秘密の神田堂 ~本の付喪神、直します~ 【小説家になろう×スターツ出版文庫大賞受賞作】

「それについてなのだが……時に菜乃華、君は『付喪神』というものを知っているか?」

「付喪神? 確か、古い家具とかに神様や霊なんかが宿ったものだっけ」

 唐突な瑞葉の問い掛けに、菜乃華が腕を組みながら答える。気絶して介抱されてとアクシデントを乗り越えた賜物か、大分口調も親しみが籠ったものになってきた。

「そうだ、その解釈で大体合っている。付喪神は、人間の物に対する信仰心から生まれる神だ。まあ、神といっても時に妖怪と間違われるような最底辺の神格ではあるがな」

「ふーん、そうなんだ。で、それがどうしたの?」

「簡単なことさ。オイラたちは、その付喪神ってこった」

「……へ?」

 瑞葉の言葉を引き継いだのは、蔡倫だ。
 突然の告白に驚く菜乃華の前で、蔡倫は袈裟の懐から一冊の経本を取り出して、卓袱台の上に置いた。長い紙を蛇腹状に折り畳んだ、折本型の経本だ。表紙には紫色の光沢がある絹を張った、古めかしいながらも綺麗な本である。

「この般若心経の経本が、オイラの本体だ。江戸時代、徳の高い坊さんが肌身離さず持っていたっていう有り難い経本さ。オイラは、こいつの付喪神だ」

 だから、こういうこともできるぜ、という言葉を残し、蔡倫の姿が光の粒になって消えた。残ったのは、卓袱台の上の経本だけだ。

『どうだ、すげえだろう!』

 姿を消した蔡倫の声が、経本から聞こえてきた。念のため手に取って確認してみるが、スピーカーのようなものはついてない。
 放心した菜乃華が経本を卓袱台に戻すと、経本から光が溢れ出し、蔡倫の姿になった。

「ざっとこんな感じだ。どうだ、驚いたか?」

 得意げに腕を組む蔡倫に、菜乃華はどうにかこうにかといった様子で頷く。そのまま視線を瑞葉の方へと動かし、ゆっくりと首を傾げた。

「もしかして、瑞葉も蔡倫さんみたいに物に入ったりできるの?」

「ああ、その通りだ。私の本体は、この本だ」

 瑞葉も懐から、古い和紙でできた本を取り出した。菜乃華は知らないが、『袋綴じ』と呼ばれるタイプの本である。二つ折りにした紙を重ね、折り目の反対側を糸で綴じた、日本に古くからある形の本だ。

 瑞葉は自分の本体である和本を大事にしまい、ふと何かを思いついた様子で菜乃華の方を見た。どこか子供っぽい目をしたその表情に、菜乃華の心臓が大きく鼓動する。

「せっかくだから、私も何かお見せするとしよう。菜乃華、ちょっと手を出してくれ」

 袖の中から何かを取り出しながら、瑞葉が言う。
 言われるがままに右手を差し出すと、瑞葉は取り出した何かをその手に載せた。よく見れば、それは折り紙でできた鶴だった。

「いいか、よく見ていろ」

 折り鶴を渡した瑞葉が、何やら印のようなものを結ぶ。
 すると、折り鶴がほのかに輝き、ひとりでに羽ばたき始めた。これが手品などではないことは、菜乃華にも一目でわかる。糸などで操っているにしては、動きがあまりにも自然過ぎるのだ。気が付けば、折り鶴は本物の鶴のように居間の中を飛び回っていた。

「先程、私たちは神格を持っていると言ったが、長い時を生きた付喪神は各々が独自の神力を持つ。これは私が持つ神力の一つで、折り鶴に仮初めの命を与えているのだ。わかりやすく言えば、式神といったところか」

 瑞葉が再び印を結ぶ。同時に、折り鶴は輝きを失って卓袱台の上に着地した。

「どうかな、菜乃華。ここまでは理解してもらえただろうか」

「う、うん……」

 瑞葉と蔡倫の顔を交互に見る。
 自分たちは神様だ。そんなことをいきなり言われても、普通なら信じられないだろう。

 けれど、菜乃華は瑞葉たちの告白に、思わず納得してしまった。いやむしろ、神様だと言われてしっくりきた、という方が正しいか。

 しゃべるサルである蔡倫は言わずもがなだが、瑞葉だって明らかに人間離れした雰囲気を放っている。その美術品のような容姿も、神様ということなら合点がいく。

 第一、ここまで色々と見せてもらった今となっては、心に任せて信じてしまった方が気楽というものだ。この世の中は、自分の想像を超えた不思議で満ちていた。そういうことなのだろう。

「私たちの正体までが、本題に対する前置きとなる。そしてここからが本題、神田堂の仕事についての話だ。今まで私たちが話したことを頭に置きながら聞いてほしい」

 これまでの出来事に対する折り合いをつけていると、瑞葉が話の続きを始めた。

 いよいよ話が核心に入るとあって、菜乃華の態度が一層真剣なものに変わった。無言で背筋を伸ばし、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる。

 菜乃華の態度を好ましく思ったのか、瑞葉はどこか穏やかな目をしている。しかし、口調はあくまで泰然としたまま、彼は本題に入った。
「いいか、菜乃華。ここ神田堂は、平たく言えば付喪神を相手にした町医者だ。それも、『本の付喪神』専門のな。故にこの店は、基本的に『本の付喪神』を客としている。本以外の品物の付喪神が来ることもあるが、人の子が訪れることはまずない」

「『本の付喪神』の……町医者」

 瑞葉の話を聞きながら、ふと自分がここに来た時のことを思い出した。

 人が入らなそうな路地に、迷路のような道順。人を避けているようだという菜乃華の感想は、店の本質をついたものだったのだ。
 なぜなら、ここは人ならざる者のためのお店だったのだから。

「だから瑞葉は、ここに来たわたしを見て、怪しんでいたんだね」

「その節は、本当にすまなかった。店の周りには、念のため私の力で人払いの結界も張ってあるのでな。よくよく考えれば君が神田の者であることは明らかだったのに、結界に綻びでもできたのかと、つい焦ってしまったのだ」

 人の世を乱さないことは、この世で生きる神にとって最低限の責務だ、と瑞葉は言う。

 この世で生きる神は、完全に人の世に溶け込んで暮らすか、人との間に境界線を張って影響を与えないようにしているそうだ。そして瑞葉と神田堂は、後者の道を選んでいるらしい。故にその責務を全うするため、人が誤ってこの店に迷い込まないよう、瑞葉は結界でこの店を守っているのだ。

