秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

「それでは、早速修復を始めよう」

 作業スペースに、瑞葉の涼やかな声が響く。
 今この場にいるのは、菜乃華と瑞葉、そして修復を受けるクシャミのみだ。作業に集中できるよう、柊には席を外してもらっている。

 余談だが、今の状況を作るまでが、また一苦労だった。なぜなら、柊が「自分もここにいます!」と、ずっとごねていたからだ。それはもう、梃子でも動かぬと言わんばかりに頑固だった。

 また柊に取り乱されると大変なので、修復中は外で待っていてほしい。けれど、それを本人に直接言えるほど、勇猛果敢にはなれない。おかげで菜乃華は大弱りだ。強情な柊を前に、どうしたものかと途方に暮れた。

 すると、困り切った菜乃華に救いの手が差し伸べられた。

「君は心配性過ぎるきらいがあるからな。作業を見て取り乱されると、一番困るのはクシャミだ。気になるのはわかるが、ここは我々に任せてくれ」

 瑞葉が菜乃華の代わりに進み出て、苦笑混じりに説得してくれたのだ。はっきりものを言える店員に感謝である。

 柊も、取り乱した自分が何をするかわからないことは理解していた。実際、それでクシャミの本体のページを破ってしまったわけであるし。真正面から指摘を受けて熱が冷めた柊は大人しく引き下がり、「一時間後に戻ります」と店を後にしたのだった。

「今回は、ページの抜け落ちと破れの補修となる。おあつらえ向きなことに、昨日までに練習してきた内容だ。菜乃華、修復方法は覚えているか?」

「うん。大丈夫だと思う」

「よし。では、時間もないからな。道具を用意したら、破れたページの補修から始めよう」

 手順を確認し、菜乃華と瑞葉は手分けして道具の準備を始めた。

 菜乃華は水汲み係として台所へ直行する。その間に、瑞葉が箪笥から必要な道具を取り出していく。長年この仕事をやってきただけあって、瑞葉の手際の良さは抜群だ。一分もしない内に、筆や澱粉糊などの道具が、作業台の上に並んだ。

「まずは修復用の糊を作ろう。やり方はわかるな」

「任せといて」

 菜乃華はドンと胸を叩き、澱粉糊と水、食品用のラップに手を伸ばした。
 同時に、瑞葉がつい先日教えてくれたことが、頭の中でリフレインする。

『菜乃華、よく覚えておけ。市販の澱粉糊は、そのままでは本の修復に適さない。取り出したままの濃度で使うと、糊が乾燥した際に、紙が必要以上に固くなってしまうからだ。特に古い本の修復では、それが更なる損傷につながってしまうことだってあり得る。故に、水を使って糊を適正な濃さまで薄める必要がある』

 菜乃華にとっては、正に目から鱗の事実だった。もちろん、セロハンテープを使うなんて、もってのほか。百害あって一利なし、だ。それを聞いて、自分の本が破れた際にセロハンテープを使っていた菜乃華は、責められたわけでもないのに肩を落としたものだ。
 ともあれ、瑞葉の教えに従って、糊を準備していく。

「糊をラップの上に乗せて、水をかけてっと」

 マニュアルの内容を復唱しながら、せっせと手を動かす。澱粉糊に水をかけ終わったら、ラップで包んで揉み解す。こうすることで、水と糊を斑なく混ぜることができるのだ。

 しばらくすると、のりはドレッシング程度の固さになった。早速、できあがった糊を瑞葉に見せる。

「瑞葉、これくらいの固さでいいかな?」

「そうだな……。紙が脆いから、もう少し水を加えた方が良いだろう」

「もう少しだね。了解、やってみる」

 瑞葉にアドバイスをもらい、糊に水をもう数滴垂らす。水を加えたらラップを閉じて、もう一度揉み解していく。
 十分混ざったら、再び瑞葉に確認してもらい、今度はOKをもらうことができた。これで、糊は完成だ。

 いよいよ次は本当の本番。本の修復開始である。

 クシャミの本体の前に立ち、一つ深呼吸する。心を落ち着かせ、作業台の上の文庫本を手に取った。
 まずは、破れたページの修復だ。柊が破いてしまったページを開いたら、他のページを汚さないよう、適当な紙を挟んでおく。

「本は私が支えておく。君は作業に集中しろ」

「了解。ありがとう、瑞葉」

 開いたページを瑞葉に預け、利き手に筆を取る。今回は手で破った傷のため、破れ目の断面が斜めになっていて、重なる部分ができている。これなら、断面に直接糊を塗れるから、貼り合わせるだけできれいに直せるだろう。糊をちょんちょんと筆先で少量すくい、慎重に破れた断面へ塗っていく。

「できるだけはみ出さないように、焦らず、ゆっくりと。これを忘れるな」

「焦らず、ゆっくりと……」

 瑞葉の言葉を復唱しながら、作業を進めていく。断面部分すべてに糊を塗り終わり、ページの破れた部分を貼り合わせる。
 ただ、貼り合わせた際、少し糊がはみ出てきた。少し糊が多かったようだ。

「瑞葉、これって固く絞った濡れ布巾で丁寧に拭き取っておけばいいんだっけ?」

「ああ、そうだ。そこに用意しておいた布巾で大丈夫だから、糊が乾く前に手早くやってしまおう」

「OK!」

 瑞葉に本を支えてもらったまま、布巾ではみ出した糊を拭っていく。
 最後に、糊で貼り合わせたページをクッキングシートで挟む。クッキングシートには糊がくっつかないから、これできれいに乾かせるはずだ。

「よし、できた!」

「ああ、上出来だ。よくやった、菜乃華」

 額の汗を拭って一息つく菜乃華へ、瑞葉も合格点を出す。
 上々の滑り出しだ。菜乃華もうれしそうに頬を緩めた。
「では次、抜け落ちたページの修復に入ろう。早くしないと、あの心配性が戻ってきてしまうからな」

 瑞葉につられて時計を見れば、柊が店を出て、もうニ十分近く時間が経っていた。初めての修復ということで、想像以上に慎重になっていたようだ。

 これは確かに、てきぱきと作業をした方がいいだろう。戻ってきた柊が作業を目にしたら、心配のあまり気絶でもしかねない。瑞葉へ「うん」と短く返事をして、すぐに次の修復の手順を頭の中で整理した。

 文庫のような無線綴じの本のページが抜け落ちた場合は、その量によって対応が変わってくる。今回は、幸いにも抜け落ちたのが二枚ということなので、糊を塗って元の場所へ差し込むやり方で修復していくことになる。一番容易な直し方だ。

「ページがごっそり抜け落ちてなくてよかったよ。その場合は、本を再製本しなくちゃいけないんだよね? そうなっていたら、わたしにはどうしようもなかった」

「確かに。そこは不幸中の幸いだった」

 菜乃華の所感に、瑞葉が同意を示す。何はともあれ、まずは取れてしまったページへ、糊をつけるところからだ。

 作業台を汚さないように大きな紙を敷き、その上に取れたページを載せる。そして、ページの上にさらにもう一枚、紙を重ねた。ページの上に重ねたこの紙は、ピンポイントで糊を塗るためのカバーだ。上に重ねた紙をずらし、ページの端がニ~三ミリくらい飛び出るように調整する。

