!? そしたらわたし、頑張っちゃうよ」

 こんな軽口を叩き合えるようになったのも、気を許せる間柄になってきたからだろう。
 ともあれ、瑞葉からもお褒めの言葉をもらい、菜乃華のテンションが跳ね上がった。もう何でも来いといった心境だ。
 気分が良いまま、次の作業に移る。ケースの組み立てが終わったら、次に作るのは表装だ。

「表装に使うボール紙のパーツって、ちょうどハードカバーの表紙と同じ構成だよね。ケースの底と合わせる部分が表紙・裏表紙って感じで、その間にある箱の厚さ分の細長いボール紙が背表紙」

「正しくその通りだ。表装の作り方は、くるみ製本の表紙の作り方とほぼ同じだからな」

 口にした通りの並び順で、菜乃華はパーツを表装用の布の上に並べていく。表装に使用する布は、白地にパステルピンクのギンガムチェック柄にしてみた。パーツを布で包むように接着し、完成時にボール紙が見えないようにする。

 最後に二つのケースの底の外側に接着剤を塗り、表装と合体させれば、夫婦箱の完成だ。
「よし、できた!」

 大きく息を吐きながら、額にうっすらと浮かんだ汗を拭う。十一月にもなって汗をかいてしまったあたり、自分でも思っていた以上に集中していたようだ。

 もっとも、その集中力のおかげでいい仕事ができた。完成した箱を見下ろし、菜乃華は満足げに頷く。ケースの噛み合わせがうまくいった時から予感していたが、これなら商品として出しても申し分ないと思う。

 ただ、吟に気に入ってもらえるかは、どうだろうか。吟は「菜乃華らしい夫婦箱を作って」と言っていた。そういう意味では、個人的に少しだけ物足りない気が……。

「あ、そうだ」

 余った表装用の布に目を止め、ポンと手を打つ。

「瑞葉、ごめん。ちょっと外に出てくるね」

「外に? どうかしたのか?」

「ちょっと追加の買い出し。すぐ戻ってくるから」

 瑞葉に答えつつ、帳場の手提げ金庫から百円玉を一枚取り出す。これだけあれば、十分だろう。百円をポケットに入れ、神田堂を後にする。

 路地を駆け抜け、ここのえ商店街に出たら、近くの駄菓子屋に飛び込んだ。
 小さい頃から通い慣れたお店だ。目的のものは、すぐに見つかった。ただ、思っていたよりも形に色んな種類がある。ハートや貝殻といったオーソドックスなものから、珍しいものだとベルの形をしたものまで。これだけ選びたい放題だと、逆に迷ってしまう。

「箱を開けた時のことを考えたら、できるだけ平べったいものの方がいいかな。色は、表装の布に合わせて……」

 独り言をつぶやきながら五分間熟考し、厳選した一つを手に取る。店番をしていたおばちゃんにお金を払い、菜乃華は神田堂へ取って返した。

「ただいま!」

「おかえり。何を買ってきたのだ?」

「ん? これだけど」

 不思議そうに首を傾けた瑞葉に、買ってきたものを見せる。それは、四つ葉のクローバーの形をした宝石のようなものだった。

 瑞葉は難しい顔で眉根を寄せながら、さらに首を傾げる。

「なんだ、これは?」

「何って、アクリルアイスだよ。アクリルでできたおもちゃの宝石」

 瑞葉の珍しい表情を堪能しつつ、買ってきたものの正体を告げる。菜乃華が買ってきたのは宝石のおもちゃ、いわゆるアクリルアイスやアクリル宝石と呼ばれるものだ。

「ほう。初めて見た」

「へえ、そうなんだ。ちょっと意外」

 菜乃華の手からクローバーをつまみ上げ、瑞葉が物珍しそうに光にかざす。その瞳は、未知のものに触れて心をときめかせる、少年のような好奇心で満ちていた。
 瑞葉が初めて見せた表情に、菜乃華も自然と心を弾ませる。

「おもちゃでも、結構よくできているでしょ」

「ああ。とてもきれいだ」

 瑞葉の何気ない一言に、菜乃華の心臓が大きく跳ねた。その穏やかな声音での「きれいだ」は、反則だと思う。自分に向かって言われた言葉ではないとわかっていても、思わずときめいてしまう。

 何やら居間から歯ぎしりするような音がしたが、聞こえなかった振りをする。アイドルの追っかけみたいな恰好をした青年なんて、知りません。

「夫婦箱の装飾に、もう一工夫しようと思ってね。駄菓子屋さんで買ってきちゃった」

 瑞葉からアクリルアイスを受け取り、菜乃華は再び作業台の前に立った。材料も揃ったので、作業再開だ。
 何かに使えるかもと持ってきておいたピンクのリボンとピンキングハサミを使って、小さなリボンの花を作る。クローバーのアクリルアイスは、結び目部分のアクセントとしてあしらった。

「ほう、うまいものだな」

「前に、家庭科部の友達に仕込まれてね。今では、目をつぶっていても作れるよ……」

 感心した様子の瑞葉に向かって、菜乃華が力なく笑う。
 家庭科部の友達とは、もちろん唯子である。今年の文化祭の直前、「ちょっと手伝え!」と家庭科室に連行され、延々とこのリボンの花作りを手伝わせられたのだ。あの夜は、夢の中にまでリボンが出てきて大変だった。

 ともあれ、リボンの花を接着剤で表装にくっつければ、ワンポイントの完成だ。どこかのっぺりとした印象だった表装に、立体感が生まれた。できるだけかさばらないように作ったから、箱を開いた際も、それほど邪魔にはならないだろう。

「これでよし!」

 表装にアクセントをつけたことで、菜乃華の中にあった物足りなさもなくなった。吟に気に入ってもらえるかは相変わらずわからないが、自分らしさという点ではこれで文句なしだ。

「できたか。お疲れ様、嬢ちゃん」

 菜乃華が道具の片付けを始めようとすると、蔡倫が土間に出てきた。その後ろに、柊とクシャミが続く。

「可愛らしい箱ですね。女の子らしくて、すごくいいと思います!」

「ありがとうございます、柊さん。それと、いい加減そのハチマキと団扇をしまってください」

 アイドルの追っかけのような姿のまま力説する柊を、菜乃華も満面の笑顔でバッサリと切り捨てた。そんな恰好のままでは、どんなにいいことを言われても、まったく心に響かない。柊への好感度ダダ下がり状態の菜乃華は、もはやオブラートに包むこともなく本音で要求をぶつける。ある意味、ここまで本音をぶつけられる付喪神は柊だけである。恋愛的好感度は、そろそろ最底辺だが。

「これですか? あ、もしかして法被とかの方が、僕の気持ちが伝わりますかね」

「そんなもの着てきたら、翌日から出禁にしますからね」

 しかし、相手は恋に現を抜かして迷走一直線の柊だ。斜め上を行く思考で、とんでもない剛速球を返してきた。本当に法被を着てこられたら適わないので、速攻で釘を刺しておくが……どれだけ効果があることやら。
 菜乃華がどっと疲れた様子でため息をついていると、蔡倫が手際よく片付けを進めていた瑞葉に声を掛けた。