「許してくれ」と頭を下げる瑞葉に、菜乃華も気にしていないと首を振った。事情を鑑みれば、瑞葉の対応は当然のものだ。許すも何も、そもそも怒る理由さえない。

 それに、今の菜乃華にとって重要なのは、付喪神がお客さんであるという事実以上に、町医者という仕事内容の方だ。菜乃華は何かを見極めようとする目つきで、瑞葉に先を促した。

「ねえ、瑞葉。町医者って、具体的にどんなお仕事をしているの?」

「神田堂の店主が請け負う主な依頼は、本の修理だ。付喪神は、宿っている品物が傷つくと自身も怪我をする。その傷ついた本を直して付喪神の怪我を癒すのが、神田堂店主の仕事だ」

「付喪神が宿った本を直す……」

 瑞葉の言葉を、噛み締めるように繰り返す。菜乃華の頭の中では、瑞葉から聞いた情報をもとに様々な考えが巡り始めていた。

 瑞葉も菜乃華が思索に入ったことを感じ取り、話を一旦区切る。その心遣いに感謝しながら、さらに頭を回転させていった。

 本の付喪神の町医者、本の修復屋、それが神田堂の正体だ。
 物を修理する仕事なら、菜乃華もテレビで何度も見たことがある。古い時計や壊れてしまった家具なんかを、職人が己の腕と経験を頼りに直していくのだ。その神業のような手捌きは、美術部で普段から創作に励む菜乃華にとっても感じ入る点が多い。だからか、職人という仕事に内心では少し憧れも抱いていた。

 その点から言えば、神田堂の仕事は菜乃華にとって願ってもないチャンスだ。本音を言えば、一も二もなく「ぜひやりたい!」と飛びつきたいところである。

「……ごめん、瑞葉。この仕事、わたしには無理かもしれない」

 しかし、熟考の末に菜乃華の口から出てきた言葉は、本音とは真逆のものだった。

 やってみたいという気持ちは、確かにある。祖母が残してくれた神田堂を守りたいという意志も捨て切れない。それでも、菜乃華は自分の感情に対して素直になることはできなかった。
 なぜなら、自分がこの仕事をすることに対して、無視してはいけない現実があるからだ。

「聞かせてくれ、菜乃華。君はなぜ、この仕事をできないと判断した?」

 申し訳なさそうに俯いた菜乃華に、瑞葉は優しい声音で問いかける。
 対する菜乃華は、どこか悔しそうな様子で口を開いた。

「直す本って、瑞葉や蔡倫さんみたいに生きている神様の本体なんでしょ。もし修復でミスしたら、きっとその神様を苦しめちゃうよね」

「……否定はしない。それに、修復に失敗することがあれば、付喪神の傷をより一層深くしてしまう可能性もゼロではない」

「だったら、やっぱりわたしには無理だよ。本を直したこともないわたしには、付喪神の命を預かる資格なんてない」

 断定の言葉が、居間の中に木霊する。
 これが普通の本を直す仕事であったなら、何の躊躇いもなく引き受けていただろう。菜乃華はこれまで本を修復した経験などないが、練習してできるようになろうという気概だってある。

 けれど、現実はそうじゃない。直すのは、生きている神様の本なのだ。
 そんな神様たちの命を、ずぶの素人である自分が預かる? ありえないだろう。いくら『祖母の後を継ぐ』という大義名分があっても、そんなの無責任にもほどがある。

 そして、自身の懸念に対する瑞葉の答えを聞いて、菜乃華はさらに確信した。神田堂店主という仕事は、自分のような素人が軽い気持ちで継いでいい仕事ではない。祖母の最後の願いを果たすことができないのは心残りだが、今を生きている付喪神たちを不幸にするよりはマシだ、と……。

「わたしみたいな素人じゃなくて、専門の職人さんに直してもらった方が絶対にいいよ。その方が、付喪神さんたちもきっと幸せになれる。だから、ごめんなさい。店主を継ぎに来たって言ったけど、なかったことにしてください」

 真剣な面持ちで、本音を瑞葉に告げる。

 一方、瑞葉は「そうか……」とホッとした様子でどこかうれしそうに微笑んだ。
 と言っても、菜乃華が店主になるのを断ったことに安堵した、というわけではなさそうだ。その証拠に、瑞葉の蒼い瞳からは菜乃華に対する敬意が見て取れた。
「ありがとう、菜乃華。いきなりの話にもかかわらず、そこまで真剣に考えてくれたこと、店員としてうれしく思う。……ただ、結論を出すのはもう少し待ってくれ。私も、少し君のことを脅かし過ぎた」

「どういうこと?」

「私は先程、神田堂の仕事を『町医者』と言ったが、それを深刻に捉え過ぎる必要はないということだ。一応言っておくが、サエだって完全に素人の状態で神田堂を始めたのだぞ」

 首を傾げた菜乃華に向かって、瑞葉は少し困ったように笑う。

「ここに持ち込まれる修復のほとんどは、破れたページを直すといった軽いものだ。練習すればすぐできるようになるし、大きな失敗をするリスクはほぼない。やって来る付喪神たちも、大抵は『擦りむいたから絆創膏をもらおう』といった調子の者がほとんどだ。『命を預かる』というほど、大げさなものではないと思ってもらってよい」

「でも、すべてがそういう軽い修復ってわけでもないでしょ。もし付喪神の本が、わたしの手に負えないような壊れ方をしていたら?」

「万が一、我々の手に余りそうな修復の依頼が来たなら、ここでできる応急処置だけを行えばよい。そして、本格的な修復は|高天原(たかまがはら)――神の国にいるより高位の神に任せる。高天原への門が年に二度しか開かないのが難点だが、応急処置ができていればほとんどの付喪神は持ち堪えられる」

「それにな、嬢ちゃん。今の話を聞いたら、付喪神たちだって嬢ちゃんに直してもらうのを嫌だとは思わないはずだぜ」

 瑞葉の後を受けるように声を発したのは、蔡倫だ。彼はそのまま菜乃華に向かって、「だってよ」と言葉を続ける。

「嬢ちゃんは今、オイラたちにとって何が幸せか、真剣に考えてくれた。そんな優しい子が本を修理してくれたなら、傷にもよく効きそうじゃないか。こんな特効薬、きっと他にないさ」

 オイラはどこぞのお偉い神様より優しい嬢ちゃんに直してもらいたいね、と笑う蔡倫に、瑞葉も「そうだな」と同意を示す。

 安心しろ。今の気持ちを忘れなければ、お前が心配するような『もしも』の事態は起こらない。

 瑞葉と蔡倫は、菜乃華にそう伝えようとしてくれているのだ。
 二人の心遣いに、菜乃華の心は傾いていく。『やってみたい!』という、自分の素直な気持ちを表してもいいのでは、と思えてくる。