 これで準備は完了だ。あとは、糊を塗っていくだけである。

「先程と同じで、糊は塗り過ぎないように注意するんだ。糊がはみ出て、他のページが開かなくなったら大変だ」

「大丈夫。わかってるよ、瑞葉」

 瑞葉の忠告を胸に止め、筆を滑らせる。
 多過ぎず、少な過ぎず。先程の修復を思い出しながら糊を塗り、終わったらページをひっくり返す。そして、裏側も同じように糊を塗っていく。

「……よし! こんなものかな」

「塗り終わったか。それでは、糊が乾かないうちに本へ差し込んでしまおう」

 ページを差し込みやすいよう、瑞葉が再び文庫本を開いたまま支える。菜乃華はそこへ、下敷きを添えたページをゆっくりと下ろしていった。

「ページが弛まないようにピンと引っ張る……」

「そうだ。そして、ページが本の天と地からはみ出ないよう、下ろしながら微調整していけ」

 菜乃華の呟きに相槌を打つように、瑞葉が言う。

 それを聞きながら感覚を尖らせ、菜乃華は指先に全神経を集中させた。菜乃華の頭の中に、余計な考えが入る隙間は一切ない。今行っている作業だけに、全身全霊を注ぐ。

「いいぞ、菜乃華。そのまま慎重に、だ」

 瑞葉の声が、隣から聞こえてきた。

 ただ、それはどこか遠く、言うならばテレビから流れてくる音声を聞き流している感じだ。無意識にうちに、外からの音をシャットアウトしているのだろう。

 震えそうになる手を精一杯抑えながら、ゆっくりとページを差し込んでいく。慎重に差し込まれたページは、下敷きを支えにして本の背の付近まで到達した。

 最後に、ヘラでこするようにして差し込んだページをくっつけ、本を閉じる。
 同様の作業をもう一回繰り返し、最後に本の上に重しを乗せて、修復完了だ。

「……終わったぁ~」

 菜乃華が崩れるようにイスへ座り、大きく息を吐いた。無事に作業が完了して、緊張の糸が解けたのだ。瑞葉も「お疲れ様」と、無事に修復を終えた菜乃華を労うように、彼女の肩を軽く叩いた。

 すると、その時だ。菜乃華の目の前で突然、大人しく作業を見守っていたクシャミが光り始めた。

「み、瑞葉、クシャミちゃんがまた光ってるよ!」

「まあ見ていろ」

 焦る菜乃華に、瑞葉は意味深な笑みを浮かべて答える。
 そのやり取りの間にもクシャミを包む光は強さを増していき、やがて軽い破裂音と共に弾けた。飛び散った光の粒に驚いた菜乃華は、「きゃっ!」と声を上げ、目を閉じる。

「菜乃華、もう大丈夫だ。目を開けてみろ」

 おかしそうに笑っている瑞葉に従い、ゆっくり目を開ける。
 そして、自らの目に飛びこんできた光景に、菜乃華はうれしそうな声を上げた。

「クシャミちゃんの前脚がくっついてる! ハゲもなくなってる!」

 光が治まった後、そこには怪我がすべて治ったクシャミが座っていた。
 クシャミは「な~」とあくびをし、くっついた前脚で顔を洗っている。相変わらずのん気なものだが、心なしか前脚がくっついて喜んでいるように見えた。

「お邪魔します。菜乃華さん、クシャミの本の修復はどんな感じですか?」

 と、そこに外へ出ていた柊が戻ってきた。彼は顔を洗うクシャミを見るや、涙を滝のように流して、相棒の体を抱き上げた。

「クシャミ、元気になったんだね! ああ、良かった。本当に良かった!」

 よほどうれしかったのだろう。柊はクシャミを高い高いしながら、踊るようにその場で回っている。
 なお、クシャミは高い高いがうっとうしいのか、不満げに「な~む」と鳴いていた。本当に、変てこな凸凹コンビである。

 そのまま菜乃華たちが見守っていると、いい加減、柊の方も体力が尽きたのだろう。全力疾走した後のように呼吸を荒くしながら、彼はクシャミを机に下ろした。

「あ、そうだ……。お代、お代……」

 息も絶え絶えな柊が、瑞葉に修復のお代を渡す。

 お金の管理は、昔からの担当ということで瑞葉の役目だ。菜乃華は、隣で見ているだけである。瑞葉は土間の片隅ある帳場へ行って、慣れた手つきで帳簿を付け、柊にお釣りを返した。
 後はみんなでお茶を飲みながら、クシャミの本の糊が乾くのを待つ。

 その際の雑談がてら柊が教えてくれたことによると、どうやら付喪神は生きていくための飲食を必要としないらしい。食べ物の味はわかるし、趣味嗜好として食事やお茶を楽しむことはあるが、あくまで楽しんでいるだけだそうだ。よって、柊が毎日料理をするのも、単純な趣味とのことだった。

 ちなみに、質実剛健かつ質素倹約な瑞葉は、付き合いや宴以外で自発的に飲食をすることはないらしい。もっとも、一応好物はあるようで、筑前煮が好きとのことだった。昔、祖母がお裾分けしてくれたものを気に入ったそうだ。菜乃華は一応覚えておこうと、心のノートにメモをした。

「……よし、そろそろ大丈夫だろう」

「お! 乾きましたか。では、僕たちはこの辺で失礼します」

 待つこと、小一時間ほど。文庫本を確認した瑞葉のOKが出たところで、柊たちが席を立つ。
 菜乃華と瑞葉も、柊たちを見送るため、店の軒先まで出ていった。

「菜乃華さん、瑞葉さん。クシャミの怪我を治してくださり、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません!」

 店を出た柊は、菜乃華たちに深々と頭を下げる。
 柊の顔に浮かんでいるのは、晴れやかな笑顔だ。見れば、彼の腕に抱かれたクシャミも満足そうに「な~お」と鳴いている。

 そんな依頼人たちの面持ちに、菜乃華も胸が温かくなるのを感じた。

「こちらこそ、ご利用いただき、ありがとうございます。お大事にしてくださいね」

「ご丁寧にどうも。もうクシャミの尻尾を踏まないよう、気を付けます」

 柊と二人で、和やかに笑い合う。
 その上で、上目遣いに柊の顔を見つめる。せっかく、こんな面白いコンビと知り合えたのだ。この縁を、これっきりにしてしまうのはもったいない。

「それと、もしよろしければ、またクシャミちゃんと一緒に遊びに来てくれるとうれしいです。今度は、依頼とか関係なしに。わたし、待っていますから」

 言った瞬間、なぜか柊の頭から湯気が上がり、顔がみるみるうちに紅潮していった。

「は、はい! ぜひ、お邪魔させていただきます。それはもう、毎日でも!」

 どこか夢見心地のような表情をした柊が、菜乃華の手を握った。予想外の反応に、菜乃華も若干引いてしまう。

 あと、背後からも変な気配を感じた。こう、獲物を狙う瞬間の肉食動物的なというか、怒髪天を突いた不動明王様的なというか、そんな気配が……。
 もっとも、気配を感じたのは一瞬で、すぐに何事もなかったように消えてしまった。

「……あいつは本当に単純だねぇ~。ちょっと優しくされたくらいで、あそこまで舞い上がるとは」

 音がしそうなほど手を振る柊と、彼に抱かれたクシャミを見送っていたら、横から聞き覚えのある声が上がった。菜乃華と瑞葉が振り返ると、いつの間にか蔡倫がそこに立っていた。

