ふと佐藤くんと目が合う。ドキ!と心臓が跳ねて、ぎゅっと手を握る。怖いと、思ってしまった。
誰かに好きって、言われたのも初めてなのに。これまでは、好きな人じゃなくても誰かに想われたら嬉しい感情が湧いてくるのだと勝手に決めつけていた。
違う、んだ……。
「ごめん、小田さん……」
「チッ。もういい。お前はぜってぇ金輪際こいつに関わんな。いいな」
掴んでいた胸ぐらを大志くんが投げるように離す。そして広げていたノートや教科書をかばんにしまうと、「行くぞ」とさっさと歩いて行く。
私も慌てて片付けるとかばんを肩にかけて大志くんの後を追った。
佐藤くんの横を通り過ぎるとき、彼のことは見れなかった。胸が、痛んだ。
「待ってよ……っ、大志くん……っ」
走って追いつくと大志くんが急に立ち止まるので、背中にぶつかりそうになる。
振り返った大志くんは私の手を取って再び歩きだした。引っ張られるようにそのまま進む。握られている手のチカラがあまりに強いので驚いてしまった。
私の手が熱いのか、大志くんの手が熱いのか、もうよくわからない。頭がうまく働かないのだ。
だけどすこく──熱い。胸も、顔も、手も。
静かな廊下には私たちふたりぶんの足音だけが響いている。だけど太鼓を叩くような大きな自分の心臓の音が一番耳を支配している。
頭のなかが沸騰したようにぐるぐると空回りして、なにも考えられない。
これって……これって……なに?
私はいま、どんな感情のなかにいるの?
わからない。経験したことのないような熱にいま侵されている。
下駄箱に到着し手は離された。自由になった手に寂しさを感じた。大志くんの手は大きくて、私のふにゃふにゃした手とは違って骨がこわばった、でもすごく綺麗な手をしていた。
くつに履き替えてもなお無言のまま、駐輪場に向かう大志くんの後を歩いた。まるでRPGの仲間みたいだななんて考えるほどには頭が冷静になってきた。
「大志くん、さっきはありがと」
「……なにが」
「私のために怒ってくれて」
自転車の鍵を外している大志くんが「別に、礼言われることじゃない」と淡々と述べた。
「お前、ほんとに大丈夫か?」
「え?」
「顔、無理してっぞ。俺の前で無理に笑うな」
べつに、無理なんかしていない。そう、思った瞬間だった。顔が急に引きつったように笑えなくなる。
あれ?私、どうして……。
「……わり、言いすぎた」
「ちが……っ、なんで私、泣いて……っ」
自分の意思と関係なく流れてきた涙に、なにより自分が一番驚いている。
手が震えて、私が自覚していた以上にあの手紙が怖かったのだと今更実感している。
大粒の涙がとめどなく流れる。拭っても、拭っても。
「泣き止まなきゃとか、思わなくていいから。ここには俺とお前だけしかいねぇから」
「……大志くんが優しいとか、明日嵐くるよ」
「るせ」
不器用な手が伸びてくる。頭に置かれて何回かそれが左右に動く。くしゃくちゃになった私のコンプレックでもある癖のある髪の毛。
ああ、もう、わかっちゃったよ。大志くん。
この胸のドキドキも、熱を帯びた頬や、離れた手の温度に感じた寂しさの正体。
ごめん、大志くん。私、約束破るね。
私、大志くんのことが好きみたい。好きに、なっちゃったみたいだ。
そう考えたらなにもかもがしっくりくる。得体の知れない感情のなかにいて、モヤモヤしていたのが途端に晴れる。
恋って、こんな感じなんだ……。
心臓のドキドキが全身に広がって、指先までがジンジンと熱い。目の前にいる大志くんに見られていると思うと緊張するし、息することにも気を使う。
そばにいるいま、この瞬間が、たまらなく幸せに感じる。
好きになんかならないって、そう思っていたのに。
結衣羽の言う通りだ。好きって気持ちは自分の意思じゃどうにもならないのだと身をもって知った。あんなに好きな人ができないって悩んでいた。誰かを好きになれないか、ずっと模索していた。
初めての恋。初めて男の子に抱いた優しくて、でもちょっぴり痛くて……温かい気持ち。
私、いま、恋をしている。目の前にいる、彼に。
「乗って」
「え?」
「暗くなってきたし、家まで送る」
「え!?遠いよ!?」
「いいから、乗って」
大志くんが自転車に跨り、後ろをポンと叩いた。私は目を見開いたあと軽く頷くと、遠慮がちに後ろに座った。跨らずに、横を向いたままの状態で。
どこを掴んだらいいかわからずに、大志くんの制服の裾をそっと掴んだ。
「ちゃんと掴まってろって」
「わっ!」
ぐいっと手を引き寄せられて、腰に手をまわす形になって、身体ごと密着した。
ふわりと香った制服からの優しい柔軟剤の匂い。すごい勢いで刻まれる鼓動。振動が伝わってしまわないか、心配で仕方ない。
「行くぞ」
「うん……っ」
動き出した自転車。完全に夜になった。いまは午後7時前ぐらい。白かった月も色が変わり、星も輝きはじめていた。
加速していくスピードは、私のドキドキと同じ。大志くんの腰に触れている手に神経がいく。火照った顔にあたる風がちょうどいい。
「方向教えて」
「えっと、次の角を右で、その次は……」
電車で20分の距離。自転車で通学したことないからわからないけれど、どのくらいの時間がかかるんだろう?