 すると瑞葉が、菜乃華の気持ちを後押しするように、こう言い添えた。

「それと、君の『専門の職人に直してもらう』という意見だがな、残念ながら無理なのだ。この仕事は、現在の|葦原中国(あしわらのなかつくに)――この人の世において君にしか頼めない」

「わたしにしか? そういえば、お父さんもそんなこと言っていたけど、なんでわたしだけなの? 本を直すだけなら、わたし以外にもできるはずでしょ」

 最後の質問とばかりに、瑞葉へ問い掛ける。

 それこそ神田堂の店員である瑞葉なら、本を直すことくらい朝飯前にできるだろう。
 では、菜乃華にこだわる理由とは何か。祖母と瑞葉は、菜乃華に何を期待しているのか。
 その種明かしをするように、瑞葉は「いいや、無理だ」と呟いた。

「私を含め、ほとんどの者は付喪神が宿った品物を直すことはできない。仮に修復しても、付喪神の怪我は治らないし、品物はすぐ壊れた姿に戻ってしまう。本の付喪神に限って言えば、本体を直せるのは先程言った高天原にいる高位の神、そして君だけだ」

 瑞葉曰く、葦原中国には『着物の付喪神の直し手』『時計の付喪神の直し手』というように、各品物の付喪神に対応した修復の力を持つ者が一人ずついるとのことだった。そのほとんどは人の世に暮らす神であるそうだが、『本の付喪神の直し手』は神田家の女性となっているらしい。

 なお、本来一人であるはずの直し手が先日まで同時に二人いたこと、家系で引き継がれていることは、相当イレギュラーなケースとのことだ。

 ともあれ、父が言っていた『祖母と菜乃華だけが持つ不思議な力』とは、このことだろう。それはわかったが、当然ながら疑問は残る。

「なんで、わたしやお祖母ちゃんに、そんな力が……」

「残念ながら、理由は私にもよくわからない」

 瑞葉が首を振り、その隣では蔡倫が肩を竦めている。

「ただ、サエが『本の付喪神を修復する力』の担い手があり、その力を君だけが受け継いだ。それは、純然たる事実だ。元々は君の実家の神社で祀っている土地神がこの『本の付喪神の修復』の力を持っていたから、それに関係していると思うのだが……」

「まあ、細かいことは気にしなさんな。別にそいつは、嬢ちゃんが生きていく上で害になるような力じゃないんだ。生まれ持った個性の一つくらいに考えておけばいいんじゃないか?」

 真摯に自身の考察を語る瑞葉の横で、蔡倫が気楽な声を上げた。ポジティブというか、のんきというか……。真面目な瑞葉は、けけけ、と笑う蔡倫を呆れた様子で見つめている。

 ただ、菜乃華としては蔡倫の考え方も嫌いじゃない。力を持つことが事実である以上、うだうだと考えたって何かが変わるものでもない。ならば、持って生まれた力で何をするか考える方が、より建設的だ。

「菜乃華」

 不意に名前を呼ばれ、声の主である瑞葉の方を向く。
 いつの間にか瑞葉は正座のまま背筋を伸ばし、菜乃華を見つめていた。瑞葉の澄んだ蒼い瞳を前に、菜乃華の心臓がまたもや高鳴る。

「修復を行う時は、もちろん私も手伝う。それに、客がいない時は、修復の技を教えよう。だから、神田堂の店主を引き受けてくれないだろうか?」

 頼む、と瑞葉が畳に手をついて頭を下げた。
 見れば、蔡倫も瑞葉の後ろで楽しそうに笑っている。おそらく、ウェルカムということなのだろう。
 対して、返事を求められた菜乃華の答えは、すでに決まっていた。

「――喜んで!」

 床に伏せた瑞葉に向かって、満面の笑顔を向ける。

 元々、祖母からの手紙を見た段階で、菜乃華の答えは出ていたのだ。仕事内容を聞いて、自分の気持ちは控えた方が良いかと思ったが、その心配もないと言ってもらえた。
 いや、それどころか、これは菜乃華にしかできない仕事だ。だったら、今の菜乃華に断るという選択肢は存在しない。

「わたし、本を直すのは初心者だけど、精一杯頑張るから。これから色々教えてね、瑞葉!」

「任せておけ。それと――ようこそ、神田堂へ!」

 自分の胸に手を当て、菜乃華が所信表明するように言葉を紡いでいく。
 そして菜乃華の決心に、瑞葉も満面の笑みを持って応えるのだった。
 菜乃華が神田堂の店主を継いでから、早くも三日が過ぎた。

 この間、神田堂を訪れた客はゼロ。神田堂が付喪神の町医者であることを考えれば、これは本来喜ばしいことだ。なぜなら、怪我をした付喪神がいないということだから。

 しかし、菜乃華としては自分の初仕事がいつになるのか気になって、何も手につかないといった心境だった。

「そう焦りなさんな。嬢ちゃんは神田堂の店主なんだ。どっしり構えて、待ってりゃいいのさ。それに、最初の仕事の前に本の修復の勉強をする時間が取れて良かったじゃないか」

「それは確かにそうなんですけど……。でも、時間があるからこそ、余計に色々考えちゃうんです。お客様に失礼ないように振る舞えるかなとか、緊張でうまくしゃべれなかったらどうしようとか……。とにかく、色々気になっちゃうんですよ!」

「嬢ちゃんは、店主の鏡だね~。その心持ちは尊敬するぜ。可愛い上に真面目とくれば、看板娘一直線だな」

 などという会話を、まんじゅう片手の蔡倫と交わしていたのが昨日のこと。

 ちなみにこの後、蔡倫は「だったら尊敬ついでに、お前も菜乃華を見習って真面目に働いてこい」と瑞葉に頭をチョップされていた。まったくもって平常運転、この三日で早くも見慣れた、いつも通りのやり取りである。

 蔡倫の言う通り、菜乃華はこの三日間、瑞葉から本の修理の手解きを受けていた。幸い夏休み期間中とあって、時間に融通は利く。朝から夕方まで瑞葉から教えを受けたおかげで、ページの破れや抜け落ちの修復など、基本的な修復方法はそれなりに覚えることができた。

「美術をやっているからか手先も器用だし、筋も良い。これなら、いつ客が来ても大丈夫そうだな」

 と、これら初歩の修復については、瑞葉からも合格点をもらっている。
 これについては、菜乃華も胸を撫で下ろした。とりあえず、技量による店主失格は免れたようだ。あとは、実際の本番で緊張することなく、実力を発揮できるかどうか……。

 そして、その答えは意外とすぐにわかることとなった。


          * * *


 また本日も太陽が昇り、店主になって四日目の朝。

「あー、今日も暑いなー」

 ここのえ商店街のメインストリートを歩きながら、菜乃華は空を見上げる。
 青空の天辺では、今日も元気に太陽が輝いていた。まだ午前九時を回ったところだというのに、気温はすでに三十度近い。視線を前に戻してみれば、熱せられたアスファルトから、陽炎が立ち上っていた。

