俺がこんなに好きなのは、お前だけ。



ぐいっと手を引き寄せられて、腰に手をまわす形になって、身体ごと密着した。

ふわりと香った制服からの優しい柔軟剤の匂い。すごい勢いで刻まれる鼓動。振動が伝わってしまわないか、心配で仕方ない。



「行くぞ」

「うん……っ」



動き出した自転車。完全に夜になった。いまは午後7時前ぐらい。白かった月も色が変わり、星も輝きはじめていた。

加速していくスピードは、私のドキドキと同じ。大志くんの腰に触れている手に神経がいく。火照った顔にあたる風がちょうどいい。



「方向教えて」

「えっと、次の角を右で、その次は……」



電車で20分の距離。自転車で通学したことないからわからないけれど、どのくらいの時間がかかるんだろう?


たぶん、こんなこと大志くんに言ったら怒られるんだろうけど……。
ちょっとでもその道のりが長ければいいなと思ってしまう。


自転車を漕ぐペダルの音。横を通り過ぎる車のエンジン音。すれ違う人たちの笑い声。
私たちの間に特別な会話があるわけでもない。


だけどこの時間も空気感もすべてが"特別"なことに感じる。
1秒でも長く続けばいい。


けれど楽しい時間があっという間に終わってしまうのと同じように、特別な時間もあっという間に終わりを告げるらしい。


ほんの30分程度で到着してしまった。自転車がスピードを緩めて止まった。



「ここ?」

「うん」

「そっか」



自転車から降りて、大志くんと向き合う。街灯がほんのりと彼の表情を見せてくれる。



一度は大嫌いと宣言してしまったのに、まるであのときの自分が嘘のように再反対の気持ちをいま抱えている。そのことが不思議でならない。



「今日は色々ありがとう」

「べつに」

「送ってくれて、ありがとう」

「ん」



短い返事。取り繕っていない、低い声。
いくら「ありがとう」を重ねても、足りない。
そして、あまり大志くんの顔をうまく見られない自分がいる。



「じゃあ、またな」

「うん。また明日」



再び自転車に跨った大志くん。行ってしまうんだと漠然と考えると、寂しさにあふれて胸がの奥が締めつけられる。


また明日も会えるのに。その次も、その次だって。同じ学校で、同じクラスなのに。


今日は色んなことがあった。あの手紙の犯人が身近にいて、いま考えても手が震えるぐらいだから。


乾いたはずの涙の跡が、すこしだけ風になびいてひび割れた感覚がした。



「……怖かったら」

「……?」

「いつでも連絡してきていいから」



クラスメイトと話すときとは違うのに、優しい声色。
本気で心配してくれているのが、目線から伝わってくる。


深く頷くと、すこしだけ笑って、大志くんは帰って行った。小さくなっていく背中を目で追って、にじむように心のなかに広がる淡いできたての感情を噛み締める。


はじまった、やっと、はじまった私の初恋。



──「お前は俺を好きになんな」



思い出されたセリフには目を閉じた。熱された心のなかにひとしずくの水滴が落とされたような、そんな感覚だった。






帰宅したあと、制服を脱ぐとき、お風呂に入るとき、ご飯をたべるとき、寝るときも、考えていたことは常に同じだった。


脳内のスクリーンに、永遠に上映されているのは、これまで起きた大志くんとのエピソードばかり。壊れた映画館みたい。


しかも同じシーンを繰り返し流したり、ときには大志くんの笑顔だったり、ぐっときた仕草のズーム映像だったりが流れてくるものだから、顔がだらしなくニヤけてしょうがない。


家族の前でそんな表情はできないと、表情筋にチカラを入れてなんとかやり過ごし、自室にこもってからは我慢することをやめた。


ベッドにダイブして、足をバタつかせた。
悶々としたような胸のざわめき、叫びたくなるような爆発的な感情に、まるで自分が自分ではないみたい。


なんだこれ……全部、恋の症状ってやつ?
私、病んでいるのか……?恋に。あれ、恋って病むものだっけ?落ちるものじゃなかったかい?


誰に問いかけているのかわからない疑問。誰に問いかければ、答えが返ってくるのか誰か教えて欲しい。


ああ、もう、今日は眠れそうにないや……。



***



次の日、目覚めてからまたすぐに大志くんのことを思い出した。これはもう本格的にやばいやつだ。


こんなに好きな人を中心に世界って、まわるもの?