「蔡倫か。お前はいつも突然現れるな」

「へへっ! まあ、神出鬼没はオイラの売りの一つなんでね。あと瑞葉、さっきの殺気はちょっとばかし大人気なかったぞ」

「気にするな」

「そうかい、そうかい。お前さんも大変だねぇ~。ちなみに今のは、父親的なあれか? それとも……」

「やかましい」

 からかうような態度の蔡倫を、瑞葉が殺伐とした口調であしらう。
 初めて見る瑞葉の態度に、菜乃華も不思議そうに首を傾げた。

「まあ、瑞葉の方はいいや。……時に嬢ちゃん」

「はい?」

「どうだい? 初仕事を終えて、何か見えたものはあったかい?」

 菜乃華を見る蔡倫の目は、どこか試すような色合いを含んでいた。何だか本物のお坊さんみたいだ。

 その横では、瑞葉も『私も聞かせてもらおう』という顔で、菜乃華の返答を待っていた。

 二人に見つめられる中、改めて自身の初仕事を思い返す。それだけで、菜乃華の胸に様々な思いが満ちてきた。
 初めて知った、仕事の緊張感。瑞葉という先生兼パートナーの頼もしさ。そして、今も心に残る例えようのない達成感。すべて、この仕事を通して得られた、かけがえのない経験だ。

「もちろんです! この仕事を好きになれるものが、たくさん見えました!」

 故に、菜乃華は蔡倫の問い掛けに対して堂々と胸を張り、力一杯頷く。
 すると、満足げに微笑んだ瑞葉が、おもむろに菜乃華の頭を撫でてきた。

「私も、君との仕事は楽しかった。改めて、神田堂に来てくれてありがとう」

 瑞葉の言葉はどこまでも優しく、頭に載せられた手は何よりも温かくて……。菜乃華の頬は朱に染まり、胸の鼓動はどこまでも高鳴っていく。

 そして今この瞬間、菜乃華は不意に気付いてしまった。自分は目の前に立つこの青年に、恋をしてしまったのだと。

 土地神様、できればもう少しだけ、このままでいさせてください。
 微笑む瑞葉の顔を見上げ、菜乃華はそう願わずにはいられなかった。
 九月。菜乃華が神田堂の店主になって一カ月半ほどが経った、とある夜のこと。草木も眠る丑三つ時でありながら、九ノ重神社の母屋の二階、菜乃華の部屋にはいまだに煌々と明かりが灯っていた。

「ハードカバーのノドの修復は、編み棒や竹串に糊を均等にたっぷりつけて……」

 机に向かい、図書館で借りてきた修復マニュアルをノートに書き写していく。机の上には、他にも和紙で作った喰い裂きやら澱粉糊やらが並んでいる。本の修復について、勉強と練習をしているのだ。

 二週間前から二学期が始まり、神田堂にいられる時間が極端に減った。お客さんは元々少ないので店は回っているが、菜乃華にとっては本の修復について勉強する時間が取れなくなったのが地味に痛い。

 これでは、新しい修復方法を覚えることもできないし、今まで覚えた修復の練習をすることもできない。神田堂の店主をやっていく上で、実に厄介な状況だ。新しい修復方法を覚えることができなければ、対応できる依頼が限られてしまう。練習ができなければ、腕は上がるどころか鈍ってしまう。

 瑞葉からは、自分の生活を大切にして、焦らずゆっくりやっていけばいいと言われた。
 だけど、その言葉に甘えているわけにはいかない。今のままでは、一人前の店主になるまでに、何年かかってしまうかわからない。

 そう考えた菜乃華は、二学期が始まって早々に決意した。一日でも早く祖母に追いつくために、生活サイクルをがらりと変えたのだ。

 よって、現在の菜乃華の一日は、昼間は学校、夕方は神田堂、夜は学校の予習・復習、深夜に修復の勉強となっている。一学期までと比べて睡眠時間が半分ほどになってしまったが、とやかく言っている暇はない。学校の成績を落とさず、神田堂の店主としても一人前を目指すなら、多少の無理は覚悟の上だ。

 すべては、祖母から引き継いだ神田堂を守っていくため。自分に喝を入れながら、勉強に励む。

「……で、最後に本の上下を板で挟んで、上に重しを乗せて乾かすっと。よし、OK!」

 ノートへのメモが終わり、マニュアルを閉じる。

 同時に、菜乃華は大きなあくびをした。スマホで確認すれば、現在の時刻は午前二時半を回っていた。朝は六時に起きないといけないから、もうそろそろ寝ないとまずい。
 菜乃華は机と部屋の電気を消し、もう一度大きなあくびをしながら、ベッドに潜り込んだ。


         * * *


 菜乃華の朝は、境内の掃除から始まる。Tシャツに短パンというとてもラフな格好で外に出た菜乃華は、あくびを噛み殺しながら竹箒を手に取った。

「おはよう、菜乃華」

「おはよう、お父さん。ごめん、寝坊しちゃった」

 すでに掃除を始めている父に謝りながら、せっせと手を動かす。
 起きるつもりだった時間から、すでに十分以上寝坊している。さっさと掃除を終わらせてしまわないと、朝ご飯を食べている時間がなくなってしまう。頬をつねって眠気と戦いながら、石段の上を掃いていった。

 ただ、睡眠三時間半はやはりきつい。気を抜くと、自然と瞼が落ちてきてしまう。集中力を欠いているからか、掃除も一向にはかどらない。いつの間にか箒の柄に顎を載せていて、起きているのか寝ているのかわからない状態になってしまう。

「顔、洗おう……」

 このまま掃除をしても、効率が悪い。というか、バランスを崩して石段から転げ落ちてしまう。社務所の脇にある水道のところまで行き、気付けに水を顔へ引っかけた。朝の水の冷たさで、意識が少しだけはっきりする。

「……菜乃華」

「はい?」

 ハンドタオルで顔を拭いていると、父が後ろに立っていた。

「随分と眠たそうだな。顔色もそんなに良くないし、大丈夫か?」

「うん、平気。顔洗ったらすっきりしたし、目も覚めた」

 嘘だ。本当は意識がはっきりしたのも少しの間だけで、すぐに眠気がぶり返してきている。体もだるくて、心なしか頭痛もした。

 けれど、父に心配はかけたくない。気遣わしげな様子の父に向かって、精一杯の笑顔で首を振った。
 すると、父はやれやれとでもいうように深くため息をついた。

「お前、ここのところは二時過ぎまで起きていて、あまり寝ていないだろう」

「――ッ!」

 自分が何時まで起きているか正確に言い当てられ、菜乃華は思わず目を丸くしてしまった。

 神主の父は生活習慣も規則正しく、寝るのも早い。どんなに遅くとも、夜の十一時には毎日就寝している。それは、父のライフサイクルに合わせている母も同じだ。
 だから菜乃華も、父が自分の就寝時間を知っているなんて思いもしなかったのだ。

「お父さん、寝るの早いのに、よく知ってるね」

「先週、夜中に目が覚めた際に偶然知った。最近のお前の様子を見る限り、毎日あのような無茶をしているのだろう」

 さすがは父だ。見ていないようでいて、きちんと菜乃華のことを見ている。それがうれしくもあり、同時に少し心苦しい。

「お前が、なぜそのようなことをしているかはわかる。それに、学校の勉強やうちの手伝いを疎かにしていないことも知っている。だから、私もあまり強くは言えないのだが……あまり無理はするなよ。それと、辛ければ境内の掃除も休んでいい」