「早くお店に行こう。このままじゃあ、干からびちゃう」

 歩く速度を上げ、写真屋と和菓子屋の間の路地へ飛び込む。路地の中は太陽の光が遮られる分、幾分か涼しい。狭くて薄暗い路地も、悪いことばかりではないようだ。

 もはやすっかり覚えてしまった道順を頭に思い浮かべ、路地の中を歩く。人避けの迷路となった路地を右へ左へと曲がり、神田堂へと辿り着いた。

「おはようございまーす!」

 ガラス戸を開けながら、元気よく挨拶をする。菜乃華の声は作業場である土間を通り抜け、店の奥へと吸い込まれていった。

 その時だ。図書館のごとく静かな店内に、騒々しい物音と、次いで慌ただしい足音が響いた。

 昨日までとは打って変わり、奥の方が妙に賑やかだ。何事かと思い、居間を目指す。
 そうしたら障子が勢いよく開き、何か大きなものが当の居間から飛び出してきた。

「お待ちしていました!」

「うわっ!」

 菜乃華の挨拶の三倍くらい大きな声を上げながら、見慣れぬ人影が突進してくる。
 恐れをなした菜乃華が後退りすると、飛び出してきた人物が彼女の手を掴んだ。まるで、逃がさないとでもいうように……。

「えっ! あっ! ちょっと!」

 そのまま力強く手を引き寄せられ、菜乃華が目を白黒される。野獣とダンスでも踊っているような気分だ。思い切り振り回されて、少し酔いそうである。

 ただ、引き寄せられたことで、ようやく相手の顔をしっかりと見ることができた。
 相手は、大学生くらいの青年だ。銀縁の眼鏡に、白のシャツと灰色のスラックス。髪は黒くてしっかり整えられている。何とも真面目そうで、落ち着いた出で立ちの青年だ。顔も整っているので、図書館で本でも読んでいれば、さぞかし絵になることだろう。

 しかし、落ち着いた風貌とは裏腹に、今は居ても立ってもいられないといった雰囲気で、菜乃華を見つめている。取り乱した様子のあまりにも必死な形相が、少し怖い。

「あのぉ、どちらさまでしょうか……?」

 愛想笑いを浮かべて、目と鼻の先にいる青年へ問い掛ける。
 しかし、相手も相手で、まったく余裕がないのだろう。青年は菜乃華の問い掛けには答えず、逆に菜乃華を問い質してきた。

「あなたが、神田堂の店主さんですね。そうですよね!」

「そ、そうですけど……」

 有無を言わさぬ口調で尋ねられ、菜乃華が何度も頷く。
 それを見て取った青年はおもむろに菜乃華の手を放し、

「お願いします! クシャミを――僕の相棒を助けて下さい!」

 これ以上ないほどビシッとした、綺麗な土下座を披露したのだった。
 出勤直後の土下座騒動から、約十分後。

「あー、紹介しよう。彼は柊。隣町に住んでいる、歴史書の付喪神だ」

「はじめまして、柊と申します。先程は、本当にすみませんでした」

「いえ、その……お気になさらずに」

 ようやく穏やかな静けさを取り戻した神田堂の居間において、菜乃華は瑞葉から青年改め柊のことを紹介されていた。

 ちなみに、ようやく我に返ったらしい柊は、瑞葉の横で小さくなっている。先程の奇行は本人にとっても相当恥ずべきものだったらしい。俯きがちの顔は、赤く染まっていた。

「えっと、それで今はどんな状況なの? 柊さん、さっき自分の相棒を助けてくださいって言っていたけど」

 俯く柊を気の毒に思いながら、瑞葉に訊く。
 すると瑞葉は、いつもと変わらない冷静な面持ちで、土間の作業台の方を指し示した。

「言葉の通りだ。菜乃華、これは本の修復の依頼だよ」

 作業台には、一冊の文庫本と何枚かの紙きれが置かれていた。

 つっかけで土間に出て、本のところへ行ってみる。見たところ、紙切れは文庫本のページのようだ。相当古いものらしく、本もページも日焼けで茶色くなっていた。
 ちなみに文庫本の中身は、夏目漱石の『吾輩は猫である』だった。

「これが、依頼の本? 近くに誰もいないけど、本当に付喪神なの?」

 作業台にあるのは本だけで、そこに宿っている付喪神の姿はない。背後の瑞葉に問い掛けながら、作業台近くをきょろきょろと見回す。
 その時だ。菜乃華の声に反応するように、文庫本が光り始めた。

「な、何!?」

「そんなに驚かなくても大丈夫だ。先日、蔡倫が同じものを見せただろう」

 隣にやってきた瑞葉に言われ、光る本を恐る恐る見つめる。どうやら本から付喪神が出てくる前兆のようだ。
 光はやがて本を離れ、作業台の上で一つの形を取り始める。それは、猫の形だった。大きさは菜乃華がようやく抱えられるほどだ。かなり大きな猫である。

 形が定まると、光は少しずつ治まり始めた。弱まった光の向こうに、猫のブチ模様らしきものが見えてくる。光が完全に治まると、どこかぬいぐるみっぽい猫が、「な~」と姿を現した……のだが……。

「ちょっ! ま、まままま前脚が取れてる! 大変! 救急車!」

 その姿を見た瞬間、菜乃華が先程の柊と同様に取り乱し始めた。

 ただ、それも仕方ないことだろう。なぜなら猫の右前脚が、体を離れて転がっていたのだから。それはもう、見事にコロリンと……。

 瑞葉から聞いていた、『擦りむいたから~』とかいうレベルの話ではない。最初のお客さんから大惨事だ。ぬいぐるみっぽい外見のため、前脚が取れたの姿はややコミカルにも見える。実際、血が出ているというわけでもない。だが、この状態を見て驚くなという方が無理な話であった。

「落ち着け、菜乃華。救急車なんて呼んでも、どうにもならん」

 猫の怪我に狼狽える菜乃華の頭へ、瑞葉が痛くない程度の軽いチョップを入れる。突然の衝撃にびっくりしたことで、菜乃華もようやく我に返った。

「ご、ごめんなさい。ちょっと気が動転しちゃって……」

「気にするな、最初はよくあることだ。では柊、説明を頼む」

 菜乃華が落ち着いたのを見て取り、瑞葉が柊へ話を振る。

「……あれは、今日の朝のことでした」

 遠くを見るような目で、柊が今朝の出来事とやらを語り始めた。

 事件が起こったのは、今からちょうど三時間ほど前。柊が、自分とブチ猫――名前はクシャミというようだ――の朝食を用意していた時のことらしい。

 それはいいとして、『クシャミ』って飼い主の方の名前じゃなかっただろうか。『吾輩は猫である』の内容を思い出し、菜乃華が首を捻る。だが、そこはあえてツッコまないことにした。名前は人それぞれ、猫それぞれである。