こんなに劇的に変わる?
おとといの私といまの私とじゃ、天と地の差がある。


恋をしたら、こんなに変わるんだ。知らなかった。はじめて、恋をしたから。




今日会ったとき、すこしでも可愛いって思ってもらいたくて、普段よりも丁寧にメイクをしたし、癖っ毛の髪の毛のセットも、頑張った。


制服を着るときも、スカートの長さだったり、シャツのシワだったりを念入りに確認した。


テレビのニュースでは梅雨が開けたと報道されていた。



「行って来ます!」



いつもと同じ時間に起きたのに、準備に手間暇かけたからか、家を出るのが遅くなった。家を出てから駅までの道を走って向かった。


眩しい太陽の日差しは日をおうごとに、容赦がなくなってきている。夏に移り変ろうとしているのかもしれない。


けれど駆け抜けるスピードも、肺に入ってくる朝の空気も、なんだか最高に気持ちがいい。


……あれ?私、いま、もしかして青春している?


駅に到着して、ホームまでノンストップで走り、そのまま閉まりそうなドアをすり抜けて車両に飛び乗った。


走った勢いで乱れた前髪を手ぐしで整えて、つり革に掴まって、流れる景色に視線を投じた。汗がじんわりとにじむ。


学校の最寄り駅に着いて、下車。ちらほら同じ制服を着た人たちを横目に改札を抜けた。
空の色を確認。大志くんが上を見ていることが多いことは、もう知っている。


他にはなにが好きなんだろう?