「ありがとう。でも、自分で決めたことだから。神田堂を理由に、学校や神社の手伝いを投げ出したりしないよ」

 そんなことをしたら、きっと祖母は悲しむだろう。それにきっとあの人も……。一日も早く一人前の店主にはなりたいが、そのために他のあらゆることを放り出していたら本末転倒だ。

 今までこなしていたことは、これからもきちんとこなす。その上で、神田堂の勉強も頑張る。そんな気持ちを込めて、父に向かってもう一度微笑んだ。

「大丈夫。わたし、お父さんが思っているよりも頑丈だから。少しくらいの寝不足なんて、へっちゃら、へっちゃら!」

「まったく……。我が強いところが、母さんそっくりだ。似なくていいところばかり似てしまって……」

 菜乃華が力こぶを作って見せたら、父は頭をがりっと掻きながら、再び深いため息をついた。
 明らかに呆れられている。そして心配されている。これには菜乃華も、笑って誤魔化すしかなかった。
 チャイムが鳴り、数学の教師が教室から出て行く。今日一日の授業が終わり、教室内は開放的な空気に満たされた。

「あ~、ようやく終わった~。疲れた~」

「なーにが『疲れた~』よ。あんた、授業中ずっと、舟漕いで夢の世界に旅立っていたじゃない」

 うーんと伸びをしていたら、丸めたノートで頭をはたかれた。
 反射的に頭を押さえて後ろを振り返ると、からかい混じりのにんまりとした笑顔と目が合った。

「痛いよ、唯子」

「ごめん、ごめん! けど、少しは目、覚めたでしょ?」

 唇を尖らせて抗議すると、犯人は悪びれた様子もなくケラケラと笑った。
 彼女は、長沢唯子。菜乃華の小学校時代からの友人で、今年で十一年連続同じクラスの腐れ縁だ。この学校において、もっとも気を許せる親友である。

「わたし、そんなに舟漕いでた?」

「漕いでた、漕いでた。ボート部に紹介したくなるくらい、見事にね。森田先生、何度もあんたの方見ていたよ」

 窺うように尋ねてみると、唯子は面白いものを見たと言いたげな顔で何度も頷いた。後頭部で結ばれた髪が、犬の尻尾のように勢いよく揺れている。

 そんな親友を前にして、菜乃華は思わず頭を抱えてしまった。父に「大丈夫」と言ったそばからこれだ。情けなくてため息が出てくる。

「最近のあんた、ずっとそんな感じだよね。慢性的に寝不足っていうかさ。毎晩何やってんのよ」

「まあ、ちょっと色々あってね」

 目を逸らしながら、言葉を濁す。

 さすがに、「お祖母ちゃんのお店を継いで、その修行中!」とは言い辛い。付喪神やら何やらが関わってくるとあってはなおさらだ。一応、神様が人間に交じって普通に暮らしていることは秘密らしいし。
 あと、寝不足の頭で妙なことを口走って、唯子から痛い子扱いされるのは避けたい。

「言い難いことなら別にいいけどさ。寝不足はお肌の敵よ。あんたも一応花の女子高生なんだから、少しは美容に気を遣いなさい」

「はいはい。御心配いただき、どうもありがとう」

 頬をつついてくる唯子をあしらいつつ、教科書やノートを手早くカバンに詰めていく。
 唯子はまだにまにまと笑っているが、さらに事情を問い質そうとはしてこなかった。ここら辺の不要に深入りし過ぎない距離感は、正直有り難い。さすがは腐れ縁の親友だ。よくわかっている。

「それはそうと、菜乃華、今日の午後って時間ある? 駅前に先週オープンしたクレープ屋、一緒に行かない?」

「ああ、ごめん。今日はこれから行くところがあるんだ。また今度ね」

「ええ~、今日も用事なの!? 菜乃華、最近付き合い悪過ぎ~。私、寂しくて泣いちゃうぞ、こんちくしょう!」

 ブーイングを飛ばす親友に、「ホントごめん!」と拝むように手を合わせた。
 菜乃華だって、唯子と遊びに行きたい気持ちはやまやまである。けれど、半日授業の土曜日は、瑞葉に本の修復をみっちり教えてもらうチャンスなのだ。半人前店主の菜乃華としては、このチャンスを逃すことはできない。

「寝不足のことといい、もしかしてバイトでも始めた? もしくは彼氏でもできたとか? 毎晩、寝る間も惜しんで愛の語らいですか? だったら許さんぞ、リア充め! 自分だけ幸せになれると思うなよ」

 唯子が自分で言った推測に対して、勝手に盛り上がり始めた。
 一方的に嫉妬の炎をぶつけられた菜乃華は、微妙なラインをついたその推測に苦笑するしかない。

 バイトというのは、当たらずとも遠からず。なかなか良い勘だ。正解は、新米店主として修行中である。
 一方、彼氏の方は残念ながら完全にはずれだ。もっとも、気になる……というか絶賛片思い中の相手がいないわけではないけれども。

 菜乃華の頭の中に、神職のような和装に身を包んだ、涼やかな面持ちの青年の姿が浮かぶ。このひと月半ほど、毎日顔を合わせてきた相手だ。
 仕事の時は、いつでも傍で支えてくれる。隣で助言してくれる。修復の素人である菜乃華を、嫌な顔一つしないで根気よく教え導いてくれる。そして、菜乃華が何かを成功させた時には、「よくやった」と優しく頭を撫でてくれる。そんな彼の隣にいられることが、菜乃華は堪らなくうれしかった。

 もちろん菜乃華だって、子供ではないのだからわかっている。彼が菜乃華の隣にいて、優しくしてくれるのは、菜乃華が神田堂の店主だからだ。彼にとって菜乃華の相手をすることは仕事としての義務であり、それ以上でも以下でもない。当然ながら、そこに恋愛的な要素が入り込む余地なんてあるはずがない。そんなことは、百も承知だ。

 第一、自分は人間で、彼は神様だ。身分どころか存在そのものが違い過ぎる。

 ただ、それでも……自分の中で彼の存在が日に日に大きくなっていくのを止めることはできなかった。
 だからこそ、彼の隣にいて恥ずかしくない店主になりたいと心から思う。彼が神田堂店主としての自分を必要としてくれるなら、その願いに応えたい。菜乃華が必死になって一人前の店主を目指す理由の一つは、間違いなくこれだった。

「……その目、恋する乙女の目だ」

「え?」

 不意に聞こえてきた唯子の呟きで、我に返る。いつの間にか、どっぷりと自分の世界に入り込んでいたようだ。
 気が付けば、物思いに耽っていた菜乃華を、唯子が羨ましそうに、かつ恨めしそうに見つめていた。

「ちくしょう! その顔は、やっぱり彼氏なんだな! そうなんだな!」

「い、いや、これは違う! そういうんじゃないから!」

「一人だけ幸せになりやがって、裏切り者め。貴様を討ち取って私も死んでやる~!!」

 乱心した唯子が、本気で涙を流しながら迫ってきた。この激情型でどこか芸人チックな性格を直せば、彼氏の一人二人はすぐにできそうな可愛い子なのだが……。天は二物を与えずとはよく言ったものだ。
 ともあれ、菜乃華は我を失って嫉妬の鬼と化した親友から全力で逃げるのだった。
「こんにちは、菜乃華さん! お邪魔してます!」