 ともあれ、話を戻そう。調理に集中していた柊は、足元にやってきて寝ていたクシャミの存在に気付かなかった。故に、そのクシャミの尻尾を、彼はうっかり踏んでしまったのだ。

「驚いて飛び起きたクシャミは、部屋の中を駆け回りました。そして、柱にぶつかった拍子に、背負っていた本体の文庫本を放り出してしまい……」

「床に落ちた衝撃で、本が壊れてしまったと」

 菜乃華が後を引き継ぐように言うと、柊が力なく頷いた。

 クシャミの本体は古い文庫本だから、力が加わった拍子に、接合が緩くなっていたページが完全に外れてしまったのだろう。文字通りの不幸な事故ということだ。

 けれど、柊は全部自分の責任だと感じているらしい。暗く俯いた彼の姿は、見ている方が辛くなるほど憐れだった。

「あの、柊さん……元気を出してください。聞いた限り不幸な事故みたいですし、柊さんがそこまで責任を感じることは……」

「いえ。実はまだ、この話には続きがあるんです」

「……続き?」

 菜乃華が訊き返すと、柊はクシャミの文庫本を手に取り、とあるページを開いた。
 そのページは、十センチくらいに渡って痛々しく破れていた。

「実は僕、クシャミが怪我をした時も、先程のように取り乱してしまって……。その際に、クシャミの本のページを破ってしまったんです!」

「あ、あ~……」

 柊が必要以上に責任を感じている理由がわかり、菜乃華が曖昧に笑った。
 どうやらこの青年、事故のことよりもページを破ったことを気にしていたようだ。自分の手で相棒の本を破ってしまったのだから、さもありなん。

「おかげでほら、見てください! ページが破れたせいで、クシャミの背中がひどいことに!」

 柊が、クシャミの背中を指差す。そこには確かに、五百円玉くらいの大きさのハゲができていた。前脚が取れていることに比べたら、なんとも可愛らしい怪我である。

「本体の傷が付喪神に与える影響は、様々だからな。破れたページの影響が、脱毛という形でクシャミに現れたのだろう。まあ、大きな怪我が二つにならなくて良かったというところだな」

「そうだね、瑞葉。これ以上怪我が増えていたら、あの猫さん、可哀想だもん」

 作業台で丸くなっているクシャミを見て、少し胸を撫で下ろす。

 ちなみにクシャミ自身は、柊ほど怪我のことを気にしていないらしい。のんびりと欠伸をしている。神様でも怪我は痛いらしいのだが、クシャミは大丈夫のようだ。何か、痛みをコントロールできる能力でも持っているのかもしれない。もしくは、ぬいぐるみのような外見が影響して、本当に痛くないのかも。

 心配性で慌てん坊の柊と、のん気でのんびり屋な猫のクシャミ。なんだかおもしろいコンビだと、菜乃華は思った。

「もう一度お願いします、店主さん。どうかクシャミを助けて下さい!」

 柊が、再び詰め寄るようにして菜乃華へ懇願する。

 一方の菜乃華は、「えーと……」と困り気味の愛想笑いだ。猪突猛進な柊をどうにかいなしながら、瑞葉に小声で確認を取る。

「瑞葉。この依頼、受けても大丈夫?」

「ああ、もちろんだ」

 瑞葉の答えは、いたってシンプルだった。つまり今回の依頼は、今の菜乃華でも十分に対処できるものであるということだ。
 ならば、是非もない。自信を持って柊へ返事をした。

「わかりました。このご依頼、神田堂がお引き受けいたします!」
「それでは、早速修復を始めよう」

 作業スペースに、瑞葉の涼やかな声が響く。
 今この場にいるのは、菜乃華と瑞葉、そして修復を受けるクシャミのみだ。作業に集中できるよう、柊には席を外してもらっている。

 余談だが、今の状況を作るまでが、また一苦労だった。なぜなら、柊が「自分もここにいます!」と、ずっとごねていたからだ。それはもう、梃子でも動かぬと言わんばかりに頑固だった。

 また柊に取り乱されると大変なので、修復中は外で待っていてほしい。けれど、それを本人に直接言えるほど、勇猛果敢にはなれない。おかげで菜乃華は大弱りだ。強情な柊を前に、どうしたものかと途方に暮れた。

 すると、困り切った菜乃華に救いの手が差し伸べられた。

「君は心配性過ぎるきらいがあるからな。作業を見て取り乱されると、一番困るのはクシャミだ。気になるのはわかるが、ここは我々に任せてくれ」

 瑞葉が菜乃華の代わりに進み出て、苦笑混じりに説得してくれたのだ。はっきりものを言える店員に感謝である。

 柊も、取り乱した自分が何をするかわからないことは理解していた。実際、それでクシャミの本体のページを破ってしまったわけであるし。真正面から指摘を受けて熱が冷めた柊は大人しく引き下がり、「一時間後に戻ります」と店を後にしたのだった。

「今回は、ページの抜け落ちと破れの補修となる。おあつらえ向きなことに、昨日までに練習してきた内容だ。菜乃華、修復方法は覚えているか?」

「うん。大丈夫だと思う」

「よし。では、時間もないからな。道具を用意したら、破れたページの補修から始めよう」

 手順を確認し、菜乃華と瑞葉は手分けして道具の準備を始めた。

 菜乃華は水汲み係として台所へ直行する。その間に、瑞葉が箪笥から必要な道具を取り出していく。長年この仕事をやってきただけあって、瑞葉の手際の良さは抜群だ。一分もしない内に、筆や澱粉糊などの道具が、作業台の上に並んだ。

「まずは修復用の糊を作ろう。やり方はわかるな」

「任せといて」

 菜乃華はドンと胸を叩き、澱粉糊と水、食品用のラップに手を伸ばした。
 同時に、瑞葉がつい先日教えてくれたことが、頭の中でリフレインする。

『菜乃華、よく覚えておけ。市販の澱粉糊は、そのままでは本の修復に適さない。取り出したままの濃度で使うと、糊が乾燥した際に、紙が必要以上に固くなってしまうからだ。特に古い本の修復では、それが更なる損傷につながってしまうことだってあり得る。故に、水を使って糊を適正な濃さまで薄める必要がある』

 菜乃華にとっては、正に目から鱗の事実だった。もちろん、セロハンテープを使うなんて、もってのほか。百害あって一利なし、だ。それを聞いて、自分の本が破れた際にセロハンテープを使っていた菜乃華は、責められたわけでもないのに肩を落としたものだ。
 ともあれ、瑞葉の教えに従って、糊を準備していく。