カフェで頼んだコーヒーは砂糖やミルクなどは混ぜずにブラックで飲んでいた。


教室にいるときは、穏やかに目を細めて笑うけど、本当に可笑しそうに笑うときは顔の中心にぐっとチカラが入ったように笑うよね。


それを手で隠すけど、隠しきれていないところ、地味に好き。


ああ、もう、ダメだ。認めた"好き"の気持ちは、こんなにも溢れて止まらない。
出会えた初めての恋に、幸せを感じる。



鼻歌でも奏でたい気分。



「おはよー」



教室に足を踏み入れると同時に大きな声で挨拶をした。みんながそれに「おはよう」と返してくれる。やっぱりこのクラスはいい人の集まりだと思う。


今日はまだ大志くんは登校してないみたいだ。教室内を見回しても姿が見えない。


かばんの中身を引き出しに移し替えて、クラスメイト数人と話をしていると、クラスのみんなが「おはよー」と再び挨拶を投げた。大志くんの登場だった。


微笑みを顔にくっつけて、「おはよ」と爽やかな風を教室に送るのは、人気者のルーティン。
トクンと、可愛らしい音が身体の真ん中で鳴った。


目があって、「おはよ」と言うと「おはよう、小田さん」と微笑まれた。それが私にはすこし不服だった。モヤッと、心に広がる灰色の靄。


大志くんが席について、私と話していたクラスメイトが「おい、大志ー」と、彼を呼んだ。「なにー?」と近づいてくる大志くんにドキドキが始まった。



「来週のテストの山はりなんだけどさぁ……」

「うん」



目の前で話を繰り広げているクラスメイトと大志くんの様子を見る。
だんだんと話に加わってくるクラスメイトたちが増えていく。


大志くんにはやっぱり人を寄せ付ける才能があるんだ。


女の子たちのキラキラした視線がいくつもあることにも気づいた。そうだった。彼は学年一モテる男だった。


いまは一年生だから学年だけでとどまっている人気も、学年が上がるに連れてきっと後輩からも人気になっていくことが容易に予想できる。




今更だけど私、とんでもない人に初恋しちゃったかもしれない。


止まらない思考。深まるたびに、手の届かない人を好きになった実感だけが身に染みる。


それに……。


──「お前は俺を好きになんな」


この言葉は相当重い。枷になっているのは間違いない。
誰からも好きになってほしくないといった発言だったし、きっと大志くんも私からの好意なんて嬉しくないだろうし。


告白なんてしたら絶対に嫌われるんだろうな。する気は毛頭ないけれど。

できるわけない。上手くいくわけもないし。


ううん、いまはこんなこと考えていたくない。だって、ようやく望んでいた初めての恋をすることができたのだから。


いまはその幸せだけに浸っていたい。芽生えた気持ちにだけ、喜びを感じたい。


付き合いたいとか、大志くんにも私のことを好きになってもらいたいとか、そんな大それたことはいまは考えられない。


胸いっぱいのこの気持ちが、あるだけで、それだけで……。

いい、もん。満足だもん。


大志くんに彼女ができたら嫌だけど、不幸中の幸いみたいなもので、大志くんは恋が嫌いだ。全面的に信用していないから、それはないと思う。


だからこそ、私の恋も叶うこともないのだけど。

ああ、もう、だから、いまはそんなこも考えていたくないんだってば。



「小田さん」



名前を呼ばれて顔をあげる。呼んだのは、大志くんだった。



「大丈夫?具合いでも悪いの?」




優しい言葉に、優しい表情。これが人気者の王子様対応だ。


でも私はそんなの、欲しくない。
特別に感じるのは、みんなと同じようなそれじゃない。


って、もう。わがまますぎない?私。


首を横に振って「大丈夫」と笑った。大志くんに便乗して、クラスメイトからも心配の言葉をかけられたけれど、すべてに同じ返事をした。


結衣羽が来たのが見えて輪から外れる。



「あんたが佐野大志の輪の中にいるの珍しいね」

「違うよ。大志くんがあとから来たの」

「ふぅーん」



興味あるのかないのかわからないその反応。唇を尖らせてしばらく考える。どういう言葉で親友に初恋のことを話すかを。


どうやって報告したらいいのかもわからないなんて、やっぱり私って遅れてるんだなぁ、色々と。


話したくて、でも恥ずかしくて身体をもじもじしたあと、意を決して「結衣羽、聞いて」と話を切り出す。



「私、好きな人、できた」

「え?ああ、佐野大志でしょ?」

「……!?」


なぜにバレておる!?

驚きすぎて、声にならない。震えてきた。
なんでもないように言ってのけた親友がニヤリと笑う。



「あんたが佐野大志のこと好きになってることぐらい、気づくよ」

「どうして?私だって昨日気づいたのに……」

「気づかないフリしてただけでしょ」

「……っ……」



グサリと刺さった結衣羽の指摘に言葉を詰まらせた。




そう、かもしれない。
もうずっと、好きだったのかもしれない。


好きだと認めたのは昨日だったけど、私にだけ無愛想なところを見せたり、ぶきっちょな優しさで守ってくれたり、昨日だっていつでも連絡してこいって言ってくれた。


そんな彼に恋をした瞬間なんて、いつかわからない。
恋って突然落ちるものだと勝手に思い込んでいた。
だけどいろんなものが蓄積されて恋に形を変えていくことも、あるみたいだ。私の場合がそれにあたるだろう。



「まあ、頑張りな」

「うん」



頑張りかたも、頑張ったところでこの恋が実る保証もないけど、でも、大切にしたい。この初恋。


叶わなくてもいい。好きってこの気持ちが私の心のなかにあるだけで。



***



放課後になった。掃除当番だった子のひとりが間違えてアルバイトを入れてしまっていたらしく、なんの予定もなかった私はその子と掃除当番を交代した。


久しぶりに結衣羽と帰れるかなと思っていたけど、しょうがない。



「もも、ホントありがと!助かる!」

「ううん、全然だよ。早くバイト行ってらっしゃいな」



手を振って彼女を見送った。

彼女の当番はたしか東の階段だったな。誰とだっけ。
そんな考えごとをしながら担当の階段まで到着した。そしてそこにいた人物に驚く。



「え、大志くん?」

「あれ、お前なにしてんの?」



いや、それはこっちの台詞。
大志くんは私と同じ班わけされてるから、交代した子と同じときに掃除当番なわけないのに。




目を丸くする私に大志くんが「用事があるってやつと交代したんだよ」と話してくれた。



「私と同じだ」

「ったく、お人よしだな」

「大志くんもね」



手にしていた雑巾で階段を拭きあげていく。大志くんも同様に掃除をはじめた。

無言が続くと思いきや「そういえばさ」と大志くんが再び口を開いた。



「大丈夫なのか?」

「へ?」

「朝、なんか思いつめたような顔してたから」



私がいつそんな顔した?
あ、もしかして今朝「大丈夫?」と尋ねられたときだったりする?



「なんでもないよ、本当に大丈夫だから」

「……俺さ、昨日の夜結構遅くまで起きてたんだ」

「……?」

「お前から連絡きたらすぐ反応できるように」



合った目は頑張ってそらさない。でもあまりに嬉しくて、血が駆け足で身体中を駆け巡る。私の心臓、働き者すぎる。



「わりと俺は真面目に心配してる」

「うん……」

「遠慮せずなんでも言ってこいよ」



こんなに優しくされると、調子が狂う。好きだと自覚したあとだから、余計に。
大志くんには無愛想で意地悪でいてもらわないと困る。


じゃないと、もっともっと、好きになっちゃうから。


好きって気づいて2日目でこんなに好きなのに、これから毎日どんどん好きが積み重なっていったら、どうなってしまうのか想像できない。


目に見えない心が、その重みに耐えられなくなってパンクでもしたらどうしよう。



「ありがとう」



お礼を言ってから、掃除の続きをした。


俺がこんなに好きなのは、お前だけ。

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