「な~」

「あ、柊さん。それに、クシャミちゃんも。いらっしゃい」

 昼下がり、神田堂に顔を出した菜乃華を出迎えたのは、柊とクシャミの凸凹コンビだった。クシャミの文庫本を直してからというもの、彼らは本当によく遊びに来てくれる。最近では、二~三日に一回は顔を見ているくらいだ。今ではすっかり常連さんである。

 それは良いとして、いつも出迎えてくれるあの人の姿が見当たらなかった。

「あの、柊さん。瑞葉はいないんですか?」

「瑞葉さんなら、買い物に出ています。僕らは、留守番を頼まれました」

 菜乃華が奥を覗いていると、柊が朗らかに笑って教えてくれた。

 瑞葉の買い物とは、修復に使う資材の購入だろう。彼は月に何度か、隣町にあるという神様が経営する問屋へ買い出しに出掛ける。つまり、これはいつものことだ。
 ただ、先程の唯子とのやり取りの所為か知らないが、瑞葉がいないとわかった瞬間、菜乃華の気分は少し盛り下がった。

「そうそう、今日はお土産に三日月屋の豆大福を持ってきたんですよ。菜乃華さん、前にこれが好きだって言っていましたよね」

「ああ、はい。えっと、その……いつもありがとうござます」

 三日月屋の紙袋を掲げた柊へ、菜乃華は顔を赤くしながらぎこちない笑顔を見せた。柊を意識しているのが丸わかりだ。
 同時に、お礼を言われた柊の顔が幸せそうに緩む。

 そんな柊のこの世の春のような表情を見ながら、菜乃華は数日前のことを思い出した。


          * * *


 柊は、神田堂に来る時は決まってお土産を持ってきてくれる。しかも、彼が持ってくるものは、決まって菜乃華の好物だ。

 恋愛経験のない菜乃華でも、ここまで露骨であればさすがにわかる。どうやら自分は、柊に好意を持たれたらしい。つまり柊は、菜乃華のために毎度お土産を用意してきてくれているわけだ。

 と、ここまで思い至ったのが、およそ二週間前のことだ。

 一度気が付いてしまうと、次に来たのは申し訳なさだった。
 今の状況は、柊の好意に付け込んで貢がせてみたいで菜乃華としても心苦しい。よって、何とかしなければならない。そこでつい先日、柊と二人きりになったタイミングで、それとなくもうお土産を持ってこなくていいと言ってみたのだ。

 すると柊は、「ああ、すみません。ちょっと露骨過ぎましたよね」と頬を掻きながら照れくさそうに笑った。
 その上で彼は、大人しそうな外見に似合わない恐るべき行動力を発揮してみせた。

「すでにお察しのことと思いますが、僕はあなたのことが好きです。つきましては、僕とお付き合いしていただけないでしょうか」

 そう。なんと彼は、これが好機とばかりに突然告白してきたのだ。

 もちろん、この返しは菜乃華の予想の範囲外だ。一瞬、何を言われたのかわからず、呆けてしまった。
 しかし、すぐに頭が回転し出して、状況を整理していく。その行き着く先は、もちろん自分が告白されたという事実だ。瞬間、菜乃華の顔が一気に赤く染まった。

「あ、あ、その……ええと……」

 菜乃華にとっては、生まれて初めてされた告白だ。頭の中では色々な感情が飛び交い、何か言おうにも言葉が上手く出てこない。

 ただ、様々な感情の奥に一人の青年の後ろ姿が浮かんだ。それと共に、胸が締め付けられるような、加えてなぜか後ろめたいような気持ちが芽生えて、菜乃華の眉尻が下がっていった。

「……なんて、いきなり言われても困りますよね」

 菜乃華が押し黙る中、沈黙の時間を打ち破ったのはこの状況を作った張本人、柊だった。

「今の菜乃華さんの顔を見て、よくわかりました。まあ、最初から勝算は薄いかなとは思っていたんですけどね。やっぱり今のままでは、あの人には敵いませんか」

 表情は、時に言葉以上に感情を物語る。柊は菜乃華の表情の変化から、彼女の心情を読み取ったようだ。残念そうに苦笑しながら、頬を掻いている。

 きちんと言葉で返事をできなかったことに、菜乃華は大きな罪悪感を覚えた。今さら遅いと思いつつも「ごめんなさい」と頭を下げる。

 けれど、柊は「顔を上げてください」とどこかさっぱりした声音で返してきた。

「僕としては、気持ちを伝えるきっかけがもらえてラッキーでしたよ。おかげで、すっきりしました。これで……明日からはより一層菜乃華さんにアタックできるというものです」

「……え?」

 何だかふられた直後とは思えない前向き発言が聞こえてきて、首を傾げてしまう。
 困惑する菜乃華の前で、柊は自信満々に胸を張った。

「確かに今は負けを認めますが、僕は別に菜乃華さんのことを諦めたわけではありません。きちんと好意を示せたというのは、僕にとって大きな成果です。こうなったら、菜乃華さんも僕のことを意識せざるを得ないでしょう。これから菜乃華さんにいいところをいっぱい見せて、必ず振り向かせてみせます」

 態度同様に自信満々な柊の物言いに、菜乃華も思わず吹き出してしまった。

 本当にこの歴史書の付喪神は、外見と中身のギャップがあり過ぎる。見た目は完全な草食系なのに、内面は今時珍しいくらいの肉食系だ。
 もっとも、ここでビシッと終われないのも、柊の柊たる所以だ。

「もちろん、お店や仕事の迷惑にはならないようにはしますよ。だから……これからも遊びに来ていいですか?」

 慌てて付け加えた柊が、迷子の子犬のような目で菜乃華を見つめる。顔がいいと、こういうちょっと甘えた仕草も様になるから得だと思う。

 ともあれ、「遊びに来てください」と最初に言ったのは、他ならぬ自分だ。さすがに今の話を理由に翻したくはない。
 拝み倒すような表情になった柊に、菜乃華は「お手柔らかにお願いします」と苦笑したのだった。


          * * *


 ――と、数日前にそんなことがあったわけで、菜乃華としても柊との距離を測りかねている今日この頃である。

 菜乃華だって、健全な十七歳の女の子だ。純粋な好意を向けられるのはうれしいし、少しだけど優越感のようなものも感じている。

 それでもやはり、人から好かれるという状況に対する戸惑いの方が大きいのだ。あと、その気持ちに答えられない罪悪感も……。そう簡単に割り切って考えられるほど、菜乃華の恋愛経験値は高くないのである。

 と、その時だ。菜乃華の背後で、ガラス戸が開く音がした。
 もしかして、瑞葉が帰って来たのだろうか。少しだけ胸を弾ませながら、背後を振り返る。
 しかし、そこに立っていたのは瑞葉ではなかった。

