それまで私は知らなかった。
その人の笑顔を見るだけで、胸がざわつくこと。
声が聞こえると、それだけでうれしくなること。
その人が悩んでいると、私まで寂しくなったし、
手が微かに触れただけで、胸がドキドキして、
その人のことを想うだけで涙があふれた。
嘘つきなきみも、
怒りっぽいきみも、
笑うと口もとを隠す綺麗な手も、
ぜんぶ、ぜんぶ、……好き。
初めて知った、たくさんのこと。
今度は私がきみに教えてあげるよ。
だから……私を信じて。恋を、信じて。
新しい制服、新しい学校、新しいクラスメイト、新しい私。
春は新しいものと出会いを運んでくる、最高の季節だ。
高校生になったら、運命の人と出会って、素敵な恋をする。
毎日がキラキラ輝いていて、楽しくて仕方ないって言わざるをえないような青春をするって決めていた。決めていた、はずだった。
……だが、現実はそう甘くないみたいだ。
「あ〜〜! もうっ! 私の運命のひとどこにいんの⁉︎」
「またそれだ。それ、ももかの口癖?」
「だぁ〜〜!」
手に持っているほうきに体重を乗せて項垂れる。身体の底から溜まっている鬱憤を吐き出すように叫んだ。
隣では同じようにほうきを持つ親友が呆れたような表情で私のことを見ていた。
高校生になって2ヶ月が経った。今は6月。
梅雨に入り、テンションは右肩下がり。
高校生活、こんなにつまらないものだとは思わなかった。
毎日勉強に追われ、課題に追われ……。
まあ私が頭悪いからいけないんだけど。
自分で言いたくないけど、ほんと、なんで高校生になれたか不思議なレベルで頭が悪い。
毎日つまらない授業を受けているだけの日々。友だちと過ごす昼休みも放課後も悪くない。クラスメイトも楽しい人が多くて悪くないのだけれど、むしろ楽しいのだけれど、なにか足りないのだ。
私のSNSのアカウントたちは、友だちとのことばかりが載っけられている。私も、繋がってる友だちみたいに彼氏とのラブラブ写真とか、載せたい。自慢したい。
つまらない。無性に。刺激がほしい。恋が、したい。素敵な恋が。
憧れる。かっこいい彼氏と手を繋いだり、放課後デートして、キスとかハグとか、甘い言葉を耳元で囁かれたい。
ドキドキしたい。できたら、同じ学校の人がいい。
毎日顔見たいし。会いたいし。
でも……現実はそんなにうまくいかない。だって好きな人すらいないのだから。
ため息ばかりを漏らす私を見かねて結衣羽がやれやれと肩をすくめた。
「だってぇ……恋したいんだもん」
「恋だけがすべてじゃないよ?」
「わかってるけどぉ……」
親友の黒髪ポニーテールを無意識に見る。
彼女は中学の時からの友だちである浜松結衣羽(はままつゆいは)。
サバサバした性格でいつもボケ倒してしまう私のツッコミ役だ。
「あんた、顔はかわいいんだから、黙ってればきっとすぐ彼氏ぐらいできるよ」
「黙ってればってどういうこと?」
「そのままの意味」
そのままの意味って言われましても、わからないから聞いているのですが。
かわいくないのに、私。
肩につくほどの髪の毛はくせっ毛で、ゆるいウェーブがかかっているのだが、これが私のコンプレックスでもある。
生まれつき色素が薄くて、若干茶髪に見える髪色。黒髪の綺麗なストレートにものすごく憧れる。
背は低いし、胸も小さくてずん胴だし。足だって太い。