たぶん、こんなこと大志くんに言ったら怒られるんだろうけど……。
ちょっとでもその道のりが長ければいいなと思ってしまう。
自転車を漕ぐペダルの音。横を通り過ぎる車のエンジン音。すれ違う人たちの笑い声。
私たちの間に特別な会話があるわけでもない。
だけどこの時間も空気感もすべてが"特別"なことに感じる。
1秒でも長く続けばいい。
けれど楽しい時間があっという間に終わってしまうのと同じように、特別な時間もあっという間に終わりを告げるらしい。
ほんの30分程度で到着してしまった。自転車がスピードを緩めて止まった。
「ここ?」
「うん」
「そっか」
自転車から降りて、大志くんと向き合う。街灯がほんのりと彼の表情を見せてくれる。
一度は大嫌いと宣言してしまったのに、まるであのときの自分が嘘のように再反対の気持ちをいま抱えている。そのことが不思議でならない。
「今日は色々ありがとう」
「べつに」
「送ってくれて、ありがとう」
「ん」
短い返事。取り繕っていない、低い声。
いくら「ありがとう」を重ねても、足りない。
そして、あまり大志くんの顔をうまく見られない自分がいる。
「じゃあ、またな」
「うん。また明日」
再び自転車に跨った大志くん。行ってしまうんだと漠然と考えると、寂しさにあふれて胸がの奥が締めつけられる。
また明日も会えるのに。その次も、その次だって。同じ学校で、同じクラスなのに。
今日は色んなことがあった。あの手紙の犯人が身近にいて、いま考えても手が震えるぐらいだから。
乾いたはずの涙の跡が、すこしだけ風になびいてひび割れた感覚がした。
「……怖かったら」
「……?」
「いつでも連絡してきていいから」
クラスメイトと話すときとは違うのに、優しい声色。
本気で心配してくれているのが、目線から伝わってくる。
深く頷くと、すこしだけ笑って、大志くんは帰って行った。小さくなっていく背中を目で追って、にじむように心のなかに広がる淡いできたての感情を噛み締める。
はじまった、やっと、はじまった私の初恋。
──「お前は俺を好きになんな」
思い出されたセリフには目を閉じた。熱された心のなかにひとしずくの水滴が落とされたような、そんな感覚だった。
帰宅したあと、制服を脱ぐとき、お風呂に入るとき、ご飯をたべるとき、寝るときも、考えていたことは常に同じだった。
脳内のスクリーンに、永遠に上映されているのは、これまで起きた大志くんとのエピソードばかり。壊れた映画館みたい。
しかも同じシーンを繰り返し流したり、ときには大志くんの笑顔だったり、ぐっときた仕草のズーム映像だったりが流れてくるものだから、顔がだらしなくニヤけてしょうがない。
家族の前でそんな表情はできないと、表情筋にチカラを入れてなんとかやり過ごし、自室にこもってからは我慢することをやめた。
ベッドにダイブして、足をバタつかせた。
悶々としたような胸のざわめき、叫びたくなるような爆発的な感情に、まるで自分が自分ではないみたい。
なんだこれ……全部、恋の症状ってやつ?
私、病んでいるのか……?恋に。あれ、恋って病むものだっけ?落ちるものじゃなかったかい?
誰に問いかけているのかわからない疑問。誰に問いかければ、答えが返ってくるのか誰か教えて欲しい。
ああ、もう、今日は眠れそうにないや……。
***
次の日、目覚めてからまたすぐに大志くんのことを思い出した。これはもう本格的にやばいやつだ。
こんなに好きな人を中心に世界って、まわるもの?
こんなに劇的に変わる?