「失礼、お嬢さん。こちらは、神田堂でよろしいかな?」

「え? ええ。そうです」

 たどたどしく肯定する菜乃華へ、左手で山高帽を取って一礼してきたのは、『紳士』という言葉がぴったり当てはまりそうな初老の男性だった。

 流暢な日本語を話しているが、彫りが深くて目鼻がはっきりした顔立ちをしている。明らかに日本人ではないだろう。灰色がかった髪をきっちりと撫でつけていて、整えられた口ひげがおしゃれである。服装は、落ち着いた顔立ちによく似合う、仕立の良いグレーのスーツだ。足元に置かれたカバンも、一目で良い品だとわかった。
 威圧感などまったくなく、穏やかな雰囲気だが、自然と居住まいを正してしまう。平たくまとめると、そんな風貌の男性だった。

 ただ一つおかしな点を上げるとすれば、帽子を持っているのと反対の腕だ。スーツの袖に通していないその右腕は、首からかけた三角巾で吊るされていた。まるで腕の骨が折れている時みたいに。となれば、これはもう間違いない。

「もしかして、本の修理のご依頼ですか?」

「お恥ずかしい話だが、その通りだ。本の背を壊してしまってね。おかげで、右腕をこの通り骨折してしまった」

 言葉通り恥ずかしそうに苦笑しつつ、男性はカバンから一冊の本を取り出して作業台の上に置いた。背に金箔押しで装飾を施した、半革装丁の洋装本だ。やはりこの男性は、本の付喪神だったようだ。

 仕事の邪魔をしては悪いと思ったのか、柊とクシャミは静かに奥の居間に引っ込む。

「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私はこの本の付喪神で、モリスという。お嬢さん、申し訳ないが、店主殿を呼んでもらえないかな」

「えっと……わたしがここの店主の神田菜乃華です」

「ん? お嬢さんが……ここの店主?」

 控え目に手を上げた菜乃華を、モリスは目を丸くして見つめる。
 もっとも、彼が驚くのも無理はないだろう。こんな小娘が「店主です」なんて名乗ってきたら、普通は驚くに決まっている。

「失礼。神田堂の店主は高齢のご婦人と聞いていたものでね。それに、瑞葉殿も店員として働いていると聞いたのだが……」

「実は二か月ほど前に先代店主の祖母が亡くなりまして……。今は、わたしが祖母の後を継いで店主をさせてもらっています」

「そうだったのか。それは辛いことを思い出させてしまったね。本当に申し訳ない。それと、心からお悔やみ申し上げます」

「どうもありがとうございます。それと瑞葉ですが、ただ今買い出しのために外へ出ております」

「そうか、買い出しに……。どうやら、間の悪い時に来てしまったようだね」

 瑞葉も留守であることがわかると、モリスの眉尻がわずかに下がった。おそらく菜乃華しか店にいないというこの状況に、少なからず落胆しているのだろう。

「ちなみに、お嬢さんも先代店主殿と同様に、本の付喪神の修復は行えるのかな?」

「ええ、一応……」

「なるほど、『一応』か。それは、どうしたものか……」

 おとがいに左手を当てたモリスが、思案するように菜乃華を見た。おそらく自分の本を預けるに足る人物かどうか値踏みしているのだろう。

 付喪神にとって、自身が宿る品物は自身の魂と同義だ。たとえ軽い修復であるとしても、信用できない人物に預けることはできない。そして今目の前にいるのは、店主になってまだ二か月しか経っていない、見た目中学生くらいの小娘だ。状況的に、今すぐに修復の依頼を頼めば、対応は菜乃華一人で行うことになる。モリスが慎重になるのも当然だった。

 居間から顔を出していた柊が、状況を察して出てこようとしたが、菜乃華はそれを手で制した。気持ちは有り難いが、店の問題に柊を巻き込むことはできない。

「よろしければ、瑞葉が帰るまでお待ちになりますか?」

「ふむ……。ちなみに、何時ごろ戻られるかはわかるかな?」

「いえ、それはちょっと……。申し訳ありません」

「いや、いいんだ。ただ、そうなると瑞葉殿を待つのは少し厳しいね。実は夕方から、所用があるんだ。ここは無理をせずに、明日にでも出直す方がよろしいかな」

 菜乃華の申し出に、モリスが言葉を選びながら、辞去の意を示す。

 モリスは気を遣ってくれているが、要するに菜乃華は彼のお眼鏡に適わなかったということだ。それをひしひしと肌で感じ、菜乃華の心は重く沈んでいった。

 こういう状況になると、今までのお客さんがすんなりと本を委ねてくれたのは、隣に瑞葉がいてくれたからだと実感する。彼の存在がそのまま信用となって、新米店主の菜乃華に修復を任せてくれていたのだ。

 しかし、今の菜乃華の隣には頼りになる店員がいない。
 菜乃華も本の背の修理は行えるが、それをモリスに証明できる実績がない。

 一人前になろうと日夜頑張ったところで、所詮はまだまだ頼りない子供なのだ。店主として、客から認めてもらうことすらも適わない。自分一人では何もできないということを改めて思い知り、菜乃華は自身の不甲斐なさに唇を噛んだ。

 その時だ。

「――心配しなさんな、モリス。見た目はちと頼りないが、その嬢ちゃんは立派な神田堂の店主だ。オイラたちが保証する」

 俯いた菜乃華の耳に届いたのは、聞き慣れたひょうきんな声だった。

 顔を上げて、声のした方を向く。いつの間にかまた店の入り口が開かれ、外から夏の残り香のような強い日差しが差し込んでいた。その日差しを背に受けながら、サルの坊さんが愉快そうな笑顔でこっちを見ている。

 いや、蔡倫だけではない。サルの坊さんの隣にはもう一人、残暑厳しい日差しの中にあってなお涼やかな顔をした青年がいた。

「……なあ、瑞葉」

「ああ、そうだな」

 蔡倫に話を振られた瑞葉が、穏やかに笑いながら頷く。

「モリス、確かにうちの店主はまだ経験が浅い。だが、たゆまぬ努力で磨いた実力は確かだ。それは、彼女に技術を仕込んだ私が一番よく知っている」

「瑞葉殿……」

 モリスに向かって掛けられた瑞葉の言葉が、同時に菜乃華の心にも染み入る。彼の言葉一つで、菜乃華を蝕んでいた無力感がいくらか和らいだ気がした。

 単純だとか、調子良過ぎるとか、恋愛脳だとか、そんなことはわかっている。自分だけで信用を勝ち取ることができないという事実も、まったく変わっていない。

 けれど、気持ちは十分に前を向いた。
 瑞葉が自分を認めてくれているだけで、勇気が湧いてくる。一歩を踏み出せる。足りない信用を、自分の手で勝ち取りに行ける。そんな気がするのだ。

「モリスさん」

 瑞葉の推挙を聞き、再び思案顔になったモリスに、正面から声を掛けた。
 確かに、自分はまだまだ無力だ。瑞葉と蔡倫が帰ってこなければ、黙って打ちひしがれていることしかできなかっただろう。

 だが、今は違う。今なら神田堂を背負う店主として、まっすぐお客さんと向き合うことができる。

「瑞葉の言う通り、わたしはまだまだ新米の店主です。だけど、付喪神を助けたいという気持ちは、きちんと祖母から――先代の店主から受け継いだつもりです。だから……どうかわたしに、あなたの本を直させてください!」

 モリスに偽りない気持ちを告げ、深々と頭を下げる。千里の道も一歩から。本当の信用は、仕事を完璧にこなすことで初めて生まれるものだろう。だから、まずは仕事をさせてもらえるように誠意を見せる。自分が必ず直してみせると、態度で示す。