からかわれたことの対してむっと頬を膨らませていると「そんなに私といてつまらないなら、もう桃香に付き合ってドーナツ食べに行ってやんないよ?」と、言われて、焦る。
「それは困る!」
「ならもうため息吐かないの」
「うう、わかった。がんばる」
「偉いぞ、ももか」
結衣羽に褒められて上機嫌になる。これぞ親友の力だ。
ニヒヒと気持ち悪く笑うと「ちりとりの中のゴミ捨てて来て」と言われて動く。
親友さんよ、私の扱い方がうますぎませんか……。
気を取り直して掃除の続きを始めた私たち。
ゴミ箱にちりとりの中身を入れて腕まくりをする。中身がパンパンで、今にも漏れてきそうなゴミたち。中の袋ごと取り出して縛ると、焼却炉まで持って行こうと結衣羽に声をかけた。
「これ持って行ってくるね」
「ありがとう」
重たいそれを持ち上げて、歩き出そうとしたそのときだった。私が持っていた重たいものが消えた。
「小田さん」
名前を呼ばれて、顔をあげる。
「俺が持って行くよ」
持っていたゴミ袋をすっと私から取ってしまった人物に目を見開く。クラスメイトの佐野大志くんだった。
彼はいわゆる優等生くんだ。成績優秀でリーダーシップもあって、コミュ力も抜群に高い。入学してすぐからクラスの人気者になった人物。
黒の髪の毛は短く爽やかで、背が高く、いつも優しく笑う、絵に描いたような人気者だ。
「い、いいよ。私、平気だよ?」
思わず彼の手から、ゴミを取り返そうと、手を伸ばした。
「ううん。こんな重たいもの、女の子に任せられないよ。俺が持っていくから、小田さんは続きしてて」
にこやかに笑って、彼が荷物を背中のほうに隠した。
「ありがとう……ございます……」
「ふはっ!なんでタメなのに敬語?」
「なんと、なく……」
取ってつけたような敬語で、自分でもおかしいとは思った。
でも目の前の彼が爽やかに微笑んでいることに気づいて、そのあまりの格好の良さに赤面してしまう。
くっ……イケメンってほんとずるい。
そんな大志くんをぼうっと見つめていると「ごめん、無駄話が過ぎた」と、重かったゴミ袋を軽々と持ち、歩いて行ってしまった。
スタイルいいなあと、ぼんやり後ろ姿を見つめていると、
「なになに、恋の予感?」
と、いきなり真横から結衣羽が顔を出すものだから、驚いて心臓が止まるかと思った。
「へっ⁉︎」
「いいじゃん。佐野大志。モテモテだよ〜」
「知ってるよ。けど大志くんは……」
「なによ?」
む、無理だよ、大志くんは。
あんなにモテモテな男の子に恋したって、叶いっこない。
どれだけのライバルがいると思ってるの?
甘い顔に、爽やかな笑顔。成績優秀で優等生な彼は、まさに王道ヒーローなのだろうけど。
あの人のヒロインが私に務まるとは思えないし、あんなモテ男がモブな私を彼女に選ぶはずないもん。
素敵な人と恋に落ちたいとは常々思っているけれど、あの人は手の届かない存在すぎて、眼中になかった。
「叶わない恋はじめたって同じじゃん」
「うーん、まあ確かに、恋は無理やりするもんじゃないしね」
「うん……」
「恋って気づいたら好きになってるもんだよ。好きになったら、相手がどんな人であろうと関係ないもん」
「そう、なんだ……」
わからないな。恋をしたことがない私には。
結衣羽は、そんな恋をしたことがあるんだろうか?
それとも、今、結衣羽には彼氏がいるけれど、体験談だったりするのだろうか?