おとといの私といまの私とじゃ、天と地の差がある。
恋をしたら、こんなに変わるんだ。知らなかった。はじめて、恋をしたから。
今日会ったとき、すこしでも可愛いって思ってもらいたくて、普段よりも丁寧にメイクをしたし、癖っ毛の髪の毛のセットも、頑張った。
制服を着るときも、スカートの長さだったり、シャツのシワだったりを念入りに確認した。
テレビのニュースでは梅雨が開けたと報道されていた。
「行って来ます!」
いつもと同じ時間に起きたのに、準備に手間暇かけたからか、家を出るのが遅くなった。家を出てから駅までの道を走って向かった。
眩しい太陽の日差しは日をおうごとに、容赦がなくなってきている。夏に移り変ろうとしているのかもしれない。
けれど駆け抜けるスピードも、肺に入ってくる朝の空気も、なんだか最高に気持ちがいい。
……あれ?私、いま、もしかして青春している?
駅に到着して、ホームまでノンストップで走り、そのまま閉まりそうなドアをすり抜けて車両に飛び乗った。
走った勢いで乱れた前髪を手ぐしで整えて、つり革に掴まって、流れる景色に視線を投じた。汗がじんわりとにじむ。
学校の最寄り駅に着いて、下車。ちらほら同じ制服を着た人たちを横目に改札を抜けた。
空の色を確認。大志くんが上を見ていることが多いことは、もう知っている。
他にはなにが好きなんだろう?
カフェで頼んだコーヒーは砂糖やミルクなどは混ぜずにブラックで飲んでいた。
教室にいるときは、穏やかに目を細めて笑うけど、本当に可笑しそうに笑うときは顔の中心にぐっとチカラが入ったように笑うよね。
それを手で隠すけど、隠しきれていないところ、地味に好き。
ああ、もう、ダメだ。認めた"好き"の気持ちは、こんなにも溢れて止まらない。
出会えた初めての恋に、幸せを感じる。
鼻歌でも奏でたい気分。
「おはよー」
教室に足を踏み入れると同時に大きな声で挨拶をした。みんながそれに「おはよう」と返してくれる。やっぱりこのクラスはいい人の集まりだと思う。
今日はまだ大志くんは登校してないみたいだ。教室内を見回しても姿が見えない。
かばんの中身を引き出しに移し替えて、クラスメイト数人と話をしていると、クラスのみんなが「おはよー」と再び挨拶を投げた。大志くんの登場だった。
微笑みを顔にくっつけて、「おはよ」と爽やかな風を教室に送るのは、人気者のルーティン。
トクンと、可愛らしい音が身体の真ん中で鳴った。
目があって、「おはよ」と言うと「おはよう、小田さん」と微笑まれた。それが私にはすこし不服だった。モヤッと、心に広がる灰色の靄。
大志くんが席について、私と話していたクラスメイトが「おい、大志ー」と、彼を呼んだ。「なにー?」と近づいてくる大志くんにドキドキが始まった。
「来週のテストの山はりなんだけどさぁ……」
「うん」
目の前で話を繰り広げているクラスメイトと大志くんの様子を見る。
だんだんと話に加わってくるクラスメイトたちが増えていく。
大志くんにはやっぱり人を寄せ付ける才能があるんだ。
女の子たちのキラキラした視線がいくつもあることにも気づいた。そうだった。彼は学年一モテる男だった。
いまは一年生だから学年だけでとどまっている人気も、学年が上がるに連れてきっと後輩からも人気になっていくことが容易に予想できる。
今更だけど私、とんでもない人に初恋しちゃったかもしれない。
止まらない思考。深まるたびに、手の届かない人を好きになった実感だけが身に染みる。
それに……。
──「お前は俺を好きになんな」
この言葉は相当重い。枷になっているのは間違いない。
誰からも好きになってほしくないといった発言だったし、きっと大志くんも私からの好意なんて嬉しくないだろうし。
告白なんてしたら絶対に嫌われるんだろうな。する気は毛頭ないけれど。
できるわけない。上手くいくわけもないし。
ううん、いまはこんなこと考えていたくない。だって、ようやく望んでいた初めての恋をすることができたのだから。
いまはその幸せだけに浸っていたい。芽生えた気持ちにだけ、喜びを感じたい。
付き合いたいとか、大志くんにも私のことを好きになってもらいたいとか、そんな大それたことはいまは考えられない。
胸いっぱいのこの気持ちが、あるだけで、それだけで……。
いい、もん。満足だもん。
大志くんに彼女ができたら嫌だけど、不幸中の幸いみたいなもので、大志くんは恋が嫌いだ。全面的に信用していないから、それはないと思う。
だからこそ、私の恋も叶うこともないのだけど。
ああ、もう、だから、いまはそんなこも考えていたくないんだってば。
「小田さん」
名前を呼ばれて顔をあげる。呼んだのは、大志くんだった。
「大丈夫?具合いでも悪いの?」