「なるほど……」

 しばらく頭を下げていると、上の方からくすりと笑うような口調の台詞が降ってきた。
 菜乃華が顔を上げれば、そこには愉快そうなモリスの顔があった。

「どうやら私は、まだまだ人を見る目が足りなかったようだ。菜乃華殿、大変な無礼を働いたことを許していただきたい。本当に申し訳ない」

「いえ、そんな! わたしの経験が浅いのは事実ですし、モリスさんが謝ることじゃないです」

 入れ替わるようにモリスから頭を下げられ、菜乃華が慌てた様子で手を振る。
 菜乃華の許しを得ることができ、モリスは「ありがとう」と安心した様子で微笑む。そして、自らの魂である本を手に取り、菜乃華に差し出した。

「その上で、改めてお願いする。どうか、私の本を直していただきたい」

「はい、喜んで!」

 モリスから本を受け取った菜乃華は、力強く頷くのだった。
 仕事を受けた菜乃華と瑞葉は、椅子に座ってこちらを見つめるモリスの前で、迅速に仕事に取り掛かった。

 今回の依頼は、外れてしまった背の修理だ。本の修理としては、かなりポピュラーなものと言えるだろう。

 まずは、改めてモリスの本を検分する。どうやらモリスの本は、本の中身と表紙を支持体の糸で接合した『綴じ付け製本』ではなく、本の中身に表紙を糊付けした『くるみ製本』のようだ。
 モリスの本は、表紙が見返しごと本の中身から外れた状態になってしまっていた。

「幸いなことに本の中身、見返しともに目立った損傷はないな。これならば、綺麗に直すことが可能だろう」

「背が外れた原因は、中身と見返しをくっつけていた糊の劣化かな」

「おそらくそうだろうな。ただ、均等に劣化して外れてくれたおかげで、紙自体の損傷はほぼない。正に不幸中の幸いだ」

 菜乃華の診断に、瑞葉も同意を示す。
 瑞葉からのお墨付きを得られたところで、菜乃華は一度モリスの方へ振り返った。

「モリスさん、この本の背って、ホローバック形式で間違いないですよね」

「ああ、その通りだ」

 菜乃華の確認に、モリスが頷く。ホローバックの特徴は、表紙の背と中身の間に空洞を持つ点にある。これにより本が開きやすく背を痛めにくいという利点を得られるが、中身と表紙の接合箇所が限定されるために表紙が外れやすい欠点も併せ持ってしまう。今回は、正にその典型例だ。

「これならば、クータを使用した基本的な修復方法で事足りるだろう。菜乃華、修復の流れは覚えているな」

「もちろん。任せといて」

 瑞葉に返事をして、早速仕事道具が収められた箪笥を漁る。取り出したのは、まっさらな中性紙だ。これが、クータの材料である。クータは、中身の背と背表紙の間に入れる、紙でできた筒状の補強材だ。

 長い時を経たことでの劣化もあったのだろう。モリスの本に元々つけられていたクータは、表紙が外れた際に同じく補強材である寒冷紗(かんれいしゃ)と共に損傷してしまっていた。

「本が壊れた時に一番被害を受けたのは、この古いクータと寒冷紗だね」

「そうだな。寒冷紗についても、新しいものを使って一緒に直しておくとしよう」

「OK!」

 瑞葉に言われ、菜乃華が早速新しい寒冷紗も用意する。

 材料の準備ができたら、新しいクータを作るためのサイズの測定から開始だ。本の中身の背部分に合わせて、必要な紙の大きさを算出していく。
 モリスの本の背は弧を描く丸背だから、プラスチックの定規では正確に測り辛い。こういう時は、いらない紙を細切りにした短冊の出番だ。

「背の丸みに沿って短冊を宛がって、幅を測って印をつける、と……。うん、これでよし!」

 印をつけた短冊を手に、菜乃華が満足げに笑う。これで、正確な背の幅が測れた。
 そうしたら、背の高さと合わせてクータの材料である中性紙に印をつけていき、カッターで裁断する。切り取った紙をきれいに三つ折りにし、紙の端を糊付けして筒状にすれば、クータの完成だ。

「瑞葉、こんな感じでどうかな」

 いつもの調子で、瑞葉に確認を頼む。

 菜乃華から作り立てのクータを受け取った瑞葉は、歪みや皺がないか確かめ、最後に本の背に宛がった。
 クータは大き過ぎても小さ過ぎても本の開きを悪くしてしまうから、瑞葉もここは慎重だ。万に一つのミスも犯さないよう、十分に検証を重ねていく。

「よし、大丈夫だ」

 菜乃華が固唾を飲んで見守る中で、瑞葉がふっと表情を緩めた。
 どうやら合格点を出してもらえたようだ。いつの間にか息を吐くのを忘れていたことに気付き、菜乃華は大きく一息ついた。

「正確な測量だ。練習の成果がよく出ている。この調子で続きも頼むぞ」

 瑞葉から返されたクータを、菜乃華が宝物のように受け取る。褒められたうれしさと気恥しさから、顔がにやけるのを止められない。頬が熱を持ち、真っ赤になっているのがわかる。

「菜乃華さん、あんなにうれしそうに……」

「お前さん、いい加減さっさと諦めた方がいいと思うぞ。勝ち目ねぇって」

「いいえ、まだです。僕はまだ、諦めない!」

「そ、そうかい。まあ、ほどほどに頑張れや、うん」

 居間の方から、何やら聞こえてきた気がする。

 だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。クータの作成は、あくまでモリスの本を直すための下準備の一つに過ぎないのだ。本当の修復は、この先である。

 クータの準備が終わったら、次は糊の準備を行う。今回はクシャミの本のページを直した時と違い、本の構造を支える力が必要になる。よって、糊もそれ相応に強力でなくてはならない。
 菜乃華が手に取ったのは、いつもの澱粉糊と水、そして瑞葉厳選の接着剤だ。

『本来なら、化学的に安定していて水溶性の澱粉糊だけで修復を行うのが望ましい』

 これは、瑞葉が修復の基本として教えてくれた原則の一つだ。

 だが、残念ながら澱粉糊は接着力がそれほど強力ではなく、洋装本の背の修理には適さない。そこで、澱粉糊に接着剤を混ぜて接着力を上げるのだ。
 瑞葉が厳選したこの接着剤は中性だから、紙を酸化させ劣化させる恐れもない。長い時を生きていく付喪神の本にも、比較的安心して使える。

 小皿の上に澱粉糊を載せ、そこに接着剤を加えて筆で混ぜる。

「配合の割合は、澱粉糊3に対して接着剤1程度だ。接着剤が多くなり過ぎないように気を付けるのだぞ」

 瑞葉からアドバイスを受けながら、せっせと糊を混ぜていく。
 程よく混ざったら、水を加えて濃度の調整だ。今回は、水を少なくして濃い目の調整とした。

「瑞葉、お願い」

 混合糊が完成したら、小皿を瑞葉に渡す。菜乃華から小皿を受け取った瑞葉は、素早く混合糊の状態を確認し、「問題ない」と菜乃華に返した。流れるような共同作業だ。瑞葉と息の合った連携ができていることに、菜乃華は密かな喜びを感じる。