「好きになろうしてなるもんじゃないのよ。自然となってるものだから焦ったって一緒」
「はーい」
「さっ、早く終わらせて帰ろう」
「うん」
笑いかけてくれる結衣羽に私も笑顔を返して残りの作業に没頭した。
私のクラスは和気あいあいとしていて、とても好きだ。ノリもいいし、陰湿ないじめもない。
だからやっぱりどう考えても、私の最高の学校生活を送るうえで足りないものは恋愛だけなのだ。
私の理想の男子を想像する。できれば、顔がかっこよくて、背が高くて、頭がよくて、クラスの中心にいて、彼氏にしたら毎日楽しくなりそうな人がいい。
……そう考えたとき、一番ぴったりな人がクラスにいることに気づいた。放課後の掃除当番のお陰で。
佐野大志。結衣羽が変なこと言うから、あの日以来気になって彼を無意識にも見るようになってしまった。
大志くんが彼氏になったら、毎日幸せだろうな。青春を謳歌できるんだろうな。
まあでも、そんなこと、天と地がひっくり返ったってあり得ないんだろうけど。
彼はいつだって真面目だ。授業中の大志くんを見ると目つきがいつも真剣で、黒板とノートを行ったり来たり。
隣席の友だちにこそこそ話しかけられたときにふと緩むその表情の変化は見ていてとても飽きない。
休み時間や放課後はいつも誰かと一緒にいて、囲まれている。
すぐ話題にあがるし、すぐ話を振られていたりと、大志くんは私たちのクラスに欠かせない人、第一位だ。
今だって放課後なのに、みんな大志くんの周りに集まって終わらない話に花を咲かせている。
そんな大志くんに最近とある噂がつきまとっているのが、気になっている。
「あ、またももか、佐野のこと見てる」
「み、見てないよ……!」
結衣羽が唐突に私の目の前にやってきて、ニヤニヤしている。
私は誤魔化しきれないことをわかっていながら必死に否定をする。
「佐野と絡みたいならあの輪の中に入ってくればいいじゃん」
「いいよ、別に……」
「なんで?」
「大志くんのことが好きなわけじゃないから、ほんとやめてよ」
というか、結衣羽がそう言うから、最近意識してしまって、大志くんのことを目で追ってしまうんだ。
けして好きなんかじゃ……。
でも、だけど、やっぱり、大志くんみたいな人に恋できたら。
好きになって、好きになってもらえたら。
初めての恋を、教えてもらえたら、どんなに幸せだろう──?
きっとモテてるから、恋愛経験豊富なんだろうな。
いまは彼女、いないみたいだけど。
噂によると、女の子からの告白はすべて断っているみたいだし。
しかも、かなりキツい言葉で。
最近女の子の間ではその噂についての情報が飛び交っているのだ。
となりのクラスの女の子の告白を「うざい」と、一刀両断したこと。
はたまた違う女の子の告白は「無理」と、突っぱねたらしい。
あくまで噂でしかないが、当の女の子たちが泣きながら友だちにそのことを打ち明けているのを周りの子たちが聞いたり見たりしていて、この噂たちは広がっていた。
果たしてほんとうにあの爽やかスマイルの彼がそんな辛辣な言葉で、勇気を振り絞った健気な女の子の告白を断るのだろうか?
私には、とても信じられないのだが……。
「ほら、行ってきなって」
「しつこいってば。もう帰ろうよ」
「ももか、恋したいって言うわりに臆病よね」
「うるさいから」
「あ、ちなみに今日私、彼氏とデートだから一緒に帰れないよ」
「えっ、聞いてない‼︎」
「今言ったもん」
白い歯を見せて笑う親友に、唖然とする。
くぅ、こういうとき、親友と彼氏とじゃやっぱり彼氏優先になるの、ほんとよくない風潮だ。
恋に悩む親友を置いて行くだなんて。
「悲しそうな目で見ないで。もう行くから」
「……また明日ね」
「すねないの。あんたもステキな彼氏見つけな」
手をひらひらさせて教室を出て行った親友。
私も教室を出ようとかばんを持ったとき、ふと自分が今日日直だったことを思い出した。
日誌を書いていなかったことも同時に思い出したのだけれど、どうせなら帰ってから気づきたかった。
居残り決定だ。もう、やってらんない。
しかも、もうひとりの日直は今日、体調不良でお休みしていて、日直は実質私ひとりなのだ。
親友に置いて行かれ、居残りが決定して……ああ、もう、ほんとついてない。
クラスメイトがうるさい。なんの話題で盛り上がっているかは知らないけど、側(はた)から見ていたらげんなりする。
日誌を取り出した。ページを開く。音楽でも聴きながらしようかな。
かばんからイヤホンを取り出して、ウォークマンに繋いだ。大好きなバンドの音楽が流れ出して、周りの音を遮断する。
自分の世界に入り込むのは、好きだ。
こうして音楽を聴きながら、いろんなことを想像するのが好きだった。
中学の頃はラブソングを聴きながら"高校生になったら……"と、たくさんの憧れについて妄想した。
先輩に恋した場合とか、同級生とカップルになったらとか、二年生になって、イケメンな後輩に恋しちゃったら……とか。
中学校は小学校からの持ち上がりメンバーがほとんどだったし、好きになれる人がいなくて、恋なんてできなかった。
だからこそ、ずっと高校生に強い憧れをもっていた。
高校生になれば、新しい出会いがある。
もしかしたら、素敵な人に出会って素敵な恋ができるかもしれない。ううん、素敵な恋が、したい。私を待っているって、
そう思って入学したはずなのになあ。現実は厳しすぎはしませんか?