「糊をラップの上に乗せて、水をかけてっと」

 マニュアルの内容を復唱しながら、せっせと手を動かす。澱粉糊に水をかけ終わったら、ラップで包んで揉み解す。こうすることで、水と糊を斑なく混ぜることができるのだ。

 しばらくすると、のりはドレッシング程度の固さになった。早速、できあがった糊を瑞葉に見せる。

「瑞葉、これくらいの固さでいいかな?」

「そうだな……。紙が脆いから、もう少し水を加えた方が良いだろう」

「もう少しだね。了解、やってみる」

 瑞葉にアドバイスをもらい、糊に水をもう数滴垂らす。水を加えたらラップを閉じて、もう一度揉み解していく。
 十分混ざったら、再び瑞葉に確認してもらい、今度はOKをもらうことができた。これで、糊は完成だ。

 いよいよ次は本当の本番。本の修復開始である。

 クシャミの本体の前に立ち、一つ深呼吸する。心を落ち着かせ、作業台の上の文庫本を手に取った。
 まずは、破れたページの修復だ。柊が破いてしまったページを開いたら、他のページを汚さないよう、適当な紙を挟んでおく。

「本は私が支えておく。君は作業に集中しろ」

「了解。ありがとう、瑞葉」

 開いたページを瑞葉に預け、利き手に筆を取る。今回は手で破った傷のため、破れ目の断面が斜めになっていて、重なる部分ができている。これなら、断面に直接糊を塗れるから、貼り合わせるだけできれいに直せるだろう。糊をちょんちょんと筆先で少量すくい、慎重に破れた断面へ塗っていく。

「できるだけはみ出さないように、焦らず、ゆっくりと。これを忘れるな」

「焦らず、ゆっくりと……」

 瑞葉の言葉を復唱しながら、作業を進めていく。断面部分すべてに糊を塗り終わり、ページの破れた部分を貼り合わせる。
 ただ、貼り合わせた際、少し糊がはみ出てきた。少し糊が多かったようだ。

「瑞葉、これって固く絞った濡れ布巾で丁寧に拭き取っておけばいいんだっけ?」

「ああ、そうだ。そこに用意しておいた布巾で大丈夫だから、糊が乾く前に手早くやってしまおう」

「OK!」

 瑞葉に本を支えてもらったまま、布巾ではみ出した糊を拭っていく。
 最後に、糊で貼り合わせたページをクッキングシートで挟む。クッキングシートには糊がくっつかないから、これできれいに乾かせるはずだ。

「よし、できた!」

「ああ、上出来だ。よくやった、菜乃華」

 額の汗を拭って一息つく菜乃華へ、瑞葉も合格点を出す。
 上々の滑り出しだ。菜乃華もうれしそうに頬を緩めた。
「では次、抜け落ちたページの修復に入ろう。早くしないと、あの心配性が戻ってきてしまうからな」

 瑞葉につられて時計を見れば、柊が店を出て、もうニ十分近く時間が経っていた。初めての修復ということで、想像以上に慎重になっていたようだ。

 これは確かに、てきぱきと作業をした方がいいだろう。戻ってきた柊が作業を目にしたら、心配のあまり気絶でもしかねない。瑞葉へ「うん」と短く返事をして、すぐに次の修復の手順を頭の中で整理した。

 文庫のような無線綴じの本のページが抜け落ちた場合は、その量によって対応が変わってくる。今回は、幸いにも抜け落ちたのが二枚ということなので、糊を塗って元の場所へ差し込むやり方で修復していくことになる。一番容易な直し方だ。

「ページがごっそり抜け落ちてなくてよかったよ。その場合は、本を再製本しなくちゃいけないんだよね? そうなっていたら、わたしにはどうしようもなかった」

「確かに。そこは不幸中の幸いだった」

 菜乃華の所感に、瑞葉が同意を示す。何はともあれ、まずは取れてしまったページへ、糊をつけるところからだ。

 作業台を汚さないように大きな紙を敷き、その上に取れたページを載せる。そして、ページの上にさらにもう一枚、紙を重ねた。ページの上に重ねたこの紙は、ピンポイントで糊を塗るためのカバーだ。上に重ねた紙をずらし、ページの端がニ~三ミリくらい飛び出るように調整する。

 これで準備は完了だ。あとは、糊を塗っていくだけである。

「先程と同じで、糊は塗り過ぎないように注意するんだ。糊がはみ出て、他のページが開かなくなったら大変だ」

「大丈夫。わかってるよ、瑞葉」

 瑞葉の忠告を胸に止め、筆を滑らせる。
 多過ぎず、少な過ぎず。先程の修復を思い出しながら糊を塗り、終わったらページをひっくり返す。そして、裏側も同じように糊を塗っていく。

「……よし! こんなものかな」

「塗り終わったか。それでは、糊が乾かないうちに本へ差し込んでしまおう」

 ページを差し込みやすいよう、瑞葉が再び文庫本を開いたまま支える。菜乃華はそこへ、下敷きを添えたページをゆっくりと下ろしていった。

「ページが弛まないようにピンと引っ張る……」

「そうだ。そして、ページが本の天と地からはみ出ないよう、下ろしながら微調整していけ」

 菜乃華の呟きに相槌を打つように、瑞葉が言う。

 それを聞きながら感覚を尖らせ、菜乃華は指先に全神経を集中させた。菜乃華の頭の中に、余計な考えが入る隙間は一切ない。今行っている作業だけに、全身全霊を注ぐ。

「いいぞ、菜乃華。そのまま慎重に、だ」

 瑞葉の声が、隣から聞こえてきた。

 ただ、それはどこか遠く、言うならばテレビから流れてくる音声を聞き流している感じだ。無意識にうちに、外からの音をシャットアウトしているのだろう。

 震えそうになる手を精一杯抑えながら、ゆっくりとページを差し込んでいく。慎重に差し込まれたページは、下敷きを支えにして本の背の付近まで到達した。

 最後に、ヘラでこするようにして差し込んだページをくっつけ、本を閉じる。
 同様の作業をもう一回繰り返し、最後に本の上に重しを乗せて、修復完了だ。

「……終わったぁ~」

 菜乃華が崩れるようにイスへ座り、大きく息を吐いた。無事に作業が完了して、緊張の糸が解けたのだ。瑞葉も「お疲れ様」と、無事に修復を終えた菜乃華を労うように、彼女の肩を軽く叩いた。

 すると、その時だ。菜乃華の目の前で突然、大人しく作業を見守っていたクシャミが光り始めた。

「み、瑞葉、クシャミちゃんがまた光ってるよ!」

「まあ見ていろ」

 焦る菜乃華に、瑞葉は意味深な笑みを浮かべて答える。
 そのやり取りの間にもクシャミを包む光は強さを増していき、やがて軽い破裂音と共に弾けた。飛び散った光の粒に驚いた菜乃華は、「きゃっ!」と声を上げ、目を閉じる。