 同時に背後から、悲嘆に暮れるような湿っぽい気配がした。誰の気配かは、振り返るまでもなくわかる。だが、ここでその気配に対して何かフォローを入れるのも、それはそれで変だ。今は仕事中だしね、と菜乃華はすすり泣く声に苦笑しながら作業を続ける。

 混合糊ができたら、準備はすべて完了。ようやく修復開始だ。
「まずは壊れたクータと寒冷紗を取り除いていこう」

「で、壊れたパーツを取り外したら、本の中身側の背に新しい寒冷紗を貼り付けるんだよね」

「よし、満点の回答だ」

 再び瑞葉に褒められて頬を染めながら、菜乃華は手順通りに修復を進めていく。
 寒冷紗を中身の背に貼り終えると、続いて菜乃華はその上へさらに糊を満遍なく塗っていき、先程作ったクータを手に取った。緊張の一瞬。大きく空気を吸って、息を止める。

「クータがずれたり、傾いたりしないよう気を付けろ。焦らず、丁寧に、だ」

 焦らず、丁寧に。瑞葉の口癖を聞きながら、慎重にクータを本の背に宛がう。きっちりと採寸し、手抜かりなく作り上げたクータは、寸分の狂いもなく中身の背を覆った。上々の出来だ。止めていた息を吐き出し、人心地つく。

 ただ、これで修復が終わったわけではない。続いて、クータの反対側、表紙側の背に混合糊を塗っていく。
 糊を塗り終わったら、背表紙と中身の背の接合だ。クータを貼った中身の背と表紙の背を合致させる。背同士の丸みのバランスは同じだから、綺麗にはまってくれた。

「もう一息……」

「ああ、もう一息だ。次は寒冷紗の接合だ。見返しを少し剥がすことになるが、焦って破かないよう、油断せずにいこう。それができたら、最後にのどの接着だ」

 作業内容を復唱する瑞葉に向かって無言で頷き、菜乃華は作業に取り掛かる。

 慎重に表紙から見返しを剥がし、間に寒冷紗の端を接着して、見返しを貼り直す。これで寒冷紗の接合はOKだ。
 続けて、見返しと本の中身をのどの部分で接着する。これで表紙と見返し、本の中身がすべてきちんとつながった。

「よし。あとは背とのどをヘラで擦って、完全に圧着させるんだ」

「了解」

 瑞葉が差し出した紙とヘラを受け取る。菜乃華は背の装飾が傷つかないように紙で覆い、その上からヘラを使って擦っていった。これで、修復そのものは完了だ。

 最後に表紙の溝に編み棒を宛がい、紙をきつく巻き付ける。本来なら重しを載せて糊を乾かしたいところだが、今回は代替案だ。モリスの方にあまり時間がないようなので、この方式にした。

 菜乃華が紙を巻き終わるのと同時に、モリスの右腕が輝き出した。怪我は無事に治ったようで、モリスは右手を閉じたり開いたりして、調子を確かめている。

「ありがとう、菜乃華殿。おかげで右腕もすっかり良くなった。実に見事な修復だ」

「どういたしまして。明日の朝くらいまでは、紙を巻いたままにしておいてくださいね。できれば本に重しを載せておいてもらえると、なお良しです」

「承知した。では、そのようにしておこう」

 菜乃華のアドバイスに、モリスも柔らかく微笑みながら頷く。その目に浮かぶのは、菜乃華に対する信頼だ。

 菜乃華は、モリスの魂である本の破損を完璧に直してみせた。ならばもう、疑いの余地はない。この紳士の姿をした付喪神は、菜乃華を自分の命を預けられる掛かり付け医として認めてくれたのだ。

「また何かあった際には、ぜひ頼らせてもらいたい。菜乃華殿、これからもどうぞよろしく頼む」

「もちろんです。でも、そんな何かが起こらないことを祈っています。次は、元気な姿で遊びに来てください」

「ありがとう。では、近い内にぜひ立ち寄らせてもらうとしよう」

 菜乃華の言葉に、モリスも呵々と笑って同意する。
 お代を払ったモリスは、「では、また」と会釈をして去っていった。


          * * *


「一件落着だな、嬢ちゃん。店主の仕事も、だいぶ板についてきたじゃねえか」

「菜乃華さん、お疲れ様です!」

 モリスが立ち去り、蔡倫と柊が奥から顔を出した。菜乃華の足元では、クシャミも「な~」とどこか労うような声で鳴いている。

「ありがとう、蔡倫さん、柊さん。どうにかこうにか、モリスさんを失望させずにすんだみたい」

 グッジョブと親指を立てている蔡倫と目を輝かせている柊へ、照れを含んだ微笑で言葉を返す。さらに、その場にしゃがみ込んで、「クシャミちゃんもね」とクシャミの喉も撫でてあげた。クシャミは気持ち良さそうにごろごろと喉を鳴らした。

 そんなクシャミを見ていたら、張り詰めていた緊張感が完全に解けた所為か、ふと軽い眠気が襲ってきた。最近は、気を抜くといつもこうだ。たるんでいるな、と頭を振って、眠気を追い払う。

 そのまま勢いよく立ち上がり、澱粉糊や接着剤のボトルをまとめている瑞葉のもとへ行く。修復が無事に終わったこともあって、その足取りは軽かった。

「瑞葉、今の修復、どうだった?」

「そうだな。一言で言えば、練習の成果がよく出ていた。モリスも満足していたようだし、出来としては文句なしの合格点だ」

「ありがとう。ちなみに、今後に向けての課題は?」

「強いて課題を上げるとすれば、やはり手際か。背幅の測量からクータの作成までは、慣れればもっと短時間で行える。修行を始めて一月半と考えれば十分だが、まだまだ無駄をなくして改善していける余地はあるだろう。あとは糊の塗布量についても、経験をさらに積めば適量を見抜けるようになるはずだ」

 淀みなく答える瑞葉を見上げ、思わず顔をほころばせてしまう。瑞葉はただよくやったと褒めるだけでなく、菜乃華が店主としてステップアップしていくための課題もしっかり示してくれる。瑞葉が自分のことをきちんと見てくれていることが、菜乃華にはこの上なくうれしいのだ。

「あ、片付け、わたしも手伝うね」

「頼む。私は資材などをしまっておくから、小皿と筆を洗ってきてくれ」

「了解!」

 軽く敬礼のようなことをして、修復に使った小皿と筆を手に取る。

 その時だ。菜乃華の視界が、急に暗転した。

 小皿と筆が手から離れ、床に落ちる。土間に落ちた小皿が割れる音が、どこか遠くから聞こえてくる気がした。
 気が付けば、体の左半分にひんやりと冷たく硬い感触がする。光を失いかけた目に映る灰色の光景から判断すると、どうやら土間に倒れてしまったらしい。

「菜乃華!」

「おい、嬢ちゃん、どうした!」

「な、菜乃華さん!?」

 鋭い瑞葉の声、慌てた様子の蔡倫の声、動揺しきりな柊の声。三者三様の声が、先程の小皿が割れた音と同じく、遠くから聞こえてくる。

 程なくして、体の左半分にあったひんやりとした感触がなくなった。代わりに、力強く温かい腕が、菜乃華を支えている。覚えのある温かさと力強さだ。誰が自分のことを支えてくれているかを悟った菜乃華は、安心したように微笑みながら意識を失った。