「…………」
日誌とにらめっこしながら文字を書き連ねる。今日の時間割りと内容とそれから出来事。
今日ってなにがあったかな。あんまり思い出せない。あ、体育でクラスマッチに向けて練習したな。それを書こうかな。まあ誰も真剣に読まないし、適当に書いておけばいいか。あ、曲が変わった。新しい曲だ。
この歌好きなんだよね。歌詞とメロディー。どっちも好みすぎる。
まだ覚えてないけど、今度結衣羽とカラオケ行くときに歌いたいなあ。
ふと顔をあげて、曲の雰囲気に身を任せようとしたときだった。完全に気を抜いていた。
「……⁉︎」
目の前の席をひとつ飛ばした前の席に大志くんが椅子を跨って座っていた。目があって、ドキッと驚きから心臓が跳ね上がる。
いつの間にか教室には私たちふたりとなっていた。
「た、大志くん……っ、なんで……っ?」
慌ててイヤホンを取った。
大音量で聴いていた音楽が、ジャカジャカと漏れている。
「んー、声かけても夢中で日誌書いてたから観察してた」
「えっ」
「眉間にしわ寄せたり、ため息吐いたり、かと思ったらニヤケそうになってたり、色々面白かったよ」
「……っ……」
にこにこと、いつも通りに笑う大志くん。
思考がすべて顔に出ていたということだろうか?
穴があったら今すぐここから逃げたい気持ちでいっぱいになる。
「……ま、まだ帰らないの?」
「ちょっと用事があって、まだ帰れないんだ」
「そうなんだ……」
何気に、ふたりで会話するのは、あの掃除のとき以来かも。そうなると3日ぶりだ。
なんだか緊張する……。
なんでクラスメイトと話すだけで緊張しなくちゃならないんだ……。
膝の上で手をまるめて力をこめた。対照的に大志くんはなにも気にしてないようなラフな仕草で「小田さんは、日誌まだ終わらないの?」と首を傾げている。
「うん、あとすこし」
「そっか。ひとりって大変だよね」
「んー、でもしょうがないよ」
体調不良なんて、コントロールできることじゃないし。
「俺になにかできることある?」
「えっ?」
大志くんがおもむろに席をひとつ移動して、私の前の席に座った。ガタンと音を控えめに立てて、近くなった距離。
アーモンド型の形のいい大志くんの目が私を捉えて、息がしづらくなる。
「えっとぉ……」
「遠慮なく言って」
合わせていた目線を、一度下げて考える。
手伝ってほしいことって、べつに、特にない。
だってあと日直の仕事って言ったらこの日誌書き上げて担任まで届けるだけだし。
「じゃ、じゃあ……」
「ん?」
「終わるまで、話し相手になってください……」
語尾になるにつれて、音量を小さくしてしまった。
なぜこんなことをお願いしてしまったのかは、よくわからない。
ただ、すこし。
得体の知れないこの優等生のことを、知りたいと、そう思ったのだ。