「菜乃華、もう大丈夫だ。目を開けてみろ」

 おかしそうに笑っている瑞葉に従い、ゆっくり目を開ける。
 そして、自らの目に飛びこんできた光景に、菜乃華はうれしそうな声を上げた。

「クシャミちゃんの前脚がくっついてる! ハゲもなくなってる!」

 光が治まった後、そこには怪我がすべて治ったクシャミが座っていた。
 クシャミは「な~」とあくびをし、くっついた前脚で顔を洗っている。相変わらずのん気なものだが、心なしか前脚がくっついて喜んでいるように見えた。

「お邪魔します。菜乃華さん、クシャミの本の修復はどんな感じですか?」

 と、そこに外へ出ていた柊が戻ってきた。彼は顔を洗うクシャミを見るや、涙を滝のように流して、相棒の体を抱き上げた。

「クシャミ、元気になったんだね! ああ、良かった。本当に良かった!」

 よほどうれしかったのだろう。柊はクシャミを高い高いしながら、踊るようにその場で回っている。
 なお、クシャミは高い高いがうっとうしいのか、不満げに「な~む」と鳴いていた。本当に、変てこな凸凹コンビである。

 そのまま菜乃華たちが見守っていると、いい加減、柊の方も体力が尽きたのだろう。全力疾走した後のように呼吸を荒くしながら、彼はクシャミを机に下ろした。

「あ、そうだ……。お代、お代……」

 息も絶え絶えな柊が、瑞葉に修復のお代を渡す。

 お金の管理は、昔からの担当ということで瑞葉の役目だ。菜乃華は、隣で見ているだけである。瑞葉は土間の片隅ある帳場へ行って、慣れた手つきで帳簿を付け、柊にお釣りを返した。
 後はみんなでお茶を飲みながら、クシャミの本の糊が乾くのを待つ。

 その際の雑談がてら柊が教えてくれたことによると、どうやら付喪神は生きていくための飲食を必要としないらしい。食べ物の味はわかるし、趣味嗜好として食事やお茶を楽しむことはあるが、あくまで楽しんでいるだけだそうだ。よって、柊が毎日料理をするのも、単純な趣味とのことだった。

 ちなみに、質実剛健かつ質素倹約な瑞葉は、付き合いや宴以外で自発的に飲食をすることはないらしい。もっとも、一応好物はあるようで、筑前煮が好きとのことだった。昔、祖母がお裾分けしてくれたものを気に入ったそうだ。菜乃華は一応覚えておこうと、心のノートにメモをした。

「……よし、そろそろ大丈夫だろう」

「お! 乾きましたか。では、僕たちはこの辺で失礼します」

 待つこと、小一時間ほど。文庫本を確認した瑞葉のOKが出たところで、柊たちが席を立つ。
 菜乃華と瑞葉も、柊たちを見送るため、店の軒先まで出ていった。

「菜乃華さん、瑞葉さん。クシャミの怪我を治してくださり、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません!」

 店を出た柊は、菜乃華たちに深々と頭を下げる。
 柊の顔に浮かんでいるのは、晴れやかな笑顔だ。見れば、彼の腕に抱かれたクシャミも満足そうに「な~お」と鳴いている。

 そんな依頼人たちの面持ちに、菜乃華も胸が温かくなるのを感じた。

「こちらこそ、ご利用いただき、ありがとうございます。お大事にしてくださいね」

「ご丁寧にどうも。もうクシャミの尻尾を踏まないよう、気を付けます」

 柊と二人で、和やかに笑い合う。
 その上で、上目遣いに柊の顔を見つめる。せっかく、こんな面白いコンビと知り合えたのだ。この縁を、これっきりにしてしまうのはもったいない。

「それと、もしよろしければ、またクシャミちゃんと一緒に遊びに来てくれるとうれしいです。今度は、依頼とか関係なしに。わたし、待っていますから」

 言った瞬間、なぜか柊の頭から湯気が上がり、顔がみるみるうちに紅潮していった。

「は、はい! ぜひ、お邪魔させていただきます。それはもう、毎日でも!」

 どこか夢見心地のような表情をした柊が、菜乃華の手を握った。予想外の反応に、菜乃華も若干引いてしまう。

 あと、背後からも変な気配を感じた。こう、獲物を狙う瞬間の肉食動物的なというか、怒髪天を突いた不動明王様的なというか、そんな気配が……。
 もっとも、気配を感じたのは一瞬で、すぐに何事もなかったように消えてしまった。

「……あいつは本当に単純だねぇ~。ちょっと優しくされたくらいで、あそこまで舞い上がるとは」

 音がしそうなほど手を振る柊と、彼に抱かれたクシャミを見送っていたら、横から聞き覚えのある声が上がった。菜乃華と瑞葉が振り返ると、いつの間にか蔡倫がそこに立っていた。

「蔡倫か。お前はいつも突然現れるな」

「へへっ! まあ、神出鬼没はオイラの売りの一つなんでね。あと瑞葉、さっきの殺気はちょっとばかし大人気なかったぞ」

「気にするな」

「そうかい、そうかい。お前さんも大変だねぇ~。ちなみに今のは、父親的なあれか? それとも……」

「やかましい」

 からかうような態度の蔡倫を、瑞葉が殺伐とした口調であしらう。
 初めて見る瑞葉の態度に、菜乃華も不思議そうに首を傾げた。

「まあ、瑞葉の方はいいや。……時に嬢ちゃん」

「はい?」

「どうだい? 初仕事を終えて、何か見えたものはあったかい?」

 菜乃華を見る蔡倫の目は、どこか試すような色合いを含んでいた。何だか本物のお坊さんみたいだ。

 その横では、瑞葉も『私も聞かせてもらおう』という顔で、菜乃華の返答を待っていた。

 二人に見つめられる中、改めて自身の初仕事を思い返す。それだけで、菜乃華の胸に様々な思いが満ちてきた。
 初めて知った、仕事の緊張感。瑞葉という先生兼パートナーの頼もしさ。そして、今も心に残る例えようのない達成感。すべて、この仕事を通して得られた、かけがえのない経験だ。

「もちろんです! この仕事を好きになれるものが、たくさん見えました!」

 故に、菜乃華は蔡倫の問い掛けに対して堂々と胸を張り、力一杯頷く。
 すると、満足げに微笑んだ瑞葉が、おもむろに菜乃華の頭を撫でてきた。

「私も、君との仕事は楽しかった。改めて、神田堂に来てくれてありがとう」

 瑞葉の言葉はどこまでも優しく、頭に載せられた手は何よりも温かくて……。菜乃華の頬は朱に染まり、胸の鼓動はどこまでも高鳴っていく。

 そして今この瞬間、菜乃華は不意に気付いてしまった。自分は目の前に立つこの青年に、恋をしてしまったのだと。

 土地神様、できればもう少しだけ、このままでいさせてください。
 微笑む瑞葉の顔を見上げ、菜乃華はそう願わずにはいられなかった。
 九月。菜乃華が神田堂の店主になって一カ月半ほどが経った、とある夜のこと。草木も眠る丑三つ時でありながら、九ノ重神社の母屋の二階、菜乃華の部屋にはいまだに煌々と明かりが灯っていた。

「ハードカバーのノドの修復は、編み棒や竹串に糊を均等にたっぷりつけて……」

 机に向かい、図書館で借りてきた修復マニュアルをノートに書き写していく。机の上には、他にも和紙で作った喰い裂きやら澱粉糊やらが並んでいる。本の修復について、勉強と練習をしているのだ。

 二週間前から二学期が始まり、神田堂にいられる時間が極端に減った。お客さんは元々少ないので店は回っているが、菜乃華にとっては本の修復について勉強する時間が取れなくなったのが地味に痛い。

 これでは、新しい修復方法を覚えることもできないし、今まで覚えた修復の練習をすることもできない。神田堂の店主をやっていく上で、実に厄介な状況だ。新しい修復方法を覚えることができなければ、対応できる依頼が限られてしまう。練習ができなければ、腕は上がるどころか鈍ってしまう。

 瑞葉からは、自分の生活を大切にして、焦らずゆっくりやっていけばいいと言われた。
 だけど、その言葉に甘えているわけにはいかない。今のままでは、一人前の店主になるまでに、何年かかってしまうかわからない。

 そう考えた菜乃華は、二学期が始まって早々に決意した。一日でも早く祖母に追いつくために、生活サイクルをがらりと変えたのだ。

 よって、現在の菜乃華の一日は、昼間は学校、夕方は神田堂、夜は学校の予習・復習、深夜に修復の勉強となっている。一学期までと比べて睡眠時間が半分ほどになってしまったが、とやかく言っている暇はない。学校の成績を落とさず、神田堂の店主としても一人前を目指すなら、多少の無理は覚悟の上だ。

 すべては、祖母から引き継いだ神田堂を守っていくため。自分に喝を入れながら、勉強に励む。

「……で、最後に本の上下を板で挟んで、上に重しを乗せて乾かすっと。よし、OK!」

 ノートへのメモが終わり、マニュアルを閉じる。

 同時に、菜乃華は大きなあくびをした。スマホで確認すれば、現在の時刻は午前二時半を回っていた。朝は六時に起きないといけないから、もうそろそろ寝ないとまずい。
 菜乃華は机と部屋の電気を消し、もう一度大きなあくびをしながら、ベッドに潜り込んだ。


         * * *


 菜乃華の朝は、境内の掃除から始まる。Tシャツに短パンというとてもラフな格好で外に出た菜乃華は、あくびを噛み殺しながら竹箒を手に取った。

「おはよう、菜乃華」

「おはよう、お父さん。ごめん、寝坊しちゃった」

 すでに掃除を始めている父に謝りながら、せっせと手を動かす。
 起きるつもりだった時間から、すでに十分以上寝坊している。さっさと掃除を終わらせてしまわないと、朝ご飯を食べている時間がなくなってしまう。頬をつねって眠気と戦いながら、石段の上を掃いていった。

 ただ、睡眠三時間半はやはりきつい。気を抜くと、自然と瞼が落ちてきてしまう。集中力を欠いているからか、掃除も一向にはかどらない。いつの間にか箒の柄に顎を載せていて、起きているのか寝ているのかわからない状態になってしまう。

「顔、洗おう……」

 このまま掃除をしても、効率が悪い。というか、バランスを崩して石段から転げ落ちてしまう。社務所の脇にある水道のところまで行き、気付けに水を顔へ引っかけた。朝の水の冷たさで、意識が少しだけはっきりする。

「……菜乃華」

「はい?」

 ハンドタオルで顔を拭いていると、父が後ろに立っていた。

「随分と眠たそうだな。顔色もそんなに良くないし、大丈夫か?」

「うん、平気。顔洗ったらすっきりしたし、目も覚めた」

 嘘だ。本当は意識がはっきりしたのも少しの間だけで、すぐに眠気がぶり返してきている。体もだるくて、心なしか頭痛もした。

 けれど、父に心配はかけたくない。気遣わしげな様子の父に向かって、精一杯の笑顔で首を振った。
 すると、父はやれやれとでもいうように深くため息をついた。

「お前、ここのところは二時過ぎまで起きていて、あまり寝ていないだろう」

「――ッ!」

 自分が何時まで起きているか正確に言い当てられ、菜乃華は思わず目を丸くしてしまった。

 神主の父は生活習慣も規則正しく、寝るのも早い。どんなに遅くとも、夜の十一時には毎日就寝している。それは、父のライフサイクルに合わせている母も同じだ。
 だから菜乃華も、父が自分の就寝時間を知っているなんて思いもしなかったのだ。

「お父さん、寝るの早いのに、よく知ってるね」

「先週、夜中に目が覚めた際に偶然知った。最近のお前の様子を見る限り、毎日あのような無茶をしているのだろう」

 さすがは父だ。見ていないようでいて、きちんと菜乃華のことを見ている。それがうれしくもあり、同時に少し心苦しい。

「お前が、なぜそのようなことをしているかはわかる。それに、学校の勉強やうちの手伝いを疎かにしていないことも知っている。だから、私もあまり強くは言えないのだが……あまり無理はするなよ。それと、辛ければ境内の掃除も休んでいい」

「ありがとう。でも、自分で決めたことだから。神田堂を理由に、学校や神社の手伝いを投げ出したりしないよ」

 そんなことをしたら、きっと祖母は悲しむだろう。それにきっとあの人も……。一日も早く一人前の店主にはなりたいが、そのために他のあらゆることを放り出していたら本末転倒だ。

 今までこなしていたことは、これからもきちんとこなす。その上で、神田堂の勉強も頑張る。そんな気持ちを込めて、父に向かってもう一度微笑んだ。

「大丈夫。わたし、お父さんが思っているよりも頑丈だから。少しくらいの寝不足なんて、へっちゃら、へっちゃら!」

「まったく……。我が強いところが、母さんそっくりだ。似なくていいところばかり似てしまって……」

 菜乃華が力こぶを作って見せたら、父は頭をがりっと掻きながら、再び深いため息をついた。
 明らかに呆れられている。そして心配されている。これには菜乃華も、笑って誤魔化すしかなかった。